悪魔と天使

僕の人生の一瞬一瞬は、本当は尊いはずで、あなたの人生の一瞬一瞬も、本当に尊いはずで、だけれどときどきそれを忘れてしまう。

 

あなたと会うということは、僕とあなたの時間を共有することで、ふたつの心の距離が変化し続ける感じがして、人生の一番大切なことのひとつで。

ふたつの心はふたつのままで、その清い孤独を、愛という名前をしているらしい、何かが、ふたつのままにやわらかく包んでくれる気がしている。

あなたの気持ちに応えられないとき、僕は、愛を伝えているのか、呪いをかけているのかわからなくなる。

 

わがままに、あなたの人生を軽んじることや、約束を果たすことのできない未熟さ。完璧じゃない方が、人間らしく色っぽいことだと、開き直ってしまうのは明るさなのか、ずるさなのか、僕にはまだわからない。誠実でないこと、甘えや弱さのように思う。

 

後ろめたさからなのか、虚栄心なのか、孤独からの逃避か、あなたを前にすると、不必要にひとつになりたがる。

それはやっぱり、甘えだったかもしれない。

 

ありがとうと言ってくれてありがとう。

ごめんなさいと言わせてしまってごめんなさい。

僕が人間的に優しいのか、それとも優しさに見せかけた自身の弱さを投げつけていたのか、あまり自信はない。

陰と陽のように、引き離せないものなのだろうか。本当の優しさと、誠実さと、人間的な可愛らしさを身に付けたい。

 

僕は多分に悪魔的で、多分に天使的だ。

あなたの成長と、健康と、幸せを願っています。願うことは、純粋な愛だとまだ思えるから。

あなたなら、きっと大丈夫ということも、かなり信じられるのです。

 

ひとまずさようなら。お元気で。

きれいな執着

仕事帰り、新宿駅の南口で待ち合わせをする。

君の髪が随分短くなっていることに気づいて、似合ってるよと言う。ありがとう、と言われる。

テニスのガットを張り替えるためだけにわざわざ新宿まで来たと言う君に、何それ、と笑ってみる。普通じゃない? と君が言う。

降りたことのない駅で降りたい、という、ただそれだけのわがままで、東京メトロ丸ノ内線に乗る。荻窪で降りようかと言っていたけれど、もっと近いから新高円寺で降りた。

新高円寺」って、なんか「高円寺」より強そう。「改高円寺」とか、「真高円寺」とかも、ありそう。

そう思ったけど、恥ずかしいから口にしなかった。

その駅に降りるのは、ふたりとも初めてのことだった。それが嬉しかった。

 

新高円寺は、大したことのない駅だった。スーパーや不動産屋はあるけど、肝心の飲み屋はほとんどなくて、結局、ぼくたちは高円寺駅の方に向かって歩いた。

まっすぐの道は、下り坂。ラーメン屋を横目に見ながら、君が地形に関してよくわからないことを言う。台地なんだ、とかなんとか。

もしかしたら、谷かもしれない。ここに川が流れていて。

そんなこと、考えもしなかったから、見えている世界がこうも違うのかとぼくは思った。やっぱりそれも、嬉しかった。

 

高円寺駅の周辺は、金曜の夜なのに大して混んでいなかった。

居酒屋はたくさんあって、ぼくたちは一軒一軒、店を吟味して歩いた。

ぼくは日本酒かワインを飲みたい気分だった。ホタルイカのサラダを出している店があって、とても惹かれた。でも歩いているうちに、一杯目はどうしてもビールを飲みたくなった。焼肉屋が何軒もあって、道沿いの看板に写された写真を見るうちに、ふたりとも、焼肉を食べたい気分になった。

飲み放題が2時間で880円の店があったから、安いね、と言い合って入った。

安い焼肉屋と思って、あまり期待していなかったが、その店は和牛を扱う店だったようで、思いの外、メニューは豪勢だった。

生ビールは、ハイネケンが置いてあって、ぼくはそのビールにあまり美味しいイメージがなかったのだけど、その店で飲むそれはとても美味しかった。一杯どころではなく、焼肉屋にいるあいだ中ぼくたちはハイネケンを飲み続けた。

「瓶だとあまり美味しくないけど、生は旨いんだよ」

君がそう教えてくれた。

「ホルモン食べられる?」

「うん」

「セロリ食べられる?」

ぼくがうん、と言うと、

「好き嫌いあんまりないんだね」

と言われた。なんだか、誇らしい気持ちになった。

大きなカクテキ、セロリのキムチ、ハヤシライスみたいな味のする牛筋の赤ワイン煮込み、ホルモン(焼き具合で油の量を調節できて良いんだよ、と君は言った)、和牛の盛り合わせ、上ミスジ、あとハイネケンとマッコリ。

たらふく飲んで、たらふく食べた。社会人ぶって、お代はぼくが出した。君がトイレに行っているあいだに会計しようと思ったのに、スマートにできなくて笑われた。

 

