口と夜

肝要な事を口にすれば負け。僕はさっきから、下手な芝居を打っている。どうとでも取れるような言葉を並べて、本当の事は夜に隠して。明かりを消して、何も見えなくする。その両の目は飾りだから、月が隠れたとき見開かれるものが本物。おそらくは、二人のあいだに本当のことなんて何もない。貴方の目に見える僕だけが真実、僕の目に見える貴方だけが現実。欲しいものをあげる。

「何も言わないで」

いつだったか忘れたけれど、悪い噂を耳にしたことがあった。でも耳を塞ぐまでもなかった。だってこの目に見えることだけが現実だから。この花が枯れるまでは傍にいるよって、僕の部屋を訪れたときに置いていったリンドウの花は、いつまで経っても咲かなかった。蕾のまま朽ちていって、僕は見て見ぬふりをした。花言葉は『悲しんでいるあなたを愛する』、嘘みたいだけれど本当の話。

「何も言わないで」

どうあがいても、また同じ場所に戻ってしまう。貴方の望むこと全てに応えたなら、一つだけ、僕の望むことに応えて欲しい。また同じことを繰り返している。傷つく度に期待をして、期待をする度に裏切られる。それなのにまた、懲りずに期待をする。僕もそうだったけれど、貴方だって十分に傷ついていた。だって芝居をしていたのはお互い様の筈だから。欲しいものをあげる。

「何も言わないで」

要求に応じるほどに、互いの輪郭がより一層はっきりと際立って、孤独が色濃く影を落とした。この目に見えることだけが真実なら、独り相撲を取っているのと何が違うんだろうって。でも、口にはしなくても、貴方もそう思っていることだけは確か。似た者同士は、ぴたりとくっつくか憎み合って離れるか。二つに一つ。そのあいだはないのだと、低く響く声が言う。リンドウの花は捨てた。

「何も言わないで」

貴方の肩は夕陽に染まる丘。貴方の背中は荒涼とした砂漠。節くれだった指は老木の幹。少年のような目は海の底の鉛。薄いシャツを捲り上げて、大きな背中に爪を立てる。強く強く力を込めて、跡を残しておく。明かりは点けないで、口は開かないで、夜に呑み込まれそう。あられもない夜に。

貴方が去った後の僕は、本当の独り。

歩道橋 / うねる海 / おんなじだな

歩道橋

 

飴玉みたいな夕暮れ時の太陽が、雲の谷間に転がり落ちてゆく。

手を振っている間に見えなくなったから、乾いた空気が夜の気分を連れてきた。

街のどこかで鳴いている、寂しがりやはないものねだりしている。

 

たくさん触れておけばよかったって、思っている。

もう戻れないから、「ありがとう」と、心の中に思い描く。

 

ウィークエンドは終わったよと、空に放り投げたジェリービーンズが綺麗。

雲の形は変わって、やがて消えてなくなる。朝昼晩と、変わりゆくぼくの気分みたいに意味はない。

大きく息を吸って、少しのあいだ止めてみる。

横断歩道の白いところだけ踏んでいたら、黒い穴に落ちないままどこかへ行けるような気がしている。

 

たくさん触れておけばよかったって、思っている。

もう戻れないなら、「ありがとう」と、無理にでも声にする。

 

歩道橋の上に立って、好きな歌を歌いながら車が行き交うのを眺めている。

すれ違うだけの車の真上で、ぼくの物語も交錯している。

移る季節の真ん中で、朝も、夜も、上手く捉えられないなら逃げるのもいい。

どこに逃げても、ぼくはいつまでもここに居て、転がり落ちた夕暮れがここをどこかに変えてゆく。

 

たくさん触れておけばよかったって、思っている。

もう戻らないから、「ありがとう」を、歩道橋から放り投げた。

 

 

 

 

 

うねる海

 

船に乗って、海とひとつになってみる。

うねる、うねる、うねる。

膨らんではまたもどり、もどっては膨らんで、そうして揺らいでいる。

とても安らかで、穏やかな、母の胎内。

視線を移すと、水平線はうそみたいに真っ直ぐ。

 

生クリームのしぶきが海をかきわけている。

母の羊水から出たばかりなのに突然、甲板の上に立っている。

海に飛び込めば簡単に死ぬだろう。

うねる、うねる、うねる。

私の足は、うそみたいに頼りない。

 

