あの町 あのにおい あの空気

自信を持ちたい

ちゃんと選びたい

ぼくがぼくを選びたい

 

四方が山に囲まれた町で

凍える冬の寒さが空気を満たして

感覚のなくなった体の表面で

目一杯に浴びた星の光 無数の光

 

あの山に灯るのは 道標だろうか

 

ちゃんと選びたい

あなたと一緒にいたい

あなたと一緒にいられる自分を選びたい

 

自信を持ちたい

もっと笑いたい

ゆっくり流れる時間の中で

浮き彫りになるのは本当の自分

 

白い息

ぴんと張り詰めた冬の空気

早い宵闇と遅い夜明け

透き通る遠い空のいつかのグラデーション

 

薪の赤さと 燻されたにおいが

道標だろうか

 

言葉ばかりになって

自信を失くしてわがままになって

泣き出した自分本位な自分

かたくなさ 柔らかく包んでくれる

あなたの口づけで守られた朝

 

大切なものが大切だ

大切じゃないものは大切じゃない

砂時計みたいに溶けていく時間を

利き手じゃない同士の手で

繋ぎ合いたい

 

 

 

ぼくはひとりだ

 

ひとりぼっちは虚しい

ひとりぼっちは悲しい

ひとりぼっちは楽しい

 

あなたもひとりだ

 

ひとりぼっちは寂しい

ひとりぼっちは当たり前だ

ひとりぼっちは楽しい

 

一緒にいられるのなら嬉しい

浮遊する覆い / 遠い国の話

浮遊する覆い 

 

ねえ 別れようとおもえば いつでも別れられるよね私たち

紫の車が光に照らされて 水溜りに浮く油のよう 艶やかに 夜の中

 

ねえ 意味のない会話を いつまで続けるだろう私たち

道行く人のコートが体に触れて 居酒屋の看板のよそよそしい白さ 夜の中

 

 

思い出ばかり

 

 

傷つきたくない

人生に保障なんてない これっぽっちもない

なら どうせなら ちゃんと傷つきたいよ

あなたが相手なら

 

 

細く長い道が濡れている

 

ここに立ち尽くしている私を見て

 

 

声を嗄らす気力も 涙を涸らす体力もないから

 

もうなんにもない私を見て

 

 

言葉尽くすほどに心遠ざかるからって

 

いまは黙った 私を見て 

 

 

 

 

 

 

 

遠い国の話

 

あれはまだうら若き夏の始まり

アスファルト踏みしめて坂道を上る私が君の家に

煙草の灰がソファに落ちるのも気にせず

肩を並べたふたり 香のにおいに捲かれてする 遠い国の話

静かな呼吸と、吸い殻の煙と、遠い国の話

部屋の空気に溶けて すべては幻

 

何もわかってはいない私の話し声

雨に濡れた渋谷の地下にあるバー

酔うことも眠ることもできない君が

忘れることだけできる私の話し声

 

物知りな君がまだ知らないのは 私が話していない世界

あのうす青色の花の名前はプルンバゴ

君の嫌いなアルコール度数の高い安酒に溺れても忘れられない

新宿アルタ前に捨ててきた 私の話

 

君のことを思い返すのはいつも夜

 

 

今はもう老い屈まった冬の始まり

電車の窓から見える景色にこびりついた執着を

上塗りするようにかける電話

しらじらしい街の灯りに酔いしれて

思いの丈はいつも夜色 

君と過ごす 最終局面みたいな毎日

 

君に貰った煙草の味を思い出してばかりの日々を振り子のように繰り返して

煩わしいこの錘を運命と呼ぶなら

行きつ戻りつ 戻りつ 戻りつ

最後には突き放してほしい

理解できない異国の言葉のように

これは遠い国の話だから

名前もわからない花が散って地面に敷き詰めた

君の見てきた遠い国の話だから

からまる

こんな風になるなんて、自分でもびっくりしている

突然にお互いが、お互いの世界に現れて

どんどん知っていってしまうよ

知っていってしまう

 

あの人はとても自立した人

あの人は他人に期待をしない人

孤独を受け入れているように見えて、だから惹かれた

静かに絶望している人だって思ったから、変えたかった

世界は素晴らしいって思ってほしくて

 

ぼくの知らない世界をたくさん見てきた人

だから絶望してほしくなかった

あの人が甘えられる場所をつくりたかった

あの時、あの人は幸せだって言った

もともと絶望なんてしてなかったのかもしれないけど

でも変えられたかなって嬉しかった

 

誰にも言えない。

 

あの人はとても正直な人

あの人はとても優しい人

どんどん知っていってしまうよ

知っていってしまう

 

中途半端な優しさが、一番人を傷つける

どうすればあの人を大切にできるのか

どうすれば自分を大切にできるのか

毎日考えている

毎日手探りしている

 

どうするのが正解なのかが全然わからない

あの人を大切にしようとして、時間を重ねた分だけ

最後には全部裏返ってあの人を傷つけるのかな

ぼくも傷つくのかな

ぼくの優しさは中途半端で、不誠実で、子供じみている

 

恋なんて、始まり方でだいたい行く末も見えるもの

いつまでも同じではいられない

二人とも

当たり前だけれど

 

過ごした時間を、ぼくが、どう捉えるかはぼく次第

あの人が、どう捉えるかはあの人次第

 

いつ決断するの?

迷っているあいだにも、命は燃えてしまう

期限を先延ばしにするほど、あの人を愛してしまう

あの人を傷つけてしまう

 

しゃくしゃく余裕でいたいのに

全然わからない、上手な愛し方がわからない

 

あの人はとても正直な人

あの人はとても優しい人

あの人は

人生の勝ち負け

寝て起きると、部屋がオレンジ色の光で満たされていた。

朝陽か、夕陽かもわからない。枕元の時計を掴むと、4時22分を示していた。が、午前か午後かわからない。ベッドの上で、からだを半分だけ起こして、窓の外を見る。

記憶が、浴槽に勢いよく沈めたタオルが浮かぶように、ゆっくり蘇ってくる。

そうだ、きのうは夜通しネットサーフィンをしていたのだ。夜が明けるころファミリーマートに行って、スパイシーチキンを買って食べた。家について、お腹がすいたと思って、冷蔵庫に入っていた紙パックのカフェオレを、一気飲みした。それから、歯を磨いて、水をがぶがぶと飲んで、ベッドにもぐり、スマートフォンTwitterを眺めているうちに、眠ってしまったのだ。たぶん朝7時か8時。だから、今は夕方。

マットレスを撫でるみたいにして、かけ布団の中を探すと、自分のスマートフォンが見つかった。黒い色をした、シンプルなケースに入っている。

画面をONにすると、デジタルの表示で ”16:24” と表示された。やっぱり、夕方だ。

時刻の下に、”11月18日 日曜日”とも表示されている。もう日曜日が終わろうとしている。信じられない、あしたからまた仕事だ。

からだをもう一度ベッドに横たえて、布団にもぐる。眠気は地平線の向こうに消えていて、見えなくなっていたが、呼び戻すことも不可能ではないように思われた。もう日曜の夕方、信じられない、また一日を無駄にしてしまった、きのうあんな夜更かしをしなければもっと有意義な一日になったのに、まだ休んでいたい働きたくない、そういえばお腹空いた、でもごはんを買いに出かけるのすら面倒くさい、どうしたものか、やはりもう一度眠ろうか。

目をつむっていると、意外なことに眠気は地平線の向こうからのっそり顔を出し、何食わぬ顔をして近づいて来た。ここで彼に身を預けたら、あとで絶対後悔するなとわかっていたけれど、起きていても特に楽しいことはないので身を預けた。眠りは、暗くもなければ明るくもなく、とりあえずの間を埋めるためのBGMのように緩慢とした様子だった。そこに、身を浸した。心地良くもないが、不快でもなかった。

 

 

 

寝て起きると、部屋が緑色の光で満たされていた。

なんの光かはわからない。枕元の時計を掴んだが、何時なのかわからなかった。文字盤がいつもと違うとか、そういうわけではないのだけれど、長針と短針があって、何かを指している。それだけだ。時計の針の長いのと短いのが何かを指しているのだが、そのことはそれ以上でも以下でもなく、なんの意味も成していなかった。自分にはその時計の読み方がわからなかった。これでは、今が昼なのか夜なのかもわからない。ベッドの上で、からだを半分だけ起こして、窓の外を見る。何も見えないわけではないが、何が見えるというわけでもない。寝る前は、何をしていたのだったか。