 

 

生きている証が執着そのものなのだとしたら、ぼくは、きれいに執着してたいな。

何かに執着するのは、格好悪いことだと思っていた。

何にも執着しないで、自由に、すべてを忘れて生きるのは格好いいけど、ぼくには忘れたくないことがたくさんある。山ほどある。それは増えていく。

そのときどきで、ちょっとずつ、どうせ忘れていくのだから、忘れたくないことを大切にすることだっていいのかもしれない。

きっと全部、極端なのは苦しいんだ。

ぼくは真ん中で生きていきたい、軽やかに、楽しく、喜んで、ご機嫌に生きてたい。

きれいに執着して、きれいに手放して、ぼくのすべてはぼくが決められることを、確かめながら、生きていきたい。

 

あの日、二軒目に行ったホタルイカのお店で、君が選んでくれた鳥取の赤ワインはすごく美味しかった。

KIMOCHI

現代。着地点は俺が決めるから、地に足はついてる

ずっと楽しいキブン。身体が変わっちまった、この世のすべては楽しい

あの日の身体、忘却の彼方、同じ身体

 

泥船なんかじゃない、色っぽいこの信念、生意気な身体

 

だんだん、日々を忘れて

だんだん、意味も、思想も、君も忘れて

自由なキモチ

 

身体が変わっちまった!

 

だんだん、すべて忘れて、自由な楽しいキモチ

つまらねえ憂鬱や、

くだらねえ孤独や、

くりかえされる諸行無常や、

やるせねえ性的衝動や、

何も知らず笑うガキへの郷愁や、

もうたぶん、ぜんぶ忘れっちまったんだあ

それが善いとか悪いとか、ぜんぜん分かんないけど

 

ヘンタイの思想は共感できん

共感できんけど、それは俺を脅かさない

俺は俺でゆくよ

 

悲しいキブンなんて、吹き飛ばしてやるんだ!

 

子供みたいなキモチ

大人みたいなキモチ

勇敢なキモチ

自由な楽しいキモチ

過去は愛おしいけど、置いてくよ

バイオリズムにのっとって、身体が変わっちまった

 

俺は俺でゆくよ

俺は、俺でゆくよ!

世界は当たり前に美しくて尊いってことを、忘れないための日記

カーリング女子銅メダル獲得おめでとう~!!!

たまたま今日、夕飯を食べに定食屋さんに行って、そこのテレビでカーリング女子の試合が流れてた。

そこの定食屋さんは、中国人かな? と思われる、ちょっとカタコトの元気がいい女の人と、白髪まじりでにっこり人の好さそうなおじさん、そして大学生くらいの男の子がやっているお店だった。

ぼくがご飯を食べてるあいだ中、その3人はわいわいずっと楽しそうに話をしていた。家族なのかもしれない。女の人が携帯を新しく買ったらしくて、その携帯の話をしたり、女の人が電話で誰かに、「迎えにいくぅー?」とか訊いて、それに男勢2人が笑ったりとか、なにで盛り上がってるのかはよくわかんないけど、幸せな雰囲気だった。

ぼくはジューシーチキンカツ定食を頼んで、それが運ばれてくるとき、オリンピックのカーリングでちょうど、日本はイギリスに3対2で負けているところだった。女の人はぼくに、

「日本負けそうだね~」

と言った。ぼくはカーリングの知識があまりなかったから、そうですねえ、と返したら、男の子の方が、「まだ第7エンドで1点差だからわかんないよ」と女の人に言った。

チキンカツと白飯、それからチキンカツにつけるマヨネーズの量を、いい感じにバランスよく食べることに気を配りながらご飯を食べていると、男の子の言った通り、日本はイギリスをだんだんと追い上げていった。

ぼくが座るカウンター席のうしろのテーブル席で、男の子とおじさんは一緒に座って、2人でテレビを見ながらあーだこーだ言ってた。

「もうちょっと伸びればスーパーショットだったのになー」

「マジで3、4センチの世界だかんね」

「イギリスうめぇ」

ぼくの背中越しの会話を聞きながら、徐々にカーリングのルールを把握しつつ、試合の行く末をぼくは眺めていた。男の子の声かおじさんの声か、どっちかわかんないけど、片方の男の人の声が渋くて、かっこよかった。

こうやって、当たり前に日本人を応援して、ミスに悲しんだり、リードすることに喜んだり、その背後には選手の日々の果てしない努力や練習があったり、相手のイギリスチームの選手のお兄ちゃんが会場に応援に来てたり、それでも全力でお互い勝ちに向かって妥協せず試合を行っていたり、カーリング女子のかけ声に店員の女の人が「なに言ってんのか全然わかんなーい」って言って、男の子が「日本語」って冷たくあしらったり、カーリング女子の選手の顔がみんなめちゃくちゃに可愛かったり、チキンカツとマヨネーズと白飯を完璧なバランスで食べ終えることができたり、そういうの全部に泣きそうになった。

