ぼくの『東京と今日』

"君が居ない 君がいる 繰り返すだけ

 君と別れて また別の君を愛した"

大森靖子 『東京と今日』

 

 

仙台に生まれ育った。

母も父も大好きだった。兄のことも姉のことも、好きだった。

高校の友達のことも、好きだった。

 

でも、仙台から離れたかった。

どうしてかわかんないけど、大学はなるべく遠くに行きたいと思った。

誰もぼくのことを知らない土地で、見知らぬ人に会って、生活したいと思った。

ゼロからすべてが始まるのは、怖いよりもワクワクした。

近所のセルバに寄ったら中学のときの同級生に会うとか、高校の同級生と大学でも一緒に行動するとか、嫌だった。

 

大阪に行きたいと思った。

遠い場所だし、文化や雰囲気も全然違って、今とは何もかもが変わるような気がした。

母は遠くに行くことを寂しがったが、ぼくの希望は強かった。

大学で何をするかとか、どうでもよかった。

ただ、遠くに行きたかった。

 

第一志望にした大阪の大学には、落ちてしまった。

自分の学力レベルなんて気にせず土地で選んだから、ちょっと背伸びし過ぎたようだった。惜しかったのだけど。

後期日程で、学力的にちょうどよかった千葉の大学には受かった。

「千葉なんて」と、あまり乗り気じゃなかったけど、ひとり暮らしできることは嬉しかった。

家族も友達も好きな人も、ピアノも好きなゲームも漫画も、慣れ親しんだあの道もあの橋もあの坂も、ぼくの世界のすべてだった仙台を離れて、ぼくは千葉に来た。

大学で、ゼロから作るんだと思った。

不安だけど、ぼくひとりで作るんだと思った。恋愛だって自由にしたいし、何もかもが冒険だと思った。ワクワクした。

 

家を離れる前に、言うべきだと思った。

今を逃したら、一生言い出せなくなるような気がした。それは嫌だった。

母と姉に、自分がゲイであることを告白した。

夏に帰省した際には、父と兄にも同じく告白した。

けじめがついた、という感じがした。

さらにひとつ、自由になった気がした。

 

千葉からは、電車一本で東京に行けるということを知った。

電車に三十分も揺られれば、そこはもう東京だった。

東京には、なんでもあると思った。なんでも。

物も、文化も、人も、なんでも。

 

君に出会った。

好きになって、告白をした。

人生で初めての失恋をした。大泣きしながら、友達と電話して、たくさん慰めてもらった。

君にお別れを告げた。

 

君に出会ったり、違う君に出会ったり、君に出会ったりした。

友達は増えていった。君とはもう随分、長く一緒にいるような気がした。

街ですれ違うように、短い付き合いだった君もいた。

でも、君はずっと居てくれるから、平気だった。

 

やがて、君とお別れすることになった。

君とも、君とも別れて、それでも、君とは一生ずっと一緒にいようねって言った。

長い付き合いの友達だった君とは、だんだん疎遠になっていった。

 

ずっと一緒にいようねって言った君とも、お別れすることになった。

気付いたら、母とも父とも、兄とも姉とも、高校の友達とも誰とも、遠い場所に来てしまっていた。

すれ違って、すれ違って。君を見つけて、君と別れて。

 

なんでもあると思ってた東京には、なんにもなかった。

それでもまた、新しい君に会って、嬉しくなってしまう。願ってしまう。

 

この街で、なんかしたいって思ったんだ。

君が居ない、君がいる、君が居ない、君がいる、君が居ない、君がいる。

ひとりぼっちぶったり、君が居なくなったり、孤独を受け入れたり。

遠くに光る、あの人を、見つけたり。

 

この街で、「なんかしたい」って思ったんだ。

ぼくが、ぼくに出会ったこの街で。

信じたことだけが本当になる、この街で。

 

"僕はもう大人だから願いごとは僕で始末をつけるのさ"

 

ひとつひとつの貴重な縁を、大切に結んで、今日と今日を繋ぎ合わせてるんだ。

空に叫んだりしながら、ぼくはもう大人だから、ぼくの願いを胸に描いたり刻んだりしてくんだ。

なかったことにされた I love you について

2年弱くらい前に、大阪の人がぼくのことを好いてくれていた。

彼は大阪から千葉までわざわざ来てくれて、飲みに行ったり、一緒にディズニーシーに行ってトイストーリーマニアに乗ったりした。

幕切れは簡単で、「弄ばれているような気がする」と言われて、彼との関係は終わった。

弄んでいる気なんて1 mmもなくて、単純に、「今日はゲイの友達と遊びに行く」とか、「今週はやることがあるから会えない」とか、そういうことを報告していただけだった。ぼくが自由に行動しているということに対して、彼が勝手に疑心暗鬼になっただけのことだった。

彼から連絡が来なくなり、「まあ、そういうこともあるのか」と思って、ぼくはぼくの日常に戻った。ごめんね、と言ったけど、きっと彼にとっては、それすら「ぼくが彼を弄んでいる」というストーリーに勝手に組み込まれてしまったんだろうな。そんなことないのに。

 

 

昔から、誤解を受けやすかったような気がする。「被害妄想」はとても嫌だけど、キャラクター付けしやすい容姿と性格なのは事実だと思う。

「綺麗売り」とか、「あざとい」とか、まあ要は「かわいこぶってる」的な扱いをされることが多くて、それはぼくの顔が童顔&割と八方美人で良い格好しいだからそう思われやすいんだと思う。

ぼくは人に嫌われることとか、人を傷つけることとか、人に怒られることが本当に苦手だ。だから人の求めるものを敏感に嗅ぎ取って、なるべく自然な感じに提供するよう努力する。「計算してる」とか「かわいこぶってる」キャラクターとして認知されると、「自分が人に阿諛追従した結果なんだな」と、納得する気持ちと、一方で、「それがぼくの本質じゃない」と反発したくなる気持ちが入り混じる。

