淋しがってる暇はない

ある人に手紙を書いた。便箋10枚ほどの長い手紙。

返事はすぐ返ってきて、「しょげたり、淋しがってる暇はありません」という言葉をもらった。

「あなたは優しいけど強い人間だと思っています。その強さは風のように柔軟で、自分が嬉しい時でも苦しい時でも、周りの人に気を配り笑顔を届けられる人だと。」

 

 

道幅の広い国道沿いにあるサイゼリヤに、深夜まで居座って本を読んだり、言葉を延々と綴ったり。

帰り道に見た、たくさんの車のヘッドライトとか、朝までお休みしてる線路の静けさとか、めいっぱい吸い込んだ胸にふくらんだ夜とか。

紛らわしたり、押し殺したりしないで、叫んでしまえばいい。誰しも、泣き喚けばいい。たとえその痛みが、醜くったって、苦しくったって。

鏡の前に立てば、目を赤くしたあの日の自分が見えるような気がする。

解き放った命の真ん中は、変わらないけど、ぼくはそれを抱きしめてあげられる。

ぼくは、ぼくの孤独を抱きしめてあげられる。

だから君は、君の孤独を抱きしめてあげられるって、そう思ってる。

 

 

自転車こいで、坂道のぼったりおりたり。

幸せになったり不幸になったり、ぼくらきっと、浅い夢を見ている。

すべてが通り過ぎて、跡形もなく消えてしまいそう。

それでも、呼吸を繰り返している、広い世界に駆け出している、新しい朝に手を伸ばしている。

恋のひとつやふたつ、敗れたって構わない。この世界に遊ばれて、死んでったって構わない。

哀しさも優しさも持ち合わせて、誇らしく生きていたい。

君は美しい。

 

 

「どうか優しく強い人間であれ。これから先、あなたから勇気や笑顔をもらうことを待っている人たちが、たくさんいることを、忘れずにいてね。」

過去と和解すること

河原で拾った、まあるい石持ってどこ行くの。

メタセコイアの下で待ち合わせしよう、夕焼けが校庭を照らしてる。

うちに帰ればカレーのにおい、お母さんが待ってるよ。

お墓の前で唱える言葉、涼しい日陰、木々の揺れる音、お父さんがチャンネルを変えたがってる。

すずめのサンバと幼い記憶。

誰も知らない海辺の、あたたかい砂に足跡を残す。

青い空がどこまでも、どこまでも続いてぼくは、どこまでも自由だった。

机の下にもぐって、ソファの陰に隠れて、たくさん泣いたぼくは、まだ子どもだった。

 

目を背けていたことから、怖くても逃げないで。

過去から目を背けないで、自分から目を背けないで、ちゃんと見つめて。

あなたがいなくても朝は来るけど、心の隙間は埋められないまま。

ほかの何にも埋められなかった隙間。

 

お父さんに会いたい。

 

テレビゲームの攻略本、風にふくらむレースカーテン、塩をかけすぎた西瓜、ひんやりとした畳のにおい、縁石に生えた雑草、犬のあたたかな背中、庭に咲く花、雪に覆われた公園、映画を見た後の家路。

もしあの日に帰れるのならば、何をして遊ぼうか、何を話して笑おうか。

素直になれなかった自分を、笑って許しに帰ろうか。

 

迎えにいこう、幼いあの日の自分を。

迎えにいこう、あなたにありがとうを伝えに。

『往復書簡 初恋と不倫』、偶然と必然のあいだ

ガラス窓のこちら側から他人行儀に見ていたはずなのに、そして身に覚えもないのに、キリキリと胸の奥が痛い。

もうとっくに忘れてしまった記憶を、忘れたままに引っ掻かれたみたいにかゆくて痛い。

でも不思議と、その痛みは大切に抱いていたいと思えた。

 

 

坂元裕二さんが書かれた本、『往復書簡 初恋と不倫』を読んだ。

坂元裕二さんはテレビドラマとして、「東京ラブストーリー」、「最高の離婚」、「Mother」、「Woman」、そして「カルテット」などを手掛けた脚本家だそうだ(タイトル聞いたことあるのばかり!)。

私は普段ドラマをあまり見ないのだけど、「カルテット」はたまたま見ていた。登場人物たちの会話が一向に噛み合わず、平行線で進んでいるように見えて、妙なタイミングでパチリとはまる感じがとても面白く、突拍子もない会話の中にユーモアと核心に迫る言葉が、バランスよく織り交ぜられているのが印象的だった。