「騒がしくってごめんねー」

会計のとき、おじさんはにっこり笑顔でそう言ってくれた。渋い声はどうやら、男の子の方だったらしい。

「いえいえ! 全然、ぼくもカーリング楽しく見られましたし」

おじさんの笑顔はすっごい優しくて、正直、ご飯の美味しさは普通くらいだったけど、それだけでお腹いっぱいになった。当たり前に美しかった。

おつりを貰って、ありがとうございましたと告げる。

「ごちそうさまでしたー! 美味しかったです」

ありがとうございましたー、と店員の女性とおじさんに言われる。男の子は、テーブルでなんだかパソコンと睨めっこしてた。優しい気持ちで店を出て、コインランドリーで乾いた服を回収、カーリングの結果どうなったかなと思って家に帰ったら、5対3で日本勝ってた。やったね。おめでとう、日本!!

 

昨日の夜、シリアの東グータ地区に住む、15歳の少年が撮影した自撮り動画を見てから、ずっと悲しかった。ずっと悲しくて、辛くて、やるせなかった。爆弾はあちこちで落ちていた。がれきに囲まれた街。壊れたぼろぼろの教室。

「私はMuhammed Najem。15歳です。私は東グータ地区に住んでいます」

という台詞で始まる動画。

 

“We are killed by your silence.”

 

彼はそう言っていた。

『私たちは、あなたがたの沈黙によって殺されている』

車に運び込まれる傷ついた人々。ボールを蹴りながらスキップしている男の子。

『いま起こっていることは、虐殺です』

『グータ地区の子どもたちは、食糧も飲料もないです』

 

 

『人々はシリアで起こっていることのすべてを知るべきです』

 

シリアで内戦が起こっているということは、知っていた。けど、ぼくはすぐに忘れてしまっていた。目の前のことでいっぱいになって、大学のこととか、知人を傷つけてしまったこととか、友人とLINE電話で話すこととか、お酒飲んで眠ってるあいだに顔に落書きされたこととか、きょうのご飯なに食べよっかなとか、そういうので埋め尽くされる。すぐ忘れる。

すぐ忘れるくせに、こういうのを見ると、すぐ泣く。すごく悲しくて、どうして、なんの罪もない人々が、毎日爆弾や銃声に怯えて暮らさなければいけないんだろう、命の保証がまったくない毎日を過ごすというのは、どういう気持ちなんだろう、大半の日本人を含め、シリアの内戦のことをなにも知らずにのうのうと生きているなんて、なんて罪深いんだろう、助けてくださいってこんなに言ってるのに、なんでなんでなんでなんで、って、思ってしまう。

「そういう風に思う自分に、酔ってるんじゃないの?」って、自分を客観視してる自分が言う。偽善者、なんもしてないくせに、いまのいままでずっと忘れてたくせにって、言われる。それでも、涙は止まらない。シリアにいる人たちは、日本にいる人たちと、なに一つ変わらなくて、普通に笑ったり、普通にサッカーしたり、普通に美しいものに感動したり、普通に怒ったり、ご飯美味しいとか言ったり、普通に普通に普通に生きてたはずなのに。普通に生きてるのに。なんも変わんないよ。なんも変わんないんだよ? 人間なんだよ? 生きてるのに、なんでたまたまシリアに生まれただけで、たくさんの人の肉がえぐれたり、血が流れたり、死体がたくさんあったり、友人と離ればなれになったり、家族が死んだり、しなきゃいけないの?

シリアに生まれたのなら、しょうがない。って言うのは、多分、知らないから。想像力、想像力、想像力、想像力。

シリアの人々のことを思うと、「なんて自分は恵まれていて幸せなんだ」と思う。

不謹慎と言われるかもしれないが、そう思う。でも、「あー日本に生まれててよかった、ラッキー」という意味じゃない。いや、ラッキーなのかもしれないけど、そこで思考は終わらなくて、その裏にあるアンラッキーのことを考えてしまって、悲しい。ご飯食べても、お水飲んでも、悲しい。なにか喜ぶことが、悲しい。だって、シリアでは、いまも命の危険に怯えたり、家族や友人の死に打ちひしがれる人がいるのだから。

 

そういう気持ちで過ごしていると、辛い。素直に嬉しいって思えなくなるし、コンビニで、可愛い女の子が、すごい無機質に機械的な接客をしてるだけで、すごく悲しい気分になってしまったりする。部屋で少し泣く。

ぼくは、毎日明るく、できるだけ笑顔で喜んで生きていたいって思ってる。し、ちょっとずつ、そういう自分になれてるとも思う。

でも、たくさん笑えてる自分でもありたいけど、たくさん悲しんでる自分でもいたいし、ちゃんと傷つきたい。ちゃんと傷つきたいし、ちゃんと悲しさに寄り添いたいし、ぼくがシリアの人のことを思ってもなんも変わんなくて、部屋でぼくが泣いた、という事実ただそれだけで、無力で、内戦が起こった経緯とか調べても、それはぼくが部屋でただインターネットいじってるだけで、なんも変わんなくて、でもちゃんと知りたいし、知るべきだし、ちゃんと悲しみたいし、ちゃんと喜びたい。

