満ちる

分かりたい。

分かりたいって思ってる。

でも分からないこともあるんだよ、それでいいって思ってた。

朝の光が昇って目を覚まして、働いて、陽が落ちて。

また布団にもぐって眠るの。

それを奇跡って呼ぶのか、虚しいってうなだれるかは、僕たちの自由だもの。

 

涼しい風が吹いて、秋の匂いがする。

いつも秋は不意打ちでやって来るから、僕は恋をしたときみたいに無防備。

去年の今ごろのことなんて、もう半分も覚えていない。

どんどんすり抜けるみたいに手の平からは水が零れていって、残るのはやわらかな感触だけ。

それがひどく切なくて、嬉しいことだと思うこと、僕は誇らしく感じてる。

 

僕はとてもひとりで、それをいつの間にか認めていた。

扉はいつだってふたつ用意されていて、僕は好きな方を開いてきたから。

見わたす限り何もない草原に、たったひとり立ってる。

あなたを必要としている。

誰にも飼われたくはないけど、帰る場所を求めている。

 

 

 

恋をした。

初めてみたいだし、そうではないかもしれない。

痕をつけるように、嬉しいことも、悲しいことも体に刻んでいくみたい。

満ち足りたい。満ち足りたくない。

朝露が葉から落ちる瞬間を見たんだよ、それは虚しくなかった。

 

あの頃の僕には戻らない、戻れない。

黒目に溺れるみたいな恋がしたい。

黒目に溺れるみたいな恋ならいらない。

朝陽があなたを照らすのならそれで満足。

それじゃ満ち足りない。

あなたのことが分からない。

それでもやっぱり満ち足りたい。

 

言葉じゃなくて、体で近づきたい。

思い出じゃなくて、笑って抱きしめあいたい。

それはちょっとだけ、愛に似ていた。

 

 

 

朝の光が昇って、働いて、陽が落ちて。

また布団にもぐって眠るの。

 

それはちょっとだけ、愛に似ていた。

色恋沙汰

空は高く、夕立を携えた雲が走る

コンクリを打つ音、雨宿りする人々

ぼくらなら、間もなく止むだろうこと解りながら濡れて走るさ

 

 

緑のモミジが鮮やかに落ちた

夕立はあがって、蒸し暑い今日という日の暮れ

このまま繁らないとしても、一向に構わないさ

 

 

湖の水面を撫でる指

翳った心乾かすような、涼しい風と遠くに目を細めるあなた

木々の葉が西日にどよめいている

頬の熱に溶けてみたり、言の葉は通わないばかり

 

 

誰も知らない、噂も届かない場所

あなたの知らないぼく

知らない人のようなあなた

一度っきりの今日、二人っきりの夜

 

 

これは嘘から出た実、身から出た錆

揺れては責める度、眼差しは出合い

答えは此処にしか無いものだと判る

 

 

指先に、湿った頬の温度を残したまま

しどけない、夏が逝く

心に恐竜を住ませる

絵を、見に行った。ひとりで。

ホリウチヒロミさんが壁一面に描いた、大きな絵。

 

原宿のデザインフェスタギャラリーにある、休憩室のような小さなスペースにその絵はある。

私がその絵を見に行くのは3度目だった。最初見に行ったときは、壁の7割くらいが埋まった状態で、その次に行ったときは、ライブドローイングというのか、ヒロミさん本人が絵を描いている様子を見ることができた。彼の後ろから、椅子に座って、作品をじっと見ていた。黒インクのペンで、さらさらと下絵を描くみたいなスピードで描いていくものだから、驚いた。「調子に乗って、描く予定じゃなかったものまで描き過ぎちゃったよ」と笑ったヒロミさんは、生きていることの充実を味わっているみたいで、とても眩しく、かわいらしく見えた。

 

絵は、ヒロミさんの作品が常にそうであるように、力強かった。

特に今回は、絵が完成していく過程を、たった3回(それも短いスパンで)ではあるけれど、追っていくことができたから、絵が力を増していく様子をこの目で見ることができた。とても幸運だったと思う。

