夏の花が咲いていて

夏の花が咲いていて

あなたに教えてもらった名前を思い出す

「日本の夏だね」って言ってあなたと歩く

 

いくつもの火をつけては

面白がってすぐ逃げ出した

涙に暮れて笑い転げて

少しずつ気持ちは色を変えて

 

初恋を結んでは

ぞんざいに投げつけて「こんなもの」って言って嘆いた

迷子の幼さであなたを幸せにできるの?

 

それは

手にした途端に消えてなくなる雪のよう

 

それは

手を伸ばした最中に遠ざかる逃げ水のよう

 

それは

口にした瞬間に品のなくなる情熱のよう

 

真実は

ぼくの中にある

 

 

 

 

 

今日はこれから、あなたの家にごはんを食べに行くところ。

眩しい夏の街角で

ひとり暮らしにも慣れたと思っていたのに

あなたが去った後に、むせ返るような残り香

蚊取り線香を焚いて、子どものように泣きじゃくる夏

 

 

さようならが、いつまでも上手くできない

ぼくは大人になって

いつの間にか大人になって

 

 

忘れたような記憶が

雨に濡れた街に立ち上がる

すべてを振り切って駆け抜ける足が

追い越してきたひとつひとつに、目を凝らして

 

 

夏の光のひと粒を

ラムネの壜に詰めて喉を通った

汗ばんだ手と手を繋いだ

陽炎に揺らいだ道路の向こう側に、未来でも見えるみたいに

 

 

人生は喜ばしいもの、人生は哀しいもの

ぼくはいつも、切なくて泣きそうだ

あなたがいないと、泣いてしまいそうだ

あなたがいてくれると、泣いてしまいそうだ

 

 

紙に鉛筆で何か書きつけるときの乾いた音

線がどこかへと向かう

線がどこかへと向かうけれど、然したる意味はない

 

 

今がこれまでの最後だ

これまでのどこにもなかった今が

新しく生まれた最初の今だ



あなたに出逢えて最高に幸せだ

あなたに出逢えたこと、最高に幸せだ

最高に幸せな今が、過ぎていく

見えないくらい、遠くに行ってしまう

 

 

ぼくは大人になって

いつの間にか大人になって

眩しい夏の街角で、立ち竦んでしまう

眩しい夏の街角で、泣きそうになってしまう

寄る辺ない朝に

薄い青色をしたカーテンから、部屋全体に溢れるように、光が透けて見える。

私は寝返りを打つようにして、身体を左に向けて窓から目を背けた。自然、横に眠っている男の背に、手がぶつかる。シャツ越しに、温かく湿った体温が伝わってくる。この男は、こんなに明るい部屋の中でも、野生動物のように昏々と眠り続けている。この部屋に来ると、いつも、私は朝早く目を覚ましてしまう。必要以上に早く。アサガオみたいに。

男を起こさぬよう、自分の身体にのった綿のタオルケットをそっとよけ、ベッドの上に立ち上がる。大きな河のような男の身体をまたいで、フローリングの床に下りる。下着姿のまま、ハンガーにかけておいたカーディガンを羽織った。ベッドを振り返ると、黒々とした髪が、男の寝顔を隠すよう瞼にかかっていた。

「隆峰」

屈んで、小さく男の名前を呼ぶが、反応はない。髪のかかっていない、鼻筋から顎にかけてのくっきりと際立った輪郭を見て、綺麗な顔だと思う。いつまでも、じっと眺めていられる。私は、彼の寝顔を眺める度、その輪郭を指でなぞりたい衝動に駆られる。なぜそうしたくなるのか分からないけれど、私はいつもそれを呑み込む。彼の顔を眺める代わりに、立ち上がり、私はキッチンに向かった。

コンロに置いたままにしてあった、ホーローのやかんは、半年前の彼の誕生日に私が贈ったものだった。土のような、濃い満月のような、柔らかな色をしたそれは、隆峰の気に入ったようだった。こうして、週の半分以上を彼の家で過ごすようになった今も、コンロの上にこのやかんが置きっぱなしにしてあるのを、よく見る。私がこの家を出るとき、必ず棚にしまっているのに。