生きてるってめちゃくちゃ気持ち悪いけど、めちゃくちゃ気持ち悪くなきゃ、めちゃくちゃ気持ちよくなれない。

めちゃくちゃ悲しまなきゃ、めちゃくちゃ喜べない。ぼくは命を燃やしたい。

結局は自分のためかもしれないけど、人のために生きてたい。

日本に住んでる限り、めちゃくちゃ幸せでなきゃ失礼だと思う。でも、現実、日本に住んでる人で「めちゃくちゃ幸せ」と思ってる人少なそうだし、シリアのことなんてあんま誰も言及しないし、他人事だと思ってるし、てかぼくだって一昨日まで忘れてたし。シリアだけでなく、世界にはたくさんの悲しみがあって、それ全部はカバーできないし。でもシリアのことを思うほど、幸せでいなきゃいけないのに悲しくなるし。コンビニの接客くらいで泣きたくなるし。

実際、幸せな人も、シリアのことをぼくの何十倍と考えている人もいるのに、悲しみに呑まれると、そういうマイナスなことを考えてしまう。

だから、やっぱり明るくいたい。誰かやなにか発信じゃなくて、自分発信で、明るくいたいし、明るくしたい。生産性のある思考をしたい。

 

そんな気持ちだったから、定食屋さんで見た景色は、すごーく綺麗だったな。オリンピックの選手のお顔、とても美しかったな。店員さん、みんな可愛かったな。

世界は当たり前に美しくて尊いっていうこと、思い出させてくれた。

世界は当たり前に美しくて尊い

その当たり前は、当たり前じゃないけど、世界は当たり前に美しくて尊いんだ。

ぼくには姪っ子がいるけど、姪っ子とか、生まれたばかりの甥っ子とかまたまた姪っ子とかに、世界は当たり前に美しくて尊いってことを、信じていてほしい。

信じたものだけが真実だから。信じることだけが本当だから。

 

 

 

世界は当たり前に美しくて尊いってことを、忘れないための日記。

ぼくの『東京と今日』

"君が居ない 君がいる 繰り返すだけ

 君と別れて また別の君を愛した"

大森靖子 『東京と今日』

 

 

仙台に生まれ育った。

母も父も大好きだった。兄のことも姉のことも、好きだった。

高校の友達のことも、好きだった。

 

でも、仙台から離れたかった。

どうしてかわかんないけど、大学はなるべく遠くに行きたいと思った。

誰もぼくのことを知らない土地で、見知らぬ人に会って、生活したいと思った。

ゼロからすべてが始まるのは、怖いよりもワクワクした。

近所のセルバに寄ったら中学のときの同級生に会うとか、高校の同級生と大学でも一緒に行動するとか、嫌だった。

 

大阪に行きたいと思った。

遠い場所だし、文化や雰囲気も全然違って、今とは何もかもが変わるような気がした。

母は遠くに行くことを寂しがったが、ぼくの希望は強かった。

大学で何をするかとか、どうでもよかった。

ただ、遠くに行きたかった。

 

第一志望にした大阪の大学には、落ちてしまった。

自分の学力レベルなんて気にせず土地で選んだから、ちょっと背伸びし過ぎたようだった。惜しかったのだけど。

後期日程で、学力的にちょうどよかった千葉の大学には受かった。

「千葉なんて」と、あまり乗り気じゃなかったけど、ひとり暮らしできることは嬉しかった。

家族も友達も好きな人も、ピアノも好きなゲームも漫画も、慣れ親しんだあの道もあの橋もあの坂も、ぼくの世界のすべてだった仙台を離れて、ぼくは千葉に来た。

大学で、ゼロから作るんだと思った。

不安だけど、ぼくひとりで作るんだと思った。恋愛だって自由にしたいし、何もかもが冒険だと思った。ワクワクした。

 

家を離れる前に、言うべきだと思った。

今を逃したら、一生言い出せなくなるような気がした。それは嫌だった。

母と姉に、自分がゲイであることを告白した。

夏に帰省した際には、父と兄にも同じく告白した。

けじめがついた、という感じがした。

さらにひとつ、自由になった気がした。

 

千葉からは、電車一本で東京に行けるということを知った。

電車に三十分も揺られれば、そこはもう東京だった。

東京には、なんでもあると思った。なんでも。

物も、文化も、人も、なんでも。

 

君に出会った。

好きになって、告白をした。

人生で初めての失恋をした。大泣きしながら、友達と電話して、たくさん慰めてもらった。

君にお別れを告げた。

 

君に出会ったり、違う君に出会ったり、君に出会ったりした。

友達は増えていった。君とはもう随分、長く一緒にいるような気がした。

街ですれ違うように、短い付き合いだった君もいた。

でも、君はずっと居てくれるから、平気だった。

 