 

 

 

以下に、完成した絵を見たとき、私の頭の中に浮かんで、その場で携帯に打ち込んだ言葉を並べる。

 

 

前に進もうとする、圧倒的な、意志

燃える

爆発

泣きながら、進む

バラバラになって、もがきながら、進む

進まざるを得ない

花が咲く

消える

好奇心

執念

大きな流れ

 

 

1回目、まだ絵が7割くらいしか進んでいなかったときには、「再構築」という言葉が頭から離れなかったのだけど、完成した絵からは、もっと勢いの強いものを感じた。

絵は、圧倒的だった。強かった。

「もっと大きい壁に描きたい」という旨のことを、ヒロミさんはTwitterでつぶやかれていたと思うけど、ぼくも、同じことを思った。もっと大きな絵が見られるものなら、見てみたい。

 

今回の会場は、デザインフェスタギャラリーの中の、カフェの区切られた一角、という感じのスペースで、絵を見るための場所ではなかった。だから、カフェで飲み物を飲むお客さんで絵が隠れてしまったり、話し声で騒がしかったりと、集中して絵を眺められる環境ではなかった。そして、絵全体を眺めるためには、あまりに会場が狭く、引きで絵を見ることができなかった。

それにも関わらず。ヒロミさんの絵の勢いや力強さに、ぼくは十分に圧倒された。

豪快なタッチでもなく、むしろ緻密に細い線で描かれたペン画なのに、視界に収まらないほどの距離で見るそれは、自分の中の何か、心みたいなものが持っていかれてしまうみたいだった。

描かれているものは、様々な大きさの動物たちの、骨。骨は左方向を向いているものが多く、それらの骨に絡まるように、引っ張られるように描かれる花や植物の蔦。泡。小さな妖精のような生き物たち。

前回のヒロミさんの個展『ALIVE』では、それらの動物の骨たちが、歓びに溢れているように見えた、とこのブログで書いたと思う。骨だから、表情なんてないのに。

不思議なことに、今回のヒロミさんの絵の動物たちは、皆、悲しそうに見えた。泡は涙のように見えたし、今回も当然、頭骨からは表情など読み取れるはずがないのに、彼らは苦しそうだったり悲しんでいたりするようだった。ぼくの目にはそう映った。自分でも驚くくらい明確に、「この動物たちは苦しんでいる。悲しんでいる」と分かった。悲しんでいるのに、彼らは進もうとしていた。身体の骨が、バラバラに崩れそうになりながらも。

 

 

 

 

 

大人になって思うことのひとつに、「感じる心の大切さ」がある。

子ども時代は、誰しもが無条件にとても「感じている」と思う。なぜならば全てが初めてだからだ。初めて見るもの、初めて聴く音、初めて嗅ぐ匂い、初めて触るもの、初めて味わうもの。

赤のあの「赤い」感じ、を「赤のクオリア」と呼ぶのだけど(しばしば「情熱的な感じ」とか「熱い感じ」「攻撃的な感じ」と表現される赤のあの「感じ」)、子ども時代はクオリアが爆発的に増える時期だと思う。

初めて知る感情や、初めて感じる感覚。子どもが生き生きとして見えるのは、何をせずとも毎日が新しく、瑞々しい発見に満ちているからだと思う。

大人になると、そうはいかない。

知った感情をなぞっているように感じたり、見たことのあるもの、聞いたことのあることが増えていく。「初めて」に出会うことは、決定的に少なくなる。

「感動」という言葉は、感じて動くと書くが、心が感じ入って動くことは、とても貴重になっていく。

心が動く瞬間に出会うことは、生きることの原動力になると思う。逆さに言ってしまえば、心が動く瞬間に出会えなければ、生きることはひどく虚しく、空虚なものになってしまう。ぼくは感じる心を失いたくないから、心を育てたいから、芸術に触れるし、言葉を綴っている。新しいものを探している。何も感じられなくなることは、とても怖い。

 