ホーローのやかんに水を入れて、コンロに乗せる。つまみを左までいっぱいに回すと、チチチッ、と音がして火がつく。私はつまみを少し戻して、火を弱めた。

 湯が沸騰するまでの間、私は自由に過ごす。顔を洗い、髪を梳かし、キッチンの小さな丸椅子に座って本を読む。ささやかで、劇的な出来事が何ひとつ起こらない連作短編集だ。何も起こらないけれど、登場人物が、ちょっとずつ不幸になっていく。

「おはよ」

ホーローのやかんが、かたかたと音を立て始めたところで、ベッドから声をかけられた。

「おはよう。起きたの」

「うん、起きた」

隆峰は眠そうに、腕全体を使って瞼をこすっていた。私は本をテーブルに置き、その様子を眺める。いい年をした男が、少年のような仕草をしていることに、少し笑いそうになる。

「今コーヒー作ってたとこだけど、隆峰も飲む」

言いながら、コーヒーの壜にスプーンを突き刺し、すくう。ぱらぱらと、砂がこぼれるようにマグカップへ茶色い粉末が落ちる。飲む、と言って、隆峰は立ち上がると、よろよろと歩いて、私の後ろにやって来た。ぴたりとくっついて、私の腰に、腕を回してくる。湯を、マグカップに注ごうとしているところなのに。

「やめて。お湯がこぼれちゃう」

強い口調で言おうと思ったが、明らかに、声に嬉しそうな色が滲んでしまった。見計らったように、隆峰が腕に力を込める。

「こぼれないよ、大丈夫」

腕の力強さとは反対に、柔らかく優しいその声に、私は思わず本当に湯をこぼしてしまいそうになる。

「いいから、離れて」

私がもう一度言うと、束の間、一層強く力を込められた。首筋に、軽く口づけられて、それからようやく隆峰は離れた。再びベッドの方へ戻っていくと、彼はリモコンを手にしてテレビをつけた。ベッドを背もたれにして、ザッピングしている。私の首筋の、口づけられた部分だけが、じわりと熱を持つ。自分から離れてと言ったのに、私は、魂をくりぬかれたような、何か欠けてしまったような気持ちになる。

二人分のコーヒーを運んで、私もベッドとローテーブルの間に座ると、「ひでぇな、考えらんねえ」と隆峰が言った。テレビでは、千代田区中高一貫校で起こったいじめの事件が報じられていた。

 

 

 

隆峰とは、学生時代にアルバイト先で知り合った。

荻窪にあるスペインバルで、私は学生、彼は店長だった。もう、4年も前のことだ。私はアルバイトを始めてすぐ、1ヶ月もしないうちに辞めてしまった。仕事が嫌だったのではなく、隆峰と私の関係が露見するのが恐ろしかったからだ。それくらい、私達は露骨に惹かれ合っていた。他の社員の目を盗んで、バックヤードでキスを交わしたし、帰りのタクシーには手を繋いで乗り込んだ。

隆峰の家は四ツ谷三丁目にあって、仕事が終わった後はそこにタクシーを使って一緒に帰った。彼は結婚していたのだけれど、「妻はここには絶対に来ないから」と言った。二人の家が別にあるのか、単に別居しているのかは分からなかったが、それは私にはどうでもいいことだった。それより、妻は来なくとも、私以外の女がこの家に来ることはあるのか、ということの方が、私には重大だった。尋ねると、「来るわけないじゃん」と隆峰は笑った。曇りのないいつもの笑顔だった。私はそれを信じた。正確には、その言葉を受け入れるほかなかった。

彼はいつも、店から家に帰ると、パチャラン・トニカという私の好きな酒を作って出してくれた。自分にはビールを注いで、一緒に乾杯をした。グラス一杯分の酒を飲み終えると、セックスをした。隆峰は予想外に、誠実なセックスをする。身体をじっくり検分するように触り、私の反応を見る。乱暴で分かりやすいやり方でなく、時間がゆっくりと流れるようなやり方でそれをすることは、彼を一層魅力的に見せた。彼は仕事の後、私が家に行くと毎回そうした。

朝、彼の家を出るとき、自分の身体に残った彼の匂いと、舌と記憶の奥に残るパチャラン・トニカの味は、私を心の底から幸福にした。

 

