私の輪郭

「夏が近づいてくるとさ、夜道、外気の温度と肺のなかの温度が同じで、身体の輪郭が、少し揺らぐ感じがするでしょ」

二見さんはまるで、花って綺麗でしょ、とでも言うような感じで、そんなことを言う。

私たちはランチに、オフィスビルの高層階にある、創作フレンチを食べに来ていた。壁がガラス張りで、私の席からは、新宿御苑にこんもりと茂った緑が見える。

「身体の輪郭が、揺らぐ」

「そう」

ほっそりと生白い二の腕を、白いブラウスから覗かせて、彼女は目の前に置かれた仔羊のローストに、ナイフをするりと差し入れた。生々しく赤い色が現れ、滑らかな動作で切り分けると、彼女はそれをフォークで刺して弧を描くように口に入れた。

「おいし」

皿を見ながら、確かめるように二見さんは呟く。ゆっくりと、頷くように顎を動かし、二見さんは咀嚼する。少ししてから、陶器のようにすべらかな彼女の喉元が上下に動いて、彼女が肉を呑み込んだことが見てとれた。

「思えば、食べるっていう行為も、自分の輪郭を変える感じがするわね。だって、自分のなかに他者を入れて、新たな自分にしてしまうわけでしょ」

私は、彼女の言葉をよく理解できないまま、はあ、と曖昧に頷いた。私に構うことなく、彼女はゆるやかに仔羊を切り分け、次々とそれを口に運んでいく。私は、自分の皿にのった料理のことも忘れて、彼女の動作の美しさに見とれる。磨きたてのようなナイフの銀色に、午後の陽射しが反射して強く光る。店内の喧噪のなかで、彼女が持つ食器が立てる音だけが、立体的に浮き上がって聞こえるような気がした。肉を切り分ける度、落ち着いた白色をした丸い皿が、肉汁の赤やグレイビーソースの黒で汚れていくが、彼女はそれをいちいちつけ合わせの蓬でぬぐって食べるので、最終的に皿の上はほとんど跡形もなく綺麗に片付いてしまった。

「梨木君は、ないの。自分の輪郭が、あやふやになるような瞬間って」

そうですね、と言って、私は皿にもたせていたフォークとナイフを手に取り、鴨肉のロティに手をつける。鮮やかな若草色をしたそら豆のソースが、余白を大きくとった皿からはみ出しそうにかかっている。私は切り分けた鴨肉で、皿の上をすべらせるようにしてそのソースをすくい、こぼさないよう口にする。ざらざらとした豆の舌触りと、鴨肉の野性的な味が、口のなかに一気に広がる。

「輪郭があやふやになる、という表現が、いまいち、理解できなくて」

「そう」

二見さんはつまらなそうに言って、精巧なガラス細工のような手でナプキンを持ち上げ、口をぬぐった。私は、二見さんの機嫌を損ねてしまったように感じ、焦って思いつくままを口にした。

「たとえば、途方もなくおいしい料理を食べたときに、とろけそうだ、と思うようなことはあります。口のなかから崩れてしまうような、そんな感じ。輪郭があやふやになるって、そういうことを言っているのですか」

二見さんはナプキンを手に持ったまま、少し驚いたような顔をして、それから模範的と思えるような笑顔を浮かべ、「そうそう、そういう感じ」と笑った。私は少し安心し、それから、彼女が持つナプキンに口紅の赤が移っているのを認めて少し、どきりとした。

「どこまでが自分で、どこからが他者や外界なのか、わからなくなるときのことね。そういうのが私、好きなのよ。汗ばんだ肌のまま、裸でふたり、ぴたりとくっついて眠るのなんて最高。暗がりは光より輪郭を淡くさせるから、暗闇でならなおさらね」

二見さんが私のことをからかっている様子はないが、私は、どんな顔をしてこの話を聞けばいいのかわからなかった。会社の同僚とはいえ、なんの気もない男性に、裸で眠るときの話を女性からするということが、あり得るのだろうか。

食器同士のぶつかる硬質な音を、無様なほどに立てながら、私は鴨のロティを食べ続けた。動揺で味は、よくわからないものとなっていたが、二見さんは私に、焦らないでゆっくり味わってね、と言った。僅かに首をふり、私は自分の皿に集中する。

鴨肉を切り分け、肉でソースをすくい、口に運ぶ。そしてまた肉を切る。皿の上は、ソースの若草色と、肉汁の赤とが混ざって、なんとも言い難い抽象画のようになっていった。

「二見さんは、変わっていますよね」

料理を食べている様子を一方的に見られ続ける、という状況に我慢できなくなり、私はそう口にした。彼女といるといつもそうだが、なにか、言葉を口にしなければならないような気がして、焦ってしまう。それで、少し失礼なようなことを言ってしまう気がする。

「そう? どのへんが?」

二見さんはさして気にする様子もなく、面白がるような、挑戦的とすらいえるような表情をして、こちらを見つめてくる。テーブルの上に両肘をのせて、乗り出すような恰好だ。私は、目をまっすぐ見ることも、あからさまに逸らして新宿御苑の緑を見ることもできずに、彼女の腕にはまった細い金色のブレスレットを眺めながら、答えた。

「考えていることとか、言葉が、ですかね」

二見さんは、乗り出していた身を引いて、椅子の背もたれにゆったりと寄りかかった。口元を僅かに開き、子どものような表情で外を眺める。

「ねえ梨木君。梨木君はいつも、言葉を焦って使っているでしょ」

私は、見透かされていたような気がして口ごもる。

「えぇ。まぁ」

「私ね、いつも、言葉を言葉以前から使うように心がけているの。だから変に聞こえるのかもしれない」

「言葉以前?」

「そう。言葉になるよりも手前の、混沌としたもの。私は、言葉以前の何物かを伝えたくて、言葉を使うの。でもだいたいの人は、そんな面倒くさいことしないでしょ? 言葉を伝えるために、言葉を使っている」