感じる心を持つことは、一方で、悲しみを持つということでもある。何も感じなければ、虚しく空虚ではあるけれど、悲しみもきっとない。

誰かの何気ない一言に、深く傷ついたとき、ぼくたちには2つの道がある。

悲しみに蓋をして、見なかったこと感じなかったことにしてしまう道。

もう一つは、傷を見つめて深く悲しみ、その傷ととことん向き合う道。

後者の道を選ぶと、人生はときにあまりにも険しい様相を見せる。剣山の山を登るように、進むことが困難で、傷つき果てることが必至なもののように。ぼくたちは進めなくなる。あまりに険し過ぎる道を前に、やはり傷など見なかったことにしよう、と道を切り替えたくなる。

 

 

 

ホリウチヒロミさんの絵は、「傷から目を背けない道」を進む者たちの絵だ、と思った。

彼らは苦しんでいる。もがいている。けれど、道を切り替えようなどという気配は、微塵も感じられない。「感じること」を決して放棄しようとしない、強い意志。

ぼくが特に強く心惹かれる、一匹の骨がいた。後で、『その骨は、猫だよ』とヒロミさんに教えていただいたのだけど、猫の骨はほかの誰と比べてもぼろぼろになっているように見えた。胴体部分の骨は、ほとんど元の形を留めていない。けれどギリギリのところで「自分」の形を維持し、進もうとしている。彼はどうして、そうまでして前に進むのだろう。決して大丈夫でないのに、前を向き続けているのだろう。

しばらく、じっと、絵を眺めていた。

彼が、彼らが進む理由。その勢い。それは、「生きること=感じることそのものへの希望」にほかならないのではないか。絵を見ていて、そう感じた。

描かれている彼ら(動物の骨たち)は傷ついている、悲しんでいる。傷つくことが「できて」いる。悲しむことが「できる」ことを決して放棄しないでいる。それは喜ぶことが「できる」ことと繋がっている、けれど、彼らは決して「喜び」に向かって進んでいるわけではない。傷つくことが「できる」自分の生命を祝っている。悲しむことが「できる」自分の生命を、いうなれば歓んでいる。

絵は言っている。

「私たちは苦しんでいる。傷ついている。もがいている。私たちは悲しむことができている。悲しむことができる生命を抱いている。喜ぶことができる生命を抱いている。私たちは進む。理由などはない。私たちは進みたい。進まざるを得ない。どうせ進むのなら、感じることができるこの生命を抱えながら、進みたい。もがきながら進みたい」

それは「生きる」ことにほかならなかった。

 

 

 

今回の絵のタイトルは、『Life Goes On.』なのだそうだ。

人生は続いていく。生命が命を抱えながら進んでいく。なんてぴったりのタイトルかと思う。

絵の中に、一際大きな骨がいて、それは恐竜の骨のようだった。そして彼の進む力は特に強く見えた。絵に勢いをつくっていた。

ぼくは心の中に、彼に住んでもらおう、と思った。悲しみに押し潰されて、前に進めなくなりそうなとき、感じることから逃げたくなったとき、彼の力を借りようと、そう思った。

 

 

 

絵は、少ししたら消えてしまうそうだ。絵の上からまた白いペンキか何かを塗り足して、消されてしまうそうだ。

「花火みたいですね」とヒロミさんに話したことを思い出す。

でも、絵は消えても、ぼくの心には既に恐竜に住んでもらっている。だから大丈夫なのだ。ぼくは今そう思っている。

夏の花が咲いていて

夏の花が咲いていて

あなたに教えてもらった名前を思い出す

「日本の夏だね」って言ってあなたと歩く

 

いくつもの火をつけては

面白がってすぐ逃げ出した

涙に暮れて笑い転げて

少しずつ気持ちは色を変えて

 

初恋を結んでは

ぞんざいに投げつけて「こんなもの」って言って嘆いた

迷子の幼さであなたを幸せにできるの?

