同じ地球で

Twitterは東京みたい。

たくさんの人がいて、情報も感情もごちゃごちゃとし過ぎていて、無遠慮に誰かが誰かを傷つけていて。

満員電車に毎日乗るのは、とても消耗するでしょ? たくさんの広告が、すぐにお金を稼ぐ方法とか、疲れない身体のつくりかたとかを宣伝していて。みんな疲れていて、余裕がなくて。

毎日そんな場所にいたら、疲れちゃうよね。えぐられる。でも、「疲れた」って言うことも許されなくて。


東京は異常ですよ。


ずっといる場所じゃない、たまに自然の豊かな場所に羽根を伸ばしに行かないと、悪いものが身体に溜まり過ぎるから。

でも、人がたくさんいるのも東京で。

何かを変えたいと思ったとき、この世界に影響を与えたいと思ったとき、東京が便利な場所なのは分かる。

黒がたくさんあるみたいに、ちゃんと白もあるから、死なないように周りを白で固めて突き進むあなたはとても格好いい。

でもやっぱり、東京の磁場はおかしいんですよ。狂ってる。

だからあなたが東京をひとときでも離れたのは、少し安心した。

あなたは優し過ぎるから。

気持ちの悪いDMを送ってしまって本当にごめんなさい。優し過ぎるあなたに、頼らなくていいときも頼ってしまうことをたくさんして、どうすれば上手い愛し方なのかわかんなくて、ごめんなさい、そして本当にありがとうございます。

概念なんかにならないで。みんなの自由のために、概念なんかにならないで。生身の人間でいて。一秒ごとに死んでいくあなたの死骸を拾って、集めて、愛していくから。

そして会いに行くから、一瞬でもいいから追いつかせて。

だから、概念なんかにならないで。

自由と命を天秤にかけたとき、自由の方が重くなることを、まだ私は受け入れきれなくて。どうしてもまだ、命が惜しいと感じてしまうよ。私はすごく、不自由だね。

でもそんな不自由な私も私で、考えるから、生きているあなたに会いたい。

私も私で、みんなの自由のために、私の自由のために、どうしたらいいか考えるから。

あなたが無力を感じるのなら、私はどれだけ無力なんだろう。

少なくとも私にとって、あなたは無力じゃない。あなたは私を救った。あなたはあなたの生き方を見せた。私は私の生き方をしようと思えた。

本当は、みんなの自由のために、誰か特定の人が苦しむんじゃなくて、みんなが自由になろうと変われたらいいのに。

好きな人が傷ついているのは、辛いんですよ。優しい人がその優しさのせいで傷つく世界は、どうすればいいんだろう。優しい人ほど死んでいく世の中は、絶対に間違っているよ。

考えるよ、感じるよ、祈るよ。祈る。

そして信じてる。

あなたの命が同じ地球でちゃんと燃えてるんだって、信じてる。

愛してるよ。

泣くとか、泣かないとか。

朝起きると泣いていた。

嘘。

正確に言うと、泣きそうになっていた。

目が覚めて、「あ、夢か」と気づいてから、子どもみたいに大泣きした。

夢で心を乱されて、起きた後に泣く、ということは子どもの頃よくあったけど、そういえば最近はあまりなかった。

夢の内容は不鮮明で、でも「ピアノを弾きたかった」ことはよく覚えていた。

ピアノをどうしても弾きたいのに、周りの人が「うるさいから」「弾いてほしくないから」と言って弾くことを許してくれないのだ。

理不尽だと思って、「じゃあ一体いつ弾けるのか」と問うても、

「あなただってまだ論文書いてないじゃない」と、女の人に言われた。

「論文は確かにまだ書いてないけど、それとこれとは関係ないでしょ」

「とにかく、ピアノは弾かないで」

そうやって、屁理屈をつけて私のやりたいことを邪魔するのか、と思ってやりきれない気持ちになった。悲しくて悔しくて、そうして目を覚ますと泣き出す寸前の気持ちになっていた。

朝、目が覚めてすぐに大泣きするのは気持ちがいい。

 

 