好意的にいじられるのなら嬉しいけど、そういうキャラクターとして押しこめようとされることも多くて、「それは誤解だ!」と思う気持ちもとても大きい。自分のことを誤解されたくなくて、「中身は割とおやじですよ」とか、「ご飯はひとりで食べること多いし、お酒はビールでも焼酎でもなんでも好きです」とか、よくわかんないけど「かわいこぶってる子」とはかけ離れていそうなイメージを提示しもしたけど、それすら、「あ~そういう感じね」と、全部、「かわいこぶってる」のイメージの中に放り投げられてしまって、余計にその属性を強くされもした。

「その売り方じゃいつまでもやってけないよ~」と冗談半分に言われることがある。その度、「売り方?」と思う。ぼくはぼくでいるだけだよ、と思う。ゲイの人はよく、自分を「売る」という表現をするけど、ぼくはそれが意味わかんなくて、「売り方を考える」とか、「いやいや。そもそも誰にも売ってねーし」と思ってしまう。誰かに好かれるための自分がメインなんじゃなくて、自分が思う自分が最初にあるじゃんと思う。

もちろん、人からよく思われたいという気持ちはある。

でも、そこがメインじゃない。「人からよく思われたい」って気持ちなんて、誰でもあると思うのに、ぼくだけ相手の勝手に用意したストーリーに乗せられて語られる意味がわからなかった。何を言っても、その枠の中にはめられてしまう。そういうやりとりを繰り返して、そのうち自分の誤解を解くなんて無駄な努力だなと思うようになった。そのイメージも含めて、自分なのかもしれないと思った。その用意された自分イメージにあえて自分から乗る方が、楽にやり過ごせる場面だっていっぱいあった。自業自得かもしれない。でも、それでも、勝手に相手が用意した「かわいこぶってる子」という像に無理くり当てはめられて語られるのは、理不尽だと感じた。ぼくはぼくなのに。ぼくは、キャラクターとか属性とかの前に、ぼくの意思にしたがって生きているのに。

 

 

人が人のことを「わかる」なんて、ありえない話なのかもしれない。

人々が大森靖子について語るとき、椎名林檎について語るとき、宇多田ヒカルについて語るとき、お前は一体何を知っているんだと思う。

ひとつの発言を取り上げて、そのニュアンスも真意も文脈も全部なかったことにして、記号的で味のしないそれを振り回して暴力的な論を繰り出す。その場に大森靖子椎名林檎宇多田ヒカルもいないから、「違う!」と言える人はいなくて、自分の都合の良いように機械的に言葉を解釈して、一瞬を永遠とか絶対にして、自分の主張を強化するための材料にする。

「靖子ちゃんは、わかってくれるんだ」って言う。

ごめんなさい、ぼくはそういうことを平気でしてしまう。ぼくが「嫌だ!」って思ってたことを平気でしてしまう。「人をイメージで語るな!」って言っておきながら、枠に当てはめて、語ったり扱ったりしてしまう。人を捉えるとき、雑なイメージみたいなものとか発言の一部とかをピックアップしてしまうことも、多い。されたら嫌なことなのに。

でも、誠実でいたいなとは思ってるんだ。意図的に、誰かを傷つけたり、馬鹿にしたり、貶めたり、そういうことをしたいなんて思ってないんだ。イメージに人を当てはめてしまっても、それは無意識にしてしまっていることで、悪気があってのことじゃないんだ。

その無意識に後で気づいて、それから発した「ごめんなさい」って言葉すら、「被害者ぶってる」なんて言われたら、ぼくはどうすればいいんだろう。なるべく、人を傷つけたり、怒らせたりはしたくなくて、平和に和気あいあいとやってたい、みたいな気持ちなんだけどな。

でも、「悪気ない」って一番性質が悪いよね。悪気なければ、傷つけていいんすかっていう。

 

気持ち悪い。

 

人と関わると、ふざけんなって気持ちと、愛してるよって気持ちと、ぼくは悪くないって気持ちと、楽しい気持ちにさせたいなって気持ちと、いろんなのが、全部全部、嘘偽りなく混在していて、そのどれもが本当だから、怒られると、吐きそう。

泣きたいし、実際泣くし、ごめんなさい、って言うけど、それは全部、自己弁護してるだけなのかな。「被害者ぶってる」って、本当のことかもしれない。ごめんなさい。あ、また自己弁護。

でも、自己弁護じゃなくて「ごめんなさい」してるぼくもいるんです。愛してるよって、思ってるぼくもいるんです。気持ち悪いですね、そういう自分ばっかり出すようにしてるから、「本当はそんなこと思ってもないくせに」って思われちゃうのかもしれない。

でも、本当なの。別に信じなくてもいいよ、クソがって思うけど。

 

“I love you

 I love you

 I love you

あとはつまらないことさ”

 

靖子ちゃんの “I love you” って曲の歌詞。

I love you 以外はつまらないことなんだって。

ぼくの、つまらなくないことを、なかったことにしないでほしい。

 

ぼくの気持ちとか性格とか人間性とか勝手に都合よく補って悪者にしないでよ!!!

なるべく誠実に伝えるように頑張るからさ!!!

だからぼくにも伝えてよ!!!

面倒でもぶつかり合わなきゃ本当じゃないでしょ、一方的に言い逃げとかしないで言葉を丁寧に放って向かい合わせてくださいなかったことにしないで!!!!!