そうだ、きのうは夜通しネットサーフィンをしていたのだ。夜が明けるころファミリーマートに行って、ATMでお金を下ろした。残高はほんの六百円余りになってしまい、今月暮らしてゆけるのか心配になった。家についたら、実家からみかんや、りんごなんかが届いていて有り難かった。特にお腹はすいていなかったが、口さみしかったのでみかんを一つ手に取り、皮をむいた。皮をむいたけれど、中に入っていたのはなんだったか、覚えていない。みかんだったのか、そうではなかったか。

考え込んでいると、部屋に人が入ってきた。家の鍵は、確実に締めてあったはずなのにそいつは、何事もなかったかのように部屋に入ってきた。そいつは、誰かにそっくりの顔をしていた。誰かとは、自分だった。

「やあやあ」

そいつは鷹揚に言うと、自分の椅子に座った。いや、自分の椅子ではない。なぜなら自分はここにいるからで、そいつは自分のではない椅子に座ったのだった。

「ひとつ教えてあげよう、今日は日曜日だ」

「そうか」

いいことを知ったと思った。今日は日曜日なのだ。

「さらにひとつ教えてあげると、明日は月曜日だ」

「そうか」

「月曜日ということは、仕事だ」

そうか、と思った。もう仕事は明日に迫っているのだ。

「仕事は何をやっているんだ」

そいつがこちらに聞いてきた。

「鉄筋コンクリートで固められた7階建てのビルに行って、そこの5階のパソコンの前で数時間パソコンをいじって何かをしているふりをする仕事だよ」

答えると、そいつは、「そうか」と言って黙った。続けてそいつに言ってやった。

「ひどい仕事だよ。こんなのが何の役に立っているかって聞かれたら、パソコンの前で数時間パソコンをいじって何かをしているふりをする、のを見ると満足する人のお役に立っていると言うよ」

「仕事が嫌なのなら、私が代わりに辞めてきてあげよう」

自分が驚いた、のがわかった。そんなことが可能なのか。そんなことが可能なのでしょうか

「驚いたよ」

それでそう言った。

「驚いたも何も、それが君の望みだろう」

「自分の望み」

「そう、君の望み」

胸に手を当てて聞いてみる。仕事を誰かに辞めてきてほしい? 自分の仕事を、ほかの誰かに辞めてきてもらいたい? エス

「あんたがそうしたいのなら、そうしてもらって全く構わないよ。うん。全く構わない」

そいつは両脚を大きく開いて股のあいだの椅子のへりを掴み、前のめりになって大きくあくびをした。

「わかってないみたいだね」

「何が」

「君は君の思うがままに行動することが可能だということだよ。そして君は何者でもない」

ほら、と言ってそいつはベッドの枕元にある時計を指さした。時計にはあいかわらず長い針と短い針がついていて、規則的に動いているようだった。そのようだったが、やはりあいかわらず何時を示しているのかは読み取れなかった。

「それは時計だ」

「時計だね」

「そう。長い針と短い針が動いていて、それは現在の時刻を示すための道具だ」

「そうだね」

「だけれど君は、それが示しているものをわからない。理解できない。それが、今何時を示しているのかも、そもそも時刻を示しているのかも。それでも、その物体は依然として時計のままだ」

今度は自分の方があくびをする番だった。

「それがどうしたんだ」

「時計がどこまでも時計であるように、君はどこまでいっても君なんだ」

時計の時刻を読み取れないのと同じように、自分にはそいつの言っている意味がわからなかった。言葉が流しそうめんみたいに流れていく。ツーツーツー。なんでこいつはここにいる? なぜ自分の椅子に座っている?

「26歳、男性、身長174センチ、新宿区の7階建てのビルに勤務する会社員、二人兄弟の長男、味噌ラーメンとかぼちゃが好物、ブロッコリーは見た目がいやで食わず嫌い、休日は家で映画を観るか買い物をして過ごすことが多い」

幾つかは真実だったが、ほとんどはでたらめな情報だった。

「それはこの自分の情報を言っているつもり?」

「あとみっつ数えたら、それらの情報が全て消えるよ。いいかい?」

「消える?」

「いやだと言わないなら、承諾したとみなすよ」

「だいたいその情報は正しくないよ」

「さん」

そいつは椅子の上であぐらをかいて、三本の指を立ててこちらに示してきた。

「に」

指を曲げて二本にする。

「いったいなんの真似だよ。年齢も性別も身長も消えるってこと?」

「いち」

好き嫌いも消える? だいたい、消えるってなんだ。

「ゼロ」

そいつは指を全部折りたたんで、手をグーの形にした。

部屋の中が、静寂に包まれた。部屋の中は緑色の光に満ちていて、台所にはきのう自分がむいたみかんの皮が、暑さにばてた犬のような様子でぺたりと自分の場所を陣取っていた。自分が、まばたきをゆっくりしたのを感じた。

「何も変わらないじゃないか」

手をグーの形にしたそいつに言う。椅子の上であぐらをかいて、手をグーにしたそいつはなんだか招き猫のようで、間抜けだった。顔は、あいかわらず自分とそっくりだった。というか、同じ顔をしていた。右目の脇に、小さなほくろがついていた。

「君はもはや、何者でもない」

「会社員でもないってこと?」

「そう! その通り」

「それはいいことを聞いた。それなら月曜に仕事に行かなくてもいいね」

「そう! その通り」

「その通りなら、もうひと眠りさせてもらうよ。会社員じゃないなら、月曜にいつまで寝ていたって怒られないからね」

そう言って、自分は毛布をもう一度かぶり直した。横になって、目をつむる。

「そう! その通り」

毛布にくるまって、みのむしのように丸まりながら、そろそろ出ていってくれないかな、と思った。おい、そろそろ出ていってくれないか?

「君は会社員でもなければ26歳でもない。大人でもないし子供でもない。男でも女でもないのは勿論のことだけど、誰かの息子でもなければ誰かの友人でもない。君、恋人いる?」

うるさいなあ、とみのむしは思った。

「恋人がいるのなら、恋人のための君、というのももはや存在しないことになるね。君は誰のものでもなくなる。君のための君」

そいつの言葉が徐々に遠くなっていく。ツーツーツー。地平線の向こうから眠気くん、やあこんにちは。

「ただし」

遠ざかる意識の中で、みかんの夢を見そうな気がする。巨大なみかんの皮に包まれる自分。みかんの皮の中に包まれているのは自分。

「これから君は、やることなすこと、全てに責任を持たなければならない。持たざるをえなくなるんだ」

みかんの皮がくるくる回っている。そこに自分が着地する、フォールインみかん。自分インみかん。

「君は自由に決断を下す、そしてその全ての決断に責任がつきまとうんだ。いいかい、全ての決断に、だよ」

ツーツーツー。

「おやすみ、頭をひやしてこい」

 

 

 

寝て起きると、部屋がオレンジ色の光で満たされていた。

案の定、みかんの夢を見た。部屋の中に溢れる、みかん色の光。

枕元に見当たらなかったので、スマートフォンを探して毛布の中をまさぐる。黒い、シンプルなケースに入った自分のスマートフォン

手に硬いものがぶつかり、手に取ると、スマートフォンだった。でも、ケースがついていない、裸のスマートフォンだった。画面をONにすると、 ”10:09” の表示。それからその下に、 ”11月19日 月曜日” 。

出勤時刻をとうに過ぎていたが、上司からなんの連絡も入っていなかった。そうか、あいつが仕事を辞めてくれたんだ。顔のまったく同じあいつ。

これほどまでにない、開放感に満ちた月曜の朝だった。自分にしては珍しく、元気にベッドを降りて、カーテンを勢いよく開いた。当たり前だが、家の前の道路が見えた。当たり前だが。

大きく伸びをして、それから洗面所で顔を洗った。冷たい水でパシャパシャと、水遊びする子供みたいな気持ちで顔を洗った。パシャパシャ、パシャパシャ。一度顔を上げて鏡を見ると、目頭のあたりに目やにがついたままだった。全然洗えていない。