私は、少し考える。

「面倒くさいというより、そんなこと考えたこともなかったから」

そう言うと、最後の一切れになった鴨肉にフォークを刺した。肉はいい加減に冷めてしまっていて、口にすると、鴨のしっかりとした肉質で、なかなか噛み切れなかった。そら豆特有の、青くさいような香りと、野趣に富んだ鴨肉の味。何度も噛んでいると、そのごと、肉の味が染み出てくる。それはやがて、私の身体に変わっていくものだ、と思った。

「言葉や、言葉以前のものは、身体を超えているのよ。私の輪郭を、超えている。だから、きちりと言葉が通じたとき、やっぱり私、輪郭がぼやける気がするの。それが好き」

私はようやく鴨肉を食べ終わり、フォークとナイフを皿に置いた。銀色をしたそれらは、輪郭をしっかりと保ち、皿とぶつかって小さく音を立てた。かちゃり、と。それを聞いて、そういえば肉を切るとき、肉とナイフがぶつかっても、このような音はしないなと、思った。当たり前だけれど。

「二見さんの話を聞いていて、思ったことがあるんですけど」

「なあに」

「あの、肌はもちろん、筋肉とか骨とか、私たちの身体を構成しているものって、絶えず分解と合成が繰り返されているじゃないですか」

「そうみたいね」

二見さんは、面白がるように私を見る。私は構わず続ける。

「細胞がどんどん入れ替わって、身体はその形を保ちながらも、分子レベルでは外界と入れ替わっていきますよね。私たちは自分の身体を、疑いもせずに自分だと認識しているけれど、私たちを構成する分子はもともと、あそこに見える新宿御苑の木の葉だったものかもしれないし、仔羊の肉や鴨肉の分子だったかもしれない。そう考えると、外界と私たちの境界なんて、そんなにはっきりしたものじゃないと思うんです。生命って、空間のなかの、単に分子の密度が高い部分でしかないのかもしれない」

二見さんは、「梨木君、さすが理系だね」と言って笑った。

「私が言いたかったのもそういうことかもしれない。存在が滲む感じが、好きで、でもどこまでいっても私の身体はここにあるの。言葉は私を超えてあるけど、私の身体は、ここにあるの」

「二見さんは、生命ってことですね」

二見さんが、ふふふと笑ったとき、ウェイターがやってきた。グラスに水を注ぎ、メインディッシュの皿を下げていく。もうすぐ、デザートがやってくるのだろう。

「二見さんの話、よくわからないと思っていたけど、少しだけ、わかったような気になりました。いや、わかったというか……」

私は、じっくりと、言葉を探す。そうして、言葉を選び取る。

「二見さんの話を、自分に、馴染ませることができた」

「それは、よかった」

二見さんはにっこりと笑った。

「梨木君。今、言葉以前のことを伝えるために、言葉を使ったでしょ」

「そうかもしれません」

私は、先ほどはできなかったこと、二見さんの目を見て話すことが、今はできた。彼女の目は宇宙のように深い黒で、白い羽のようにふわりとしたブラウスと対照的なその色を、見ると、私の肌はざわりと粟立った。

「あ」

小さく声が漏れて、その音は私の足元に転がり落ちていく。

店の外、ガラスの向こう側には、無機質な灰色のビル群がそびえていて、とても強固な輪郭をしているように見える。向こうには、新宿御苑の緑。さらに遠くの方に、皇居の緑も、見えていた。

店内は冷房がきいていて心地よいが、今日はきっと暑い日だ。強い陽射しが、あらゆるものの輪郭を際立たせている。道端の草木を、道路の白線を、ビルの外壁を、レストランのテーブルクロスを、照らしている。

新宿の、オフィスビルの高層階で、デザートを待ちながら、たくさんの輪郭に囲まれて。私は確かに、存在の輪郭を滲ませていた。

粟立った肌は、デザートがやってくるまで、しばらくのあいだ、収まらなかった。

悪魔と天使

僕の人生の一瞬一瞬は、本当は尊いはずで、あなたの人生の一瞬一瞬も、本当に尊いはずで、だけれどときどきそれを忘れてしまう。

 

あなたと会うということは、僕とあなたの時間を共有することで、ふたつの心の距離が変化し続ける感じがして、人生の一番大切なことのひとつで。

ふたつの心はふたつのままで、その清い孤独を、愛という名前をしているらしい、何かが、ふたつのままにやわらかく包んでくれる気がしている。

あなたの気持ちに応えられないとき、僕は、愛を伝えているのか、呪いをかけているのかわからなくなる。

 

わがままに、あなたの人生を軽んじることや、約束を果たすことのできない未熟さ。完璧じゃない方が、人間らしく色っぽいことだと、開き直ってしまうのは明るさなのか、ずるさなのか、僕にはまだわからない。誠実でないこと、甘えや弱さのように思う。

 

後ろめたさからなのか、虚栄心なのか、孤独からの逃避か、あなたを前にすると、不必要にひとつになりたがる。

それはやっぱり、甘えだったかもしれない。

 

ありがとうと言ってくれてありがとう。

ごめんなさいと言わせてしまってごめんなさい。

僕が人間的に優しいのか、それとも優しさに見せかけた自身の弱さを投げつけていたのか、あまり自信はない。

陰と陽のように、引き離せないものなのだろうか。本当の優しさと、誠実さと、人間的な可愛らしさを身に付けたい。

 