船に乗って、海とひとつになりたくて。

じっと見つめる。

私は、うねる海の上で、揺れる船の上で、海とひとつになりたくて、頼りない足で立っている。

私は、濡れたまつげで、うねる海をじっと見つめる。

海に飛び込めば簡単に死ぬだろう。

海とひとつになれないだろう。

うねる、うねる、うねる。

頼りない足で、うねる海の上、立っている。

 

 

 

 

 

おんなじだな

 

猫が足を踏み外して、家の塀から落っこちた。

おれとおんなじだなって、声をかけようとした瞬間に猫は何食わぬ顔であっち行った。

むかついたから風俗行って、オプションなしの1時間コースで9000円。

可愛くも特別ブスでもない女だったが、最後の方に突然泣き出した。

むかついたけど、不完全燃焼で終わるのも嫌だったので、「おれとおんなじだな」って慰めてやった。女が泣き止みそうになる頃に時間終了。すっかり萎えちまった。

むかついたからパチンコ行って、煙草をふかしていたら隣の台が大当たりして、惨めになって店を出た。

アパートに帰ると、駐車場の前で猫たちが集まっている。

近付くと一目散に逃げられて、おれは駐車場の中央で突っ立っていた。

 

おんなじだな、って言ってくれ。

だれか、おんなじだな、って言ってくれ。

おれは、おれとおんなじだから、おれがおれに言ってやる。

おんなじだな、って言ってやる。

「おんなじだな」って口にしたら、なんだか鼻汁が出てきて、すすっている内に猫が来た。

みゃーみゃー鳴いて、言っている。

おんなじだな、って言っている。

無意味なことこそ大切

音楽をよく聴いている。

歩きながら、ご飯を作りながら、洗濯物をたたみながら、友人を待ちながら。

自分としてはそれが普通だと思っていたから、このあいだ友人に「本当に音楽好きなんだね」と言われて、「あ、これってスタンダードじゃないんだ」とようやく自覚した。

 

音楽を聴き始めたのは、中学校に入ってからだった。

当時はiPodなんかじゃなくって、MDプレイヤーが主流だった。姉の持つSonyウォークマンを勝手に借りて、夜眠る前に毛布にもぐってこっそりと聴いていた。

なぜこっそり聴いていたかというと、母親はイヤフォンで音楽を聴くと耳が悪くなると思っている人だったから(正しいけれど)。

朝起こされたときにイヤフォンがぼくの顔の横でぐじゃぐじゃに絡まっているのを見つけると、母は決まって顔をしかめた。

それでも夜な夜な、ぼくは姉のウォークマンを持ち出してベッドに忍び込むことをやめなかった。しんとした部屋の中で毛布を被ると、毛布が擦れる音や自分の息遣いが思いの外大きく聞こえてドキドキした。カチャカチャと音を立てながら冷たい機器をいじると、暗闇の中でぼんやりと信号の青色のような光がともって、粗いデジタルのトラックナンバーが表示される。ボタンを押して再生した瞬間、ぼくは全く違う世界にいる。

イヤフォンで聴く音楽は、それまでのどんなものとも違った。

歌手の声だけでなく、打ち込みの小さな音まで、細かいひとつひとつの音を聴き取ることができて、そしてそれはとても色彩的で、立体的で、瞬間的だった。

そのころ聴いていた曲で印象に残っているのは、大塚愛の『未来タクシー』という曲と、チャットモンチーの『とび魚のバタフライ』という曲だ。

『未来タクシー』はアルバムの1曲目に入っている曲なので、イントロの「これから始まるぞ感」がすごかった。電子音の多いソリッドな感触のイントロを聴きながら、これから始まる音楽の旅に、ぼくは毎回胸を躍らせていた。

『とび魚のバタフライ』は、サビの入りが、『ブルー ブルー ブルー ブルー ブルー ブルー ホワイト ブルー』という歌詞で、それに続いて、『何て果てしない空!』と歌われるのだが、ぼくはこの曲で本当に自分がとび魚になったと思った。海から外へ飛び出た瞬間の、その鮮やかで強い青色を見たと思った。実際はベッドで毛布を被っているだけなのだけれど。

 