 

 

傷つけて本当にごめん。

 

ここにいて

風邪をひいた。

大学院を卒業するための修士論文を、4日で書いた。

ふつうは1、2ヶ月くらいかけて書くものなんじゃないかな。多分。

僕にとっては、修士論文なんて超どうでもよかったから、なるべく執筆期間を短くしたかった。

ここ最近ずっと忙しくって、朝起きて、学校に行ってパソコンとにらめっこしてた。お昼ごはんは、コンビニでプラスチックみたいなおにぎりとカップラーメンを買って、そそくさと食べて、またパソコンのキーボードを叩く。

夜まで座って、誰とも話さなくて、またコンビニに行って、pH調整剤とか添加物とかいっぱい入ったパンを食べる。生きるための食事ではなく、死なないための食事。味わう必要はなく、カロリーが摂取できればそれでいい。お腹がそれなりに満ちたら、またパソコンに向き合う。

やることは終わらないけど、深夜2時を過ぎたあたりで、ストーブの元栓が閉まっているか確認して、誰もいない研究室をあとにする。

外は寒くって、すぐに手がかじかんでしまう。

スーパーブルーブラッドムーンだかなんだか知らないけど、今日はそんなのどうでもいいな。昨日の月の方が、綺麗だった。

自転車のハンドルを握って、下を向いてペダルをこぐ。

 

一日誰とも触れ合わなかった指先が、空しいって泣いてる。

毎日、硬いものばかりに触れている。

ドアノブ、パソコンのキーボード、五百円玉、コンビニおにぎりの袋、ボールペン、スマホ、自転車のハンドル。

昨日と今日の何が違ったんだろう。

「やばくないか? これ。やばくない?」

 

風邪をひいた。咳が止まらない。

朝起きて、マスクをつけて家を出る。マスクをしていると、外気のにおいがわからなくなる。

においのしない町、味のわからないごはん、光る画面しか見ない目、イヤフォンの音しか聞かない耳。

わかったようなこと言って、悟ったようなふりして、結局こんなことしている。お前の命、こんなもんなのか。病院で処方された薬を5粒も飲んで、舌の奥が苦い。

「もっとやれるのに、もっともっとやれるのに。僕、こんなんじゃないのに」

『もっと』って、じゃあ何?

 

徹夜とかして、風邪でぼろぼろになりながら、修論を適当に仕上げた。

研究室を早くあがって、新しく出たYUKIのシングルコレクション『すてきな15才』を買いに行く。

大根。大根食べたい。

駅まで歩きながらそう思った。外食でなくて、ましてやコンビニのごはんでもなくて、生きてるものが食べたかった。

大根。あとネギ。それから鶏肉。にんにくも。

でもご飯より前に、YUKIのCD買おう。

駅に着いて、改札口をぬけて階段を上って、ホームにある青い椅子に座った。咳が止まらなくて、マスクをしていたけど電車に乗るのが申し訳ない気がした。きっと周りの人に嫌がられるだろうな。

やがて電車がやってきて、乗り込むと、誰も彼もがスマホをいじっていた。

7人掛けの椅子に座っている人、ほぼ全員。スマホをいじっていなければ、イヤフォンで音楽を聴いていた。僕が咳をしていても、嫌がる素振りすらされなかった。

スマホをいじっている人を見ると、最近、「美しくない」と思ってしまう。電車の席一列、全員がいじっているときなんかは、「やばくない? これ。やばくない?」って僕の頭の中でブザーが鳴る。まったく気にならないときもあるし、僕もスマホ頻繁にいじっちゃうけど、でも思ってしまう。美しくないし、なんか怖いし、さみしい。

違う方向に視線を移すと、席に座ってお化粧をしている女の人がいた。手鏡を見ながら、丁寧にマスカラをつけていた。

電車で化粧をすること、マナー違反だとされてるけど、気持ちはわかるなって思っちゃう。僕がもし女の人だったら、しちゃうかもな、と思う。急いで電車に乗り込んで、「あーやばいやばい、お化粧お化粧」って。

でも電車の席でお化粧してる人を見ると、やっぱりなんか、スマホを見てる人みたいに、さみしいって思っちゃう。

なんでなんだろうって考えたら、「ここにいないから」なのかもしれないと思った。

目の前にいるのに、「ここ」にいない。

 

僕は高校1、2年生のとき、学校まで地下鉄を使って通っていた。

仙台の地下鉄はそれほど混んでいなくて、でもガラガラというほどでもなかった。

当時はまだスマホはそれほど普及していなくて、大体の人はガラケーだった。ガラケーの時代には、電車の中で携帯をいじる人なんてあまりいなかった。ガラケーでできるゲームなんてたかが知れてるし、LINEのように離れた人とリアルタイムで言葉をやり取りする文化もなかった。

だから、地下鉄に乗っている人は、大体「ここ」にいた。無防備で、でも全身で、そこにいた。

僕は地下鉄に乗るのが好きだった。本を読むでもなく、大抵はぼうっとして過ごした。窓の外にたまに見える景色とか、流れる広告とか、それから、こっそり人のことを観察するのが好きだった。

「あのおじさん、さっきからコクン、コクン、って首が揺れるけど、何に頷いてんだろ」

「あっ、あのお姉さんいま絶対油断してる! めちゃくちゃだらしない顔してる!」

「あそこのお兄さんイケメンだな~、スーツってやっぱしゃっきり見えるな」

こういう観察は、いつも一つの危ない可能性を孕んでいた。

「あ! やっべ、目合っちゃった!!」

視線が合うと、コクンコクンおじさんには「何見てんだよ」って思われそうだし、油断お姉さんにはなんとなく申し訳ないし、イケメンお兄さんとなら嬉し気まずいし、とにかく何かしらの「人間と人間」という、心の動きがあった。それは、生きてる人間が同じ空間にいれば必ず起こるはずの感情の揺れだった。

 

でも、今は。

スマホを覗き込んでいる人達は、観察していても面白みがなかった。だって絶対目合わなそうだし、「あの人何考えてんのかな」とか思えない。ゲームしてるならそのゲームに熱中してるんだろうし、LINEしてるならその友達のこと考えてるだろうし、ネットならそのネットの文章読んでるんだろうし。

みんな「ここ」にはいなくて、どこか遠い場所にいるようだった。電車はそれなりに混んでるから体の距離は近いのに、心の距離は途方もない遠さだね。

お化粧してるあの女の人も、これから会う人に、自分の顔をよく見せるためにお化粧をしているのだ。

そう。化粧とは「見せる」ためにするものなんだ。

つまり、あの女の人にとって、「見せる」対象の人間はこの電車にいないのだ。この電車の中にいる存在を、極端に言ってしまえば人間として見なしてなくて、「見る」「見られる」の関係が成り立っていないのだ。僕たちは「見せる」対象にならないのだ。

こんなにたくさん人間がいるのに、みんな断絶していて、なんか恐ろしい。美しくない。

 

化粧をしてる女の人の前には、大学生くらいの男の子がつり革につかまって立っていた。片手で文庫本を開いて、読んでいる。

僕はそれを見て、ちょっと安心した。

「あ、やっと【ここ】にいる人がいたー」って。

そう思ってから、あれ、でも待てよ。と考えた。

本を読んでいる人だって、「ここ」にはいないのでは? ずっと遠くの物語の世界に行っているのでは?