今日は、昔付き合っていた人の誕生日だ。

忘れていたけれど、朝大泣きした後、iPhoneのカレンダーを見たら彼の誕生日が登録されていて思い出した。

彼と付き合っているとき、私はよく泣いていたと思う。

ヒステリックな感じに泣くことが多かった。都庁の付近でデートしていたときに喧嘩をして、私が泣き喚きながら彼に向ってハンカチを投げつけたこともあった。

地味な色をしたハンカチはひらひらと宙を舞い、情けない感じに地面に落ちた。

彼はそれを、困った熊みたいな顔をして拾った。「こんなとこで泣かないでよ」みたいな真っ当なことを言われ、それにまた腹が立って、私は泣いた。

その頃、私の中で東京は、「見知らぬ人ばかりの場所」というイメージだったから、旅の恥はかき捨て的なノリでそんな大胆なことができたのかもしれない。

今でも東京のイメージはそれほど変わらないが、街中で大泣きなんて、今じゃもうできない。と思う、多分。

 

 

人はどういうときに泣くのか。

そのときの彼は、私とひと回り以上も歳が離れていて、広島に住んでいた。

彼からしたら、かなりの年下&遠距離ということで不安要素が多かったのだろう、別れる直前の時期は、「どうせ俺のことなんてそんな好きじゃないんだろ」みたいな七面倒なことばかり言ってきた。

「好きだよ」と言っても、まるで信じてくれなかった。それが何よりも悲しかった。

彼と付き合って学んだことのひとつは、「自分の気持ちが相手に伝わらないことは何よりも悲しい」ということだ。人が死ぬと悲しいのも、もう二度と相手に自分の思っていることを伝えられないからだと思う。

まだかなりの若造だった私は、なんとかして自分の気持ちを伝えてやろうと、泣いたり叫んだりしたけれど結局ダメだった。

 

 

泣くのには、びっくりし過ぎたとか、嬉しくて感動のあまりとか、やるせなくてとか、色々な場面があると思うけれど、「自分の思いが相手に通じなくて泣く」のは、もうそろそろ卒業したいなあと思う。

だって、違う人間なのだから、気持ちが上手く伝わらないのは当然だ。

でも、ごくたまに、本当に稀に、「気持ちが通じた」と確信できる瞬間がある。

心を開いて話して、もしくは話さなくても同じ空間に居て、同じ景色を見て、通じ合えたと思える瞬間。

大人になっていくのだったら、そっちの瞬間を大切にできる人になりたい。そして欲を言うならば、できるだけ多くの「その瞬間」を、死ぬまでに見てみたいと思う。

彼が今日一日、いい日だと思って過ごせたことを願う。

so alone

きょうは満月だというから外に出てみたのに、雲が厚くてぜんぜん見えない。残念! そのまま散歩をする。

大学を出てすぐのところ。押しボタン式の道路で、左右から車が来る気配もないのにボタンを押してみる。少し待って、車の信号が変わる。

黄色、赤。

雨上がりの夜の赤信号は、ちょっと綺麗。湿度の高い空気に光が乱反射して、ぼんやりと、なのにびっくりするくらい鮮やかな赤色が見える。信号って、場所によって色が微妙に違ったりするのかな? きょうの赤信号は特別に綺麗。

一瞬だけその光にうっとりしてから横断歩道を渡る。車は来ない。

イヤフォンの中で大塚愛が、「なんとなく」が何度も歌詞に出てくる歌を歌っている。

「なんとなく 流れてった」

「なんとなく 決めてみた」

「なんとなく 知らん顔した」

「なんとなく 飛び跳ねてた」

僕もなんとなく、うれしくなって大またで歩く。

右手には公園があって、だれもいないみたい。濡れそぼったベンチとブランコが外灯の光でキラキラしている。

大またでずんずん道を歩いていると、以前見た絵のことを思い出した。あの絵もずんずん、ひとりで頼りなく、でも力強く歩いていたなあ、と思って。

思い出して、また楽しくなってずんずん歩く。そうするとベンチもブランコも視界の端に流れていって、やがていなくなった。

 

 

絵はこのあいだの週末に見たものだった。

新宿で人と会ったあと、時間を持て余したから近くの画廊に寄ってみた。夜にまた違う飲み会があったから、それまで時間を潰す必要があった。

新宿駅の西口から15分ほど歩いたところにその画廊はあって、歩道に面している部分がガラス張りになっている。ドアは開け放たれていて、僕より先に中で作品を見ている人もいた。