『往復書簡 初恋と不倫』は2人の人物の手紙のやりとり(もしくはメールのやりとり)で構成されていて、所謂「地の文」というものがない。

だからドラマでの会話のやり取りを眺めるように、テンポよく話を読み進めることができるし、坂元裕二さんの独特な、ドラマで感じた会話のズレとハマりがこの本でも魅力的に光っていた。

 

 

本には、「不帰の初恋、海老名SA」と、「カラシニコフ不倫海峡」という2つの物語が収められている。

恋というのはごくごく個人的なものであるから、「初恋と不倫」というタイトルを見たとき、この本はとても個人的な世界が描かれているのかな、と私は思った。けれど坂元裕二さんは、まったく良い意味で、「初恋」と「不倫」というテーマを掲げながら物語を社会的な位置にまで押し上げることに成功していた。

本の帯には、「ロマンティックの極北」と書いてあるが、この本で描かれるのはロマンチックな淡い初恋でもドラマチックでドキドキするような不倫でもない。繰り返し出てくるイメージは「ホロコースト」だったり「地雷」だったり、「いじめ」や「自動小銃」。大きく言うならば「死」を連想させるような負のイメージが過剰なほど物語中に何度も登場する。

そして物語中で手を変え品を変え、同じようなことが語られる箇所がある。

 

『君の問題は君ひとりの問題じゃありません。(中略)誰かの身の上に起こったことは誰の身の上にも起こるんですよ。川はどれもみんな繋がっていて、流れて、流れ込んでいくんです。君の身の上に起こったことはわたしの身の上にも起こったことです。』(単行本 p16)

『関係ないなんてことはない。川はどれもみんな繋がっていて、流れて行って、流れ込んでいく』(単行本 p44)

『ありえたかもしれない悲劇は形にならなくても、奥深くに残り続けるんだと思います。悲しみはいつか川になって、川はどれも繋がっていて、流れていって、流れ込んでいく。悲しみの川は、より深い悲しみの海に流れ込む。』(単行本 p59-60)

『世界のどこかで起こることはそのまま日本でも起こりえる。』(単行本 p94)

 

繰り返される死のイメージに加えて、この文章。

たとえば。

前を歩いている人の頭にカラスの糞が落ちたとする。

「うわーあぶねー、俺のとこじゃなくてよかったー」

大抵の人がこう思うと思う。

たとえば。

1週間連続で人に道を尋ねられたとする。

「なんで俺が? 周りにほかの人もいっぱいいるのに」

大抵の人がこう思うと思う。

たとえば。

テレビのニュースで、ある国で凄惨な戦争が起きて市民が大勢死んだ、と報道されていたとする。

「なんで俺じゃなくて、この国の人たちが死んだんだ?」

……と、果たしてそう思うか?

世界は繋がっていて、なのになぜか私は私で、あなたはあなたで、彼は彼として存在しているということ。私は朝ご飯にバナナとヨーグルトを食べて、その一方であの人は朝からトンカツを食べている。そのまた一方で、あの子は空腹を感じながら銃声の音に怯えている。

私が私であるということはただの偶然に過ぎず、投げたコインがたまたま表を示したみたいに、簡単に裏返りそうな現実なのかもしれない。

「不帰の初恋、海老名SA」の方に出てくる人物、三崎明希さんは、「なぜ私はあの人でないのか」という答えのない問いを、ずっと考え、心を痛めることのできる、とても優しい人物だと私は感じた。

「想像する」という行為は、痛みを伴うとしても、目を逸らさずに誰かを思いやる優しさに繋がっている。

私が出くわす全ての出来事は、私以外の人が出くわすかもしれない出来事で、その逆もまた然りだということ。そういう無数の偶然の積み重なりが世界にたくさんの文脈を作り、その中で私たちは生きている。その逆に、私たちは生きることでその文脈に影響を及ぼしてもいる。そのことに自覚的になること。想像をすること。

本の中で明確な主張として書かれているわけではないけど、その「想像力」がもたらす大切な痛みと、そして温かさが、この物語からは放出されている気がする。そしてそれは、まさしく今の社会に不足し、必要なものなんじゃないかと私には思えた。そういう意味で、『往復書簡 初恋と不倫』は社会的な物語だった。

 

 

でも!!