やがて、君とお別れすることになった。

君とも、君とも別れて、それでも、君とは一生ずっと一緒にいようねって言った。

長い付き合いの友達だった君とは、だんだん疎遠になっていった。

 

ずっと一緒にいようねって言った君とも、お別れすることになった。

気付いたら、母とも父とも、兄とも姉とも、高校の友達とも誰とも、遠い場所に来てしまっていた。

すれ違って、すれ違って。君を見つけて、君と別れて。

 

なんでもあると思ってた東京には、なんにもなかった。

それでもまた、新しい君に会って、嬉しくなってしまう。願ってしまう。

 

この街で、なんかしたいって思ったんだ。

君が居ない、君がいる、君が居ない、君がいる、君が居ない、君がいる。

ひとりぼっちぶったり、君が居なくなったり、孤独を受け入れたり。

遠くに光る、あの人を、見つけたり。

 

この街で、「なんかしたい」って思ったんだ。

ぼくが、ぼくに出会ったこの街で。

信じたことだけが本当になる、この街で。

 

"僕はもう大人だから願いごとは僕で始末をつけるのさ"

 

ひとつひとつの貴重な縁を、大切に結んで、今日と今日を繋ぎ合わせてるんだ。

空に叫んだりしながら、ぼくはもう大人だから、ぼくの願いを胸に描いたり刻んだりしてくんだ。

なかったことにされた I love you について

2年弱くらい前に、大阪の人がぼくのことを好いてくれていた。

彼は大阪から千葉までわざわざ来てくれて、飲みに行ったり、一緒にディズニーシーに行ってトイストーリーマニアに乗ったりした。

幕切れは簡単で、「弄ばれているような気がする」と言われて、彼との関係は終わった。

弄んでいる気なんて1 mmもなくて、単純に、「今日はゲイの友達と遊びに行く」とか、「今週はやることがあるから会えない」とか、そういうことを報告していただけだった。ぼくが自由に行動しているということに対して、彼が勝手に疑心暗鬼になっただけのことだった。

彼から連絡が来なくなり、「まあ、そういうこともあるのか」と思って、ぼくはぼくの日常に戻った。ごめんね、と言ったけど、きっと彼にとっては、それすら「ぼくが彼を弄んでいる」というストーリーに勝手に組み込まれてしまったんだろうな。そんなことないのに。

 

 

昔から、誤解を受けやすかったような気がする。「被害妄想」はとても嫌だけど、キャラクター付けしやすい容姿と性格なのは事実だと思う。

「綺麗売り」とか、「あざとい」とか、まあ要は「かわいこぶってる」的な扱いをされることが多くて、それはぼくの顔が童顔&割と八方美人で良い格好しいだからそう思われやすいんだと思う。

ぼくは人に嫌われることとか、人を傷つけることとか、人に怒られることが本当に苦手だ。だから人の求めるものを敏感に嗅ぎ取って、なるべく自然な感じに提供するよう努力する。「計算してる」とか「かわいこぶってる」キャラクターとして認知されると、「自分が人に阿諛追従した結果なんだな」と、納得する気持ちと、一方で、「それがぼくの本質じゃない」と反発したくなる気持ちが入り混じる。

好意的にいじられるのなら嬉しいけど、そういうキャラクターとして押しこめようとされることも多くて、「それは誤解だ!」と思う気持ちもとても大きい。自分のことを誤解されたくなくて、「中身は割とおやじですよ」とか、「ご飯はひとりで食べること多いし、お酒はビールでも焼酎でもなんでも好きです」とか、よくわかんないけど「かわいこぶってる子」とはかけ離れていそうなイメージを提示しもしたけど、それすら、「あ~そういう感じね」と、全部、「かわいこぶってる」のイメージの中に放り投げられてしまって、余計にその属性を強くされもした。

「その売り方じゃいつまでもやってけないよ~」と冗談半分に言われることがある。その度、「売り方?」と思う。ぼくはぼくでいるだけだよ、と思う。ゲイの人はよく、自分を「売る」という表現をするけど、ぼくはそれが意味わかんなくて、「売り方を考える」とか、「いやいや。そもそも誰にも売ってねーし」と思ってしまう。誰かに好かれるための自分がメインなんじゃなくて、自分が思う自分が最初にあるじゃんと思う。

もちろん、人からよく思われたいという気持ちはある。

でも、そこがメインじゃない。「人からよく思われたい」って気持ちなんて、誰でもあると思うのに、ぼくだけ相手の勝手に用意したストーリーに乗せられて語られる意味がわからなかった。何を言っても、その枠の中にはめられてしまう。そういうやりとりを繰り返して、そのうち自分の誤解を解くなんて無駄な努力だなと思うようになった。そのイメージも含めて、自分なのかもしれないと思った。その用意された自分イメージにあえて自分から乗る方が、楽にやり過ごせる場面だっていっぱいあった。自業自得かもしれない。でも、それでも、勝手に相手が用意した「かわいこぶってる子」という像に無理くり当てはめられて語られるのは、理不尽だと感じた。ぼくはぼくなのに。ぼくは、キャラクターとか属性とかの前に、ぼくの意思にしたがって生きているのに。