入り口すぐのテーブルに、作品の配置とそれぞれの題名、作者紹介などがされている紙が置いてあったので手に取る。

展示全体の名称は “Light Through the Window” で、光に関する作品が多いのかなと予想して来たのだけど、そんなことはなかった。一日の最後に残った小銭をキャンバスの上に広げ、その輪郭を真っ黒な布地の上に白い線で描いた何十枚もの作品とか、粗い目の布地に、裏側から彫像のイメージを写し取った作品とか。

正直、そこの展示で見られた作品はあんまりピンとこなかった。単に僕の感性が鈍かっただけなのかもしれないけど、うまく理解できなかったし、うまく面白がることができなかった。

1人の作家さんが、僕が作品を見ているあいだちょうど在廊していらして、お客さんらしき人と喋っていた。ベルリンに住んでいて、このあいだ日本に帰って来たばかりで――、みたいな話をしていた。

 

ひと通り作品を見終わったあと、その画廊を出た。

「まだ時間余ってるなー」と思っていると、今しがた出た画廊のすぐ隣に、もうひとつ画廊が併設されてあることに気づいた。そっちの画廊のドアは閉まっていたけど、中で女の人の2人組が作品を見ていたので展示期間中ではあるようだった。透明なドアには、『Shin Morikita 森北 伸 新作展』と書いた紙が貼ってあった。

 

中に入ると、ドアが開けっ放しになっていた先ほどの画廊とは違って、しんとしていた。先にいた女の人2人が小声でひそひそ話すのが聞こえるくらい。作品も先ほどと違い、平面作品だけでなく立体作品も多く配置されていた。

入ってすぐのところに、子どもくらいの大きさの黒く塗られた木と、その上にちょこんと乗った黄色で塗られた木、針金のような素材と金属のお皿のような素材が組み合わさってできた作品があった。どことなく、黒い木が胴、黄色の部分が顔、針金がすっと伸びた手、そして金属のお皿がその手に持たれているように見えて、子どもが腕を伸ばして、「何かちょうだい」とねだっているように思えた。

可愛らしくて、ちょっと滑稽で、「あ、好きだな」と直感で思った。

展示されているのは立体作品だけではなく、絵画もいくつか飾られていた。

どれも良かったのだけど、特に気に入ったのがひとつあった。

背景色が上と下でくっきり2つに分かれていて、上はくすんだオリーブ色とでも言うのか、下は茶の入ったグレー。そこに、棒人間をもう少し抽象化したような形で、黒い線の人間が横向きに描かれている。棒人間は大またで淡々と歩いていて、手はだらんと垂れ下がっている。お腹の部分に深い青色で、湖のように水が溜まっている。胸には大中小のろうそくが並んだように、白いささやかな光が等間隔に灯っていて、顔は大きな大きな満月みたいな黄色で描かれている。顔部分はかなり見切れていて、満月のほんの下部分しか見えない。

作品に見入っているうちに、いつの間にか先にいた女の人2人組はいなくなっていた。

 

画廊の奥まったところに、パソコンでカタカタと事務作業をしている女の方がいた。

手前のテーブルに、1つ目の画廊では入り口すぐのところにあった、作品の配置とそれぞれの題名、作者紹介などが書かれた紙が置かれていた。

はじめに見た、何かをねだる子どものような作品の題名は、「けらいのいない王様」。可愛い題名だ。順々に見た作品の題名を追っていくと、ぜんぶがちょっと哀しくて愛らしく、素敵な題名だった。

そしてずんずん歩く棒人間の絵。あの絵の題名は、「so alone」だった。

心の中で、「ああ、やっぱり!!」と思った。

うれしくなって、もう一度あの絵の前に行く。

大きいけれど、大きすぎない絵。適切な大きさ。

たったひとりで、お腹には悲しみの水を湛え、胸に小さな光を灯し、満月のように大きな光を持って歩き続ける生き物。その絵はいい意味で切実さがなく、悲しすぎず、希望もあり、人間の「愛すべきおかしみ」みたいなものがいっぱい詰まっているような気がして、いつまででも眺めていられた。色の加減もとても良い。