 

それは

手にした途端に消えてなくなる雪のよう

 

それは

手を伸ばした最中に遠ざかる逃げ水のよう

 

それは

口にした瞬間に品のなくなる情熱のよう

 

真実は

ぼくの中にある

 

 

 

 

 

今日はこれから、あなたの家にごはんを食べに行くところ。

眩しい夏の街角で

ひとり暮らしにも慣れたと思っていたのに

あなたが去った後に、むせ返るような残り香

蚊取り線香を焚いて、子どものように泣きじゃくる夏

 

 

さようならが、いつまでも上手くできない

ぼくは大人になって

いつの間にか大人になって

 

 

忘れたような記憶が

雨に濡れた街に立ち上がる

すべてを振り切って駆け抜ける足が

追い越してきたひとつひとつに、目を凝らして

 

 

夏の光のひと粒を

ラムネの壜に詰めて喉を通った

汗ばんだ手と手を繋いだ

陽炎に揺らいだ道路の向こう側に、未来でも見えるみたいに

 

 

人生は喜ばしいもの、人生は哀しいもの

ぼくはいつも、切なくて泣きそうだ

あなたがいないと、泣いてしまいそうだ

あなたがいてくれると、泣いてしまいそうだ

 

 

紙に鉛筆で何か書きつけるときの乾いた音

線がどこかへと向かう

線がどこかへと向かうけれど、然したる意味はない

 

 

今がこれまでの最後だ

これまでのどこにもなかった今が

新しく生まれた最初の今だ



あなたに出逢えて最高に幸せだ

あなたに出逢えたこと、最高に幸せだ

最高に幸せな今が、過ぎていく

見えないくらい、遠くに行ってしまう

 

 

ぼくは大人になって

いつの間にか大人になって

眩しい夏の街角で、立ち竦んでしまう

眩しい夏の街角で、泣きそうになってしまう

寄る辺ない朝に

薄い青色をしたカーテンから、部屋全体に溢れるように、光が透けて見える。

私は寝返りを打つようにして、身体を左に向けて窓から目を背けた。自然、横に眠っている男の背に、手がぶつかる。シャツ越しに、温かく湿った体温が伝わってくる。この男は、こんなに明るい部屋の中でも、野生動物のように昏々と眠り続けている。この部屋に来ると、いつも、私は朝早く目を覚ましてしまう。必要以上に早く。アサガオみたいに。

男を起こさぬよう、自分の身体にのった綿のタオルケットをそっとよけ、ベッドの上に立ち上がる。大きな河のような男の身体をまたいで、フローリングの床に下りる。下着姿のまま、ハンガーにかけておいたカーディガンを羽織った。ベッドを振り返ると、黒々とした髪が、男の寝顔を隠すよう瞼にかかっていた。

「隆峰」

屈んで、小さく男の名前を呼ぶが、反応はない。髪のかかっていない、鼻筋から顎にかけてのくっきりと際立った輪郭を見て、綺麗な顔だと思う。いつまでも、じっと眺めていられる。私は、彼の寝顔を眺める度、その輪郭を指でなぞりたい衝動に駆られる。なぜそうしたくなるのか分からないけれど、私はいつもそれを呑み込む。彼の顔を眺める代わりに、立ち上がり、私はキッチンに向かった。

コンロに置いたままにしてあった、ホーローのやかんは、半年前の彼の誕生日に私が贈ったものだった。土のような、濃い満月のような、柔らかな色をしたそれは、隆峰の気に入ったようだった。こうして、週の半分以上を彼の家で過ごすようになった今も、コンロの上にこのやかんが置きっぱなしにしてあるのを、よく見る。私がこの家を出るとき、必ず棚にしまっているのに。

ホーローのやかんに水を入れて、コンロに乗せる。つまみを左までいっぱいに回すと、チチチッ、と音がして火がつく。私はつまみを少し戻して、火を弱めた。

 湯が沸騰するまでの間、私は自由に過ごす。顔を洗い、髪を梳かし、キッチンの小さな丸椅子に座って本を読む。ささやかで、劇的な出来事が何ひとつ起こらない連作短編集だ。何も起こらないけれど、登場人物が、ちょっとずつ不幸になっていく。