僕は多分に悪魔的で、多分に天使的だ。

あなたの成長と、健康と、幸せを願っています。願うことは、純粋な愛だとまだ思えるから。

あなたなら、きっと大丈夫ということも、かなり信じられるのです。

 

ひとまずさようなら。お元気で。

絶対にひとりになれない私達

部屋の窓を開けていると、しっとりと濡れたような栗の花の匂いが濃く香ってくる。5月の夜。隣接するコインパーキングが、緑色に光る文字で「空」を知らせているのが目に入る。

「もう、うんざりなの」

ひんやりと湿ったシーツに腰かけ、私は電話の向こうの友人に言う。友人は、深いため息をつく。無言の時間が、数秒続く。

「わかった。もうあんたに連絡はしない。でもそんなんじゃ、いつまで経っても友達なんかできっこないし、あんたはそうやって一生ひとりで生きてくんだね」

吐き捨てるように言われて、それから一方的に電話は切られた。

私は携帯電話の画面を見て、きちんと通話が終了していることを確認する。

「そうだよ。ひとりで生きてくの」

そう、呟いた。誰もいない部屋で。

友人――「元」友人と言うべきか――にあんなことを言われて、傷つかないわけはない。自己中心的過ぎる、あんたの優しさは偽善だったんだね、そんなんじゃ誰のことも幸せにできない、とかなんとか。

でも、四六時中、TwitterとかLINEとか電話で繋がれているような人間関係を、私は必要としていないのだ。そういうネットワークで、毎日のように連絡を取り合うことを、「ひとりじゃない」と表現するのなら、私は一生ひとりで構わない、と思う。

ベッドに横たわって、目をつむる。腰と二の腕が冷たい。よく糊のきいたシーツを、確かめるように撫でつけた。冷たく清潔な感触は、私を安心させる。ひとりでいることの安心と、少しの心細さ。

電話を押しつけていたために熱を帯びた右耳を、うつ伏せになってベッドで冷やす。右腕を伸ばし切って、ベッドのへりを掴む。唐突に、男のことを思い出した。男が住んでいる部屋を思い起こす。じめじめと温かく、乱雑に物が散らかった、この部屋と対照的なあの部屋。

ぬるい風が吹いて、部屋のカーテンが膨らむ。ベッドのへりに掴まった、私の指をくすぐる。目をつむって、そのままじっとしていると、自分の身体が夜の闇に溶けるように思えた。

 

 

 

 

改札を出ると、急に雨音が耳に入ってきた。傘を持っていなかったので、駅構内のコンビニで購入する。

外を歩く人は、皆足早に歩いていく。私もそれに倣って、外に足を踏み出す。新品の、透明なビニール傘を広げると、細やかな水滴がビニール傘の上に降り落ちてきた。パタパタとまだらな音が、私の半径70センチを取り囲む。

家へ向かう道は、左手に上水路が流れている。雨が降っているからといって、水嵩はさして増していない。玉川上水という、太宰治が入水して死んだところだ。

ちろちろと大人しく流れる水を目の端に入れながら、私はポケットに手を入れて、携帯電話を取り出した。暗い道を、いくつもの街灯が照らす。私は見慣れた画面に飛んで、発信ボタンを押した。

「もしもし」

受話器の向こうで、男が眠たげな声を出す。

「もしかして寝起きなの」

男は、うん、と答える。五歳児のような話し方だ。

「いま何時だと思ってるの」

私が笑いながら言うと、16時、と適当なことを言う。

「いま19時。仕事帰りだから連絡したの。元気?」

まあ、それなりに、という返事とともに、がさごそと何かを漁る音が聞こえる。コンビニのビニール袋が、部屋にいくつも放ってあるのだろう。

「なあ、俺の煙草どこにあるか知らない」

「知るわけないでしょ」

私は言いながら、男の雑然とした部屋を思う。布団の上に服がいくつも重なっていて、飲みかけの酒がその周りに散らかっている。電子レンジが床に置いてあって、その上によくわからないチラシや、本なんかが積み重なっている。起き抜けのあの男の胸は、少し汗ばんで温かく、まるで私のためにしつらえられたのかと思うほど、私の頭にぴったり馴染む。私は束の間そのことを考える。

しばらくしてビニール袋の音が止み、代わりにカチッというライターを点ける音が聞こえた。私の鼻腔に、彼の服に染みついた煙草の匂いが再生される。

「今日、うち来いよ」

「行かない」

私はすぐに答える。

「なんで」

「今日がなんの日か知ってる?」

男は黙って、煙草を喫っている。面倒くさいと思っているのか、沈黙を楽しんでいるのか。

ふぅ、と躊躇なく息を吐くと、

「知らね」

と言った。

「私達が出会って一年目の日」

私が言うと、めんどくせー、と言って男は笑った。

「じゃあさ、折角の一年記念なんだし、うち来いよ」

「行く」

私がすぐ答えると、

「来るんかーい」

と、やたら大きな声で彼は言う。行くよ、そりゃ、と返事をする。

「うちの近く着いたら連絡ちょうだい。迎え行くから」

「うん」

言いながら私は、嘘つけ、と思う。迎えに来たためしなんて、一回もないくせに。

男は最後に、まってるよ、と言って電話を切る。優しい声で。一瞬、私の耳は真空になって、何も聞こえなくなる。

でも次の瞬間、また私の周囲70センチに雨の音が鳴り始める。パタパタと、まだらに。

左手には玉川上水が流れていて、水嵩は普段とあまり変わらない。足下を照らす街灯の明かりは、白っぽくて頼りない。

そういえば、ひと月前には、駅前に桜が咲いていた。幼児の手の平のようにぷくぷくと、満開の花びらが。それはいつの間にやら消え去って、春の幻だった。焦げ茶色の幹だけが糊で固めたように残っていて、緑の葉をゆわゆわと雨に打たせている。