この本のタイトルは、『初恋と不倫』であって、「初恋」も「不倫」もぜんぜん社会的なテーマじゃない。だって初めにも書いたけど、恋は個人的なものだから。

さっき、「私が私であるということはただの偶然に過ぎず」と書いたけど、じゃあロボットみたいに「私」と「あなた」を簡単に取り換えっこできますか? と訊かれたら、当然だけど答えはノー。

あなたは偶然日本に生まれて、偶然大きな事件に巻き込まれず、偶然きょうまで生きてこられて、偶然に今そこに住んでいて、偶然に彼や彼女に出会い、偶然に恋に落ちる。

偶然がたーくさん積み重なって、ひとりの人間の歴史を形作ると、それは替えの効かないものになる。あなたはあなたしかいないし、私は私しかいない。過去がどんどん私になって、ひとつひとつの偶然が必然へと変わっていく。

恋に落ちたのは偶然かもしれない。でも、「あなたはあなたしかいない」ということが、積み重なった時間だけ確かになり、その恋は必然へと変わっていく。

恋だけでなく、すべての出来事がきっとそう。

『往復書簡 初恋と不倫』は、そんな偶然と必然のあいだで揺れ動く2人の物語だと思いました。

人間は、目の前で起こる出来事を選べない。神様か何か、よくわからない大きなものが、「ほうらこれあげる。ぽーい」って投げたものを前にして、右往左往しながらもがいていく。ときには目の前のことを受け入れられなくて、間違った判断を下してしまったと思って、

『許されないことでした。』(単行本 p43)

『後悔しています。』(単行本 p52)

『そんな明日があったかもしれない。』(単行本 p72)

『望んではいけなかったんだなと思いました。』(単行本 p166)

と悔やむこともある。

でもその「選べなかった偶然」が、最後にひっくり返って「必然だったのだ」と確信できるとき、生きていることの喜びがそこにあるのだと思う。

 

 

『往復書簡 初恋と不倫』は、この世界の痛みと喜びを、確かな手応えとともに描いている素晴らしい作品でした。

この本が私の文脈をまた少しずらして、それがうまい具合にパチっとはまるといいな。坂元裕二さんが紡ぐ会話みたいに。

『ていだん』と小林聡美ブーム

先日本屋で真っ赤な装幀が目に留まって、女優の小林聡美さんの『ていだん』という本を買った。

小林聡美さんは映画『かもめ食堂』に出演していたり、テレビだと、彼女がおいしそうなサンドイッチやイングリッシュマフィンを作って、それにつられて熊やこどもたちがやってくるという『超熟』のCMに出演したりしている。彼女の作るものはなんでもおいしそう。

てい - だん 【鼎談】三人が向かい合って話をすること。――『広辞苑』より

二人で話をすることが「対談」で、三人で話をすることが「鼎談」。

『ていだん』はタイトルの通り、小林聡美さんとゲストの二人の鼎談の様子が書かれている。

ぼくはまだ途中までしか読んでいないのだけど、この本、小林聡美さんの魅力がぎゅうっっッ!!! と詰まっていて、とても面白いです。

ゲストで来ている人も勿論、立派で魅力的な方々(井上陽水もたいまさこ、小野塚秋良、役所広司など)なのだけど、一貫して自然体な様子の小林聡美さんに惹かれずにはいられません。

「自然体」という言葉は、あまりに使われ過ぎていてなんだか俗っぽい気がしてしまうけど、彼女は本当に自然体だと思う。自然体というか、媚びない。どんなに立派な方がゲストで来ていても、彼女は気を遣い過ぎることも横柄になることもない。素直に思ったことを発言し、質問している。

これって意外とできる人少ないんじゃないかなあ。

谷川俊太郎さんのエッセイ、『ひとり暮らし』で、

『ただそこに「在る」、自己主張もせず、甘えもせず、余計な謙遜もせず、草花のように簡素に豊かに存在している』 (文庫 p181)

という一文があるのだけど、まさにこれ!!