うーん、でも、本を読んでいる人は、たとえどれだけ熱中していても、「ここ」にいる感じがするんだよなあ。この違いはなんなんだろ。

うんうん唸って考えていると、一つの答えに辿り着いた。

「本は物質として、ここにあるから、それを読んでいる人も【ここ】にいる感じになるのかもしれない」

小説家の江國香織さんが、昔こんなようなことを言っていた。

『物語は場所を必要とするんです。本棚であれどこであれ、【本】という物質として体積をとる。だから私は、作品を電子書籍にはしたくない』

江國さんの言葉を、前まではあまり理解できなかったけど、今なら少しわかる気がする。

物質として存在することは、世界の中にそれが含まれていること、異世界なんかじゃない現実の中にそれが存在することを強くするのかもしれない。

スマホをいじっている人は、その中の世界が現実の容積に対してあまりに広すぎて、ときどき「スマホ」をいじっているということを忘れてしまう気がする。スマホは所詮、スマホなのだ。

VRの技術が発達して、将来マトリックスみたいにVRの世界で生きられたような気になっても、それは結局、『VRの装置に映しだされた映像を見ている現実の自分』に過ぎない。

物質として存在するものは、『現実の自分』という感覚を忘れさせないでいてくれる気がする。本を読む自分は、『現実世界で生きる本を読む自分』なのだということをわからせた上で、本はその中の世界に連れていってくれる感じがする。ページをめくると、段々と終わりに近づいていく。

画面の向こう側にはなんでもあるような、無限に広いような錯覚を覚えてしまうけど、きっと違う。現実はいつだって「ここ」にあるし、スマホは手のひらの中にあるだけ。ニュースのできごとも手のひらの中じゃなくて、「ここ」の延長にある、現実の「あそこ」で起こってることなんだ。画面の中にはなんでもあるけど、なんにもない。

 

そんな当たり前のことを考えていると、やがて電車が目的の駅に着いた。

イオンモールの中に入っているタワレコで、予定通りYUKIのCDを買った。あ、てか今の時代CDじゃなくてデータでも曲買えるのか。でもやっぱり、物質があるっていいよなー。

それから、CDの隣に置いてあったライブDVDまで買ってしまった。5分くらい迷ったけど、「ええいままよ!」と思って買った。後悔はしてない。金が欲しい。

CDとライブDVDを買ったあとで、最寄り駅でもないのにイオンで大根を買った。丸々1本。それから長ねぎも1本、鶏もも肉とにんにく、それから塩さばも買った。

スーパーの袋をぶら下げながら、帰りの電車に乗った。

袋から長ねぎがはみ出していて、湿度の高い車内の空気に触れていた。死んだみたいな電車の空間に、生きているものがあることが嬉しかった。「みんなーネギだよ~! これから僕これ食べるよ~」と謎の宣言を心の中でしながら、タワレコとスーパーの袋持って電車に乗ってる僕を、みんなどう思ってるんだろ、と気になった。みんな画面の向こうに夢中で、僕のことなんて誰も見てなかったかもしれないけど。

家に帰って、塩さば以外の買った食材を全部入れてスープを作った。

煮込んでほろほろにやわらかくなった、念願の大根を一口食べたとき、「あ~久しぶりにやわらかいものに触れた!! 生きてるー」と思った。鶏もも肉も、くたくたの長ねぎも、まるまる一片のにんにくも、全部全部、僕の体になってくれると思えた。

それから、YUKIのCDを早速聴いた。

CDにはセルフライナーノーツの書かれたブックレットも入っていて、とても良かった。

YUKIのやわらかな声と、『巨大化した愛、わけて』もらった。

たっぷり眠って、次の日朝起きると、風邪は随分とよくなっていた。

あれはね

あれはなんだろう

夕陽を映す湖のまたたき

 

あれはなんだろう

夕焼けに目を細める赤子の黒目

 

あれはなんだろう

北の町で生まれ育ったあの子の三つ編み

 

あれはなんだろう

初めての逢引きは石畳に光る水溜まりの夕暮れ

 

あれはなんだろう

乾いた掌は富士山のよう

 

あれはなんだろう

まだ見たことのない、懐かしい景色

 

あれはなんだろう

ぼくらのやって来た場所

ぼくらの還るところ

あたたかで、お婆ちゃんのしわしわの掌

蓮の花の開く永い時間

 

あれはなんだろう

あれはなんだろう

 

ぼくらの覚えている、まだ忘れてしまった灯り

夕暮れ時に、トンビが鳴いた

一匹、二匹

お空に手を伸ばして跳ねる

届かないけど楽しいな、届かないけど楽しいな

ひんちゃかめかちゃ、たったらたったら

トンビが西へと帰ってく

ひんちゃかめかちゃ、たったらたったら

 

あれはなんだろう

ぼくらのいつか、還りゆくとこ

感情ちゃんと大丈夫くん

昨年の終わりあたりから、自分の中に「感情ちゃん」と「大丈夫くん」がいることに気がついた。

彼らはぼくの中で日々勝手に遊びまわり、大声で叫んだり静かに座りこんでいたりする。

ぼくは自分の核というか、コントローラーみたいなもので二人の手綱をとっている。

彼らのうち、どちらかを特に大切にしなければならない、ということはない。どちらのことも、尊重してあげなければならない。

感情ちゃんは名前の通り、感情を司っていて、「とっても嬉しい!」とか、「すごく悲しい……」とか、「めちゃくちゃ面白い~」とか、「ふざけんじゃねぇぞ消えろ」とか、「寂しくて心細い」とか、「言葉で表せないくらい感動!」とか、「切なくて、じーんとしちゃう」とか、そういうことを言っている。