気を取り直して、綺麗好きな海賊のような気持ちで顔を洗った。冷たい水で念入りに、ぐわしぐわしと。ぐわしぐわし、ぐわしぐわし。顔を再び上げると、目のまわりもしっかりと綺麗に洗えていた。しかし、力を込め過ぎたせいで、顔全体が赤くなってしまっていた。しかしそれも致し方なし。

リビングに戻り、クローゼットを開ける。スカートやワンピースが、いくつも入っている。少し驚くが、それはそうだ、と思い直す。自分はもともと男ではなくて、女だったのだから。いや、しかし今は女ですらない。何者でもなくなったのだから。

パジャマを脱いで、割に露出の激しめなワンピースを着た。肩紐があって、ぴっちりとしたフォルムのパープルの奴。

クローゼットのドアの内側についている姿見に、自分の姿を映す。うん、いい感じ。腰に手を当て、髪に手を当ててみる。様々なポーズをとってみる。くるりと回転してみる。うん、いい感じ。

メイクを念入りに行い(何しろすっぴんは誰にも見せたくなかった。ひどい顔だから)、意気揚々と外に出る。太陽はしっかりと昇っていた。11時35分。自分の部屋がみかん色の光で満ちていたことを不思議に思う。太陽の光は何色でもなかった。ただ、アパートの白色の壁についたうす茶色の汚れや、植込みの冴えない緑や、アスファルトの限りなく黒に近い灰色や、そういう、世界の色をはっきりとさせるだけのものだった。世界は極彩色では勿論なかったが、それなりに色がついていた。どんなものにも、色はついていた。自分の肌は少し赤味がかったようなみかん色を、うすくうすく伸ばしてクリーミーにしてほんの一滴青色を混ぜたような色をしていた。ワンピースは、パープルだと思っていたが、正確にはパープルではなかった。青でもなかったし、ネイビーというわけでもなかった。それらの言葉の指す真ん中、もしくはそこからわずかにずれた位置にある色であるようだった。

家の近くにある駅まで続く道を、歩いていたが、途端にそれがめんどうくさくなった。会社に行かなくていいのなら、自分は今どこに向かうべきなのだろうか。やるべきことがないということは、自由でもあったが、その自由は自分にとってあまりに大きすぎて、有り余っていた。クリップひとつを持ち歩くために、大きな風呂敷を持たされたような気分だった。かえってその風呂敷が荷物だった。

道端にある自動販売機でりんごジュースを買って、脇道に入り、だれもいない小さな公園に寄った。平日の公園。ベンチに座り、ポーチの中からスマートフォンを取り出した。そして、Twitterの画面を開く。

平日の12時前に呟いている人間はおらず、タイムラインは行き止まりにぶち当たりました、とでも言うように止まっていた。まったくもって止まっていた。画面の一番上までスクロールした上で、何度も指でさらにスクロールする。更新、更新、更新、更新。

何も変化が起こらなかったので、自分でツイートすることにする。

“ひまだー”

四文字のひらがなが、タイムラインの一番上に鎮座する。人差し指で画面を下に押しやる。スクロール。更新、更新、更新、更新。

何度やっても、「ひまだー」が画面の一番上で上下運動するだけだった。壊れたばねみたい。ひまだー。ひまだー。ひまだー。ひまだー。

やがて、更新の動きに合わせて、声を出すようにした。指で画面をスクロールしながら、「ひまだー」と言う。段々、山田さんみたいに、誰かの名前を呼んでいる気持ちになってくる。ひまだー、ひまだー、ひまだー。

「うるせえなあ」

足下のあたり、ベンチの下から声が聞こえてぎょっとした。立ち上がり、恐る恐るベンチの下を覗くと、寝袋のような形をした何がしかにくるまっているみのむしがいた。いや、人間。ホームレスだ。

「ごめんなさい」

しゃがみこんだまま、喉から絞り出すようにして声を出すと、みのむしは舌打ちをした。チッ、というのではなく、もっと機械的な、金属が響くみたいな硬い音がした。キッ、というような。

何かを言うのかと思って、待っていたが、それ以上ホームレスは何も言わなかった。それで、しゃがんで、首をかしげた自分が、そのホームレスと見合う、みたいな形になった。彼は男で、存外に若かった。多分、三十代。

じっと見ていると、彼はまた舌打ちをした。キッ。舌だけではなく、喉の奥を使っているかのような音だ。もしかしたら、これは舌打ちではないのかもしれない。喉打ち?

そのうち、彼は連続喉打ちするようになった。キッキッキッキッ

初めは恐怖が支配していたが、やがてそれがほかの感情に取って代わった。優越感だ。何しろ、奴はベンチの下で、寝袋のような何か――風呂敷を繋ぎ合わせたような、土にまみれた袋状のもの。袋の外側には新聞紙、ビニール袋が巻きつけられている――にくるまっているのだ。ベンチの下から出てきて、パープルとかネイビーとかの中間にある色のワンピースを着たこの自分に暴力をふるおうとしても、奴がもぞもぞしているあいだに逃げ切ることができるだろう。余裕だ。物理的に、自分の方が圧倒的に優勢だった。その上、奴はホームレスだ。もう会社員ではないという点を考慮しても、社会的にも自分の方が圧倒的に優位だった。

スマートフォンを取り出し、ツイート画面にする。

“ホームレス。男。三十代。ベンチの下。喉打ちが得意。”

ツイート。タイムラインの一番上に、その言葉が舞い降りる。「勝った」と思った。目の前の男は、相変わらずキッキッとしていた。眉のあいだには、生まれたときから刻まれたように深い皺が刻まれ、この世の全てを恨んでいるような目をして、自分のことを睨んでいた。ワンピースを着た、美しい自分を。

男は、キッ、キッ、と続けていたが、それは徐々に情けない響きを帯びていった。歯切れのいい元の音ではなくなり、痰がからんだのをなんとかしようとして、試行錯誤するような弱々しい響き。コッ、コッ。

男は、自分の人生を恨んでいるのだ。憐れだった。連続喉打ちが情けない音に変わるにつれ、みのむしが横向きになったからだを動かし始めた。頭を地面から離すように、まるでそういう筋トレ方法でもあるように、せっせとくねくねし始めた。コッ、コッ、コッ、コッ。

自分は、スマートフォンの画面を再びONにして、カメラ機能を起動した。そして写真を撮った。ホームレスのみのむし男の、憐れな筋トレ運動。

カシャァ。

作り物のように、完璧な「カメラのシャッター音」だった。そのことが一層、自分を興奮させた。

カシャァカシャァ。コッコッ、コッコッ。カシャァカシャァ。コッ、コッ。

男の目には、うっすらと涙が浮かんでいるように見えた。惨め。圧勝だ。と思った。

この崇高な勝利を、より完全なものとするため、再びTwitterの画面に戻る。

“連続喉打ちホームレス男。惨めにみのむしのような動きをして、写真を撮られてしまう。自分の人生を恨んでいるんだね、かわいそう”

写真を添付しようと思い、カメラロールをスクロールする。奴は後半になるほど、弱々しい表情をしていた。敢えて、前半の力強く自分のことを睨みつけている写真を選択する。俺はお前に負けてなんていないぞ、とでも言いたげな表情。しかし、奴は自分に圧倒的に負けているのだ。かわいそう。

いつの間にか、男は筋トレ運動も、喉打ちもやめていた。全てを諦め、放心したようにどこか遠くを見ている。

ツイートする前に、文章をもう一度見返す。

“連続喉打ちホームレス男。惨めにみのむしのような動きをして、写真を撮られてしまう。自分の人生を恨んでいるんだね、かわいそう”

特に最後の一文は気分がよかった。それで、声に出して奴に言った。

「自分の人生を恨んでいるんだね、かわいそう」

男は、もう自分のことを見ていなかった。どこか遠くを見て、聞こえているのか聞こえていないのか、顔から表情というものが消えている。

奴に何も反応がないことは、自分をとても苛立たせた。もう一度、大きな声で言った。

自分の人生を恨んでいるんだね! かっわいそう!!