 

 

「4年って、よく飽きもせずやるよな」

「え」

訊き返すと、隆峰は顎をくいと上げてテレビを指した。テレビでは変わらず、千代田区中高一貫校で4年にもわたって行われたいじめの事件について、その内容が伝えられていた。

「一人の人間を、4年も執拗にいじめ続けるって、どんな神経だろうな。教師も教師だし」

「うん」

私は、熱いコーヒーを飲みながら、この男と過ごした4年という歳月を考えてみる。その間、何か大きく変わったことはないように思えた。変わったことといえば、小さなことばかりだ。私は25歳になり、彼は33歳になった。私は就職をし、この家に泊まる頻度が多くなり、週の半分以上をこの家で過ごすようになった。彼は相変わらず結婚をしていて、週の半分以上はこの家におらず、私と会っても毎回はセックスをしないし、それの前にパチャラン・トニカを作ることもなくなった。

分からないことだけが、変わらないままに残っていた。私の横に座る男の妻が、どんな人なのか。この家に帰らない日は、どこで何をしているのか。私のほかに、どんな女と会っているのか、それとも会っていないのか。

毎日を構成するものは変わらないが、それはゆっくりと姿を変えていく。砂丘が、風によって少しずつ、その陰影を変えるように。

「隆峰」

私は男の名前を呼ぶ。

「ん?」

男は、テレビに目を留めたまま生返事をする。綺麗に隆起した鼻と、すっと線を引いたように潔い顎の輪郭。私はいつものように、そのラインをなぞりたくなる。そしてそれを呑み込む。

きっと私は、この男の輪郭を滅茶苦茶にしてやりたいのだ。この指の腹で、なめした革のように滑らかな肌を押して、めり込んで、溶け合って、この男の綺麗な横顔を、滅茶苦茶にしてやりたい。その輪郭を、崩してみたい。

私がしばらく黙っていたので、男は不思議そうにこちらを向く。私は微笑んで、「コーヒーどう?」と訊く。ん、あぁ、美味しいよ、と言って、男は再びテレビに視線を戻す。

私は、自分の持ったマグカップに入った、黒く反射するコーヒーを見て、一つ心に決める。このコーヒーを飲み終わったら、この男とセックスをしよう。男の綺麗な輪郭が、快楽に醜く歪むような、互いの輪郭が、溶けて分からなくなってしまうような、セックスをしよう、と。

テレビの話題は、いつの間にかいじめの事件から変わっていた。

テレビの横の窓からは、ちょうど良い明るさが部屋に投げ込まれている。薄い青色のカーテンは閉まったままだが、淡い青の光が、透けて見えた。溢れるように、囁くように、朝の光が透けて見えた。

私の輪郭

「夏が近づいてくるとさ、夜道、外気の温度と肺のなかの温度が同じで、身体の輪郭が、少し揺らぐ感じがするでしょ」

二見さんはまるで、花って綺麗でしょ、とでも言うような感じで、そんなことを言う。

私たちはランチに、オフィスビルの高層階にある、創作フレンチを食べに来ていた。壁がガラス張りで、私の席からは、新宿御苑にこんもりと茂った緑が見える。

「身体の輪郭が、揺らぐ」

「そう」

ほっそりと生白い二の腕を、白いブラウスから覗かせて、彼女は目の前に置かれた仔羊のローストに、ナイフをするりと差し入れた。生々しく赤い色が現れ、滑らかな動作で切り分けると、彼女はそれをフォークで刺して弧を描くように口に入れた。

「おいし」

皿を見ながら、確かめるように二見さんは呟く。ゆっくりと、頷くように顎を動かし、二見さんは咀嚼する。少ししてから、陶器のようにすべらかな彼女の喉元が上下に動いて、彼女が肉を呑み込んだことが見てとれた。