  

どんなことでも、「初めて」の衝撃というのは大きい。その衝撃に突き動かされて、これまでどれだけ多くの音楽家や、画家や、発明家が生まれたろうと思う。

いまぼくは、谷川俊太郎さんの『ひとり暮らし』というエッセイを読んでいるのだけど、その中に、『六十年近くこの世に生きていると、生まれて初めて見る光景というのがだんだん少なくなってくるのもやむおえない』という一文がある。

23年しか生きていないぼくですら、昔よりも「初めて」を感じることが少なくなったなあと思うのだから、60年生きたらいわんや、という感じだ。

今後どれくらい生きられるのかわからないけれど、「初めての○○」に出逢ったとき、どれくらいの衝撃を受けられるだろうと思う。それはつまり、「感じる心」をどれだけ持ち続けられるかという問題と同じだ。

半月ほど前、夜中に人と大学構内を歩いていると、「金木犀の匂いがするね」と言われた。

それを聞いてぼくはとても嬉しくなったのだけど、「感じる心」は、そういう「無意味なこと」と深く繋がっているような気がしている。

肌寒い季節になってきて、ゆっくり湯船に浸かるのが楽しみだな、と帰り道に考える。

机の上に季節の花を飾ってみる。

きょう起きたできごとを、事細かに日記につける。

美術館に行く。音楽を聴く。本を読む。

どれも無意味なことで、それをしたからといって現実は全く何も変わらないかもしれない。

何も変わらないかもしれないけれど、そういう無意味なことを省いて意味のあることばかりしていたら、できあがるのはそれこそ無味乾燥な人生なのではないか。

思えばぼくの人生の中で、大切にしたいことのそのほとんどが、はたから見れば無意味なものなのかもしれない。

「無意味なこと」は価値がなく思えたり、ときには切り捨てたくなってしまうものかもしれないけれど、無意味なことこそ大切にしたいとぼくは思っている。

ただの愚痴、あと怒りと迷いと不甲斐なさ

ごめんなさい以下の文章はだいぶ醜いフィクションなので、そう思える人だけ先を読んでください。最後まで読むのはただの苦行。

 

 

 

 

 

現実は一つだけ。あなたは一人だけ。

それだけど世界の切り取り方はたっっっくさんあるし、あなた像も星の数ほど無数にある。

世界の捉え方が違う人とは話が合わない。

自分の目に映るものがたった一つの真実だって思いこんでる人本当に気持ち悪い。

気持ち悪いその人も僕の目に映るたった一つだけの側面だったらいいのにな、そうであってほしい。

 

なんかあまりにも見えてる世界が違うと、同じ「日本語」という言語を使っていてもまるで話が通じないから絶望でしかない。

「君のことが心配だよ」とか本当は自分の思い通りにしたいだけなのに見せかけの愛情上塗りしてプレゼントしないでください迷惑です。

っていうか本当に心配していたとして「心配」って「愛」じゃないんすよ、愛があるんなら心配しないで祈っていてください「祈り」だったら愛だから。まあ愛がないんだろうけど。

あーなんか世の社会人ってこういうことに一々心を潰されてぐしゃぐしゃにされてそれを見なかったふりして毎日満員電車に乗って通勤してんのかな、めちゃくちゃすごいね。

でもそれって偉いのかな。守るべき何かのために心をすり減らしながら頑張るのって偉いしすごいけど、全然偉くないしすごくないかもね。まずは自分を守りたい。

自らの意志に従った自発的な行動以外なんの意味もないように思えちゃうんだよね、そんなんじゃ社会で生きていけないかな、うーん。

とりあえずあいつに僕の価値は決められない、誰も僕の価値を決められない。

僕の価値は僕が決める。さらに言うなら死んでから僕の人生の価値は決まります。きっと。

あいつはいつだったか、「女なんてどうせこれでしょ?」って言って、親指と人差し指で輪っかをつくってた。たぶんお金のこと。ダメだ、気持ち悪い。

好きになったら好きなとこしか見えなくなるのに、嫌いになったら嫌なとこしか見えなくなるの本当に自分の幼稚さでしかない。でも本当に嫌い。怨憎会苦。

 

 

お金に価値なんてない。ただの紙切れ。

日本人は「宗教」というものに嫌悪感を覚えるようだけれど(たぶんオウム真理教のせい)、お金だって宗教でしょ?