小林聡美さんは自己主張もしないけど甘えもしない、余計な謙遜をせずにただそこに居る、という感じ(まったくの繰り返しになってしまったけれど笑)。

 

映画『かもめ食堂』では、小林聡美演じるサチエが、「あなたたち、好きなことだけやってらしていいわねえ」と言われたのに対し、

「やりたくないことをやらないだけです」

と答えるシーンがある。

この『ていだん』の中で、片桐はいりさんがこのシーンについて言及する場面があるのだけど、ぼくも思わず、「うんうん」と読みながら頷いてしまった。

「やりたいことだけやる」のではなく、「やりたくないことをやらない」。

一見同じようなことに思えるけど、この違いはとても大きい。

やりたいことだけやる、というのは単に自分の欲求に従っているだけだけど、やりたくないことはやらない、ということは自分の行動に責任を持つ、ということだと思う。その勇気たるや。

そして、欲望を持ちすぎないということ。その慎ましさたるや。

片桐はいりさんは、この台詞の意味を撮影当時はよくわかっていなかったが、最近わかるようになったと話す。

それに対して小林聡美さんは、

「私は……わかりましたよ。」(単行本 p55)

と返す。かっこ良すぎる!!!

 

読んでいて思ったことがもうひとつあって、それは、小林さんはユーモアのあるかわいらしい人だ、ということだ。

それはお笑い芸人のような「あからさまな面白さ」じゃなくて、話をしていると、その話のレールから「ポンッ」と僅かに逸脱するような、品の良い面白さだ。

たとえば、彼女がフードスタイリストの飯島奈美さんと、東京農業大学の名誉教授、小泉武夫さんと「発酵の魅力」について話しているとき。

小林「ちなみに先生が子どもの頃は、どんなものを食べてましたか?」

小泉「私は福島県小野町の出身で、当時食べていたのは主に魚。小名浜のサバとかイワシとか、ヒカリものが中心です。」

小林「頭がよくなりそうですね。」(単行本 p29)

というやりとりがある。

ぼくはこの『頭がよくなりそうですね。』に思わずクスッとしてしまった。発酵の話をしているのに!

話の相槌として、レールから脱線はしてないけどちょっと外れた返し。「魚を食べると頭が良くなる」と思い込んでいる感じもなんだかかわいらしい。笑

こういう相槌って、相手に対して萎縮したり緊張していたりしたら出てこないし、かと言って、小林さんは思ったことを常に頭から垂れ流しで話しているわけではなくって、この場合は「話を聞いていますよ」という意味で言っている。

こういう絶妙に力の抜けたところが、かわいくてかっこ良くて、小林聡美さんの小林聡美さんにしか出せない魅力だよなあ、と、ぼくは一気にファンになってしまいました。

 

ファンになった勢いで、来月から始まる舞台、『24番地の桜の園』のチケットを取ってしまった。勿論、小林聡美さんも出演する舞台。

チェーホフが原作の舞台を串田和美さんが演出でやるらしく、今のうちからとても楽しみ。芸術の秋だよ、へへへ。

彼女が昔出ていた「すいか」というドラマも見たいし、あーしばらくぼくの中の小林聡美ブームは続きそう。

なににせよ、中央公論新社が出している『ていだん』、とても面白いので気になる人はぜひ読んでみてくださいな。

口と夜

肝要な事を口にすれば負け。僕はさっきから、下手な芝居を打っている。どうとでも取れるような言葉を並べて、本当の事は夜に隠して。明かりを消して、何も見えなくする。その両の目は飾りだから、月が隠れたとき見開かれるものが本物。おそらくは、二人のあいだに本当のことなんて何もない。貴方の目に見える僕だけが真実、僕の目に見える貴方だけが現実。欲しいものをあげる。

「何も言わないで」

いつだったか忘れたけれど、悪い噂を耳にしたことがあった。でも耳を塞ぐまでもなかった。だってこの目に見えることだけが現実だから。この花が枯れるまでは傍にいるよって、僕の部屋を訪れたときに置いていったリンドウの花は、いつまで経っても咲かなかった。蕾のまま朽ちていって、僕は見て見ぬふりをした。花言葉は『悲しんでいるあなたを愛する』、嘘みたいだけれど本当の話。

「何も言わないで」

どうあがいても、また同じ場所に戻ってしまう。貴方の望むこと全てに応えたなら、一つだけ、僕の望むことに応えて欲しい。また同じことを繰り返している。傷つく度に期待をして、期待をする度に裏切られる。それなのにまた、懲りずに期待をする。僕もそうだったけれど、貴方だって十分に傷ついていた。だって芝居をしていたのはお互い様の筈だから。欲しいものをあげる。