しかし、反応はなかった。自分は舌打ちをして、ツイートボタンを押した。チッ。その音と同時に立ち上がり、公園を出ることにした。自分はとても苛々していた。タイムラインの一番上に、惨めな男の写真がツイートされる。その写真を見ると、少し気分がすっとするような気がした。しかし苛立ちはすぐに戻ってきた。公園を出るとき、ベンチの方を向いて最大限の音量で舌打ちした。キッ。喉は使わなかったのに、喉打ちのような音がした。

公園を出て、あてもなく歩いた。自分はとても苛立っていた。自分の体の中に、3ヶ月放置した排水溝の中のようなどろどろと醜い怒りが充満していた。それは自分の中にある、あらゆる感情を蝕み、犯していった。

蹴るようにして地面を歩き、自動販売機の脇にあるペットボトルのごみ箱を蹴り倒した。なるべく大きな音を立てて。それをする前は、必ず辺りを確認した。誰もいなければ、蹴る。誰かがいれば、もちろん蹴らない。普通の、パープルの色のワンピースを着た、美しい女性の顔をして人とすれ違った。そうすると、優越感を感じることができた。みのむしホームレスより、自分はあきらかに優れていた。あきらかに

陽射しは、強くなる一方だった。目に見えるどれもこれもが、薄汚れて見えた。太陽の光は何色でもなかったが、太陽の光に照らされて鮮明になる色は、どれも汚らしい色をして見えた。近所にある図書館の前の、花壇に咲いたたくさんの花も、同様だった。一見綺麗な色をしているようだが、その実、奴らはわざとらしかった。外国の着色料たっぷりのお菓子みたいに、真っ赤な色をした花。みかん色の花。青色の花。ぼんやりと澱んだ緑の葉。花びらの中心には、おしべとめしべ。花はよく見るととてもグロテスクなのだ。わざとらしい色をした花びらの中心に、ぶつぶつと夥しい数の、触手のようなおしべ、めしべ。細かく、膨大な数の突起。黒く、規則的で、それは生きていた。汚らわしい、と思った。そしてそれは世界とまったく同じだということに気がついた。愛だ、夢だ、とうわべは綺麗なことを言っていても、よくよく目を凝らして見れば、汚らわしくグロテスクなものばかりだ。世の中なんて、そんなものだ。

自分は、周囲に誰も人がいないことを確認してから花壇に唾を吐きかけた。唾は泡をぶくぶくと含んだまま、花びらの上に飛び散った。だらりと、花びらから垂れて土に落ちたものもあった。

苛々は収まらなかった。

自分は図書館の横を通過し、市役所を通過し、住宅地を突っ切って橋を渡り、病院の隣を通った。途中でファミリーマートに寄り、スパイシーチキンとファミチキと、紙パックのカフェオレを買った。イートインコーナーのあるコンビニだったので、そこでそれら全てを胃に入れた。カフェオレを全て飲み切った後、お腹がまだすいているのか、吐きたいのかよくわからなくなった。胃がむかむかとした。お腹が、ぐう、という音を立てたのでポテトチップスとチョコホイップパン、それからアメリカンドッグを追加で買うことにした。アメリカンドッグを注文するとき、レジの店員が、「あたためますか」と聞いてきた。眼鏡を掛けていて、やせぎすの猫背で、顔ににきびがたくさんある男の店員だった。声は小さくこもっており、「あたためますか」が「あっめむすく」に聞こえるほどだった。

「え?」

大きな声で、威圧的に聞く。店員はわかりやすく委縮し、さらに小さな声になった。

「っめむっく」

「なんて言ってるか全然聞き取れないんですけど」

するとレジの奥から、先輩と思われる40代くらいの女性店員が出てきて、にこやかに歯切れよく、「申し訳ございませんお客様。こちらのアメリカンドッグあたためますが、よろしいですか?」と言った。

「はい」

女性店員は、驚くほど腰が低かった。申し訳ございません、申し訳ございません、と言いながら、猫背の男の店員に、「ほら、さっさとあっためて。早く!」と指示していた。

それを見て、自分の腹の虫が少し収まるのを感じた。「勝っている」と思った。

会計を済ますとき、金額を言う男の店員の声はあいかわらず小さかった。レジスターには “¥367” と表示されていたので、367円だとわかったのだが、自分はもう一度、「え?」と言った。男の店員は委縮した。

だから、声小さくてわからないんですよね

店員は、「すみません」と小さく口ごもって、停止した。自分は財布から367円ぴったりを出すと、レジカウンターの上に乱暴に置き、舌打ちをした。キッ。

商品の入ったレジ袋をかっさらい、店の外に出た。自動ドアが閉まるとき、「申し訳ございませんでした!」と言う女性店員の声が聞こえた。奴らは人生の負け犬だ、と思った。そう考えるのは、気持ちが良かった。奴らは人生の負け犬だ。自分が奴らよりも勝っている、あきらかに

コンビニの前の駐車場で、スマートフォンを取り出す。いつの間にか、Twitterに通知が来ていた。歩きだしながら、スマートフォンをいじる。

「連続喉打ちホームレス男」のツイートがリツイートされていた。1リツイート。「気持ち悪いですね」というリプライが来ていた。自分の勝ちが、確実なものへとまた一歩近づいたような気がした。「ほんと、気持ち悪いですよね」と返信する。

道は上り坂だったが、自分の心持ちは軽くなっていた。先ほどまでの苛立ちはどこへやら、意気揚々と歩いている。そのうち、スマートフォンの通知がどんどん溜まっていった。

2リツイート5いいね、ドラッグストアの横を通る、3リツイート9いいね、ラーメン屋の横を通る、7リツイート17いいね、上り坂がゆるやかになる、20リツイート22いいね、80リツイート50いいね、264リツイート92いいね、上り坂が再び急になってくる、593リツイート121いいね。

 

“連続喉打ちホームレス男。惨めにみのむしのような動きをして、写真を撮られてしまう。自分の人生を恨んでいるんだね、かわいそう”

 

道端に、黒い車が停めてあった。

スマートフォンの画面を一心に眺めながら、大股で歩く、人間の姿が車体に映った。ふと立ち止まる。肩紐が落ちそうになっていることに気づき、肩まで紐をずり上げる。

Twitterの通知欄は、いつのまにか、「お前が一番きもい」「ホームレスなら晒していいと思っているのですか」「こんなのをアップするあなたの精神構造が一番かわいそう」というようなリプライで溢れかえっていた。

自分は手に提げていたレジ袋から、アメリカンドッグを取り出した。ケチャップとマスタードをかけて、味わうためではなく胃を満たすために食べた。チョコホイップパンの袋を開け、左手でパンを持ちながら右手でTwitterのリプライをスクロールする。どうでもいい言葉を、無感情に流し見ていく。

「君は自由に決断を下せるんだよ」

坂道の上から、聞き慣れた声が聞こえた。急な坂道の上から、そいつはゆっくり歩いてこちらにやって来る。自分と同じ格好、パープルのワンピース、自分と同じ顔、脂汗が額に浮かぶのがわかった。

「そのツイートを消すことだってできるし、消さないでそのまま拡散することもできる。アカウントを消したっていいし、君の隣にある黒い車を蹴り飛ばしてもいい。家に帰ったっていいし、この道の上で裸になったっていい」

「パープル」

自分は、小さくそう口にした。小さくげっぷが出て、チョコホイップパンの最後の一かけらを口に放り込む。

「この服? パープルだと思う?」

太陽は、だんだんと翳ってきていた。そいつが着ているワンピースの色は、太陽に照らされていないせいか、パープルなのかよくわからなかった。でも、自分が今日選んだ服は、パープルっぽかったはずだ。

「パープルだと思う」

「君がそう思うなら、君にとってこの服はパープルなんだろうね」

「ネイビー? それとも青? 正解はどうなの」

自分が尋ねると、そいつは心底おかしそうに笑った。

「さっきパープルって言ったじゃん。もう一度聞くよ。この服は何色に見える?」

自分の目は、そいつの姿を上から下までなぞった。自分と同じ顔、自分と同じ服。しかし、服の色が何色なのかはより曖昧になっていた。

「わからない。家を出たときは、パープルとネイビーと青が混ざったようなワンピースに見えた。そのどれでもないような」

「ねえねえ」

そいつは、あきれたように、息を吐くみたいにして言った。

「今の話をしているんだよ。い、ま。家を出たときじゃなくって、今、この服が何色に見えるかって言ってんの」

自分は、完全に途方に暮れてしまった。あのときの時計みたいに、自分にはそのワンピースが何色か、見当をつけることすらできなくなった。この目は、見えているのに何も見えない。