「おはよ」

ホーローのやかんが、かたかたと音を立て始めたところで、ベッドから声をかけられた。

「おはよう。起きたの」

「うん、起きた」

隆峰は眠そうに、腕全体を使って瞼をこすっていた。私は本をテーブルに置き、その様子を眺める。いい年をした男が、少年のような仕草をしていることに、少し笑いそうになる。

「今コーヒー作ってたとこだけど、隆峰も飲む」

言いながら、コーヒーの壜にスプーンを突き刺し、すくう。ぱらぱらと、砂がこぼれるようにマグカップへ茶色い粉末が落ちる。飲む、と言って、隆峰は立ち上がると、よろよろと歩いて、私の後ろにやって来た。ぴたりとくっついて、私の腰に、腕を回してくる。湯を、マグカップに注ごうとしているところなのに。

「やめて。お湯がこぼれちゃう」

強い口調で言おうと思ったが、明らかに、声に嬉しそうな色が滲んでしまった。見計らったように、隆峰が腕に力を込める。

「こぼれないよ、大丈夫」

腕の力強さとは反対に、柔らかく優しいその声に、私は思わず本当に湯をこぼしてしまいそうになる。

「いいから、離れて」

私がもう一度言うと、束の間、一層強く力を込められた。首筋に、軽く口づけられて、それからようやく隆峰は離れた。再びベッドの方へ戻っていくと、彼はリモコンを手にしてテレビをつけた。ベッドを背もたれにして、ザッピングしている。私の首筋の、口づけられた部分だけが、じわりと熱を持つ。自分から離れてと言ったのに、私は、魂をくりぬかれたような、何か欠けてしまったような気持ちになる。

二人分のコーヒーを運んで、私もベッドとローテーブルの間に座ると、「ひでぇな、考えらんねえ」と隆峰が言った。テレビでは、千代田区中高一貫校で起こったいじめの事件が報じられていた。

 

 

 

隆峰とは、学生時代にアルバイト先で知り合った。

荻窪にあるスペインバルで、私は学生、彼は店長だった。もう、4年も前のことだ。私はアルバイトを始めてすぐ、1ヶ月もしないうちに辞めてしまった。仕事が嫌だったのではなく、隆峰と私の関係が露見するのが恐ろしかったからだ。それくらい、私達は露骨に惹かれ合っていた。他の社員の目を盗んで、バックヤードでキスを交わしたし、帰りのタクシーには手を繋いで乗り込んだ。

隆峰の家は四ツ谷三丁目にあって、仕事が終わった後はそこにタクシーを使って一緒に帰った。彼は結婚していたのだけれど、「妻はここには絶対に来ないから」と言った。二人の家が別にあるのか、単に別居しているのかは分からなかったが、それは私にはどうでもいいことだった。それより、妻は来なくとも、私以外の女がこの家に来ることはあるのか、ということの方が、私には重大だった。尋ねると、「来るわけないじゃん」と隆峰は笑った。曇りのないいつもの笑顔だった。私はそれを信じた。正確には、その言葉を受け入れるほかなかった。

彼はいつも、店から家に帰ると、パチャラン・トニカという私の好きな酒を作って出してくれた。自分にはビールを注いで、一緒に乾杯をした。グラス一杯分の酒を飲み終えると、セックスをした。隆峰は予想外に、誠実なセックスをする。身体をじっくり検分するように触り、私の反応を見る。乱暴で分かりやすいやり方でなく、時間がゆっくりと流れるようなやり方でそれをすることは、彼を一層魅力的に見せた。彼は仕事の後、私が家に行くと毎回そうした。

朝、彼の家を出るとき、自分の身体に残った彼の匂いと、舌と記憶の奥に残るパチャラン・トニカの味は、私を心の底から幸福にした。

 

 

 

「4年って、よく飽きもせずやるよな」

「え」

訊き返すと、隆峰は顎をくいと上げてテレビを指した。テレビでは変わらず、千代田区中高一貫校で4年にもわたって行われたいじめの事件について、その内容が伝えられていた。