「思えば、食べるっていう行為も、自分の輪郭を変える感じがするわね。だって、自分のなかに他者を入れて、新たな自分にしてしまうわけでしょ」

私は、彼女の言葉をよく理解できないまま、はあ、と曖昧に頷いた。私に構うことなく、彼女はゆるやかに仔羊を切り分け、次々とそれを口に運んでいく。私は、自分の皿にのった料理のことも忘れて、彼女の動作の美しさに見とれる。磨きたてのようなナイフの銀色に、午後の陽射しが反射して強く光る。店内の喧噪のなかで、彼女が持つ食器が立てる音だけが、立体的に浮き上がって聞こえるような気がした。肉を切り分ける度、落ち着いた白色をした丸い皿が、肉汁の赤やグレイビーソースの黒で汚れていくが、彼女はそれをいちいちつけ合わせの蓬でぬぐって食べるので、最終的に皿の上はほとんど跡形もなく綺麗に片付いてしまった。

「梨木君は、ないの。自分の輪郭が、あやふやになるような瞬間って」

そうですね、と言って、私は皿にもたせていたフォークとナイフを手に取り、鴨肉のロティに手をつける。鮮やかな若草色をしたそら豆のソースが、余白を大きくとった皿からはみ出しそうにかかっている。私は切り分けた鴨肉で、皿の上をすべらせるようにしてそのソースをすくい、こぼさないよう口にする。ざらざらとした豆の舌触りと、鴨肉の野性的な味が、口のなかに一気に広がる。

「輪郭があやふやになる、という表現が、いまいち、理解できなくて」

「そう」

二見さんはつまらなそうに言って、精巧なガラス細工のような手でナプキンを持ち上げ、口をぬぐった。私は、二見さんの機嫌を損ねてしまったように感じ、焦って思いつくままを口にした。

「たとえば、途方もなくおいしい料理を食べたときに、とろけそうだ、と思うようなことはあります。口のなかから崩れてしまうような、そんな感じ。輪郭があやふやになるって、そういうことを言っているのですか」

二見さんはナプキンを手に持ったまま、少し驚いたような顔をして、それから模範的と思えるような笑顔を浮かべ、「そうそう、そういう感じ」と笑った。私は少し安心し、それから、彼女が持つナプキンに口紅の赤が移っているのを認めて少し、どきりとした。

「どこまでが自分で、どこからが他者や外界なのか、わからなくなるときのことね。そういうのが私、好きなのよ。汗ばんだ肌のまま、裸でふたり、ぴたりとくっついて眠るのなんて最高。暗がりは光より輪郭を淡くさせるから、暗闇でならなおさらね」

二見さんが私のことをからかっている様子はないが、私は、どんな顔をしてこの話を聞けばいいのかわからなかった。会社の同僚とはいえ、なんの気もない男性に、裸で眠るときの話を女性からするということが、あり得るのだろうか。

食器同士のぶつかる硬質な音を、無様なほどに立てながら、私は鴨のロティを食べ続けた。動揺で味は、よくわからないものとなっていたが、二見さんは私に、焦らないでゆっくり味わってね、と言った。僅かに首をふり、私は自分の皿に集中する。

鴨肉を切り分け、肉でソースをすくい、口に運ぶ。そしてまた肉を切る。皿の上は、ソースの若草色と、肉汁の赤とが混ざって、なんとも言い難い抽象画のようになっていった。

「二見さんは、変わっていますよね」

料理を食べている様子を一方的に見られ続ける、という状況に我慢できなくなり、私はそう口にした。彼女といるといつもそうだが、なにか、言葉を口にしなければならないような気がして、焦ってしまう。それで、少し失礼なようなことを言ってしまう気がする。

「そう? どのへんが?」

二見さんはさして気にする様子もなく、面白がるような、挑戦的とすらいえるような表情をして、こちらを見つめてくる。テーブルの上に両肘をのせて、乗り出すような恰好だ。私は、目をまっすぐ見ることも、あからさまに逸らして新宿御苑の緑を見ることもできずに、彼女の腕にはまった細い金色のブレスレットを眺めながら、答えた。

「考えていることとか、言葉が、ですかね」

二見さんは、乗り出していた身を引いて、椅子の背もたれにゆったりと寄りかかった。口元を僅かに開き、子どものような表情で外を眺める。

「ねえ梨木君。梨木君はいつも、言葉を焦って使っているでしょ」

私は、見透かされていたような気がして口ごもる。

「えぇ。まぁ」

「私ね、いつも、言葉を言葉以前から使うように心がけているの。だから変に聞こえるのかもしれない」

「言葉以前?」

「そう。言葉になるよりも手前の、混沌としたもの。私は、言葉以前の何物かを伝えたくて、言葉を使うの。でもだいたいの人は、そんな面倒くさいことしないでしょ? 言葉を伝えるために、言葉を使っている」