スマートフォンは振動を続けていた。通知音のふざけたような音――ぷりん、と聞こえた――が、坂道で向き合う自分たちに、BGMのように降ってきた。ぷりんぷりんぷりん

Twitterの拡散はとどまることを知らなかった。3089リツイート、322いいね、3175リツイート、324いいね。ツイートへのリプライが、言葉の海が、雪崩が、どこかの誰かに押し寄せていた。

「これ許可とったんですか。とっていないなら法律違反です、通報しますよ」「きも」「喉打ちってなんだよ笑」「ツイート主の顔はもっとキモいんだろうなあ」

苛立ちや反発よりも、どこの誰に言っているのだろう、という気持ちと、恐怖と、嫌悪感と、軽蔑が混ざったような感情が湧いてきた。屠殺場で殺される牛の動画を眺めるような気分だった。

「どうするの?」

ぷりんぷりんぷりん

自分は急いでツイートを削除した。それを誰かに見咎められているような気がして、あたりを見回した。そいつが、坂の上に立っているほか、誰もいなかった。

振り返ると、自分は随分と高い場所に立っていて、町が一望できた。町の向こうには、山が見える。稜線がはっきりと、力強い線を描いている。曇り空だったが、綺麗な写真が撮れるかもしれない。町を見下ろして、スマートフォンを構えた。カシャァカシャァ

カメラロールをスクロールして、一番映りのよさそうな一枚を選ぶ。アプリで加工して、色を鮮明にする。その写真が何色なのかもよくわからないが、色を鮮明にする。急いで、画面に入力をする。

 

“町の景色”

 

それだけ言葉を添えて、写真をツイートする。途端、反応が返ってくる。298いいね、801いいね、4862いいね。

「綺麗な写真ですね」「やばいねこれ」「いい写真ですね、これどこですか」「いいね」「いいね」「いいね」ぷりんぷりんぷりん

「そのツイートした写真、君は綺麗だと思う?」

自分は苛々した。そいつは、いつも質問ばかりする。質問されることが、自分は嫌だった。ただただ苛々した。

「質問ばっかりしてないで、まずはあんたがどう思うか言ったら」

「まだ気づかないの? 君は――――なんだけど」

「は?」

そいつの言っていることが、途中うまく聞き取れなかった。

ぷりんぷりんぷりん

BGMにしては、その音は耳障りだった。自分は、スマートフォン機内モードにした。急に、静かになった。風が耳もとで、ぼうぼういうのが聞こえた。

「後ろを振り返って、その写真のもとになった景色を見てみたら?」

自分は言われた通り、後ろを振り返った。そいつの顔を、見ていたくなかった。

坂の上から見える景色は、くすんでいた。ぱっとしない山の緑、灰色がかった家々、つまらなさそうな顔をして並ぶ灰色のビルたち。うんざりだった。自分は、世界にうんざりしていた。楽しいことなんて全て虚構だ、こんなぱっとしない景色に何千いいねもくるんだから。

苛々する。なんで、と思った。何に対してかはわからないけれど、なんで。なんでなんでなんで。

「あああああああ」

苛々が絶頂に達して、手に持っていたポテトチップスの袋を破って、道にぶちまけた。黒い車の上にもぶちまけた。レジ袋を力いっぱい投げると、ゆっくりと地面に落ち、風に運ばれてゆっくり坂を下りていった。自分は走り回り、そこら中に落ちているポテトチップスを踏みまくった。踏んで踏んで、踏みまくる。思ったより大した音は鳴らなかった。しょぼい音で、ぱり、と鳴るだけだった。

道路に落ちているポテトチップスをあらかた踏み終えると、ポテトチップスを踏んだだけの道路だった。自分が、ポテトチップスを道に撒いて、踏んだだけ。粉々になったくずが、道に散乱していて、見苦しかった。自分は、その場にしゃがみこんだ。

「くそみたい」

かすれた声が出た。もはや、叫ぶだけの力は残っていなかった。

「何が」

そいつが、坂の上から問いかけてきた。自分は、振り返ることもせず、くすんだ町を見下ろしながら答えた。

「人生が。自分の人生が」

そう言って、自分が先ほどしたツイートを思い出す。

 

自分の人生を恨んでいるんだね、かわいそう”

 

負けていた、と思った。そう思った瞬間、胃液がせり上がってきて、盛大にその場で吐いた。先ほど胃に入れたファミチキやらアメリカンドッグがいっしょくたになって、黒いアスファルトを汚していた。胃に入っていたものが全部出て、からっぽになるまで吐いた。周囲に、そいつ以外誰かいるかどうかなんて、もうどうでもよかった。胃の中のものが全部なくなっても、嗚咽が続いた。背中を誰かにさすられた。円を描くように、誰かの手が自分の背中に当てられていた。そいつだった。

「何。同情?」

そいつは、黙って自分の背中をさすり続けた。惨めだった。ほかの誰よりも、あの公園のホームレスよりも、にきびだらけのコンビニ店員よりも、自分が惨めだった。ベンチの下で生活する彼より、叱られ続ける店員よりも、道で半狂乱になってポテトチップスを撒いて踏みつけ、ゲロを吐く人間の方が圧倒的に惨めだった。客観的に見ても、あきらかに惨めだった。

「ねえ、ここからの景色、どう見える」

そいつが、不意に背中をさする手を止めて自分に聞いた。

「きったない町だなって思う。色もくすんでてはっきりしないし、つまんなそう」

そいつは笑った。これまでで一番愉快そうな声を出して。

「じゃあ、自分が着ている服は、どんな色?」

自分の体を見た。服はパープルというより深い青に見えた。吐しゃ物がかかって、より濃い色に見えているだけかもしれなかったが、そう見えた。

「パープルってより、青のワンピースって感じ。深い青色。ゲロで汚れてそう見えるだけかもだけど」

自分は、思ったままを口にした。自分が思ったままを。

「あはは、そうかもね。パープルってより、青って感じ。同じ感想」

「うん」

そいつは、笑って自分の背中をばんばんと叩いた。不快な感じはしなかった。

「君が見える世界が、君の正解なの」

「くそみたいな世界だね」

そいつは、尚も愉快そうだった。あはは、と笑いながら肩を揺らしてきた。「君がそう思うんだよ、ほかの誰でもない、君が」

ほかの誰でもない、自分。くそみたいな自分。

わたしが?」

「そう」

わたしは考えた。ここから見える景色はくすんでいる。あのホームレスは惨めだった。コンビニ店員も惨めだった。でも、と思う。――でも。

「あのホームレスも、コンビニ店員の男の子も、おばさんも、負けてたのかな」

「さあ」

そいつは、どうでもよさそうに言った。

「自分が見たいようにしか、世界は見えないんだよ。勝ちか負けかも、幸か不幸かも、全部自分が決めるの」

「ゲロまみれのこの状況が、幸福だとは思えないけどね」

そいつは、笑わなかった。

「ほかの誰でもない、何者でもない君が決めるんだ。ほかの誰にも決められない」

もはや、勝っているか負けているかなんてどうでもよかった。でも、そいつの言うことが真実だということはわかった。わたしにとって、真実だった。

「もう一度言うからよく聞いていて」

そいつは、ひとつ咳払いをした。いや、わたしが咳払いをした。

「君は自由に決断を下す、そしてその全ての決断に責任がつきまとうんだ。いいかい、全ての決断に、だよ」

わたしは、深く、うなずいた。坂の上にへたりこんだまま、大きく息を吸った。口の中がすっぱかった。水で口をすすぎたかった。服を脱いで、お風呂に入りたかった。

惨めなわたしの、くそみたいな人生。でももう、それをほかの誰かのせいにしたりはしない。わたしは決めた。わたしの責任で、決断をした

ゆっくりと立ち上がると、陽が徐々にかたむいていた。まだ夕暮れではない。しばらくここでぼうっとしていれば、みかん色の夕暮れが見えるだろうか。

わたしは坂を駆け下りる。全力疾走で駆け下りる。しばらく坂を降りて、息をきらしたまま、後ろを振り返る。そいつはいなかった。粉々になったポテトチップスと、黒い車と、わたしの吐いたゲロ。太陽に照らされて、鮮明なそれら。馬鹿みたいだけど、その景色は悪くないものに見えた。Twitterにアップした町の景色なんかより、わたしには、ずっと美しい景色だった。ずっとずっと。