「一人の人間を、4年も執拗にいじめ続けるって、どんな神経だろうな。教師も教師だし」

「うん」

私は、熱いコーヒーを飲みながら、この男と過ごした4年という歳月を考えてみる。その間、何か大きく変わったことはないように思えた。変わったことといえば、小さなことばかりだ。私は25歳になり、彼は33歳になった。私は就職をし、この家に泊まる頻度が多くなり、週の半分以上をこの家で過ごすようになった。彼は相変わらず結婚をしていて、週の半分以上はこの家におらず、私と会っても毎回はセックスをしないし、それの前にパチャラン・トニカを作ることもなくなった。

分からないことだけが、変わらないままに残っていた。私の横に座る男の妻が、どんな人なのか。この家に帰らない日は、どこで何をしているのか。私のほかに、どんな女と会っているのか、それとも会っていないのか。

毎日を構成するものは変わらないが、それはゆっくりと姿を変えていく。砂丘が、風によって少しずつ、その陰影を変えるように。

「隆峰」

私は男の名前を呼ぶ。

「ん?」

男は、テレビに目を留めたまま生返事をする。綺麗に隆起した鼻と、すっと線を引いたように潔い顎の輪郭。私はいつものように、そのラインをなぞりたくなる。そしてそれを呑み込む。

きっと私は、この男の輪郭を滅茶苦茶にしてやりたいのだ。この指の腹で、なめした革のように滑らかな肌を押して、めり込んで、溶け合って、この男の綺麗な横顔を、滅茶苦茶にしてやりたい。その輪郭を、崩してみたい。

私がしばらく黙っていたので、男は不思議そうにこちらを向く。私は微笑んで、「コーヒーどう?」と訊く。ん、あぁ、美味しいよ、と言って、男は再びテレビに視線を戻す。

私は、自分の持ったマグカップに入った、黒く反射するコーヒーを見て、一つ心に決める。このコーヒーを飲み終わったら、この男とセックスをしよう。男の綺麗な輪郭が、快楽に醜く歪むような、互いの輪郭が、溶けて分からなくなってしまうような、セックスをしよう、と。

テレビの話題は、いつの間にかいじめの事件から変わっていた。

テレビの横の窓からは、ちょうど良い明るさが部屋に投げ込まれている。薄い青色のカーテンは閉まったままだが、淡い青の光が、透けて見えた。溢れるように、囁くように、朝の光が透けて見えた。

私の輪郭

「夏が近づいてくるとさ、夜道、外気の温度と肺のなかの温度が同じで、身体の輪郭が、少し揺らぐ感じがするでしょ」

二見さんはまるで、花って綺麗でしょ、とでも言うような感じで、そんなことを言う。

私たちはランチに、オフィスビルの高層階にある、創作フレンチを食べに来ていた。壁がガラス張りで、私の席からは、新宿御苑にこんもりと茂った緑が見える。

「身体の輪郭が、揺らぐ」

「そう」

ほっそりと生白い二の腕を、白いブラウスから覗かせて、彼女は目の前に置かれた仔羊のローストに、ナイフをするりと差し入れた。生々しく赤い色が現れ、滑らかな動作で切り分けると、彼女はそれをフォークで刺して弧を描くように口に入れた。

「おいし」

皿を見ながら、確かめるように二見さんは呟く。ゆっくりと、頷くように顎を動かし、二見さんは咀嚼する。少ししてから、陶器のようにすべらかな彼女の喉元が上下に動いて、彼女が肉を呑み込んだことが見てとれた。

「思えば、食べるっていう行為も、自分の輪郭を変える感じがするわね。だって、自分のなかに他者を入れて、新たな自分にしてしまうわけでしょ」

私は、彼女の言葉をよく理解できないまま、はあ、と曖昧に頷いた。私に構うことなく、彼女はゆるやかに仔羊を切り分け、次々とそれを口に運んでいく。私は、自分の皿にのった料理のことも忘れて、彼女の動作の美しさに見とれる。磨きたてのようなナイフの銀色に、午後の陽射しが反射して強く光る。店内の喧噪のなかで、彼女が持つ食器が立てる音だけが、立体的に浮き上がって聞こえるような気がした。肉を切り分ける度、落ち着いた白色をした丸い皿が、肉汁の赤やグレイビーソースの黒で汚れていくが、彼女はそれをいちいちつけ合わせの蓬でぬぐって食べるので、最終的に皿の上はほとんど跡形もなく綺麗に片付いてしまった。