家に帰ったら、着替えだけして、あいつの家に一刻も早く向かおう、と思った。ろくなものを食べていないあの男に、とびっきり美味しいものを食べさせてやろう。何か温かくて、懐かしくなるようなものを。

歩いているうちに、靴が濡れてくる。雨足は強くなっており、雨音は徐々に均一な、テレビの砂嵐のようになってきていた。ビニール傘越しの景色が、雨のせいでうまく見えない。

ろくでもない男だとは、わかっている。男の世話をするのも、それを喜び勇んでやる自分にも、いい加減うんざりしてはいる。

「もう、うんざりなの」

声に出してみる。しかし雨の音に混じって、自分の耳にもその声はあまり届かない。

遠くの方に、私の家に隣接するコインパーキングの、「空」と表示された緑の電光表示が見えていた。あの光を見る度に、男とこのあいだ飲んだ、コカレロとかいう緑色の甘ったるい酒のことを思い出す。

「もう、うんざりなの」

また口にする。それでも、傘の上で踊る雨粒のように、家へ向かう私の足取りはどうしたって軽くなっている。

きれいな執着

仕事帰り、新宿駅の南口で待ち合わせをする。

君の髪が随分短くなっていることに気づいて、似合ってるよと言う。ありがとう、と言われる。

テニスのガットを張り替えるためだけにわざわざ新宿まで来たと言う君に、何それ、と笑ってみる。普通じゃない? と君が言う。

降りたことのない駅で降りたい、という、ただそれだけのわがままで、東京メトロ丸ノ内線に乗る。荻窪で降りようかと言っていたけれど、もっと近いから新高円寺で降りた。

新高円寺」って、なんか「高円寺」より強そう。「改高円寺」とか、「真高円寺」とかも、ありそう。

そう思ったけど、恥ずかしいから口にしなかった。

その駅に降りるのは、ふたりとも初めてのことだった。それが嬉しかった。

 

新高円寺は、大したことのない駅だった。スーパーや不動産屋はあるけど、肝心の飲み屋はほとんどなくて、結局、ぼくたちは高円寺駅の方に向かって歩いた。

まっすぐの道は、下り坂。ラーメン屋を横目に見ながら、君が地形に関してよくわからないことを言う。台地なんだ、とかなんとか。

もしかしたら、谷かもしれない。ここに川が流れていて。

そんなこと、考えもしなかったから、見えている世界がこうも違うのかとぼくは思った。やっぱりそれも、嬉しかった。

 

高円寺駅の周辺は、金曜の夜なのに大して混んでいなかった。

居酒屋はたくさんあって、ぼくたちは一軒一軒、店を吟味して歩いた。

ぼくは日本酒かワインを飲みたい気分だった。ホタルイカのサラダを出している店があって、とても惹かれた。でも歩いているうちに、一杯目はどうしてもビールを飲みたくなった。焼肉屋が何軒もあって、道沿いの看板に写された写真を見るうちに、ふたりとも、焼肉を食べたい気分になった。

飲み放題が2時間で880円の店があったから、安いね、と言い合って入った。

安い焼肉屋と思って、あまり期待していなかったが、その店は和牛を扱う店だったようで、思いの外、メニューは豪勢だった。

生ビールは、ハイネケンが置いてあって、ぼくはそのビールにあまり美味しいイメージがなかったのだけど、その店で飲むそれはとても美味しかった。一杯どころではなく、焼肉屋にいるあいだ中ぼくたちはハイネケンを飲み続けた。

「瓶だとあまり美味しくないけど、生は旨いんだよ」

君がそう教えてくれた。

「ホルモン食べられる?」

「うん」

「セロリ食べられる?」

ぼくがうん、と言うと、

「好き嫌いあんまりないんだね」

と言われた。なんだか、誇らしい気持ちになった。

大きなカクテキ、セロリのキムチ、ハヤシライスみたいな味のする牛筋の赤ワイン煮込み、ホルモン(焼き具合で油の量を調節できて良いんだよ、と君は言った)、和牛の盛り合わせ、上ミスジ、あとハイネケンとマッコリ。

たらふく飲んで、たらふく食べた。社会人ぶって、お代はぼくが出した。君がトイレに行っているあいだに会計しようと思ったのに、スマートにできなくて笑われた。

 

 

 

生きている証が執着そのものなのだとしたら、ぼくは、きれいに執着してたいな。

何かに執着するのは、格好悪いことだと思っていた。

何にも執着しないで、自由に、すべてを忘れて生きるのは格好いいけど、ぼくには忘れたくないことがたくさんある。山ほどある。それは増えていく。

そのときどきで、ちょっとずつ、どうせ忘れていくのだから、忘れたくないことを大切にすることだっていいのかもしれない。

きっと全部、極端なのは苦しいんだ。

ぼくは真ん中で生きていきたい、軽やかに、楽しく、喜んで、ご機嫌に生きてたい。

きれいに執着して、きれいに手放して、ぼくのすべてはぼくが決められることを、確かめながら、生きていきたい。

 