私は、少し考える。

「面倒くさいというより、そんなこと考えたこともなかったから」

そう言うと、最後の一切れになった鴨肉にフォークを刺した。肉はいい加減に冷めてしまっていて、口にすると、鴨のしっかりとした肉質で、なかなか噛み切れなかった。そら豆特有の、青くさいような香りと、野趣に富んだ鴨肉の味。何度も噛んでいると、そのごと、肉の味が染み出てくる。それはやがて、私の身体に変わっていくものだ、と思った。

「言葉や、言葉以前のものは、身体を超えているのよ。私の輪郭を、超えている。だから、きちりと言葉が通じたとき、やっぱり私、輪郭がぼやける気がするの。それが好き」

私はようやく鴨肉を食べ終わり、フォークとナイフを皿に置いた。銀色をしたそれらは、輪郭をしっかりと保ち、皿とぶつかって小さく音を立てた。かちゃり、と。それを聞いて、そういえば肉を切るとき、肉とナイフがぶつかっても、このような音はしないなと、思った。当たり前だけれど。

「二見さんの話を聞いていて、思ったことがあるんですけど」

「なあに」

「あの、肌はもちろん、筋肉とか骨とか、私たちの身体を構成しているものって、絶えず分解と合成が繰り返されているじゃないですか」

「そうみたいね」

二見さんは、面白がるように私を見る。私は構わず続ける。

「細胞がどんどん入れ替わって、身体はその形を保ちながらも、分子レベルでは外界と入れ替わっていきますよね。私たちは自分の身体を、疑いもせずに自分だと認識しているけれど、私たちを構成する分子はもともと、あそこに見える新宿御苑の木の葉だったものかもしれないし、仔羊の肉や鴨肉の分子だったかもしれない。そう考えると、外界と私たちの境界なんて、そんなにはっきりしたものじゃないと思うんです。生命って、空間のなかの、単に分子の密度が高い部分でしかないのかもしれない」

二見さんは、「梨木君、さすが理系だね」と言って笑った。

「私が言いたかったのもそういうことかもしれない。存在が滲む感じが、好きで、でもどこまでいっても私の身体はここにあるの。言葉は私を超えてあるけど、私の身体は、ここにあるの」

「二見さんは、生命ってことですね」

二見さんが、ふふふと笑ったとき、ウェイターがやってきた。グラスに水を注ぎ、メインディッシュの皿を下げていく。もうすぐ、デザートがやってくるのだろう。

「二見さんの話、よくわからないと思っていたけど、少しだけ、わかったような気になりました。いや、わかったというか……」

私は、じっくりと、言葉を探す。そうして、言葉を選び取る。

「二見さんの話を、自分に、馴染ませることができた」

「それは、よかった」

二見さんはにっこりと笑った。

「梨木君。今、言葉以前のことを伝えるために、言葉を使ったでしょ」

「そうかもしれません」

私は、先ほどはできなかったこと、二見さんの目を見て話すことが、今はできた。彼女の目は宇宙のように深い黒で、白い羽のようにふわりとしたブラウスと対照的なその色を、見ると、私の肌はざわりと粟立った。

「あ」

小さく声が漏れて、その音は私の足元に転がり落ちていく。

店の外、ガラスの向こう側には、無機質な灰色のビル群がそびえていて、とても強固な輪郭をしているように見える。向こうには、新宿御苑の緑。さらに遠くの方に、皇居の緑も、見えていた。

店内は冷房がきいていて心地よいが、今日はきっと暑い日だ。強い陽射しが、あらゆるものの輪郭を際立たせている。道端の草木を、道路の白線を、ビルの外壁を、レストランのテーブルクロスを、照らしている。