 

 

人が人のことを「わかる」なんて、ありえない話なのかもしれない。

人々が大森靖子について語るとき、椎名林檎について語るとき、宇多田ヒカルについて語るとき、お前は一体何を知っているんだと思う。

ひとつの発言を取り上げて、そのニュアンスも真意も文脈も全部なかったことにして、記号的で味のしないそれを振り回して暴力的な論を繰り出す。その場に大森靖子椎名林檎宇多田ヒカルもいないから、「違う!」と言える人はいなくて、自分の都合の良いように機械的に言葉を解釈して、一瞬を永遠とか絶対にして、自分の主張を強化するための材料にする。

「靖子ちゃんは、わかってくれるんだ」って言う。

ごめんなさい、ぼくはそういうことを平気でしてしまう。ぼくが「嫌だ!」って思ってたことを平気でしてしまう。「人をイメージで語るな!」って言っておきながら、枠に当てはめて、語ったり扱ったりしてしまう。人を捉えるとき、雑なイメージみたいなものとか発言の一部とかをピックアップしてしまうことも、多い。されたら嫌なことなのに。

でも、誠実でいたいなとは思ってるんだ。意図的に、誰かを傷つけたり、馬鹿にしたり、貶めたり、そういうことをしたいなんて思ってないんだ。イメージに人を当てはめてしまっても、それは無意識にしてしまっていることで、悪気があってのことじゃないんだ。

その無意識に後で気づいて、それから発した「ごめんなさい」って言葉すら、「被害者ぶってる」なんて言われたら、ぼくはどうすればいいんだろう。なるべく、人を傷つけたり、怒らせたりはしたくなくて、平和に和気あいあいとやってたい、みたいな気持ちなんだけどな。

でも、「悪気ない」って一番性質が悪いよね。悪気なければ、傷つけていいんすかっていう。

 

気持ち悪い。

 

人と関わると、ふざけんなって気持ちと、愛してるよって気持ちと、ぼくは悪くないって気持ちと、楽しい気持ちにさせたいなって気持ちと、いろんなのが、全部全部、嘘偽りなく混在していて、そのどれもが本当だから、怒られると、吐きそう。

泣きたいし、実際泣くし、ごめんなさい、って言うけど、それは全部、自己弁護してるだけなのかな。「被害者ぶってる」って、本当のことかもしれない。ごめんなさい。あ、また自己弁護。

でも、自己弁護じゃなくて「ごめんなさい」してるぼくもいるんです。愛してるよって、思ってるぼくもいるんです。気持ち悪いですね、そういう自分ばっかり出すようにしてるから、「本当はそんなこと思ってもないくせに」って思われちゃうのかもしれない。

でも、本当なの。別に信じなくてもいいよ、クソがって思うけど。

 

“I love you

 I love you

 I love you

あとはつまらないことさ”

 

靖子ちゃんの “I love you” って曲の歌詞。

I love you 以外はつまらないことなんだって。

ぼくの、つまらなくないことを、なかったことにしないでほしい。

 

ぼくの気持ちとか性格とか人間性とか勝手に都合よく補って悪者にしないでよ!!!

なるべく誠実に伝えるように頑張るからさ!!!

だからぼくにも伝えてよ!!!

面倒でもぶつかり合わなきゃ本当じゃないでしょ、一方的に言い逃げとかしないで言葉を丁寧に放って向かい合わせてくださいなかったことにしないで!!!!!

 

 

傷つけて本当にごめん。

 

ここにいて

風邪をひいた。

大学院を卒業するための修士論文を、4日で書いた。

ふつうは1、2ヶ月くらいかけて書くものなんじゃないかな。多分。

僕にとっては、修士論文なんて超どうでもよかったから、なるべく執筆期間を短くしたかった。

ここ最近ずっと忙しくって、朝起きて、学校に行ってパソコンとにらめっこしてた。お昼ごはんは、コンビニでプラスチックみたいなおにぎりとカップラーメンを買って、そそくさと食べて、またパソコンのキーボードを叩く。

夜まで座って、誰とも話さなくて、またコンビニに行って、pH調整剤とか添加物とかいっぱい入ったパンを食べる。生きるための食事ではなく、死なないための食事。味わう必要はなく、カロリーが摂取できればそれでいい。お腹がそれなりに満ちたら、またパソコンに向き合う。

やることは終わらないけど、深夜2時を過ぎたあたりで、ストーブの元栓が閉まっているか確認して、誰もいない研究室をあとにする。

外は寒くって、すぐに手がかじかんでしまう。

スーパーブルーブラッドムーンだかなんだか知らないけど、今日はそんなのどうでもいいな。昨日の月の方が、綺麗だった。

自転車のハンドルを握って、下を向いてペダルをこぐ。

 