あの日、二軒目に行ったホタルイカのお店で、君が選んでくれた鳥取の赤ワインはすごく美味しかった。

色水、庭草、ホウセンカ

須藤くんがオシロイバナと言うと、母はホウセンカと言う。母がアサガオと言うと、須藤くんはツユクサと言う。それからふたりして、サルスベリもあったよね、と笑う。

掘りごたつには、あたしと、母と、須藤くんの三人で座っているのに、彼らはまるで子どもみたいに、ふたりの世界に入っている。

「色水の赤がすごく綺麗で、須藤くん、ホウセンカのを飲もうとするから、私すごく焦ったもの」

「覚えてるよそれ。結局、内村さんがぼくの持ってるビニール袋を叩き落として、ぼくの服が真っ赤になった」

「そうだったかしら。私、そこまでは覚えてない」

「服が赤く染まっちゃって、帰ってから母親にこっぴどく叱られたからね。よく覚えてる」

「思い出話ばっかりしてると、年寄りみたいだよ」

あたしが言うと、ふたりは水鉄砲をくらったみたいな間の抜けた顔をして、こっちを向いた。それからすぐ、母は照れたように笑い、須藤くんは耳の裏を掻いた。

「美織ちゃんには、まいっちゃうなあ」

須藤くんが笑うと、両の目尻にいくつもの皺が入る。あたしにはそれが、木の幹についたひび割れのように見える。年季が入っていて、あたしの同級生には、絶対にないもの。

「あ、もう三時か。そろそろ行かなきゃ」

壁にかかった柱時計に目をやると、須藤くんはそう言って机に手をつき、立ち上がった。母が続いて、あら、もう行っちゃうの、と立ち上がる。

「うん。事務所に戻る時間だから」

あたしは立ち上がらず、須藤くんに「じゃあね」と声をかける。須藤くんは律儀に、「お邪魔しました」と言っておじぎをして、それから玄関に向かった。母はその後について、須藤くんを見送った。玄関で、抱擁のひとつでもすればいいのに、あのふたりは絶対にそんなことをしないと、あたしは知っている。でも母が、あたしの前では自分を「お母さん」と呼ぶくせに、須藤くんの前では無意識に、「私」に変わってしまっていることも、あたしは知っている。

 

 

 

あたしが高校一年生のとき、両親は離婚した。

それを機に、あたしと母は母の実家に引っ越した。母の実家は木造の平屋建てで、少し広めの庭があった。手入れがしばらくされていなかったらしく、名前のわからないたくさんの草が生い茂っていた。縁側に座って庭を眺めていると、時間の感覚がなくなるような気がして、あたしと母はよく、そこに並んで黒豆茶を飲んだ。冬になると雪が積もって、多くの草が雪の下に伏し、白く静かな景色の中で飲む黒豆茶は、より一層香ばしく感じられた。

年が明けて、春がやってくると、雪解けとともに植物たちは首をもたげて、庭のところどころで顔を見せ始めた。庭草の力というのは強いもので、ひと月もしないうちに、庭は丈の低いものから高いものまで、あらゆる種類の植物で覆われた。かつては祖母が手入れをしていたけど、あたしたちが実家に越したのと同時に、祖母は介護保険施設に入居してしまっていた。

「どうしよ、美織ちゃん。これじゃ黒豆茶飲めないね」

母は、うっそうとした庭を見て心底困ったようにそう言った。育ちというより、性格的にお嬢様である母は、何か困ったことがあると、すぐに周囲に助けを求める。大人にはもちろん、子どもであるあたしにすら、簡単にできそうなことを頼ってくる。

「どうしよって、手入れするしかないんじゃないの。ひとつひとつ、雑草抜いていくしか」

「でも、こんなにたくさん生えてるんじゃ……。美織ちゃん、できる?」

「え、あたしだけでやるの? 無理無理。業者に頼めばいいんじゃないの」

あたしは苛立ちと諦めが綯い交ぜになった気持ちで、そう言った。

「業者? こういうことを専門でやってくれる業者さんって、いるのかしら」

「知らないけど。いいよ、あたしが調べて電話しとくから」

面倒くさくなってそう言うと、母は「本当に?」と言って顔を輝かせた。あたしは心のうちでため息をつきながら、居間にあるパソコンを使って、庭の手入れ業者のことを調べた。

検索して、画面の一番上に表示された業者に連絡を取ると、連絡の一週間後にその業者はやってきた。

「こんにちはー」

あたしが玄関の引き戸を開けると、そこにはくすんだ黄緑色のつなぎを着た男性が、ふたり立っていた。

「どうもー、××ハウスクリーニングですー。今日はお庭の除草作業に参りましたー」

あたしがどうも、と頭を下げると同時に、母も居間から玄関先にやってきて、今日はよろしくお願いします、とあたしの後ろで深々とお辞儀をした。母が顔をあげると、業者の男性のふたりのうち、後ろに立っている方が、「あ」と小さく声を出した。彼は一時停止ボタンを押されたかのように、そのまま固まった。彼の視線はあたしの頭の上を通り越していたから、振り返ると、母も同じように、目の前に急に妖精が現れたみたいな表情で呆然としていた。それから、蚊の鳴くような小さな声で、「須藤くん……?」と言った。固まったままの男性も、うわごとみたいに、「内村さん」と呟いた。内村は母の旧姓だった。

あたしと、もう一人の業者の男性は、母と、須藤くんと呼ばれた男性にそれぞれ、「知り合い?」と訊くよりほかなかった。

それが、須藤くんとの出会いだった。

 

 

 

須藤くんは母の幼なじみだった。

親同士の仲が良く、幼稚園や小学校のときはよく一緒に遊んだらしい。ふたりの遊びはもっぱら色水遊びで、家の庭や道端、それから裏山なんかに生えている花を摘んでは、ビニールに入れてよく揉んだ。種々の色が、じわりじわりと水に滲む様子は、何度見ても見飽きなかったと言う。

あの日、業者としてやってきた須藤くんは、専用の機械を使って庭の植物をすごい勢いで刈っていった。それはもちろん、もう一人の業者さんも同じだったのだけど、縁側の窓を開け放して母が視線を向けていたのは須藤くんで、それはあからさまだった。実際、須藤くんが庭草を刈る様子は頼もしくて、格好が良かった。草を刈ったときに立ち上る、金属と植物の混じったような青臭いにおいが、生温かい風とともに家の中に広がった。