ばかばかしいくらいに甘くて脆いNorth Washington Avenueの思い出

シェーンが私の部屋のドアをノックしたのと、私の腋の下で体温計が鳴ったのはほとんど同時だった。

「カオリィ、起きているんだろ? ジュリエットがご立腹なんだ」

体温計を見ると、99℉を示していた。アメリカ留学に来て二ヶ月。未だにアメリカでの華氏表示には慣れない。携帯で調べると、摂氏では37.2℃ということだった。体が気怠い。

「カオリィ、助けてくれよ。カオリィ、カオリィ」

シェーンはジュリエットと喧嘩した朝、いつもこうやって私に助けを求める。彼がドアを叩き続けるので、私は毛布を被りなおして耳を覆った。無駄な抵抗とは分かっているけれど。

やがて、階段の下からジュリエットの叫ぶ声が聞こえた。ジュリエットはガーナから来た留学生で、シェーンのガールフレンドだ。シェーンが典型的な白人なのに対して、彼女は浅黒く美しい肌と、メロンのように大きな胸を持っている。どたどたと階段の木目を軋ませながら、ジュリエットが階段を昇ってくる音が聞こえた。

「シェーン、あなたってどうしていつもそうなの? 私と向き合うことすらしないで、カオリのとこに逃げてばっかり。だいたい、自分の予定くらい自分で把握してなさいよ」

私の部屋がある二階まで、近づきながら叫んでいる。この家は彼女の父親が彼女に買い与えたもので、つまりジュリエットはこの家の家主だ。彼女は一階に住み、私は二階を借りている。

「予定は把握していたって言ってるじゃないか。話を聞いてくれないのはそっちじゃないか、君の方が狂ってる」

「狂ってるって言わないで!」

ドアを隔てていても、毛布にすっぽり隠れていても、このやり取りは聞こえてくる。本当なら、お湯を沸かして紅茶を淹れて、微熱の日の穏やかな朝を迎えるはずだったけれど――私の部屋の窓からは家の前の通りが見えて、住宅街に植えられた種々の木が乾燥した葉を落とすのが見えた。週末の朝、その様子をゆっくり眺めるのが私は好きだった――、部屋の前で行われる論争は尽きることがなさそうだった。

毛布を少し持ち上げて、時計を確認する。今日は土曜日で、まだ朝の8時前だ。私は熱っぽい体を引き摺って、ドアの前に立つ。彼らが戦争の場をここから変えてくれることを願ったが、期待とは裏腹に掛け合いは段々とヒートアップしていき、私は諦めてドアを開いた。

「カオリ、朝からごめんなさいね。うるさかったでしょう」

ジュリエットは私の顔を見た途端に、申し訳なさそうな小さな声になった。

「大丈夫よ、どうかしたの」

シェーンが、「彼女が悪いんだ」と言うと、ジュリエットが振り返り、「黙って!」と言った。

「穏やかじゃないわね」

私が苦笑すると、シェーンは両肩を竦めて、心底困ったよ、という顔をした。

「ちょっと入ってもいい? この人と話してると疲れちゃうから」

ジュリエットが眉間に皺を寄せて言う。

「ええ。シェーンはどうするの」

私が聞くと、「カオリが居てくれて助かるよ。俺は帰る、予定があるからね」と言って、彼は階段を下りていった。

シェーンが階段を下りて、玄関先に停めてあるルノーのドアを閉める音が聞こえると、ジュリエットはソファに座って、さめざめと泣き始めた。

「どうしたのよ」

私が隣に座って、彼女の背中に手を当てると、彼女は吐きだすようにして話し始めた。

「大したことじゃないのよ。シェーンと今日はデートの約束だったの。なのに、彼、今朝になって急に、今日はクラスの仲間とキャンプの予定だって言いだして。そんなの聞いてないって言ったら、前に言ったじゃないかって言われて。もうこんなことばっかり。彼、もう私のことが好きじゃないんだわ」

「そんなことないわよ」

私はただ、ジュリエットの背中をさすってあげる。シェーンが彼女の部屋に泊まった翌日、こんな風に喧嘩をしていくのは日常茶飯事だ。毎回、すぐに仲直りしてべったりに戻るくせに、彼女は喧嘩の度に感情的になり、絶望的になる。そのまっすぐさが、十代の女の子のようで、私にはときどき眩しく感じる。

「きっとブラックのガールフレンドなんか、嫌になっちゃったのよ」

「コリーみたいに?」

「そうね」

コリーというのはジュリエットが前に付き合っていた東欧系の男性で、肌の黒い女性と付き合っていると仲間から馬鹿にされる、というクレイジーな理由でジュリエットと別れ、彼女を深く傷つけた。

「シェーンはコリーとは違うでしょ。シェーンの方が優しくて新時代的な男性だわ」

「それにハンサムよ」

泣きながらそんなことを言うので、私は思わず笑ってしまう。彼女の熱っぽい体を抱きしめ、同時に自分の体も熱っぽいことを思い出した。

「なんだ、あなたシェーンがまだ好きなんじゃない。それなら答えは簡単でしょ」

「わかってるけど、彼を前にすると感情的になっちゃうの」

「早く仲直りしなさい」

「わかった。ありがとうカオリ」

そう言うと、彼女は私のほっぺに軽いキスをした。

「ショーヘイは倖せ者ね。こんな素敵なガールフレンドがいるんだもの」

私は曖昧に笑った。

「今日は会う予定なの? あなたたち、いつも週末にデートしてるじゃない」

「今週は日曜に会う予定なの」

ジュリエットがまだ何か話しだしそうな気配だったので、私はそれを遮って言った。

「ジュリエット、私なんだか熱っぽいみたい。申し訳ないけど、ちょっと休ませてもらいたいの」

ジュリエットは、「それは大変だわ」と言って、立ち上がった。「食欲はある? 料理を作ってあげる」と言われたので、「大丈夫よ、もう少し眠っていたいの」と答えた。

「具合が悪いときに、ごめんなさい。でもカオリに話を聞いてもらえて、少し落ち着けた」

「いいの。うまく仲直りできるといいわね。幸運を祈ってる」

彼女は、「お大事に」と言って部屋を出ていった。

私は朝からのごたごたに少し疲れて、ベッドに戻った。自分の体温が僅かに残ったままの毛布に潜り込むと、思いのほかすぐに、私の意識は眠りの淵から落っこちた。

 

 

 

 

翔平さんは店員に、豆腐のテリヤキ、スシの巻きコンボ、それからヒバチを注文した。私が「ヒバチって何?」と聞いたら、「嘘だろ、ヒバチ食べたことないの? 立派な日本食なのに?」と私をからかうので、「じゃあ頼んでよ」と私が言ったのだった。豆腐のテリヤキも、巻きコンボなるものも、どんな料理かよく分からないものばかりだった。

その店は “FUJI HIBACHI & SUSHI” という名前で、日本食レストランを謳っているらしかったが、メニューには私の知らない日本食ばかり載っていた。翔平さんに「香織ちゃん、こっち来てから日本食食べた? 熱も下がったんだし、回復祝いで行ってみようよ」と誘われたとき、少しだけ恋しくなり始めたお味噌汁とか、あわよくば肉じゃがとか、そういうものを食べられるかもと私は淡い期待をしていた。でもメニューを見たとき、それがもはや叶わない願いだということに私は気づいた。

「味噌スープも、お新香も、肉じゃがも生姜焼きもどこにもないじゃない」

私が訴えると、

「スシとサシミコラボレーションも、ベントーボックスも、イエローテイルハラペーニョもあるのに?」

彼は目を見開いて、肩を大げさに上げて答えた。それから、メニューの端っこを指さして、

「味噌スープならここにあるよ。頼む?」

と言った。私は、「わかった、降参。降参する。これがこの国の “Japanese style” なのね。味噌スープはいいや、要らない」と言い、軽く片手を振った。

「ごめんごめん、怒らないで。ここ来たら香織ちゃんどんな顔するかなと思って。でもこんな田舎町じゃ、そんなにちゃんとした和食なんて、どこ行っても食えないよ」

翔平さんはそう言って笑った。この人は、笑うと目尻に放射状の皺が刻まれて、少年みたいだ。「くしゃっと笑う」という形容の仕方があるけれど、この人の笑い顔は、きちんと折り目をつけました、という感じ。