一日誰とも触れ合わなかった指先が、空しいって泣いてる。

毎日、硬いものばかりに触れている。

ドアノブ、パソコンのキーボード、五百円玉、コンビニおにぎりの袋、ボールペン、スマホ、自転車のハンドル。

昨日と今日の何が違ったんだろう。

「やばくないか? これ。やばくない?」

 

風邪をひいた。咳が止まらない。

朝起きて、マスクをつけて家を出る。マスクをしていると、外気のにおいがわからなくなる。

においのしない町、味のわからないごはん、光る画面しか見ない目、イヤフォンの音しか聞かない耳。

わかったようなこと言って、悟ったようなふりして、結局こんなことしている。お前の命、こんなもんなのか。病院で処方された薬を5粒も飲んで、舌の奥が苦い。

「もっとやれるのに、もっともっとやれるのに。僕、こんなんじゃないのに」

『もっと』って、じゃあ何?

 

徹夜とかして、風邪でぼろぼろになりながら、修論を適当に仕上げた。

研究室を早くあがって、新しく出たYUKIのシングルコレクション『すてきな15才』を買いに行く。

大根。大根食べたい。

駅まで歩きながらそう思った。外食でなくて、ましてやコンビニのごはんでもなくて、生きてるものが食べたかった。

大根。あとネギ。それから鶏肉。にんにくも。

でもご飯より前に、YUKIのCD買おう。

駅に着いて、改札口をぬけて階段を上って、ホームにある青い椅子に座った。咳が止まらなくて、マスクをしていたけど電車に乗るのが申し訳ない気がした。きっと周りの人に嫌がられるだろうな。

やがて電車がやってきて、乗り込むと、誰も彼もがスマホをいじっていた。

7人掛けの椅子に座っている人、ほぼ全員。スマホをいじっていなければ、イヤフォンで音楽を聴いていた。僕が咳をしていても、嫌がる素振りすらされなかった。

スマホをいじっている人を見ると、最近、「美しくない」と思ってしまう。電車の席一列、全員がいじっているときなんかは、「やばくない? これ。やばくない?」って僕の頭の中でブザーが鳴る。まったく気にならないときもあるし、僕もスマホ頻繁にいじっちゃうけど、でも思ってしまう。美しくないし、なんか怖いし、さみしい。

違う方向に視線を移すと、席に座ってお化粧をしている女の人がいた。手鏡を見ながら、丁寧にマスカラをつけていた。

電車で化粧をすること、マナー違反だとされてるけど、気持ちはわかるなって思っちゃう。僕がもし女の人だったら、しちゃうかもな、と思う。急いで電車に乗り込んで、「あーやばいやばい、お化粧お化粧」って。

でも電車の席でお化粧してる人を見ると、やっぱりなんか、スマホを見てる人みたいに、さみしいって思っちゃう。

なんでなんだろうって考えたら、「ここにいないから」なのかもしれないと思った。

目の前にいるのに、「ここ」にいない。

 

僕は高校1、2年生のとき、学校まで地下鉄を使って通っていた。

仙台の地下鉄はそれほど混んでいなくて、でもガラガラというほどでもなかった。

当時はまだスマホはそれほど普及していなくて、大体の人はガラケーだった。ガラケーの時代には、電車の中で携帯をいじる人なんてあまりいなかった。ガラケーでできるゲームなんてたかが知れてるし、LINEのように離れた人とリアルタイムで言葉をやり取りする文化もなかった。

だから、地下鉄に乗っている人は、大体「ここ」にいた。無防備で、でも全身で、そこにいた。

僕は地下鉄に乗るのが好きだった。本を読むでもなく、大抵はぼうっとして過ごした。窓の外にたまに見える景色とか、流れる広告とか、それから、こっそり人のことを観察するのが好きだった。

「あのおじさん、さっきからコクン、コクン、って首が揺れるけど、何に頷いてんだろ」

「あっ、あのお姉さんいま絶対油断してる! めちゃくちゃだらしない顔してる!」

「あそこのお兄さんイケメンだな~、スーツってやっぱしゃっきり見えるな」

こういう観察は、いつも一つの危ない可能性を孕んでいた。

「あ! やっべ、目合っちゃった!!」

視線が合うと、コクンコクンおじさんには「何見てんだよ」って思われそうだし、油断お姉さんにはなんとなく申し訳ないし、イケメンお兄さんとなら嬉し気まずいし、とにかく何かしらの「人間と人間」という、心の動きがあった。それは、生きてる人間が同じ空間にいれば必ず起こるはずの感情の揺れだった。

 

でも、今は。

スマホを覗き込んでいる人達は、観察していても面白みがなかった。だって絶対目合わなそうだし、「あの人何考えてんのかな」とか思えない。ゲームしてるならそのゲームに熱中してるんだろうし、LINEしてるならその友達のこと考えてるだろうし、ネットならそのネットの文章読んでるんだろうし。