みんなが「そこに価値がある」って信じてるから、そうやって動くようなシステムができただけで。

誰かに「これ価値ありますよ~!」って言われたものに飛びつくだけなんて、つまんない。つまんないつまんない。あーでもそうやって生きてるな自分、つまんない。

 

だってそういう世の中で生きてるんだもん。

テレビで、「これが売れてます!!」って言われたものが売れて、

Twitterで、3万リツイートされたお店が人気店、

食べログの評価が低いから、行くのやめとこうかな。

虚構が現実を追い越して、あなたが見えている世界よりも虚構の方が現実になっちゃったね、電車で携帯をいじってない人少なくなっちゃったね、現実が虚構を含んでいるの? それとも、もう虚構は現実と等価なものになってしまったの?

 

 

ねぇもうバイオハザードやんないでほしい。あれ、怖いんだけど。だってめっちゃリアル。

僕がテレビ画面を見て、「バイオハザード無理、怖い」って言ったら、「いやいやゲームでしょ」って君は言うの。

それヤバくない?

現実と虚構の見分けがついてない。「ゲームと現実の違いなんてわかってるし。ゲームで人殺したって現実では何も起きないし」って言ってるけど、それこそ見分けがついてないように思える。

「現実と虚構は切り離されたもの」なわけがない。現実と虚構は並列じゃなくて、現実はたくさんの虚構を含んでいる。

だからゲームで人を殺した君は、現実の君としてその暴力性をゲームの中で際限なく膨らませちゃう。それって問題では?

「暴力的なゲームが暴力的な犯罪者を生み、性的なゲームが性犯罪者を生む」とはまったく思わない。ゲームがはけ口になっているから。彼らはさすがにゲームと現実を同一視していない。から社会的に問題はない。

でもそれらは、もっと心理的な、個人的な意味で問題があると思う。個人的な問題は社会的な問題だから、やっぱり社会的にも問題はあるかもしれない。

 

 

話は戻るけど、「みんなから評価を受けるものは価値が高い」のではない。

金持ちになれば幸せなわけじゃない。

恋人ができれば幸せなわけでもない。

幸せじゃない理由を探して、それが解決されればオールOK!なわけではないでしょ。

 

さらに話は戻るけど、「あなたの欲求を満たすために私は生きている」のではない。

あいつが「君のことが心配だよ」って言ったって、僕はその心配を晴らすために行動はしません。

「俺も頑張ってるんだから、お前も頑張れよ」って言われたって困ります。勝手に頑張ってろよ。

言葉の使い方が、論理や倫理やその他なんやらかんやらが、あーとてもわからない。

きっとあいつは僕のことがわからない。

僕のことをとても駄目な奴だと思っている。

他人の評価が僕の価値を決めるものではないと、わかっていても、どうしてもその評価を失いたくない自分がいる。

自分の駄目なところは全部あいつのせいにして、でもあいつの評価をほしがっている。

毎日が、本当にとても恥ずかしい。

同じ地球で

Twitterは東京みたい。

たくさんの人がいて、情報も感情もごちゃごちゃとし過ぎていて、無遠慮に誰かが誰かを傷つけていて。

満員電車に毎日乗るのは、とても消耗するでしょ? たくさんの広告が、すぐにお金を稼ぐ方法とか、疲れない身体のつくりかたとかを宣伝していて。みんな疲れていて、余裕がなくて。

毎日そんな場所にいたら、疲れちゃうよね。えぐられる。でも、「疲れた」って言うことも許されなくて。


東京は異常ですよ。


ずっといる場所じゃない、たまに自然の豊かな場所に羽根を伸ばしに行かないと、悪いものが身体に溜まり過ぎるから。

でも、人がたくさんいるのも東京で。

何かを変えたいと思ったとき、この世界に影響を与えたいと思ったとき、東京が便利な場所なのは分かる。

黒がたくさんあるみたいに、ちゃんと白もあるから、死なないように周りを白で固めて突き進むあなたはとても格好いい。

でもやっぱり、東京の磁場はおかしいんですよ。狂ってる。

だからあなたが東京をひとときでも離れたのは、少し安心した。

あなたは優し過ぎるから。

気持ちの悪いDMを送ってしまって本当にごめんなさい。優し過ぎるあなたに、頼らなくていいときも頼ってしまうことをたくさんして、どうすれば上手い愛し方なのかわかんなくて、ごめんなさい、そして本当にありがとうございます。