新宿の、オフィスビルの高層階で、デザートを待ちながら、たくさんの輪郭に囲まれて。私は確かに、存在の輪郭を滲ませていた。

粟立った肌は、デザートがやってくるまで、しばらくのあいだ、収まらなかった。

悪魔と天使

僕の人生の一瞬一瞬は、本当は尊いはずで、あなたの人生の一瞬一瞬も、本当に尊いはずで、だけれどときどきそれを忘れてしまう。

 

あなたと会うということは、僕とあなたの時間を共有することで、ふたつの心の距離が変化し続ける感じがして、人生の一番大切なことのひとつで。

ふたつの心はふたつのままで、その清い孤独を、愛という名前をしているらしい、何かが、ふたつのままにやわらかく包んでくれる気がしている。

あなたの気持ちに応えられないとき、僕は、愛を伝えているのか、呪いをかけているのかわからなくなる。

 

わがままに、あなたの人生を軽んじることや、約束を果たすことのできない未熟さ。完璧じゃない方が、人間らしく色っぽいことだと、開き直ってしまうのは明るさなのか、ずるさなのか、僕にはまだわからない。誠実でないこと、甘えや弱さのように思う。

 

後ろめたさからなのか、虚栄心なのか、孤独からの逃避か、あなたを前にすると、不必要にひとつになりたがる。

それはやっぱり、甘えだったかもしれない。

 

ありがとうと言ってくれてありがとう。

ごめんなさいと言わせてしまってごめんなさい。

僕が人間的に優しいのか、それとも優しさに見せかけた自身の弱さを投げつけていたのか、あまり自信はない。

陰と陽のように、引き離せないものなのだろうか。本当の優しさと、誠実さと、人間的な可愛らしさを身に付けたい。

 

僕は多分に悪魔的で、多分に天使的だ。

あなたの成長と、健康と、幸せを願っています。願うことは、純粋な愛だとまだ思えるから。

あなたなら、きっと大丈夫ということも、かなり信じられるのです。

 

ひとまずさようなら。お元気で。

絶対にひとりになれない私達

部屋の窓を開けていると、しっとりと濡れたような栗の花の匂いが濃く香ってくる。5月の夜。隣接するコインパーキングが、緑色に光る文字で「空」を知らせているのが目に入る。

「もう、うんざりなの」

ひんやりと湿ったシーツに腰かけ、私は電話の向こうの友人に言う。友人は、深いため息をつく。無言の時間が、数秒続く。

「わかった。もうあんたに連絡はしない。でもそんなんじゃ、いつまで経っても友達なんかできっこないし、あんたはそうやって一生ひとりで生きてくんだね」

吐き捨てるように言われて、それから一方的に電話は切られた。

私は携帯電話の画面を見て、きちんと通話が終了していることを確認する。

「そうだよ。ひとりで生きてくの」

そう、呟いた。誰もいない部屋で。

友人――「元」友人と言うべきか――にあんなことを言われて、傷つかないわけはない。自己中心的過ぎる、あんたの優しさは偽善だったんだね、そんなんじゃ誰のことも幸せにできない、とかなんとか。

でも、四六時中、TwitterとかLINEとか電話で繋がれているような人間関係を、私は必要としていないのだ。そういうネットワークで、毎日のように連絡を取り合うことを、「ひとりじゃない」と表現するのなら、私は一生ひとりで構わない、と思う。

ベッドに横たわって、目をつむる。腰と二の腕が冷たい。よく糊のきいたシーツを、確かめるように撫でつけた。冷たく清潔な感触は、私を安心させる。ひとりでいることの安心と、少しの心細さ。

電話を押しつけていたために熱を帯びた右耳を、うつ伏せになってベッドで冷やす。右腕を伸ばし切って、ベッドのへりを掴む。唐突に、男のことを思い出した。男が住んでいる部屋を思い起こす。じめじめと温かく、乱雑に物が散らかった、この部屋と対照的なあの部屋。

ぬるい風が吹いて、部屋のカーテンが膨らむ。ベッドのへりに掴まった、私の指をくすぐる。目をつむって、そのままじっとしていると、自分の身体が夜の闇に溶けるように思えた。

 

 

 

 

改札を出ると、急に雨音が耳に入ってきた。傘を持っていなかったので、駅構内のコンビニで購入する。

外を歩く人は、皆足早に歩いていく。私もそれに倣って、外に足を踏み出す。新品の、透明なビニール傘を広げると、細やかな水滴がビニール傘の上に降り落ちてきた。パタパタとまだらな音が、私の半径70センチを取り囲む。