いろいろ理由づけはできるけど、なんとなく、僕はその絵が好きだった。

しばらく眺めてから、外に出る。夜の飲み会に向かうにはちょうどいい時間になっていたので、電車に乗るために新宿駅ではなく初台駅に向かった。好きな絵に出逢えて満ち足りた気持ちだった。

あとから知ったことだけど、あの展示全体の名称も “so alone” だったらしい。

 

 

「なんとなく これは恋だ」

「なんとなく これは恋だ」

「何も考えませんよ、だってなんとなく これは恋だ。」

 

いつだったか横浜の中華街で人生初めての手相占いをしてもらったときに、「あなたは一途ですね」と言われた。

「そうかあ?」とそのときは思ったけど、好きなものに出逢ったらずっと好きで居続けたいよね。そのための努力は惜しみたくないなあ。

YUKIが好き、大森靖子が好き、西加奈子が好き、大塚愛木村カエラaiko椎名林檎chara宇多田ヒカルチャットモンチーも好き、赤色も好き、本も好き。

だけどやっぱり最終的に好きな理由は、「なんとなく」なんだよなあ。

そんなことを考えながら、ずんずんと夜の道を歩き回った。ひとりで、楽しく。

厚い雲の上では、たぶん満月がにっこり顔でこっちを見ている気がする。

朝が来る

夜明けのまえに、外に出る。

青々とした藍色の空に、まだいくつかの星が出ていた。

誰もが眠りについていて、町はとても静か。ピロロロ、と鳴く鳥の声と、やわらかなスニーカーの立てるひそやかな足音がするだけ。世界に僕だけしかいないような気持ちになる。あまりに静かだから、手に持って出てきたiPodもイヤフォンを耳にすることなく、ぶらぶらと垂らしたまま歩いている。

電車の線路沿いの道にくると、家の屋根の向こうの空がうっすらと赤くなっているのが見えた。朝焼けが迫ってきている。

 

空の色が昔からとても好きで、高校生のころ毎日のようにガラケーで空の写真を撮っていた。季節や時間帯によって変わるその色や模様が単純に美しくもあり、「今日しかこの空模様は見られない」と思うと、画像として残しておきたかった。

友だちに、「空の写真撮る人って病んでるらしいよ」と言われてびっくりした。

「え、僕ほぼ毎日空の写真撮ってるんだけど」と言うと、

「めっちゃ病んでるじゃん」と笑われた。たしかに空の写真撮るのって、病んでるっぽいな、と思って僕も笑った。実際はめちゃくちゃ元気だった。

季節の変わり目や朝焼け、夕暮れから夜にかけての空が特に好きだった。景色の淵が赤く色づいていて、そこから紫や藍色の空が広がっていく。春はピンクとか水色とか、ぼんやりとしたパステルカラーが多いのに、夏になるにつれて透き通ったような青や赤など、はっきりとした色合いになるのもおもしろい。

千葉に来てから、空の写真を撮ることはしなくなった。

「千葉の空は狭いなあ」とよく思う。仙台の空はもっと広かった。空の広い土地が好きだ。こっちに来てから、歩道橋や線路沿いの道が好きになったのは、空が広く見えるからかもしれない。

空の広い場所で綺麗な空を見る度に、「自然の美しさに人間は勝てないなあ」と、おじいちゃんみたいなことを考える。

でも本当にそう思う。

早朝の空は特に、なんだかとても大きな力に包まれているような、自分の魂がとても自由だというような気分になる。どんな未来にもできる、「今日」という日を何色にでも塗れる、清々しい自由さだ。

 

夜明け前の静けさに満ちた町を散歩していたら、刻一刻と空は変化して、いつの間にかきれいに晴れた眩しい朝が来ていた。車の通りも少し多くなって、人々が活動を始める。

朝の光の、暴力的なまでに希望に満ち溢れた眩しさ。強制的にリセットさせられる光。

朝に日光を浴びると、幸福感が増したりやる気が出たりするらしいけど、本当にそうだ。お天道様の力はすごい。喜びのスイッチが無理やりにでも押されてしまう感じ。

夜があって朝がある。哀しみがあって喜びがある。

当たり前だけど、うまくできてるよなあ、と感動する。人間も自然の一端なのだと実感する。

座席のあるコンビニに行って、お味噌汁を食べながらガルシア=マルケスの『百年の孤独』を読み始める。読み進めるうちに、うとうとしてしまったからコンビニを出て、YUKIの『朝が来る』を聴きながら家路につく。