「何も言わないで」

要求に応じるほどに、互いの輪郭がより一層はっきりと際立って、孤独が色濃く影を落とした。この目に見えることだけが真実なら、独り相撲を取っているのと何が違うんだろうって。でも、口にはしなくても、貴方もそう思っていることだけは確か。似た者同士は、ぴたりとくっつくか憎み合って離れるか。二つに一つ。そのあいだはないのだと、低く響く声が言う。リンドウの花は捨てた。

「何も言わないで」

貴方の肩は夕陽に染まる丘。貴方の背中は荒涼とした砂漠。節くれだった指は老木の幹。少年のような目は海の底の鉛。薄いシャツを捲り上げて、大きな背中に爪を立てる。強く強く力を込めて、跡を残しておく。明かりは点けないで、口は開かないで、夜に呑み込まれそう。あられもない夜に。

貴方が去った後の僕は、本当の独り。

歩道橋 / うねる海 / おんなじだな

歩道橋

 

飴玉みたいな夕暮れ時の太陽が、雲の谷間に転がり落ちてゆく。

手を振っている間に見えなくなったから、乾いた空気が夜の気分を連れてきた。

街のどこかで鳴いている、寂しがりやはないものねだりしている。

 

たくさん触れておけばよかったって、思っている。

もう戻れないから、「ありがとう」と、心の中に思い描く。

 

ウィークエンドは終わったよと、空に放り投げたジェリービーンズが綺麗。

雲の形は変わって、やがて消えてなくなる。朝昼晩と、変わりゆくぼくの気分みたいに意味はない。

大きく息を吸って、少しのあいだ止めてみる。

横断歩道の白いところだけ踏んでいたら、黒い穴に落ちないままどこかへ行けるような気がしている。

 

たくさん触れておけばよかったって、思っている。

もう戻れないなら、「ありがとう」と、無理にでも声にする。

 

歩道橋の上に立って、好きな歌を歌いながら車が行き交うのを眺めている。

すれ違うだけの車の真上で、ぼくの物語も交錯している。

移る季節の真ん中で、朝も、夜も、上手く捉えられないなら逃げるのもいい。

どこに逃げても、ぼくはいつまでもここに居て、転がり落ちた夕暮れがここをどこかに変えてゆく。

 

たくさん触れておけばよかったって、思っている。

もう戻らないから、「ありがとう」を、歩道橋から放り投げた。

 

 

 

 

 

うねる海

 

船に乗って、海とひとつになってみる。

うねる、うねる、うねる。

膨らんではまたもどり、もどっては膨らんで、そうして揺らいでいる。

とても安らかで、穏やかな、母の胎内。

視線を移すと、水平線はうそみたいに真っ直ぐ。

 

生クリームのしぶきが海をかきわけている。

母の羊水から出たばかりなのに突然、甲板の上に立っている。

海に飛び込めば簡単に死ぬだろう。

うねる、うねる、うねる。

私の足は、うそみたいに頼りない。

 

船に乗って、海とひとつになりたくて。

じっと見つめる。

私は、うねる海の上で、揺れる船の上で、海とひとつになりたくて、頼りない足で立っている。

私は、濡れたまつげで、うねる海をじっと見つめる。

海に飛び込めば簡単に死ぬだろう。

海とひとつになれないだろう。

うねる、うねる、うねる。

頼りない足で、うねる海の上、立っている。

 

 

 

 

 

おんなじだな

 

猫が足を踏み外して、家の塀から落っこちた。

おれとおんなじだなって、声をかけようとした瞬間に猫は何食わぬ顔であっち行った。

むかついたから風俗行って、オプションなしの1時間コースで9000円。

可愛くも特別ブスでもない女だったが、最後の方に突然泣き出した。

むかついたけど、不完全燃焼で終わるのも嫌だったので、「おれとおんなじだな」って慰めてやった。女が泣き止みそうになる頃に時間終了。すっかり萎えちまった。

むかついたからパチンコ行って、煙草をふかしていたら隣の台が大当たりして、惨めになって店を出た。

アパートに帰ると、駐車場の前で猫たちが集まっている。

近付くと一目散に逃げられて、おれは駐車場の中央で突っ立っていた。

 

おんなじだな、って言ってくれ。

だれか、おんなじだな、って言ってくれ。

おれは、おれとおんなじだから、おれがおれに言ってやる。

おんなじだな、って言ってやる。

「おんなじだな」って口にしたら、なんだか鼻汁が出てきて、すすっている内に猫が来た。

みゃーみゃー鳴いて、言っている。

おんなじだな、って言っている。

無意味なことこそ大切

音楽をよく聴いている。

歩きながら、ご飯を作りながら、洗濯物をたたみながら、友人を待ちながら。

自分としてはそれが普通だと思っていたから、このあいだ友人に「本当に音楽好きなんだね」と言われて、「あ、これってスタンダードじゃないんだ」とようやく自覚した。

 