「梨木君は、ないの。自分の輪郭が、あやふやになるような瞬間って」

そうですね、と言って、私は皿にもたせていたフォークとナイフを手に取り、鴨肉のロティに手をつける。鮮やかな若草色をしたそら豆のソースが、余白を大きくとった皿からはみ出しそうにかかっている。私は切り分けた鴨肉で、皿の上をすべらせるようにしてそのソースをすくい、こぼさないよう口にする。ざらざらとした豆の舌触りと、鴨肉の野性的な味が、口のなかに一気に広がる。

「輪郭があやふやになる、という表現が、いまいち、理解できなくて」

「そう」

二見さんはつまらなそうに言って、精巧なガラス細工のような手でナプキンを持ち上げ、口をぬぐった。私は、二見さんの機嫌を損ねてしまったように感じ、焦って思いつくままを口にした。

「たとえば、途方もなくおいしい料理を食べたときに、とろけそうだ、と思うようなことはあります。口のなかから崩れてしまうような、そんな感じ。輪郭があやふやになるって、そういうことを言っているのですか」

二見さんはナプキンを手に持ったまま、少し驚いたような顔をして、それから模範的と思えるような笑顔を浮かべ、「そうそう、そういう感じ」と笑った。私は少し安心し、それから、彼女が持つナプキンに口紅の赤が移っているのを認めて少し、どきりとした。

「どこまでが自分で、どこからが他者や外界なのか、わからなくなるときのことね。そういうのが私、好きなのよ。汗ばんだ肌のまま、裸でふたり、ぴたりとくっついて眠るのなんて最高。暗がりは光より輪郭を淡くさせるから、暗闇でならなおさらね」

二見さんが私のことをからかっている様子はないが、私は、どんな顔をしてこの話を聞けばいいのかわからなかった。会社の同僚とはいえ、なんの気もない男性に、裸で眠るときの話を女性からするということが、あり得るのだろうか。

食器同士のぶつかる硬質な音を、無様なほどに立てながら、私は鴨のロティを食べ続けた。動揺で味は、よくわからないものとなっていたが、二見さんは私に、焦らないでゆっくり味わってね、と言った。僅かに首をふり、私は自分の皿に集中する。

鴨肉を切り分け、肉でソースをすくい、口に運ぶ。そしてまた肉を切る。皿の上は、ソースの若草色と、肉汁の赤とが混ざって、なんとも言い難い抽象画のようになっていった。

「二見さんは、変わっていますよね」

料理を食べている様子を一方的に見られ続ける、という状況に我慢できなくなり、私はそう口にした。彼女といるといつもそうだが、なにか、言葉を口にしなければならないような気がして、焦ってしまう。それで、少し失礼なようなことを言ってしまう気がする。

「そう? どのへんが?」

二見さんはさして気にする様子もなく、面白がるような、挑戦的とすらいえるような表情をして、こちらを見つめてくる。テーブルの上に両肘をのせて、乗り出すような恰好だ。私は、目をまっすぐ見ることも、あからさまに逸らして新宿御苑の緑を見ることもできずに、彼女の腕にはまった細い金色のブレスレットを眺めながら、答えた。

「考えていることとか、言葉が、ですかね」

二見さんは、乗り出していた身を引いて、椅子の背もたれにゆったりと寄りかかった。口元を僅かに開き、子どものような表情で外を眺める。

「ねえ梨木君。梨木君はいつも、言葉を焦って使っているでしょ」

私は、見透かされていたような気がして口ごもる。

「えぇ。まぁ」

「私ね、いつも、言葉を言葉以前から使うように心がけているの。だから変に聞こえるのかもしれない」

「言葉以前?」

「そう。言葉になるよりも手前の、混沌としたもの。私は、言葉以前の何物かを伝えたくて、言葉を使うの。でもだいたいの人は、そんな面倒くさいことしないでしょ? 言葉を伝えるために、言葉を使っている」