私には、成田を発つとき見送りに来てくれた年上のボーイフレンドがいる。日本で働いていて、きっと結婚も視野に入れている。彼からは手紙がときどき届いて、そこには最近あったこと、私が元気にしているかの心配、私が帰国したら一緒にしたいことなどが綴られている。翔平さんは翔平さんで、日本にガールフレンドを待たせているという。日本の大学にいた頃から付き合っていて、帰国したら結婚しようと約束しているそうだ。私たちはどちらも、もとの恋人と別れるつもりなんてないくせに、こういうことになってしまった。きっと二人とも、この何もかもがばかばかしいほど大きな国で、過去をきちんと所持し続けられるほど強くはなかったのだ。私はこの国では「妻木香織」ではなく、「カオリ」だったし、私自身の存在は、吹けばくずれる脆い砂糖菓子みたいだった。すぐにでも消えてしまえそうだった。

「翔平さんってさ、私のこと『香織ちゃん』って呼ぶよね」

届いたヒバチは、肉と野菜のただの炒め物みたいな料理だった。翔平さんは旺盛な食欲を発揮して、マヨネーズのたっぷりとかかったスシの巻きコンボを食べているところだった。

「ん?」

それがどうしたの、みたいな顔をして翔平さんは言う。チョップスティックスも用意されていたけれど、翔平さんは手づかみでスシを食べていた。

「こっちの人って、私のこと『カオリ』って呼ぶじゃない。明らかに日本とは違うアクセントで、呼び捨てで。翔平さんが呼ぶ私の名前って、なんだか『日本語』って感じがして安心する。ちゃんづけしてくれるのも、アメリカにはない文化じゃない? Ms. Kaoriなんてジュリエットに呼ばれないし、そんなの仰々しいし」

翔平さんは、エビやアボカドの入った巻きズシを片手に持ったまま、ぽかんとしていた。私は焦って、手をひらひらと振って言った。

「いいの、気にしないで。香織ちゃん、って呼ばれると、なんだか安心するって話」

私はチョップスティックスを使って、巻きズシを一つつまむ。米自体が僅かに油っぽく、これはジャンクフードだなと思った。

「香織ちゃんは、かわいいよね」

今度は、私がぽかんとする番だった。それから数秒してすぐ、吹きだしてしまった。

「何それ、いきなり。びっくりする」

片手に持ったままにしていた巻きズシを、翔平さんはぽんと口に入れ、私の言葉なんてなかったみたいにこう言った。

「香織ちゃんはさ、アメリカが好き?」

この人さっきから、一体何考えてるんだろう、と思ったが、口にはしなかった。それはきっとお互い様だった。

「ええ、好きよ。でも、ばかばかしい感じがする」

「ばかばかしい?」

「そう、印象としてはね。空はばかばかしいくらいに広くて青いし、太陽もばかみたいにギラギラしてるし、ソフトクリームは日本の三倍くらい、ウォルマートのケーキはまっ青からレインボーまで毒々しいもの勢揃いって感じ。全てが極端で、現実味がなくって」

話しながら、私は悲しくなってしまった。私たちの関係もそうかもしれない。現実味がなくて、ばかばかしい。

「そっかあ、ばかばかしい、ね」

翔平さんは、それ以上何も言わなかった。私は心を見透かされたような気がして、ヒバチを黙々と食べ続けた。

 

 

 

 

店を出ると、外はもうすっかり暗くなっていた。夜気を吸い込むと、秋のすっきりと乾燥した空気が胸に染み入った。コートの前ボタンを留めて、翔平さんの車の方へ向かおうとすると、腕を掴まれた。

「少し散歩しよう」

月の明るい夜だった。街灯はおよそ30メートル毎に一つしか立っておらず、暗かったけれどじゅうぶんに歩けた。私たちは手を繋ぎ、翔平さんの黒いロングコートのポケットにその手を入れていた。街灯が近づく度、私たちの影は濃くなり、離れる度、私たちの影はアスファルトの黒に溶けた。翔平さんはずんずんと歩いていたけれど、その辺りの道路は道幅がやたらと広い割に、歩道らしい歩道はなく、私たちは車道にはみ出しながら歩いた。車はほとんど通らず、たまに来たときも車道側を歩く翔平さんがいちいち私をかばうように歩くので、私はぼうっとしながら歩いた。そのうち、ぼうっとするのが、熱のせいかもしれないと気づいた。

「実はまだ、熱が下がってないの」

そう白状すると、翔平さんは立ち止まって、ちょっとやり過ぎだというくらいに動揺した。驚きと心配が、その表情から容易に透けて見えた。

「どうして。家でゆっくりしてなくちゃ。99℉って言ってたのは本当? すぐに車のところに戻って帰ろう。早く言ってくれれば、簡単なものなら料理だって作ってあげられるし、俺が看病したのに」

「翔平さんが作れるのってステーキだけじゃなかったの?」

私が笑うと、翔平さんはあきれたようにため息をついた。

「冗談よ。99℉は本当だし、今はもうちょっと下がってるんじゃないかな」

「じゃあ、帰ろう。治りかけで、長引いてもよくないよ」

私は翔平さんの顔を見る。まっすぐに私のことを見つめる目は、街灯の光の影になっていて、とても黒々として見える。この人はどうしていつも、私のことをこんなにまっすぐに見つめるのだろう。

「本当は昨日のあいだに言うか迷ったの。でも言ったら、今日のデートがなしになっちゃいそうで」

翔平さんは、いつもの顔で笑った。折り目をつけたような目尻の皺。

「そんな心配しなくても、俺はいつでも香織ちゃんに会いに行くよ」

日本に帰ってからも? 聞きたかったけれど、声にできなかった。ポケットの手を一度ほどいて、向き合うような形になってから、もう一度繋いだ。そこに答えなどあるはずがないのに、彼の顔を見つめてみる。

「どうしてそんな、不安そうな顔をしてるの」

翔平さんに聞かれて、自分の顔がそんな風になっていることにたじろいだ。平気な顔をしているつもりだった。不安そうな顔になっているのは、彼を見つめたからで、手を繋いでいるからで、こんな風に秋の夜に一緒に散歩するからだった。彼と一緒にいればいるほど、そう遠くはない別れが、目の前でちかちかと点滅するような気がした。

「そんな不安そうな顔、してる?」

「うん、してる」

風が少し強く吹いて、私たちの周囲に、とても大きな葉を落とした。乾いたそれらを踏まないよう、その場に立ったまま、翔平さんの顔を見つめた。

私は、平気そうな顔をしようとしたけれど、そうするほどに情けない表情になってしまうことが自分でもわかった。黙っていられなくて、私は適当に思いついたことを話した。

「あのね、昨日、またシェーンとジュリエットが喧嘩したの。いつもジュリエットは感情的になっちゃうから。どうせまた、すぐ仲直りしてべったりになるんだろうけど」

「それで不安なの?」

「ううん。でも、ジュリエットは優しい子よ。昨日も、体調が悪いって言ったら、夕方くらいにオクロスープを持ってきてくれたの」

「オクロスープ?」

「ガーナの家庭料理なんだって。オクラのシチューみたいなもの。体があったまって助かった」

自分でも、ちぐはぐなことを言っているのがわかった。でも、喋っていないと感情を抑えられないような気がした。私は感情的になってはならなかった。それをしたら、今まで守っていた何かが、すべてくずれていくような気がした。私は少し、ジュリエットを羨ましく思った。シェーンの前でどうしても感情的になってしまうジュリエット。どうしても、翔平さんの前で感情的になることができない私。

翔平さんが、私の顔を覗きこんだ。キスをするのかと思ったけれど、違った。彼は、私のことをじっと見ていた。彼も、とても不安そうな顔をしていた。私はたまらなくなって、少し背伸びをした。ポケットに入れていない方の手で、彼の背中に手を当て、キスをした。秋の乾いた空気の中で、ポケットの中の空気だけが湿度を高く保っていた。うっすら目を開けると、翔平さんの顔の向こう、雲と雲のあいだに、満月に少し満たない月がはっきりと見えた。私は再び目を閉じて、ポケットの中に入れている手に力を込めた。翔平さんも手に力を込め返してくれた。ばかばかしいくらいに悲しかった。

体を離すと同時に、手もほどいた。自分のコートのポケットに手を入れると、そこは冷たかった。翔平さんを先導するように、私はもと来た道を引き返した。枯れた大きな葉を、小気味いい音を立てて踏みながら。後ろから、翔平さんが私を呼ぶ。香織ちゃん、と。

「今度、映画に行こうよ。ほら、大学で学生の自主制作映画をやるって、このあいだ図書館の前でチラシ配ってただろ」

「うん」

私は、ずんずんと歩く。

「早く、シェーンとジュリエットが仲直りするといいね」

私は、ずんずんと、一人で歩く。後ろを歩いている、翔平さんの困ったような顔が目に浮かぶ。自分でもびっくりする。いつの間に、この人のことをこんなに好きになってしまったのだろう。

「しばらく仲直りしてくれないといいな」

小さな、小さな声でそう言う。多分、翔平さんには聞こえていない。

私は、シェーンとジュリエットがずっと仲直りしなければいいような気がしていた。彼らが、もとの仲に戻らないあいだは、少なくとも翔平さんと一緒にいられるような気がした。

翔平さんの車に乗って、家に戻る途中、私はときどき翔平さんの横顔を盗み見た。信号待ちで車が止まっているとき、翔平さんの横顔越しに、街灯で照らされた深緑色の看板が見えた。

 

“North Washington Ave.”