概念なんかにならないで。みんなの自由のために、概念なんかにならないで。生身の人間でいて。一秒ごとに死んでいくあなたの死骸を拾って、集めて、愛していくから。

そして会いに行くから、一瞬でもいいから追いつかせて。

だから、概念なんかにならないで。

自由と命を天秤にかけたとき、自由の方が重くなることを、まだ私は受け入れきれなくて。どうしてもまだ、命が惜しいと感じてしまうよ。私はすごく、不自由だね。

でもそんな不自由な私も私で、考えるから、生きているあなたに会いたい。

私も私で、みんなの自由のために、私の自由のために、どうしたらいいか考えるから。

あなたが無力を感じるのなら、私はどれだけ無力なんだろう。

少なくとも私にとって、あなたは無力じゃない。あなたは私を救った。あなたはあなたの生き方を見せた。私は私の生き方をしようと思えた。

本当は、みんなの自由のために、誰か特定の人が苦しむんじゃなくて、みんなが自由になろうと変われたらいいのに。

好きな人が傷ついているのは、辛いんですよ。優しい人がその優しさのせいで傷つく世界は、どうすればいいんだろう。優しい人ほど死んでいく世の中は、絶対に間違っているよ。

考えるよ、感じるよ、祈るよ。祈る。

そして信じてる。

あなたの命が同じ地球でちゃんと燃えてるんだって、信じてる。

愛してるよ。

泣くとか、泣かないとか。

朝起きると泣いていた。

嘘。

正確に言うと、泣きそうになっていた。

目が覚めて、「あ、夢か」と気づいてから、子どもみたいに大泣きした。

夢で心を乱されて、起きた後に泣く、ということは子どもの頃よくあったけど、そういえば最近はあまりなかった。

夢の内容は不鮮明で、でも「ピアノを弾きたかった」ことはよく覚えていた。

ピアノをどうしても弾きたいのに、周りの人が「うるさいから」「弾いてほしくないから」と言って弾くことを許してくれないのだ。

理不尽だと思って、「じゃあ一体いつ弾けるのか」と問うても、

「あなただってまだ論文書いてないじゃない」と、女の人に言われた。

「論文は確かにまだ書いてないけど、それとこれとは関係ないでしょ」

「とにかく、ピアノは弾かないで」

そうやって、屁理屈をつけて私のやりたいことを邪魔するのか、と思ってやりきれない気持ちになった。悲しくて悔しくて、そうして目を覚ますと泣き出す寸前の気持ちになっていた。

朝、目が覚めてすぐに大泣きするのは気持ちがいい。

 

 

今日は、昔付き合っていた人の誕生日だ。

忘れていたけれど、朝大泣きした後、iPhoneのカレンダーを見たら彼の誕生日が登録されていて思い出した。

彼と付き合っているとき、私はよく泣いていたと思う。

ヒステリックな感じに泣くことが多かった。都庁の付近でデートしていたときに喧嘩をして、私が泣き喚きながら彼に向ってハンカチを投げつけたこともあった。

地味な色をしたハンカチはひらひらと宙を舞い、情けない感じに地面に落ちた。

彼はそれを、困った熊みたいな顔をして拾った。「こんなとこで泣かないでよ」みたいな真っ当なことを言われ、それにまた腹が立って、私は泣いた。

その頃、私の中で東京は、「見知らぬ人ばかりの場所」というイメージだったから、旅の恥はかき捨て的なノリでそんな大胆なことができたのかもしれない。

今でも東京のイメージはそれほど変わらないが、街中で大泣きなんて、今じゃもうできない。と思う、多分。

 

 

人はどういうときに泣くのか。

そのときの彼は、私とひと回り以上も歳が離れていて、広島に住んでいた。

彼からしたら、かなりの年下&遠距離ということで不安要素が多かったのだろう、別れる直前の時期は、「どうせ俺のことなんてそんな好きじゃないんだろ」みたいな七面倒なことばかり言ってきた。