草を刈り終えた後、次の仕事があるからと言って、須藤くんはうちに長居しなかった。けれど、事務所が近くにあるからとかなんとか言って、彼はそれから度々、あたしたちの家を訪れるようになった。あたしと、それから母の家に。

須藤くんがうちを訪れると、大抵、ふとんを取り去った居間の掘りごたつに三人で座って、世間話のようなものをする。ときどきあたしに向かって、「高校はどうなの」というような話を振るけど、ふたりが本当にしたい話は、そういうのじゃないことをあたしは分かっている。

「内村さんって、結婚してたんだなあ」

母が、お茶を汲みに台所に立っているあいだ、須藤くんがひとり言のように言ったことがあった。

「それ、どういう意味」

あたしが訊くと、

「いや、ぼくが知ってるお母さんは、小学校とか中学校のときのお母さんだからさ。その彼女が、結婚して、美織ちゃんみたいな大きな子どもがいるのかって考えると、なんだか、自分も歳とったなあ、って」

須藤くんは笑って言った。

「須藤くんさ」

あたしが言うと、須藤くんは、「ん」と言って、眉頭を上げてみせた。日によく焼けた肌は、彼が日頃よく触れる、青草のにおいがするのだろうなと思った。

「あたしのお母さんが初恋だったでしょ」

須藤くんは、口を閉じたまま目を細め、春の風が通り過ぎたみたいに軽やかに笑った。でもあたしは、彼が笑う前に一瞬、目に力が入ったような驚いた顔をしたのを見逃さなかった。

「さて、どうだろうね」

彼が答えるとすぐ、母が台所から戻ってきた。お盆を机に置いて、湯呑みに入ったお茶を須藤くんとあたし、それから自分の座るところの前に置く。

「初恋をやりなおすならさ」

あたしが言うと、須藤くんは焦ったように、「こらこら、美織ちゃん」と言った。母は、のんびりとした口調で、「何の話?」と言う。

「あたしもまぜてほしいな」

「ねえ、何の話してるのって」

母は、まるっきり子どものように言う。実際、母も須藤くんも、きっと子どもの頃に戻っているのだ。三十年という年月の河を渡って、あたしの知らないあの頃を、もう一度やりなおしている。初恋と呼ぶべきか、初恋とすら呼べない、もっと色や形の淡い、しかし何より柔らかくて温かな時間を。

あたしだって、それにまぜて欲しいのだ。だって、ふたりだけでやりなおされたら、三十年も経った意味がないもの。

「ううん、なんでもない。なんでもない話をしてた」

あたしが言うと、母は怪訝そうな顔で、掘りごたつに座った。それから、「あ、お煎餅も持ってくればよかった」と言った。おかきとか、ぬれ煎餅とか、お茶に合いそうなお菓子、いまうちにいっぱいあるのよ、と。

「いいよいいよ、いま、お腹いっぱいだし」

須藤くんが、優しく答える。このふたりを見ていると、あたしはいつも、複雑な気持ちになる。思い出せない記憶に、無理やり手を伸ばしているような、「もどかしい」と「せつない」が混じったような気持ち。

「ねえ」

あたしは言って、掘りごたつから立ち上がる。居間のふすまを開け、廊下に出て、縁側に通じる窓に手をかけた。須藤くんが春先に刈ってくれた庭は、いつの間にか新たな植物がいくつも顔を出しており、窓を開けると、少しむっとする空気が家の中に入ってきた。植物たちの、強い、生命のにおい。夏が近づいていた。

「うちの庭にある草で、色水つくれないかな」

庭を眺めながら言ったが、母と須藤くんにも声は届いたようで、「そうねえ、草じゃあ色水はつくれないわねえ」と母が、「花があればね」と須藤くんが答えた。

あたしはそのとき、緑色と茶色が占める庭の隅の方に、小さな赤を見つけた。

「あれ、なんだろ。何の花かな」

あたしが指さすと、ふたりも立ち上がって、縁側までやってきた。

「あれ、ホウセンカじゃない? 珍しい」

「本当だね。綺麗な赤色だ」

あたしと、母と、須藤くん。三人で、一緒に庭の隅を見つめていた。

ホウセンカって、色水つくれるよね」

あたしが言うと、母は笑った。

「そうね。でも、あれしか花がないと、すごく薄い色水になっちゃうと思うけど」

「そっか、美織ちゃんは色水つくったことないんだね」

「色水なんかで遊ぶの、昔の人くらいじゃないの」

「昔の人だなんて、失礼な」

須藤くんが言って、母が笑った。あたしも、笑った。

「ねえ、あのホウセンカ、しばらく水やりしてみましょうよ。そしたら、あの辺りに、もっとたくさん咲くかもしれない」

「須藤くん、それまでうちの庭、除草しないでね」

須藤くんは、わかった、と真剣な顔をして言った。

あたしは、庭のホウセンカが、勢いよく種を飛ばす瞬間を想像した。ぱちん、と弾ける音と、その軌跡を。

庭に咲いたホウセンカからつくる色水は、きっと綺麗だと思う。三十年かそこら昔、母と須藤くんがつくった色水の赤も、きっと鮮明で、美しかったと思う。

縁側に、三人で並んでホウセンカを見た今日のことを、いつかまた思い返す日がくるのだろうか。あたしはそれを、ひとりで思い出すだろうか。母と須藤くんのように、ふたりで、ではなく、たったひとりで。

「手を繋いでもいい?」

あたしが言うと、ふたりは驚いた顔をした。あたしも、自分で少し驚いた。けれど、母も、須藤くんも、頷いてくれた。須藤くんが、座ろうか、と言ったので、あたし達は、三人で縁側に腰掛けた。

あたし達は、それからしばらくの間、手を繋いだまま、庭の隅に咲くホウセンカの花を見つめ続けた。

KIMOCHI

現代。着地点は俺が決めるから、地に足はついてる

ずっと楽しいキブン。身体が変わっちまった、この世のすべては楽しい

あの日の身体、忘却の彼方、同じ身体

 

泥船なんかじゃない、色っぽいこの信念、生意気な身体

 

だんだん、日々を忘れて

だんだん、意味も、思想も、君も忘れて

自由なキモチ

 

身体が変わっちまった!