家へ向かう道は、左手に上水路が流れている。雨が降っているからといって、水嵩はさして増していない。玉川上水という、太宰治が入水して死んだところだ。

ちろちろと大人しく流れる水を目の端に入れながら、私はポケットに手を入れて、携帯電話を取り出した。暗い道を、いくつもの街灯が照らす。私は見慣れた画面に飛んで、発信ボタンを押した。

「もしもし」

受話器の向こうで、男が眠たげな声を出す。

「もしかして寝起きなの」

男は、うん、と答える。五歳児のような話し方だ。

「いま何時だと思ってるの」

私が笑いながら言うと、16時、と適当なことを言う。

「いま19時。仕事帰りだから連絡したの。元気?」

まあ、それなりに、という返事とともに、がさごそと何かを漁る音が聞こえる。コンビニのビニール袋が、部屋にいくつも放ってあるのだろう。

「なあ、俺の煙草どこにあるか知らない」

「知るわけないでしょ」

私は言いながら、男の雑然とした部屋を思う。布団の上に服がいくつも重なっていて、飲みかけの酒がその周りに散らかっている。電子レンジが床に置いてあって、その上によくわからないチラシや、本なんかが積み重なっている。起き抜けのあの男の胸は、少し汗ばんで温かく、まるで私のためにしつらえられたのかと思うほど、私の頭にぴったり馴染む。私は束の間そのことを考える。

しばらくしてビニール袋の音が止み、代わりにカチッというライターを点ける音が聞こえた。私の鼻腔に、彼の服に染みついた煙草の匂いが再生される。

「今日、うち来いよ」

「行かない」

私はすぐに答える。

「なんで」

「今日がなんの日か知ってる?」

男は黙って、煙草を喫っている。面倒くさいと思っているのか、沈黙を楽しんでいるのか。

ふぅ、と躊躇なく息を吐くと、

「知らね」

と言った。

「私達が出会って一年目の日」

私が言うと、めんどくせー、と言って男は笑った。

「じゃあさ、折角の一年記念なんだし、うち来いよ」

「行く」

私がすぐ答えると、

「来るんかーい」

と、やたら大きな声で彼は言う。行くよ、そりゃ、と返事をする。

「うちの近く着いたら連絡ちょうだい。迎え行くから」

「うん」

言いながら私は、嘘つけ、と思う。迎えに来たためしなんて、一回もないくせに。

男は最後に、まってるよ、と言って電話を切る。優しい声で。一瞬、私の耳は真空になって、何も聞こえなくなる。

でも次の瞬間、また私の周囲70センチに雨の音が鳴り始める。パタパタと、まだらに。

左手には玉川上水が流れていて、水嵩は普段とあまり変わらない。足下を照らす街灯の明かりは、白っぽくて頼りない。

そういえば、ひと月前には、駅前に桜が咲いていた。幼児の手の平のようにぷくぷくと、満開の花びらが。それはいつの間にやら消え去って、春の幻だった。焦げ茶色の幹だけが糊で固めたように残っていて、緑の葉をゆわゆわと雨に打たせている。

家に帰ったら、着替えだけして、あいつの家に一刻も早く向かおう、と思った。ろくなものを食べていないあの男に、とびっきり美味しいものを食べさせてやろう。何か温かくて、懐かしくなるようなものを。

歩いているうちに、靴が濡れてくる。雨足は強くなっており、雨音は徐々に均一な、テレビの砂嵐のようになってきていた。ビニール傘越しの景色が、雨のせいでうまく見えない。

ろくでもない男だとは、わかっている。男の世話をするのも、それを喜び勇んでやる自分にも、いい加減うんざりしてはいる。

「もう、うんざりなの」

声に出してみる。しかし雨の音に混じって、自分の耳にもその声はあまり届かない。

遠くの方に、私の家に隣接するコインパーキングの、「空」と表示された緑の電光表示が見えていた。あの光を見る度に、男とこのあいだ飲んだ、コカレロとかいう緑色の甘ったるい酒のことを思い出す。