 

白い文字で、そう書いてあった。

翔平さんが私の視線に気づいて、こちらを向く。黒い瞳が、街灯の光で少しだけ茶色く光って見える。

「翔平さん」

私は意味もなく、彼の名前を呼ぶ。穏やかな顔で、ハンドルに手を添えたまま、翔平さんがこっちを見ている。きっともう信号は青だけれど、私がまた言葉を発するまで、彼はこっちを見たまま車を発進させないつもりだ。田舎の住宅街は、どの家も眠りについているのか、静まり返っている。

私はきっと、この光景をしばらく忘れないだろうと思った。この夜の中で、その看板だけが現実的で、確からしいものに見えたからだった。看板が、私にとってはこの日の出来事の証人だった。彼が私を家に送ってくれる帰り道、微熱と秋の夜、湿った手と乾燥したたくさんの枯葉、明るい月、穏やかな顔で私の様子を窺う私の愛しい人。私はきっと、この光景を長いこと忘れない。彼が日本に帰って、もとの恋人と結婚することになろうと、私がどこの国にいて、何をしていようと関係なく。

いつか死んでしまうことをわかりながら生きるように、私たちはいつか別れることをわかりながら今一緒にいる。それはばかばかしいくらいに悲しくて、ばかばかしいくらいに甘くて、ばかばかしいくらいに脆いことだった。

近い未来、私はこの瞬間のことを思い出して切なくなるだろうか。

翔平さん、信号青だよ。

私が知らせると、彼は思い出したように前を向いて、ゆっくりとアクセルを踏んだ。看板が徐々に私たちの後方に流れていき、やがて、私の視界から消え去った。

濡れた手

濡れた手で鞄の中をまさぐる。熱を帯びた手。ここにありはしないかと、沢山の紙屑湿らせては掴んで。皮膚に革のにおいが移るまでべたべたと、濡れたのは私の所為じゃない。

鞄の隙間という隙間に指を這わせて、「それ」を見つけることで頭がいっぱい。

隅から隅まで探し尽くして、もうこの中にはないだろうと、三度繰り返して、ようやく諦めたとき気付いた。

 

「それ」は鞄の外にあるのだ!

 

空を切る手はとうに乾いて、皮膚は冷え切っている。それを追いかけるのだ。時間は万物に平等で、足跡だけ残したそれは、既に遠く向こう。

いつも気付いたときには遅く、肌に張り付いた革のにおい煩わしい。この鞄さえなけりゃ、これが不幸か、なんにも私の所為じゃない。鞄を放り投げれば、放物線を描き、紙吹雪のように中身が落ちる。利き手の中には何も握られず、枯葉のように草臥れたこの手。

 

何も持たず、歩く道の先に賢者が待ち構えていた。

「この先に何がある」

問うと、

「花が美しい季節だ」

笑って言う。

「答えになっていない」

責めると、彼は笑うだけ。

「その季節はいつだ」

「今さ」

私は笑うよりなかった。

「賢者とは名ばかりだね」

賢者は私の目を見るばかりで、何も言わない。

 

私は満ち足りて、幸福になりたかった。何も持っておらず、鞄も、「それ」もなく、愚かな身ひとつあるこの魂。

何故なのかが分からない。何故こうなったのかが。身ひとつでここにいるのか。身ひとつあれば見られるもの、それは鏡、途轍もなく大きな、空の果てもなければ地の果てもない、大きな鏡。

 

鏡は冷たく、とても澄んでいた。革の嫌なにおいはしつこく、消えずにいた。総て、賢者の所為だ。

乾いた手で、鏡の表面に触れる。とても恐ろしく、醜く、酷いものが映しだされる。

私は目を逸らす。

手は鏡から離さない。

とても冷たい鏡。とても澄んだ鏡。

 

それは私にだけ見える。目には映らない。

それはとても恐ろしく、醜く、酷いものの中に隠れており、とても恐ろしく、醜く、酷いものそのものである。

それはとても美しく、慶ばしく、祝われるべきものの中に隠れており、とても美しく、慶ばしく、祝われるべきものそのものである。

私は言祝いだ。

なぜならば、私は不幸だったが、同時に幸福でもあったからだった。

おめでとう。

手の平は徐々に熱を持ち、やがて濡れだした。私は地面に落ちていた鞄を拾い、その中に手を突っ込んだ。

 

 

 

「それ」は初めから私の手の中に。物事の始まりから終わりまで、総てが私の所為。私は鞄の底に残っていた紙屑を、そっと掬い上げる。勢いよく手を振りかざし、紙吹雪を散らす。賢者はいつの間にかいなくなっていた。うっすらと、私の皮膚からは革のにおいがする。

それは私の中にあるものであり、私の外にあるもの。本質は常に、相反する両極が同時に兼ね備わっている。初めから失うものなど何ひとつなく、濡れた手、現はきっと夢のようだったよ。煩悩で、衝動で、破壊で、幼児性で、鏡を割る気なのか。やり方はふた通りしかなく、本当の不幸者はどっち。安心しようとした途端、それは砕け、破片は紙屑のようだ。鞄を握りしめていた自分に恥じ入り、身ひとつの私、再び言祝いだ。おめでとう。

 

 

濡れた手を、じっと見詰める。

満ちる

分かりたい。

分かりたいって思ってる。

でも分からないこともあるんだよ、それでいいって思ってた。

朝の光が昇って目を覚まして、働いて、陽が落ちて。

また布団にもぐって眠るの。

それを奇跡って呼ぶのか、虚しいってうなだれるかは、僕たちの自由だもの。

 

涼しい風が吹いて、秋の匂いがする。

いつも秋は不意打ちでやって来るから、僕は恋をしたときみたいに無防備。

去年の今ごろのことなんて、もう半分も覚えていない。

どんどんすり抜けるみたいに手の平からは水が零れていって、残るのはやわらかな感触だけ。

それがひどく切なくて、嬉しいことだと思うこと、僕は誇らしく感じてる。

 

僕はとてもひとりで、それをいつの間にか認めていた。

扉はいつだってふたつ用意されていて、僕は好きな方を開いてきたから。

見わたす限り何もない草原に、たったひとり立ってる。

あなたを必要としている。

誰にも飼われたくはないけど、帰る場所を求めている。

 

 

 

恋をした。

初めてみたいだし、そうではないかもしれない。

痕をつけるように、嬉しいことも、悲しいことも体に刻んでいくみたい。

満ち足りたい。満ち足りたくない。

朝露が葉から落ちる瞬間を見たんだよ、それは虚しくなかった。

 

あの頃の僕には戻らない、戻れない。

黒目に溺れるみたいな恋がしたい。

黒目に溺れるみたいな恋ならいらない。

朝陽があなたを照らすのならそれで満足。

それじゃ満ち足りない。

あなたのことが分からない。

それでもやっぱり満ち足りたい。

 

言葉じゃなくて、体で近づきたい。

思い出じゃなくて、笑って抱きしめあいたい。

それはちょっとだけ、愛に似ていた。

 

 

 

朝の光が昇って、働いて、陽が落ちて。

また布団にもぐって眠るの。

 

それはちょっとだけ、愛に似ていた。