 

だんだん、すべて忘れて、自由な楽しいキモチ

つまらねえ憂鬱や、

くだらねえ孤独や、

くりかえされる諸行無常や、

やるせねえ性的衝動や、

何も知らず笑うガキへの郷愁や、

もうたぶん、ぜんぶ忘れっちまったんだあ

それが善いとか悪いとか、ぜんぜん分かんないけど

 

ヘンタイの思想は共感できん

共感できんけど、それは俺を脅かさない

俺は俺でゆくよ

 

悲しいキブンなんて、吹き飛ばしてやるんだ!

 

子供みたいなキモチ

大人みたいなキモチ

勇敢なキモチ

自由な楽しいキモチ

過去は愛おしいけど、置いてくよ

バイオリズムにのっとって、身体が変わっちまった

 

俺は俺でゆくよ

俺は、俺でゆくよ!

世界は当たり前に美しくて尊いってことを、忘れないための日記

カーリング女子銅メダル獲得おめでとう~!!!

たまたま今日、夕飯を食べに定食屋さんに行って、そこのテレビでカーリング女子の試合が流れてた。

そこの定食屋さんは、中国人かな? と思われる、ちょっとカタコトの元気がいい女の人と、白髪まじりでにっこり人の好さそうなおじさん、そして大学生くらいの男の子がやっているお店だった。

ぼくがご飯を食べてるあいだ中、その3人はわいわいずっと楽しそうに話をしていた。家族なのかもしれない。女の人が携帯を新しく買ったらしくて、その携帯の話をしたり、女の人が電話で誰かに、「迎えにいくぅー?」とか訊いて、それに男勢2人が笑ったりとか、なにで盛り上がってるのかはよくわかんないけど、幸せな雰囲気だった。

ぼくはジューシーチキンカツ定食を頼んで、それが運ばれてくるとき、オリンピックのカーリングでちょうど、日本はイギリスに3対2で負けているところだった。女の人はぼくに、

「日本負けそうだね~」

と言った。ぼくはカーリングの知識があまりなかったから、そうですねえ、と返したら、男の子の方が、「まだ第7エンドで1点差だからわかんないよ」と女の人に言った。

チキンカツと白飯、それからチキンカツにつけるマヨネーズの量を、いい感じにバランスよく食べることに気を配りながらご飯を食べていると、男の子の言った通り、日本はイギリスをだんだんと追い上げていった。

ぼくが座るカウンター席のうしろのテーブル席で、男の子とおじさんは一緒に座って、2人でテレビを見ながらあーだこーだ言ってた。

「もうちょっと伸びればスーパーショットだったのになー」

「マジで3、4センチの世界だかんね」

「イギリスうめぇ」

ぼくの背中越しの会話を聞きながら、徐々にカーリングのルールを把握しつつ、試合の行く末をぼくは眺めていた。男の子の声かおじさんの声か、どっちかわかんないけど、片方の男の人の声が渋くて、かっこよかった。

こうやって、当たり前に日本人を応援して、ミスに悲しんだり、リードすることに喜んだり、その背後には選手の日々の果てしない努力や練習があったり、相手のイギリスチームの選手のお兄ちゃんが会場に応援に来てたり、それでも全力でお互い勝ちに向かって妥協せず試合を行っていたり、カーリング女子のかけ声に店員の女の人が「なに言ってんのか全然わかんなーい」って言って、男の子が「日本語」って冷たくあしらったり、カーリング女子の選手の顔がみんなめちゃくちゃに可愛かったり、チキンカツとマヨネーズと白飯を完璧なバランスで食べ終えることができたり、そういうの全部に泣きそうになった。

「騒がしくってごめんねー」

会計のとき、おじさんはにっこり笑顔でそう言ってくれた。渋い声はどうやら、男の子の方だったらしい。

「いえいえ! 全然、ぼくもカーリング楽しく見られましたし」

おじさんの笑顔はすっごい優しくて、正直、ご飯の美味しさは普通くらいだったけど、それだけでお腹いっぱいになった。当たり前に美しかった。

おつりを貰って、ありがとうございましたと告げる。

「ごちそうさまでしたー! 美味しかったです」

ありがとうございましたー、と店員の女性とおじさんに言われる。男の子は、テーブルでなんだかパソコンと睨めっこしてた。優しい気持ちで店を出て、コインランドリーで乾いた服を回収、カーリングの結果どうなったかなと思って家に帰ったら、5対3で日本勝ってた。やったね。おめでとう、日本!!

 

昨日の夜、シリアの東グータ地区に住む、15歳の少年が撮影した自撮り動画を見てから、ずっと悲しかった。ずっと悲しくて、辛くて、やるせなかった。爆弾はあちこちで落ちていた。がれきに囲まれた街。壊れたぼろぼろの教室。

「私はMuhammed Najem。15歳です。私は東グータ地区に住んでいます」

という台詞で始まる動画。

 

“We are killed by your silence.”