「もう、うんざりなの」

また口にする。それでも、傘の上で踊る雨粒のように、家へ向かう私の足取りはどうしたって軽くなっている。

きれいな執着

仕事帰り、新宿駅の南口で待ち合わせをする。

君の髪が随分短くなっていることに気づいて、似合ってるよと言う。ありがとう、と言われる。

テニスのガットを張り替えるためだけにわざわざ新宿まで来たと言う君に、何それ、と笑ってみる。普通じゃない? と君が言う。

降りたことのない駅で降りたい、という、ただそれだけのわがままで、東京メトロ丸ノ内線に乗る。荻窪で降りようかと言っていたけれど、もっと近いから新高円寺で降りた。

新高円寺」って、なんか「高円寺」より強そう。「改高円寺」とか、「真高円寺」とかも、ありそう。

そう思ったけど、恥ずかしいから口にしなかった。

その駅に降りるのは、ふたりとも初めてのことだった。それが嬉しかった。

 

新高円寺は、大したことのない駅だった。スーパーや不動産屋はあるけど、肝心の飲み屋はほとんどなくて、結局、ぼくたちは高円寺駅の方に向かって歩いた。

まっすぐの道は、下り坂。ラーメン屋を横目に見ながら、君が地形に関してよくわからないことを言う。台地なんだ、とかなんとか。

もしかしたら、谷かもしれない。ここに川が流れていて。

そんなこと、考えもしなかったから、見えている世界がこうも違うのかとぼくは思った。やっぱりそれも、嬉しかった。

 

高円寺駅の周辺は、金曜の夜なのに大して混んでいなかった。

居酒屋はたくさんあって、ぼくたちは一軒一軒、店を吟味して歩いた。

ぼくは日本酒かワインを飲みたい気分だった。ホタルイカのサラダを出している店があって、とても惹かれた。でも歩いているうちに、一杯目はどうしてもビールを飲みたくなった。焼肉屋が何軒もあって、道沿いの看板に写された写真を見るうちに、ふたりとも、焼肉を食べたい気分になった。

飲み放題が2時間で880円の店があったから、安いね、と言い合って入った。

安い焼肉屋と思って、あまり期待していなかったが、その店は和牛を扱う店だったようで、思いの外、メニューは豪勢だった。

生ビールは、ハイネケンが置いてあって、ぼくはそのビールにあまり美味しいイメージがなかったのだけど、その店で飲むそれはとても美味しかった。一杯どころではなく、焼肉屋にいるあいだ中ぼくたちはハイネケンを飲み続けた。

「瓶だとあまり美味しくないけど、生は旨いんだよ」

君がそう教えてくれた。

「ホルモン食べられる?」

「うん」

「セロリ食べられる?」

ぼくがうん、と言うと、

「好き嫌いあんまりないんだね」

と言われた。なんだか、誇らしい気持ちになった。

大きなカクテキ、セロリのキムチ、ハヤシライスみたいな味のする牛筋の赤ワイン煮込み、ホルモン(焼き具合で油の量を調節できて良いんだよ、と君は言った)、和牛の盛り合わせ、上ミスジ、あとハイネケンとマッコリ。

たらふく飲んで、たらふく食べた。社会人ぶって、お代はぼくが出した。君がトイレに行っているあいだに会計しようと思ったのに、スマートにできなくて笑われた。

 

 

 

生きている証が執着そのものなのだとしたら、ぼくは、きれいに執着してたいな。

何かに執着するのは、格好悪いことだと思っていた。

何にも執着しないで、自由に、すべてを忘れて生きるのは格好いいけど、ぼくには忘れたくないことがたくさんある。山ほどある。それは増えていく。

そのときどきで、ちょっとずつ、どうせ忘れていくのだから、忘れたくないことを大切にすることだっていいのかもしれない。

きっと全部、極端なのは苦しいんだ。

ぼくは真ん中で生きていきたい、軽やかに、楽しく、喜んで、ご機嫌に生きてたい。

きれいに執着して、きれいに手放して、ぼくのすべてはぼくが決められることを、確かめながら、生きていきたい。

 

あの日、二軒目に行ったホタルイカのお店で、君が選んでくれた鳥取の赤ワインはすごく美味しかった。