帰る途中に見た、綺麗な朝の光は写真に写さなかった。

あまい

おいしいご飯つくったら後片づけしたくないよう、朝はすきなだけ寝ていたいよう、学校はすきなときにだけ行きたいよう、心細くてさみしいときは傍にいてほしいよう。

 

「今この瞬間を生きる」とかあんまり意味わかんないしむずかしいからなるべくずっと一緒にいよう、過去のことはすぐ忘れちゃうからめんどうな顔しないで何回も同じこと話して、運動なんてたいへんだから痩せても太っても悲しい顔しないで、本は読みたいときに読ませてピアノ弾きたいときに弾かせておいしいご飯つくって。

 

あーひとりなんてぜんぜん無理だから依存しちゃいたいなあ。

 

このゲーム朝から晩までやってるからさすがに飽きちゃうな、「毎日カレーでもいい」って思ったけど実際に三食カレーなんて余裕で飽きちゃうな、この曲むかしはすきだったのに聴きすぎて飽きちゃったな、すきだけど同棲はしたくないなだってずっと一緒にいたら飽きちゃうでしょ。

 

あー毎日毎日おんなじことばっかで飽きちゃうなあ。

 

「まぶしい」と「ねむい」はとてもよく似ていますねえ、「まぶしい」は「あかるい」と同じはずなのに不思議ですねえ、そういえば「あまい」と「ねむい」もとてもよく似ている。

とてつもなく長くて、とてつもなく深くて、とてつもなく暗いことが永遠なのでしょうか?

ええ、ええ、よくわかっています。

とてつもなく短く、とてつもなく煌めいていて、とてつもなく鮮やかな永遠もあるのだということを。

あーでもそれは疲れるからまた今度にしましょう、とても疲れるから。

とりあえずなにもしないことから始めましょうか。

 

あーぼくがぼくに飽きちゃうのがいちばんおそろしいなあ。

でもあまいのはやめられないなあ、とけそう。

夏の明け方、純粋な欲望

夢も見ないで目覚める夏の明け方、ゆっくりと白んでゆく外の景色を眺めながら、季節が動くのを肌で感じている。

早朝は季節をもっとも感じやすい時間のひとつだ。

私は秋が好きで、秋は突然にやってくるから好き。春と夏の境目や、秋と冬の境目はグラデーションなのに、秋ははっきりと「きょうから秋!」と肌でわかる。匂いでわかる。それは恋みたいで、だから私は夏、まだ夜が明けきらないころに起きるとそわそわしてしまう。

 

きっとまだ来ない、でもいつか絶対に来るなにかを待っている。

 

人なんて簡単に死んでしまうんだって、いつも忘れないで生きている人に憧れる。エアコンをつけないで、扇風機にあたりながら服の内側にじっとりと汗をかいている。冷たい烏龍茶を飲みながら明けてゆく空を見て、「きょうも暑くなりそうだなあ」とぼんやり思っていると、家の前の道路を猫が駆けていった。おじさんがサンダルを引きずりながら歩く音が、向こうの方から聞こえてくる。

 

 

 

幼稚園のとき、竹とんぼをつくろうという企画があった。

記憶はおぼろげで、あまりよくは覚えていないのだけれど、すでにできあがっている竹とんぼに好きに色を塗ってみんなで飛ばして遊ぼう、というような内容だったと思う。

同じ組のみんながそれぞれ自分の竹とんぼをつくり終え、外に飛ばしに行っているあいだ、どういうわけか私はまだ部屋の中にいた。理由は覚えていないが、作業が遅くてまだ自分の竹とんぼをつくっていたとか、作り終えていたけどなんとなく外に出そびれたとか、そんなことだろう。部屋の中には私以外に誰もおらず、しんとしていた。