大丈夫くんは自分の中の希望とか意思みたいなものを司っていて、「どんなことがあっても、意外と大丈夫だよ」とか、「平気平気、あしたには笑えてるよ」とか、「ぼくが一番、ぼくが大丈夫なこと知ってるよ」とか、「どんな気分になっても大丈夫だから安心して」とか、そんなことを言っている。

片方の力が強くなり過ぎるとバランスを失って、とても苦しい状態になってしまうことを、ぼくは経験的に知っている。

 

 

たとえば、ずっと好きな人にふられてしまったとき。

感情ちゃんは、「すごく悲しい……、やり切れない。この世の終わりみたい。これから先の私の人生、なんの希望も残ってない……」みたいなことを言い出す。

もしかしたら、「どうしてこんなことになるの? 告白するんじゃなかった。そもそもあの人はすごく自分勝手!」とか、そんなことを言って怒り出すかもしれない。

一方で大丈夫くんは、「ふられたからって命が尽きるわけでもないし、なんにも問題ないよ。気分だって三ヶ月もすればかなりマシになってるはずだし、大丈夫。それよりもいま残ってるものを見つめなきゃ。家族だって、友達だっているし、それに一人だって人間は大丈夫なものなんだよ」なんてことを言い出す。

もしも大丈夫くんのことをないがしろにして感情ちゃんの力が強くなり過ぎると、冷静に考えることを本体(自分)がやめてしまって、突発的な行動をとってしまうかもしれない。大丈夫くんが、「大丈夫だよ~」と叫んでいるのを無視して、いつまでも浮き上がってこられないような気分になる。それは辛い。

でも逆に、感情ちゃんのことをないがしろにして、大丈夫くんの力が強くなり過ぎるのも、それはそれで辛い。本体(自分)が、「大丈夫にならなきゃ。ぼくは大丈夫なんだ」と思い込もうとしてしまう。けどそう思おうとしても、感情ちゃんは悲しんだままだから心の底からは大丈夫と感じられないし、そういう「感情ちゃん無視」の状態を引きずると、「何も感じられない」という状態になってしまう。

大切なのは、感情ちゃんと大丈夫くんを、どちらも大事にしてあげるということだ。

よしよし悲しかったんだね、こんなに傷ついたんだから怒るのもしょうがないね、と言ってあげる。その上で、大丈夫くんの声にも耳を澄ませる。しっかり二人の言うことを聞いてあげると、彼らは手を取って明るい方向へと向かってくれる。

「怒り」や「嫉妬」なんかのネガティブな感情は、ついつい否定してしまいたくなるけれど、まず認めてあげる。感情ちゃんの存在をなかったことにせず、認めてあげる。

感情を他者のせいにも、自分のせいにもせず、まずは自分の中に湧きあがったその感情を直視して、認めてあげる。

「そうかそうか、ぼくの中ではこんな感情が生まれたのか。これは、ぼくの感情だ」

それを眺めて、そっとしておいてあげる。

感情は感情ちゃんが司っているものであって、本体である自分は、それを操縦しているだけだ。だから、ネガティブな感情を抱いたって自分を責める必要はないし、感情ちゃんは自分の中にいるものだから、他者のせいにすることもできない。

どうして悲しいのか、どうして怒りが湧くのか、どうして嫉妬してしまうのか。問題の根本を見つめて、考えて、他者に何か伝えるべきことがあれば、伝える。自分の考えを変える必要があるのなら、自分の判断で変える。自分の気持ちや感情に、責任をとる。

感情ちゃんがなぜ嬉しがっているのか、悲しがっているのか、考えてもわからないこともある。自分の中にいるはずなのに、他人みたい。不思議。

でも、仲良くやってこうね。

本体として、二人のことをこれからも大切に尊重して生きていきたいと思う。

誘惑してくれ

画面ばかり眺める理論家は、世界のなに一つも知らない。

いつも恋に飛び込む気分屋は、馥郁たる世界を知っている。

 

 

傍観者でいることが客観的であることだと、一体いつまで思ってる?

上手く立ちまわろうとして、袋小路に追い詰められている愚か者は誰?

本当に欲しいものが、努力なしに手に入る桃源郷はどこ?

 

 

当事者であろう。

正直に、誠実に生きよう。

謙虚に、自分と向き合おう。

さあ始めよう2018年。もっともっと、誘惑してくれ。

大晦日と浴室

この家の中で最も安心できる場所が風呂場だ。

いまは午前一時過ぎで、居間に敷いた布団の上で兄夫婦とその子供たち――私にとっての姪と甥――は死んだようにぐっすりと眠っていた。その居間とふすま一枚で仕切られた和室では、今月生まれたばかりの姉の子供が、姉と一緒に眠っている。

私は二階にある自室から、薄い氷の上を歩くかのようにそろりそろりと一階に降り、風呂場に向かった。途中どうしても居間を通る必要があり、明かりの点いていない真っ暗な部屋の中を、スマートフォンの光で照らしながら進んだ。ドアの開け閉めは、落ちている埃が一つも舞わないのではないか、というくらい慎重に行った。洗面所のドアを完全に閉めてから、わざとらしく大きなため息をつく。

ああ、年末年始は碌なことがない。実家になんか、帰ってきたくなかった。

憂鬱な気分に浸ろうとしたが、そうするには洗面所はあまりに寒すぎた。私は足裏を守るようつま先立ちになりながら、急いで服を脱いだ。裸になると、脱いだ服を洗濯機に入れることもせずそのまま風呂場に入り込んだ。

浴槽のふたは開けっ放しになっていて、風呂場は温かな蒸気で充ち満ちていた。視界がわずかに、ゆらりと揺れたような気がした。寒さに硬直していた体が、糸を緩めたようにだらしなく弛緩していく。風呂椅子に座ると、曇った鏡越しに呆けたような女の顔が映った。