「好きだよ」と言っても、まるで信じてくれなかった。それが何よりも悲しかった。

彼と付き合って学んだことのひとつは、「自分の気持ちが相手に伝わらないことは何よりも悲しい」ということだ。人が死ぬと悲しいのも、もう二度と相手に自分の思っていることを伝えられないからだと思う。

まだかなりの若造だった私は、なんとかして自分の気持ちを伝えてやろうと、泣いたり叫んだりしたけれど結局ダメだった。

 

 

泣くのには、びっくりし過ぎたとか、嬉しくて感動のあまりとか、やるせなくてとか、色々な場面があると思うけれど、「自分の思いが相手に通じなくて泣く」のは、もうそろそろ卒業したいなあと思う。

だって、違う人間なのだから、気持ちが上手く伝わらないのは当然だ。

でも、ごくたまに、本当に稀に、「気持ちが通じた」と確信できる瞬間がある。

心を開いて話して、もしくは話さなくても同じ空間に居て、同じ景色を見て、通じ合えたと思える瞬間。

大人になっていくのだったら、そっちの瞬間を大切にできる人になりたい。そして欲を言うならば、できるだけ多くの「その瞬間」を、死ぬまでに見てみたいと思う。

彼が今日一日、いい日だと思って過ごせたことを願う。

so alone

きょうは満月だというから外に出てみたのに、雲が厚くてぜんぜん見えない。残念! そのまま散歩をする。

大学を出てすぐのところ。押しボタン式の道路で、左右から車が来る気配もないのにボタンを押してみる。少し待って、車の信号が変わる。

黄色、赤。

雨上がりの夜の赤信号は、ちょっと綺麗。湿度の高い空気に光が乱反射して、ぼんやりと、なのにびっくりするくらい鮮やかな赤色が見える。信号って、場所によって色が微妙に違ったりするのかな? きょうの赤信号は特別に綺麗。

一瞬だけその光にうっとりしてから横断歩道を渡る。車は来ない。

イヤフォンの中で大塚愛が、「なんとなく」が何度も歌詞に出てくる歌を歌っている。

「なんとなく 流れてった」

「なんとなく 決めてみた」

「なんとなく 知らん顔した」

「なんとなく 飛び跳ねてた」

僕もなんとなく、うれしくなって大またで歩く。

右手には公園があって、だれもいないみたい。濡れそぼったベンチとブランコが外灯の光でキラキラしている。

大またでずんずん道を歩いていると、以前見た絵のことを思い出した。あの絵もずんずん、ひとりで頼りなく、でも力強く歩いていたなあ、と思って。

思い出して、また楽しくなってずんずん歩く。そうするとベンチもブランコも視界の端に流れていって、やがていなくなった。

 

 

絵はこのあいだの週末に見たものだった。

新宿で人と会ったあと、時間を持て余したから近くの画廊に寄ってみた。夜にまた違う飲み会があったから、それまで時間を潰す必要があった。

新宿駅の西口から15分ほど歩いたところにその画廊はあって、歩道に面している部分がガラス張りになっている。ドアは開け放たれていて、僕より先に中で作品を見ている人もいた。

入り口すぐのテーブルに、作品の配置とそれぞれの題名、作者紹介などがされている紙が置いてあったので手に取る。

展示全体の名称は “Light Through the Window” で、光に関する作品が多いのかなと予想して来たのだけど、そんなことはなかった。一日の最後に残った小銭をキャンバスの上に広げ、その輪郭を真っ黒な布地の上に白い線で描いた何十枚もの作品とか、粗い目の布地に、裏側から彫像のイメージを写し取った作品とか。

正直、そこの展示で見られた作品はあんまりピンとこなかった。単に僕の感性が鈍かっただけなのかもしれないけど、うまく理解できなかったし、うまく面白がることができなかった。

1人の作家さんが、僕が作品を見ているあいだちょうど在廊していらして、お客さんらしき人と喋っていた。ベルリンに住んでいて、このあいだ日本に帰って来たばかりで――、みたいな話をしていた。

 

ひと通り作品を見終わったあと、その画廊を出た。

「まだ時間余ってるなー」と思っていると、今しがた出た画廊のすぐ隣に、もうひとつ画廊が併設されてあることに気づいた。そっちの画廊のドアは閉まっていたけど、中で女の人の2人組が作品を見ていたので展示期間中ではあるようだった。透明なドアには、『Shin Morikita 森北 伸 新作展』と書いた紙が貼ってあった。