そして同じく、どういうわけかわからないが、そのとき部屋の中にぽつんと、無造作にひとつの竹とんぼが置いてあった。それは私の竹とんぼではなかった。

私は自分でどんな色の竹とんぼをつくったのかを覚えていないけれど、その竹とんぼの色はよく覚えている。

それは羽の両側が綺麗に緑色に塗られていて、軸の部分は赤や黄色、青や紫を使ったカラフルなものだった。

私はその竹とんぼをじっと見た。

自分の分の竹とんぼもあるのに、そしてそれは自分の好きに色を塗れるのに、その竹とんぼはどうしようもなく綺麗に見えた。自分の竹とんぼよりもずっと素敵に、ずっと魅力的に。

私はその落ちていた竹とんぼを拾った。そしてこっそりと、自分の袋にしまいこんだ。

外に出て、自分の分の竹とんぼをみんなと一緒になって飛ばして、それから同じ組のみんなで部屋に戻ると、自分の竹とんぼが見つからないと先生に訴えている子の声が聞こえた。私は聞こえないふりをして、おそらくその子のものだろう竹とんぼをうちに持って帰った。

 

その竹とんぼをその後どうしたかは覚えていない。

家に持ち帰ったあと、その竹とんぼをたくさん飛ばして遊んだ記憶もなければ、じっくりと鑑賞して大切に保管していた記憶もないし、たぶんそれほど大事にはしなかったのだろう。

私にとってはあれが、はじめて人のものを盗んでしまった経験だったように思う。

別にそのできごと以来、よく人のものを盗むようになったわけではなく、またそのような記憶もないのだけれど、昔のことをほとんど覚えていない自分が、なぜだかいつまでもあの竹とんぼのことは忘れられない。こどもはときどき、とても残酷なことをするけれど、その純粋で恐ろしい欲望が私の中にも宿っているのだなあ、ということが、このできごとを思い出す度に感じられる。

 

 

 

冷蔵庫からこのあいだつくったラタトゥイユを取り出して、ベッドの上で食べる。

とても冷たくて、はちみつを入れてあるので少し甘い。

はちみつを入れてみたのは、調べたレシピにそう書いてあったからではない。なんとなく、はちみつを入れたら美味しそうだと思って、入れた。そうして実際、それは美味しかった。

 

「大人になる」ということが、そういうことであればいいのにと思う。

 

こんなことを言ったら「大人」に怒られそうだけれど、竹とんぼを盗まなかったら知らなかったことだって、私にはあったのだ。

私の中の、きわめて動物的な感情をなぞった上で、誠実に判断する。あらゆる規準が、自分の内部をまっすぐに見つめた上でできあがっていくのでなかったら、どんな人が大人なのか私にはわからない。

私は少しずつ大人になっているから、もう人のものを勝手に盗んだりはしないけれど、秋の訪れにはいつまで経ってもどきどきしている。

まだ誰のもとにも訪れていない今年の秋を心待ちにしながらラタトゥイユを食べ終えると、私はもう外が完全な朝になっていることに気づいた。

夕立が通り過ぎて

夕立が通り過ぎて。

うっかり熱中症になってしまいそうな小学生に体当たり、一目散に逃げて嘘みたいなコンビニでひと休みすれば、定点観察したように星空が人類を通り過ぎていくのが見えたかもね。

たくさん買ったスイカは冷蔵庫に入りきらなくて、ぬるくなったから終わりかけの恋愛みたいな味がした。誰かと関わるのは楽しいですか。

三日月を待つたくさんの幽霊。それをぼんやり眺める私。

体育の授業が嫌いだから、昔家族と見たシュールな映画くらいにずる休みしたあの子の悪口を言っている。

鳴らない雷の音は、いつまで経っても聞き飽きない。

車のヘッドライトを浴びながら、落っこちた坂道の果てからぶん投げた自転車のかごを被れば、警察官から職務質問されて彼らの望んでいるだろうことを供述。無事逮捕。

トーテムポールの落書きは裏側から見れば君たちの孤独にそっくりだったね、なんて退屈な自由。ナイフを翳せばなんでも思い通りになるなんて、そんな幼稚なことは考えたこともなかったけど、いつかはきっと幸せになれるんだって口にはしなくても思っていたでしょ? 生温かいままの夢を、レンジで温めることもなくズタズタに切り刻んで、それでも残ったものだけ本当にしたかったけど、SFみたいに恐ろしい自動機械に囲まれて、物語はバッドエンドな予感。まあ、あなたにはどうでもいいことだろうけど。