 

 

二つ上の姉が、電話越しに結婚と妊娠を同時に告げたのは、今年の二月のことだった。

「あたし、結婚するから。お腹に赤ちゃんもいる」

「そう」

「……驚かないの? 次は絶対あんたの番だって、口うるさく言われるよ」

「うん、だろうね」

もともと、「結婚しろ、孫の顔を見せろ」とうるさかった両親が、姉の妊娠を機に一層煩わしくなるだろうことは目に見えていた。

八つ上の兄が結婚し、子供を生んだときは、まだ私は姉のことを隠れ蓑にすることができたが、姉が結婚しては、それももうできない。

隠れ蓑のない私は、帰省することをなるべく避けた。春も帰省せず、夏になっても帰省しないと言い張る私に、母はしつこく電話をかけてきた。

「お盆休みくらいとれるでしょう。どうして帰ってこないの」

「……友達と遊ぶので忙しいの」

「あんたね、友達なら週末に会えばいいじゃない。流石に年末は帰ってくるんでしょうね」

「年末? お母さんまだ五月だよ? どうしてそんな先の話いまからしなきゃいけないの」

「だってあんた、お盆に帰ってこないなら年末くらいしかないじゃない。その頃には十和子の子供だって生まれてるだろうし、お正月には実篤叔父さんも帰ってくるんだからね」

「実篤叔父さん? インドからわざわざ?」

母はそうよ、と自信たっぷりに言った。インドから岩手に比べたら、千葉から岩手なんて大したことないでしょう、と。私は何も言えなかった。

「とにかく、年末には絶対帰ってきなさいよ。じゃあね」

電話は一方的に切られて、ツー、ツー、という機械的な音が耳に虚しく響く。悪いのは私ではないはずなのに、なぜか私は、イタズラをして叱られた子供のようないたたまれなさを感じていた。

その電話以来ずっと、年末年始のことを想像するだけで、私は苦虫を噛み潰したような気持ちになった。

親戚の集まりがこんなにも重視されるのは、私が岩手の片田舎で育ったせいだろうか。毎年毎年正月になると、長男である父の家には親戚が山のようにやってきて、それぞれの仕事の話や、土地の相続の話など、それこそ毎年同じような話が繰り返される。そして最後には決まって、「結婚はまだなのか」「子供を生むなら早い方がいい」という話を、親戚の皆からされるはめになる。

去年まではターゲットが姉に集中していたからまだよかったものの、今年からはその矢印が全て私に向くと考えると、身の毛のよだつ思いだ。私はその矢印を、ぎこちない笑顔で全て受け止め、「そうですねえ」などという曖昧な相槌でやり過ごさなければならない。

帰らない、という選択肢も一瞬頭に浮かんだが、そんなことをしては親戚中にどんなことを言われるかわからない。何せ、インドで仕事をしている叔父まで帰ってくるというのだ。

結婚とか子供とか、ほとんど私には呪詛のように聞こえる。

 

 

頭を洗い、体を洗う。

シャワーで流しきれなかったわずかな泡を、浴槽のお湯を汲んで、体にかけることで洗い流す。湯は私の体に沿うことなく、意思的に真っ直ぐ落ちていく。

風呂桶を置いてから湯船に足先を入れる。温度に驚かないように、ゆっくり体を浸していき、最後には肩まで浸かる。しばらくそうしていると、血液が指や足先の毛細血管まで開ききったように流れて、体が熱くなるのを感じた。窓に結露した蒸気が大きな水滴となり、蛇行しながら磨りガラスを下降していく。

誰も侵入してくることのない、安心な空間。風呂場だけは、実家であろうと安心することができる。

いつから、こんなに家族のことが嫌になったんだろう。いつから、実家がこんなに居心地の悪いものになったんだろう。

ゆらゆらと照明の光を反射しながら、水面の下で自分の手がいつもより大きく見える。両の手のひらで湯を掬うと、はたはたと雫が落ちていき、やがて手のひらの皿は空っぽになった。

結婚ってそんなにいいものだろうか。まだ二十四なのに、子供のことなんてもう考えないといけないんだろうか。

幼い頃は、年をとればとるほど、色々なことがわかるようになると思っていた。父の仕事の話や母の世間話が、わかるようになると思っていたけど、現実は逆で、大人になるほど彼らの言うことがわからなくなった。当たり前だけれど、私と父は違う人間で、私と母も違う人間で、分かり合うどころか、考え方の違いをどんどん受け入れられなくなった。違いに向き合うほど、彼らの古臭い考えを拒否したくなった。

実家を離れて、一人で暮らすことはとても楽だ。離れて、家族や親戚と都合のよい距離を保つこと。父と母には感謝している。私をここまで育ててくれたこと。でも、近くにいると辛くなるのだ。近づくほど、嫌いになる。

息を大きく吸い込んで、湯の中に沈み込んでみる。周囲の沈黙すら遠ざかって、自分の心臓が脈打つ音が聞こえる。

不思議と苦しくなかった。ゆっくりと数を数える。いち、に、さん、し、ご、ろく。息を口から一気に吐き出すと、遠くの方で太鼓を叩いたような、くぐもった音が聞こえて、私は泡と一緒に勢いよく湯船から顔を出した。

 

 

風呂からあがり、体を拭いて自分の部屋に戻る。居間を通るときは、空き巣に入ったかのように足を忍ばせる。それぞれ二歳と五歳になる姪と甥は、兄と義姉に挟まれてぐっすりと眠っていた。

電気ストーブを点けたままにしておいたおかげで、二階の自分の部屋は暖かいままだった。スマートフォンを手に取って、明かりを消してから布団の中にもぐり込む。スマートフォンは暗がりの中で見ていると、その明るさにときどき驚いてしまう。手のひらで光る、ぼんやりと青白い光を眺めている私は、客観的に見たらきっと酷く醜いのだろうな、と思う。