 

中に入ると、ドアが開けっ放しになっていた先ほどの画廊とは違って、しんとしていた。先にいた女の人2人が小声でひそひそ話すのが聞こえるくらい。作品も先ほどと違い、平面作品だけでなく立体作品も多く配置されていた。

入ってすぐのところに、子どもくらいの大きさの黒く塗られた木と、その上にちょこんと乗った黄色で塗られた木、針金のような素材と金属のお皿のような素材が組み合わさってできた作品があった。どことなく、黒い木が胴、黄色の部分が顔、針金がすっと伸びた手、そして金属のお皿がその手に持たれているように見えて、子どもが腕を伸ばして、「何かちょうだい」とねだっているように思えた。

可愛らしくて、ちょっと滑稽で、「あ、好きだな」と直感で思った。

展示されているのは立体作品だけではなく、絵画もいくつか飾られていた。

どれも良かったのだけど、特に気に入ったのがひとつあった。

背景色が上と下でくっきり2つに分かれていて、上はくすんだオリーブ色とでも言うのか、下は茶の入ったグレー。そこに、棒人間をもう少し抽象化したような形で、黒い線の人間が横向きに描かれている。棒人間は大またで淡々と歩いていて、手はだらんと垂れ下がっている。お腹の部分に深い青色で、湖のように水が溜まっている。胸には大中小のろうそくが並んだように、白いささやかな光が等間隔に灯っていて、顔は大きな大きな満月みたいな黄色で描かれている。顔部分はかなり見切れていて、満月のほんの下部分しか見えない。

作品に見入っているうちに、いつの間にか先にいた女の人2人組はいなくなっていた。

 

画廊の奥まったところに、パソコンでカタカタと事務作業をしている女の方がいた。

手前のテーブルに、1つ目の画廊では入り口すぐのところにあった、作品の配置とそれぞれの題名、作者紹介などが書かれた紙が置かれていた。

はじめに見た、何かをねだる子どものような作品の題名は、「けらいのいない王様」。可愛い題名だ。順々に見た作品の題名を追っていくと、ぜんぶがちょっと哀しくて愛らしく、素敵な題名だった。

そしてずんずん歩く棒人間の絵。あの絵の題名は、「so alone」だった。

心の中で、「ああ、やっぱり!!」と思った。

うれしくなって、もう一度あの絵の前に行く。

大きいけれど、大きすぎない絵。適切な大きさ。

たったひとりで、お腹には悲しみの水を湛え、胸に小さな光を灯し、満月のように大きな光を持って歩き続ける生き物。その絵はいい意味で切実さがなく、悲しすぎず、希望もあり、人間の「愛すべきおかしみ」みたいなものがいっぱい詰まっているような気がして、いつまででも眺めていられた。色の加減もとても良い。

いろいろ理由づけはできるけど、なんとなく、僕はその絵が好きだった。

しばらく眺めてから、外に出る。夜の飲み会に向かうにはちょうどいい時間になっていたので、電車に乗るために新宿駅ではなく初台駅に向かった。好きな絵に出逢えて満ち足りた気持ちだった。

あとから知ったことだけど、あの展示全体の名称も “so alone” だったらしい。

 

 

「なんとなく これは恋だ」

「なんとなく これは恋だ」

「何も考えませんよ、だってなんとなく これは恋だ。」

 

いつだったか横浜の中華街で人生初めての手相占いをしてもらったときに、「あなたは一途ですね」と言われた。

「そうかあ?」とそのときは思ったけど、好きなものに出逢ったらずっと好きで居続けたいよね。そのための努力は惜しみたくないなあ。

YUKIが好き、大森靖子が好き、西加奈子が好き、大塚愛木村カエラaiko椎名林檎chara宇多田ヒカルチャットモンチーも好き、赤色も好き、本も好き。

だけどやっぱり最終的に好きな理由は、「なんとなく」なんだよなあ。

そんなことを考えながら、ずんずんと夜の道を歩き回った。ひとりで、楽しく。

厚い雲の上では、たぶん満月がにっこり顔でこっちを見ている気がする。