音楽を聴き始めたのは、中学校に入ってからだった。

当時はiPodなんかじゃなくって、MDプレイヤーが主流だった。姉の持つSonyウォークマンを勝手に借りて、夜眠る前に毛布にもぐってこっそりと聴いていた。

なぜこっそり聴いていたかというと、母親はイヤフォンで音楽を聴くと耳が悪くなると思っている人だったから(正しいけれど)。

朝起こされたときにイヤフォンがぼくの顔の横でぐじゃぐじゃに絡まっているのを見つけると、母は決まって顔をしかめた。

それでも夜な夜な、ぼくは姉のウォークマンを持ち出してベッドに忍び込むことをやめなかった。しんとした部屋の中で毛布を被ると、毛布が擦れる音や自分の息遣いが思いの外大きく聞こえてドキドキした。カチャカチャと音を立てながら冷たい機器をいじると、暗闇の中でぼんやりと信号の青色のような光がともって、粗いデジタルのトラックナンバーが表示される。ボタンを押して再生した瞬間、ぼくは全く違う世界にいる。

イヤフォンで聴く音楽は、それまでのどんなものとも違った。

歌手の声だけでなく、打ち込みの小さな音まで、細かいひとつひとつの音を聴き取ることができて、そしてそれはとても色彩的で、立体的で、瞬間的だった。

そのころ聴いていた曲で印象に残っているのは、大塚愛の『未来タクシー』という曲と、チャットモンチーの『とび魚のバタフライ』という曲だ。

『未来タクシー』はアルバムの1曲目に入っている曲なので、イントロの「これから始まるぞ感」がすごかった。電子音の多いソリッドな感触のイントロを聴きながら、これから始まる音楽の旅に、ぼくは毎回胸を躍らせていた。

『とび魚のバタフライ』は、サビの入りが、『ブルー ブルー ブルー ブルー ブルー ブルー ホワイト ブルー』という歌詞で、それに続いて、『何て果てしない空!』と歌われるのだが、ぼくはこの曲で本当に自分がとび魚になったと思った。海から外へ飛び出た瞬間の、その鮮やかで強い青色を見たと思った。実際はベッドで毛布を被っているだけなのだけれど。

 

  

どんなことでも、「初めて」の衝撃というのは大きい。その衝撃に突き動かされて、これまでどれだけ多くの音楽家や、画家や、発明家が生まれたろうと思う。

いまぼくは、谷川俊太郎さんの『ひとり暮らし』というエッセイを読んでいるのだけど、その中に、『六十年近くこの世に生きていると、生まれて初めて見る光景というのがだんだん少なくなってくるのもやむおえない』という一文がある。

23年しか生きていないぼくですら、昔よりも「初めて」を感じることが少なくなったなあと思うのだから、60年生きたらいわんや、という感じだ。

今後どれくらい生きられるのかわからないけれど、「初めての○○」に出逢ったとき、どれくらいの衝撃を受けられるだろうと思う。それはつまり、「感じる心」をどれだけ持ち続けられるかという問題と同じだ。

半月ほど前、夜中に人と大学構内を歩いていると、「金木犀の匂いがするね」と言われた。

それを聞いてぼくはとても嬉しくなったのだけど、「感じる心」は、そういう「無意味なこと」と深く繋がっているような気がしている。

肌寒い季節になってきて、ゆっくり湯船に浸かるのが楽しみだな、と帰り道に考える。

机の上に季節の花を飾ってみる。

きょう起きたできごとを、事細かに日記につける。

美術館に行く。音楽を聴く。本を読む。

どれも無意味なことで、それをしたからといって現実は全く何も変わらないかもしれない。

何も変わらないかもしれないけれど、そういう無意味なことを省いて意味のあることばかりしていたら、できあがるのはそれこそ無味乾燥な人生なのではないか。

思えばぼくの人生の中で、大切にしたいことのそのほとんどが、はたから見れば無意味なものなのかもしれない。

「無意味なこと」は価値がなく思えたり、ときには切り捨てたくなってしまうものかもしれないけれど、無意味なことこそ大切にしたいとぼくは思っている。