いつかチュニジアに行くんだって、君は言っていたけどそもそもチュニジアの位置を君は知らない。多分おそらくマシュマロ以上にやわらかな太ももの5㎝下から見える空に飛んでいる7羽のうさぎは絶対にチュニジアに辿り着かないだろう。卵よりも重い物体が空に浮かべる意味がわからない。今にも壊れそうな雲の隙間から垂れ落ちるのは練乳とイチゴソース。べとべとになった君のわがままが、私のエゴと同じくらいには汚かったからオーディオから大音量で安っぽいJポップを流す。+と-を足したらゼロになるって思ってたでしょ。過去をなかったことにするなんて絶対にできないって知らないから、高校生は簡単に青春なんてやれちゃうんだね。美化することでしかセンチメンタルになれないなら、いっそのこと老人ホームに入ればいいのかもしれない。

オレオレ詐欺がなんだかわからないくらいにはディズニーランドに行っている知り合いが、私のことを友人だと思っているのかは知らないけどフェイスブックに一緒に写った写真を載せていたのを見て、たくさんの彗星が隕石として地球に降り注ぐのはあと何年後だろうと妄想している。

「外に出るのが怖いなんて、不健康だよ」と言えるような人に憧れている君が好き、とつぶやいている人を見て、私には存在しなかった人生をこの人は持てているのだな、と当たり前のことを感じながら、そのことをどうしても美しいとは思えない自分は、歪むことも歪まないこともできなかった出来損ないみたいだなと曖昧に感じた。そう感じて、まだ曖昧にでも感じることができる自分の曖昧な人間らしさに曖昧に安心して、隕石の降り注いだ地球にはシェルターができて、その中に閉じこもって暮らすこととこうしてインターネット越しの世界しか知らない今は果たしてどれくらいの差があるんだろう。

 

もしもし、寂しいですか。

 

うっかり熱中症になってしまいそうな小学生に体当たり、一目散に逃げることが本当にできたのなら、警察には捕まるかもしれないけど私は生きているって実感できるかもしれない。それは私の哲学がなんの役にも立たないことの証明になるのと同時的にあなたの常識がなんの意味も為さないことと同質であるのに、それでも生き延び続ける社会のシステムは人間が初めから奴隷だったことを示しているんだって、お母さんは教えてくれなかったことばかりの毎日を過ごすのは私だけなのかな。言葉は口にした瞬間からフィクションなのに、口にする前のその塊がノンフィクションだなんて誰が言えたろうね。夜の帳が下りて、なんにも見えなくなったあとの方が人と関わることが本質的になるような気がしてしまう、それは君の孤独が誰にも届かないのと比例するんだろう。

 

もしもし、よく聞こえません。

 

狂っているのは、私か、あなたか。

徒競走で1位になった子を恨めしそうに見ることを始めた瞬間から資本主義の犬になったのと同じだねって、無料のユーチューブしか見ないあなたにだけは言われたくなかった。同じ言葉が同じ概念として理解されることなんて、人が人を「わかる」ということがどういうことかわからない。

私はあなたの方こそ狂っていると思っていて、そう考える自分の正しさが揺らいだときこそ優しさが芽生えるものだから、全部狂っていると思うことはとても楽だ。影響を受けやすいとは、何か。私は影響を受けやすいから、私の正しさはいつでも揺らいでいる。影響を受けやすいのに、私は優しくなれない。

 

もしもし、聞こえますか。

 

もしもし、聞こえません。

 

もしもし、もしもし。もしもし、もしもし。もしもしもしもし。もしもし、もしもし、もしもしもしもし。もしもしもしもしもしもしもしもし。もしもし、聞こえません、もしもしもしもし。もしもし、寂しいですか。もしもし、もしもし。もし、もし、聞こえますか。聞こえていないのなら、悲しいです。もしもし、聞こえません。

 

 

パソコンの前から立ち上がる。窓を開ける。

夕立が通り過ぎたあとの、世界。