画面の照度を最小にしてからTwitterのアプリを立ち上げると、深夜であるせいかタイムラインの流れは遅かった。タイムラインの一番上、つまり最新の呟きは、Twitter上でのみ繋がっている、「自称」専業主婦のアカウントのものだった。彼女が本当に専業主婦なのか、私が知る術はない。その人の呟きの内容は、『何でも質問してください』という文言と共に、「質問箱」というサービスに繋がるリンクが張ってあるものだった。「質問箱」は最近流行っているサービスで、要は匿名の質問を送ることのできるサイトのことだ。

私は正直、「質問箱」なんてTwitterに投稿する人の気がしれないと思っている。有名人じゃあるまいし、自分に興味を持つ人間がそんなにたくさんいるとでも思っているのだろうか。

その専業主婦のことは、好きな歌手やアイドルが似ていたからか、フォローされたのでフォローし返しただけだった。彼女のアカウント名は、『Towa』。プロフィールページに飛ぶと、案の定、質問箱からの質問はほとんどきていなかった。数少ない質問は、『何カップなんですか?』とか、『旦那さんはなんの仕事してるんですか?』といった、下らない質問ばかりだった。それに対して、その専業主婦は恥ずかしがったり、嫌がる素振りを見せながらも結局は応じている。私は、我が意を得たりとばかりに、彼女のツイートを遡っていった。こんなサービス、自己承認欲求の強い人が堂々とその欲を満たすためのものに過ぎない。

しばらく彼女の過去のツイートを眺めていると、リアルタイムで彼女が新たに呟いたことに気づいた。

『暇だから、なんでもいいから質問してください』

私は思わず苦笑する。それからつい、ただの気まぐれで、そのツイートのリンクボタンを押してみた。『早速なにか質問してみましょう』という言葉と、その下に空欄の表示された画面が表示される。

少し考えてから、この専業主婦の暇つぶしに付き合ってあげることにした。本当は専業主婦なんかではなく高校生かもしれないし、そもそも女ではなくおじさんかもしれないし、誰なのかもわからず、たまたまフォローしていただけだけれど、半ばボランティアみたいな気持ちで質問を送ることにした。

『Towaさんは、年末は実家に帰ってるんですか?』

フリック入力でそれだけ書くと、私は雑な手つきで、『質問を送る』ボタンを押した。

返事はすぐにきた。

『はい、今月産んだばかりの娘と一緒に実家に帰っています』

新しい呟きが、私の送った質問の画像とともにタイムラインに流れる。

あきれた、と思う。産まれたばかりの娘がいるのに、携帯なんていじっている暇はなかろう。それとも、本当はやはり専業主婦なんかではないのかもしれない。

もう一度質問画面に飛び、質問を送ってみる。

『娘さんが産まれたばかりなのに、携帯なんていじってる暇あるんですか?』

いじわるな質問を送ってしまったから、無視されるかと思った。しかし予想に反して、返事はすぐに呟かれた。

『もうすぐで授乳の時間ですが、娘がぐっすり眠っているので大丈夫です』

思ったより普通の返事が返ってきたので、なんだか拍子抜けした。そして、そんな風に感じている自分を、意地が悪いとも思った。

想像しているより、普通の人なのかもしれない――。

我ながら単純だけれど、返事の文面を見てそう思った。

時刻はすでに午前二時半を回っていたが、私は勢いに乗って、さらに質問を送ってみた。

『Towaさんは実家が好きですか?』

やはり間を置かず、彼女はすぐに呟いた。

『実家は正直、あまり好きではありません。でも年始に親族が集まるので、帰らないわけにはいかなくて、仕方なく帰っています(笑)』

私はしばらくのあいだ、画面に見入ってしまった。文字のひとつぶ、ひとつぶが、転がるように私の中に入ってきて、内側で私にくっついた。口の中で小さく、返事の文面を復唱する。「実家は正直、あまり好きではありません。でも年始に親族が集まるので、帰らないわけにはいかなくて、仕方なく帰っています」

同じだ、と思った。私と同じだ。

どこの誰だか、顔も、年齢も、住んでいる場所もおそらく違う人が、私と同じようなことを感じている。

その事実は、私の思い込みかもしれなかったが、私を少なからず驚かせ、同時に慰めた。

私は彼女のことをもう、非常識で自己承認欲求の強い専業主婦だとは思わず、心の暗い部分を分け合った近しい存在のように感じた。

私はもう一度、質問箱のリンクへと飛び、空欄部分を文字で埋めた。思いの外長い文章になってしまったが、匿名であるということが私に勇気を与え、私は返事がくるよう半ば祈るような気持ちで、『質問を送る』ボタンを押した。

タイムラインを一番上までスクロールしてから、何度も画面を指で下に引っ張る。十二回目の更新の操作をしたところで、私の質問の文とそれに対する返事が、タイムラインに現れた。

『Towaさん、何度も質問してすみません。私もいま年末で実家に帰っているのですが、年始にある親戚の集まりが嫌で仕方がありません。私はまだ未婚ですが、両親や親戚から毎年、「まだ結婚しないのか」と責め立てられます。実家の居心地がすごく悪くて、そして毎年これが繰り返されることを考えると、とても辛いです』

質問ともいえないようなその文に対する返事は、びっくりするほど短かった。

『逃げちゃえばいいんじゃないんですか』

簡潔で無責任なその言葉が、私の胸を打った。逃げちゃえばいいんじゃないですか。

トンネルの中で大声を出したみたいに、頭の中で言葉が反響する。そうか、と思った。そんなに嫌なら、逃げちゃえばいいんだ。そんなことをしたらどうなるとか、色々と考えるよりももっと、物事は簡単なのだ。嫌なら逃げるか、逃げないで嫌なことを受け入れるか。

実際に行動に移すことなんて、しっかり考えたことがなかったけれど、逃げるという選択肢だって、私にはあったんだ。

妙にすっきりと澄んだ頭で、私はTwitterの画面を閉じ、代わりにインターネットの画面を開いた。夜行バスのサイトに繋いで、岩手から東京へと向かう便を検索する。いまは、大晦日の午前三時。夜行バスの中で年を越したい人はそう多くないらしく、当日にも関わらず、大晦日発の夜行バスは空きがまだ四席もあり、価格も3,200円と、とても安かった。