 

彼はそう言っていた。

『私たちは、あなたがたの沈黙によって殺されている』

車に運び込まれる傷ついた人々。ボールを蹴りながらスキップしている男の子。

『いま起こっていることは、虐殺です』

『グータ地区の子どもたちは、食糧も飲料もないです』

 

 

『人々はシリアで起こっていることのすべてを知るべきです』

 

シリアで内戦が起こっているということは、知っていた。けど、ぼくはすぐに忘れてしまっていた。目の前のことでいっぱいになって、大学のこととか、知人を傷つけてしまったこととか、友人とLINE電話で話すこととか、お酒飲んで眠ってるあいだに顔に落書きされたこととか、きょうのご飯なに食べよっかなとか、そういうので埋め尽くされる。すぐ忘れる。

すぐ忘れるくせに、こういうのを見ると、すぐ泣く。すごく悲しくて、どうして、なんの罪もない人々が、毎日爆弾や銃声に怯えて暮らさなければいけないんだろう、命の保証がまったくない毎日を過ごすというのは、どういう気持ちなんだろう、大半の日本人を含め、シリアの内戦のことをなにも知らずにのうのうと生きているなんて、なんて罪深いんだろう、助けてくださいってこんなに言ってるのに、なんでなんでなんでなんで、って、思ってしまう。

「そういう風に思う自分に、酔ってるんじゃないの?」って、自分を客観視してる自分が言う。偽善者、なんもしてないくせに、いまのいままでずっと忘れてたくせにって、言われる。それでも、涙は止まらない。シリアにいる人たちは、日本にいる人たちと、なに一つ変わらなくて、普通に笑ったり、普通にサッカーしたり、普通に美しいものに感動したり、普通に怒ったり、ご飯美味しいとか言ったり、普通に普通に普通に生きてたはずなのに。普通に生きてるのに。なんも変わんないよ。なんも変わんないんだよ? 人間なんだよ? 生きてるのに、なんでたまたまシリアに生まれただけで、たくさんの人の肉がえぐれたり、血が流れたり、死体がたくさんあったり、友人と離ればなれになったり、家族が死んだり、しなきゃいけないの?

シリアに生まれたのなら、しょうがない。って言うのは、多分、知らないから。想像力、想像力、想像力、想像力。

シリアの人々のことを思うと、「なんて自分は恵まれていて幸せなんだ」と思う。

不謹慎と言われるかもしれないが、そう思う。でも、「あー日本に生まれててよかった、ラッキー」という意味じゃない。いや、ラッキーなのかもしれないけど、そこで思考は終わらなくて、その裏にあるアンラッキーのことを考えてしまって、悲しい。ご飯食べても、お水飲んでも、悲しい。なにか喜ぶことが、悲しい。だって、シリアでは、いまも命の危険に怯えたり、家族や友人の死に打ちひしがれる人がいるのだから。

 

そういう気持ちで過ごしていると、辛い。素直に嬉しいって思えなくなるし、コンビニで、可愛い女の子が、すごい無機質に機械的な接客をしてるだけで、すごく悲しい気分になってしまったりする。部屋で少し泣く。

ぼくは、毎日明るく、できるだけ笑顔で喜んで生きていたいって思ってる。し、ちょっとずつ、そういう自分になれてるとも思う。

でも、たくさん笑えてる自分でもありたいけど、たくさん悲しんでる自分でもいたいし、ちゃんと傷つきたい。ちゃんと傷つきたいし、ちゃんと悲しさに寄り添いたいし、ぼくがシリアの人のことを思ってもなんも変わんなくて、部屋でぼくが泣いた、という事実ただそれだけで、無力で、内戦が起こった経緯とか調べても、それはぼくが部屋でただインターネットいじってるだけで、なんも変わんなくて、でもちゃんと知りたいし、知るべきだし、ちゃんと悲しみたいし、ちゃんと喜びたい。

生きてるってめちゃくちゃ気持ち悪いけど、めちゃくちゃ気持ち悪くなきゃ、めちゃくちゃ気持ちよくなれない。

めちゃくちゃ悲しまなきゃ、めちゃくちゃ喜べない。ぼくは命を燃やしたい。

結局は自分のためかもしれないけど、人のために生きてたい。

日本に住んでる限り、めちゃくちゃ幸せでなきゃ失礼だと思う。でも、現実、日本に住んでる人で「めちゃくちゃ幸せ」と思ってる人少なそうだし、シリアのことなんてあんま誰も言及しないし、他人事だと思ってるし、てかぼくだって一昨日まで忘れてたし。シリアだけでなく、世界にはたくさんの悲しみがあって、それ全部はカバーできないし。でもシリアのことを思うほど、幸せでいなきゃいけないのに悲しくなるし。コンビニの接客くらいで泣きたくなるし。

実際、幸せな人も、シリアのことをぼくの何十倍と考えている人もいるのに、悲しみに呑まれると、そういうマイナスなことを考えてしまう。

だから、やっぱり明るくいたい。誰かやなにか発信じゃなくて、自分発信で、明るくいたいし、明るくしたい。生産性のある思考をしたい。

 

そんな気持ちだったから、定食屋さんで見た景色は、すごーく綺麗だったな。オリンピックの選手のお顔、とても美しかったな。店員さん、みんな可愛かったな。

世界は当たり前に美しくて尊いっていうこと、思い出させてくれた。

世界は当たり前に美しくて尊い

その当たり前は、当たり前じゃないけど、世界は当たり前に美しくて尊いんだ。

ぼくには姪っ子がいるけど、姪っ子とか、生まれたばかりの甥っ子とかまたまた姪っ子とかに、世界は当たり前に美しくて尊いってことを、信じていてほしい。

信じたものだけが真実だから。信じることだけが本当だから。

 

 

 

世界は当たり前に美しくて尊いってことを、忘れないための日記。