私は、少し考える。

「面倒くさいというより、そんなこと考えたこともなかったから」

そう言うと、最後の一切れになった鴨肉にフォークを刺した。肉はいい加減に冷めてしまっていて、口にすると、鴨のしっかりとした肉質で、なかなか噛み切れなかった。そら豆特有の、青くさいような香りと、野趣に富んだ鴨肉の味。何度も噛んでいると、そのごと、肉の味が染み出てくる。それはやがて、私の身体に変わっていくものだ、と思った。

「言葉や、言葉以前のものは、身体を超えているのよ。私の輪郭を、超えている。だから、きちりと言葉が通じたとき、やっぱり私、輪郭がぼやける気がするの。それが好き」

私はようやく鴨肉を食べ終わり、フォークとナイフを皿に置いた。銀色をしたそれらは、輪郭をしっかりと保ち、皿とぶつかって小さく音を立てた。かちゃり、と。それを聞いて、そういえば肉を切るとき、肉とナイフがぶつかっても、このような音はしないなと、思った。当たり前だけれど。

「二見さんの話を聞いていて、思ったことがあるんですけど」

「なあに」

「あの、肌はもちろん、筋肉とか骨とか、私たちの身体を構成しているものって、絶えず分解と合成が繰り返されているじゃないですか」

「そうみたいね」

二見さんは、面白がるように私を見る。私は構わず続ける。

「細胞がどんどん入れ替わって、身体はその形を保ちながらも、分子レベルでは外界と入れ替わっていきますよね。私たちは自分の身体を、疑いもせずに自分だと認識しているけれど、私たちを構成する分子はもともと、あそこに見える新宿御苑の木の葉だったものかもしれないし、仔羊の肉や鴨肉の分子だったかもしれない。そう考えると、外界と私たちの境界なんて、そんなにはっきりしたものじゃないと思うんです。生命って、空間のなかの、単に分子の密度が高い部分でしかないのかもしれない」

二見さんは、「梨木君、さすが理系だね」と言って笑った。

「私が言いたかったのもそういうことかもしれない。存在が滲む感じが、好きで、でもどこまでいっても私の身体はここにあるの。言葉は私を超えてあるけど、私の身体は、ここにあるの」

「二見さんは、生命ってことですね」

二見さんが、ふふふと笑ったとき、ウェイターがやってきた。グラスに水を注ぎ、メインディッシュの皿を下げていく。もうすぐ、デザートがやってくるのだろう。

「二見さんの話、よくわからないと思っていたけど、少しだけ、わかったような気になりました。いや、わかったというか……」

私は、じっくりと、言葉を探す。そうして、言葉を選び取る。

「二見さんの話を、自分に、馴染ませることができた」

「それは、よかった」

二見さんはにっこりと笑った。

「梨木君。今、言葉以前のことを伝えるために、言葉を使ったでしょ」

「そうかもしれません」

私は、先ほどはできなかったこと、二見さんの目を見て話すことが、今はできた。彼女の目は宇宙のように深い黒で、白い羽のようにふわりとしたブラウスと対照的なその色を、見ると、私の肌はざわりと粟立った。

「あ」

小さく声が漏れて、その音は私の足元に転がり落ちていく。

店の外、ガラスの向こう側には、無機質な灰色のビル群がそびえていて、とても強固な輪郭をしているように見える。向こうには、新宿御苑の緑。さらに遠くの方に、皇居の緑も、見えていた。

店内は冷房がきいていて心地よいが、今日はきっと暑い日だ。強い陽射しが、あらゆるものの輪郭を際立たせている。道端の草木を、道路の白線を、ビルの外壁を、レストランのテーブルクロスを、照らしている。

新宿の、オフィスビルの高層階で、デザートを待ちながら、たくさんの輪郭に囲まれて。私は確かに、存在の輪郭を滲ませていた。

粟立った肌は、デザートがやってくるまで、しばらくのあいだ、収まらなかった。