予約画面に飛んで情報を入力し、予約を完了させる。それからスマートフォンを切って、充電器に繋いだ。

布団に再び潜り込むと、直前までスマートフォンの画面を見ていたからか、瞼の裏に四角や三角の星が瞬くような気がした。

 

 

姉の十和子から電話がかかってきたのは、正月の気配も街からすっかりなくなった一月の末のことだった。

「もしもし、お姉ちゃん? どうしたの」

私はちょうど自分の家で、風呂に入っているところだった。いつものようにスマートフォンを浴室に持ち込んでいたので、電話にはすぐに出ることができた。

「もしもし沙耶? どうしたのじゃないわよ、あなたふざけてるの?」

姉は口にした言葉と相反して、いまにも笑い出しそうな声で言った。

「ふざけてるのって……、何が」

私は姉が何について言っているのか、わざと知らないふりをする。

「いまのいままで音信不通だったじゃない。正月のあいだ中、何度うちの親があんたに電話かけたことか」

「三十七回よ。はじめてこんなに不在着信溜めちゃった」

そう言うと姉は、我慢できなくなったようにあははと笑った。

「あたしもこの電話、繋がるとは思わなかったもん。でも繋がってよかった」

うん、と私は言って、スマートフォンを持っていない左手で湯船の湯を掻いた。ちゃぽん、と間抜けな音が響く。

「……あんたいま、お風呂入ってるの?」

「うん。でもどうして」

「水の音がするもの。それに声がやたらと響いて聞こえる」

そう、と答えて、再び私は湯を掻く。ざば、じゃば、ちゃぽん。姉には、こちらから電話をかけようと思っていた。聞きたいことがあったけれど、こちらから切り出す勇気がなかった。

「お姉ちゃん。お父さんとお母さん、何か言ってた? 私、勘当されちゃったかな」

勘当される、というのは、半分は冗談だったが、半分は本気だった。それくらいのことを、彼らはするのではないか、と私は恐れていた。

姉は、「沙耶さあ」と言って、少しのあいだ黙った。私は緊張と諦めを浮かべながら、姉の次の句を待った。しかし姉の言葉は予想外のものだった。

Twitterって、やってる?」

「は?」

「だから、あんたTwitterやってる?」

「……やってるけど、なんで、いまそんなこと」

私は戸惑って、言い澱んだ。姉は受話器の向こうで、少し微笑んだ気がした。確かではないが、そんな気配がした。

「多分だけどさ、大晦日の日に質問箱で質問送ってきたでしょ。実家の居心地が悪いんですって。あのアカウント、あたしだから」

姉は得意気な様子で、すらすらと話し続けた。

「ほら、アカウント名のTowaって、十和子だから、Towaなんだし。気付かなかった?」

私は口からあぁ、とも、うぅ、とも言えない相槌を発した。驚いて、何を言えばいいのかわからなかった。少ししてようやく冷静になり、

「……でも、どうしてあの質問が私だってわかったの? あれ、だって匿名じゃない」

と姉に尋ねた。

「あたしも、最初はまさか、と思ったわよ。実家での親戚の集まりが嫌な人なんて山ほどいるだろうし。でも、あたしが質問箱で、『逃げればいいじゃない』って返事したその日に、あんた実家からいなくなったから、もしかしたらそうかなって」

私は再び、あぁ、とも、うぅ、ともつかない相槌を打った。こちらの声はきっと浴室内でよく響いて、姉の耳に間抜けに聞こえるだろうと思った。

「お父さんもお母さんもね、沙耶のこと怒ってなんてないわよ。ただいきなりいなくなったから、すごく心配してる。……ううんごめん嘘。二人ともちょっと怒ってる。でも、勘当なんてするわけないよ」

「そうかな。私は、あの人達がよくわからないから」

「あたしもさ、結婚して子供産むまでは、あの人達は自分のことなんてどうでもいいんだろうなって思ってた。ただ結婚して、子供産んで、『一族の繁栄に貢献させるための存在』としてしか見てないのかと思ってた。でもそれは違って、あの人達は単に視野が狭いだけなんだよ。結婚して、子供を産むことこそが幸せなんだって、思い込んでる。子供たちが幸せになってほしくて、そう言ってるだけなの」

「うーん、そうかな。だとしたら見当違いも甚だしいけど」

「そういうもんよ。まあ、あたしは結婚も出産もしたから他人事で言えてるだけかもしれないけど。兎に角、あたしが言いたかったのはそれだけ。声聞けてよかった、またね」

電話を切ると、ほっとしたのか肩の力がゆるゆると抜けたのがわかった。浴槽から出ないまま、手を伸ばして洗面台にスマートフォンを置く。

足を伸ばして、つま先を湯船の上に出す。足の爪に、昨日塗った藍色のペディキュアが夜みたいに光っていた。

両親が私のことを想っているのなら、私は一体、何から逃げたんだろう――。

両親や親戚の、「結婚や出産が幸せ」という価値観を、私が変えることはできないだろう。その違いに向き合うことから、私は逃げたのかもしれない。正面から向き合うのは、あまりに疲れるから。

浴槽の底にある、新月の月のように黒く丸い栓を抜くと、溜まったお湯が栓の外れた穴に轟々と流れ込んでいく。水位が低くなってくると、渦を巻くようにしながら残りの水が消えていく。この小さな栓ひとつで、これだけの量のお湯を塞き止めていたということが私には不思議だった。

体についた水をバスタオルでふき取って、化粧水だけつけてから髪をドライヤーで乾かす。パジャマに着替えて、部屋のベッドの上に腰かける。浴室に持ち込んだせいでわずかに濡れたスマートフォンを、バスタオルでぬぐってから実家の電話番号を押す。

違いに向き合うことが疲れるのなら、せめて同じ方向を向いていたい。

父に何を言うか、母に何を言うか、頭の中で上手くまとめられないまま、私はいつまでもいつまでも、電話の呼出音を聞いていた。