みんな「ここ」にはいなくて、どこか遠い場所にいるようだった。電車はそれなりに混んでるから体の距離は近いのに、心の距離は途方もない遠さだね。

お化粧してるあの女の人も、これから会う人に、自分の顔をよく見せるためにお化粧をしているのだ。

そう。化粧とは「見せる」ためにするものなんだ。

つまり、あの女の人にとって、「見せる」対象の人間はこの電車にいないのだ。この電車の中にいる存在を、極端に言ってしまえば人間として見なしてなくて、「見る」「見られる」の関係が成り立っていないのだ。僕たちは「見せる」対象にならないのだ。

こんなにたくさん人間がいるのに、みんな断絶していて、なんか恐ろしい。美しくない。

 

化粧をしてる女の人の前には、大学生くらいの男の子がつり革につかまって立っていた。片手で文庫本を開いて、読んでいる。

僕はそれを見て、ちょっと安心した。

「あ、やっと【ここ】にいる人がいたー」って。

そう思ってから、あれ、でも待てよ。と考えた。

本を読んでいる人だって、「ここ」にはいないのでは? ずっと遠くの物語の世界に行っているのでは?

うーん、でも、本を読んでいる人は、たとえどれだけ熱中していても、「ここ」にいる感じがするんだよなあ。この違いはなんなんだろ。

うんうん唸って考えていると、一つの答えに辿り着いた。

「本は物質として、ここにあるから、それを読んでいる人も【ここ】にいる感じになるのかもしれない」

小説家の江國香織さんが、昔こんなようなことを言っていた。

『物語は場所を必要とするんです。本棚であれどこであれ、【本】という物質として体積をとる。だから私は、作品を電子書籍にはしたくない』

江國さんの言葉を、前まではあまり理解できなかったけど、今なら少しわかる気がする。

物質として存在することは、世界の中にそれが含まれていること、異世界なんかじゃない現実の中にそれが存在することを強くするのかもしれない。

スマホをいじっている人は、その中の世界が現実の容積に対してあまりに広すぎて、ときどき「スマホ」をいじっているということを忘れてしまう気がする。スマホは所詮、スマホなのだ。

VRの技術が発達して、将来マトリックスみたいにVRの世界で生きられたような気になっても、それは結局、『VRの装置に映しだされた映像を見ている現実の自分』に過ぎない。

物質として存在するものは、『現実の自分』という感覚を忘れさせないでいてくれる気がする。本を読む自分は、『現実世界で生きる本を読む自分』なのだということをわからせた上で、本はその中の世界に連れていってくれる感じがする。ページをめくると、段々と終わりに近づいていく。

画面の向こう側にはなんでもあるような、無限に広いような錯覚を覚えてしまうけど、きっと違う。現実はいつだって「ここ」にあるし、スマホは手のひらの中にあるだけ。ニュースのできごとも手のひらの中じゃなくて、「ここ」の延長にある、現実の「あそこ」で起こってることなんだ。画面の中にはなんでもあるけど、なんにもない。

 

そんな当たり前のことを考えていると、やがて電車が目的の駅に着いた。

イオンモールの中に入っているタワレコで、予定通りYUKIのCDを買った。あ、てか今の時代CDじゃなくてデータでも曲買えるのか。でもやっぱり、物質があるっていいよなー。

それから、CDの隣に置いてあったライブDVDまで買ってしまった。5分くらい迷ったけど、「ええいままよ!」と思って買った。後悔はしてない。金が欲しい。

CDとライブDVDを買ったあとで、最寄り駅でもないのにイオンで大根を買った。丸々1本。それから長ねぎも1本、鶏もも肉とにんにく、それから塩さばも買った。

スーパーの袋をぶら下げながら、帰りの電車に乗った。

袋から長ねぎがはみ出していて、湿度の高い車内の空気に触れていた。死んだみたいな電車の空間に、生きているものがあることが嬉しかった。「みんなーネギだよ~! これから僕これ食べるよ~」と謎の宣言を心の中でしながら、タワレコとスーパーの袋持って電車に乗ってる僕を、みんなどう思ってるんだろ、と気になった。みんな画面の向こうに夢中で、僕のことなんて誰も見てなかったかもしれないけど。

家に帰って、塩さば以外の買った食材を全部入れてスープを作った。

煮込んでほろほろにやわらかくなった、念願の大根を一口食べたとき、「あ~久しぶりにやわらかいものに触れた!! 生きてるー」と思った。鶏もも肉も、くたくたの長ねぎも、まるまる一片のにんにくも、全部全部、僕の体になってくれると思えた。

それから、YUKIのCDを早速聴いた。

CDにはセルフライナーノーツの書かれたブックレットも入っていて、とても良かった。

YUKIのやわらかな声と、『巨大化した愛、わけて』もらった。

たっぷり眠って、次の日朝起きると、風邪は随分とよくなっていた。