ドーナツ / FRESH!! / 夢で逢えたら

ドーナツ

 

ドーナツの穴のなかには

なにがあるの?

半分こしたらなくなって

あまいあまいグラニュー糖

しろい口まわり あーあ

 

賢明な判断だわ

バスロータリーでぐるぐる回って一回休み

まぶた重いです ごしごし

てるてる坊主ぶらさがってるの?

 

自転車置き場でひとりぼっち

となりのクラスに顔を出すの

後出しじゃんけん したり顔なんて

ふざけてる あーあ

 

ドーナツの穴のなかには

なにがあるの?

ぽっかりのぞき穴

半分こして見えなくしてね

 

 

 

FRESH!!

 

二年前の写真眺めて

いまよりちょっと若い自分

まるっきり他人みたい

かなり不敵で不遜な態度

生意気小粋

 

やっちゃいけないことなんて

なんにもないのに

なんにもないの

 

いまの貴方が一番新しい

 

 

 

夢で逢えたら 

 

独特のにおいがするの

鼻と鼻をくっつけて

踊り明かすんだ 得意のファンタジー

 

ひとつ伸びをして

バリアを壊す

人生はそんなに深刻じゃない

 

眠るだけ眠って

朝も昼も忘れて

泣けるだけ泣いて

意味も空も忘れて

 

寄りかかったら

スイッチ押せば

自由になるの

あなたもゆううつも、バイバイ

24 hours

2019/2/9(土)

 

となりの気配で目が覚めたら、自分の両側にぴったり人がくっついていてびっくりした。シングルのマットレスに、三人で眠ったから、ぎゅうぎゅう詰め。すこし汗ばんでいて、ちょびっと気持ちがわるかった。「川の字になって寝ようよ」と酔ったぼくが提案したからだったけど、これじゃあ、【川】の字ってより太い【一】の字じゃん、と思って可笑しかった。

 

ゆうべは長野からやってきた友人と、ピッツァを愛している人と、YUKIを愛しているぼくの三人でお酒をのんだ。新宿三丁目にあるピッツァが売りのお店で、マリナーラを頼んだ。それから鯛のカルパッチョとか、アヒージョとか。一杯目にビール、それからボトルで白ワインと赤ワインを一本ずつ頼んだ。ピッツァを愛している人いわく、マリナーラは「まあまあ」の味だそう。

途中トイレに立った時、トイレの前に外国の方が立っていて、カタコトで中にまだ人がいることを伝えてくれた。テーブルに戻って、「カタコトで喋る外国人ってなんだかかわいいよね。流暢に話されたら、なんかやだ」といったら、ぜんぜん共感を得られなかった。いいじゃん、カタコト。

ほかにも、長野の友人が運営しているシェアハウスの話や、彼が東京にきて観たアニメ映画の話などをした。彼が、「ネットカフェに泊まるつもり」なんていうから、よければうちにおいでよと誘った。三人でぼくの家に場所を移して乾杯しなおした。それから太い【一】の字になって眠った。

 

7時半ころ、友人が目を覚ましたのでぼくも一緒に起きた。彼が家をでるのを見送ってから、もうひと眠りした。寝不足の日がつづいていたせいか、正午前まで眠ってしまい、ピッツァ好きの人に起こされた。彼のことも見送って、それからお風呂にはいった。

着替えて外にでると、点のような雪が降っていた。空気がぴんと張るほど寒い日の方が、肌の感覚がなくなって、かえって寒く感じない気がする。白い息を吐きながら、ひとりで黒いアスファルトの上を歩く。綺麗に息を白くするコツは、吸った空気を三秒くらい肺に溜めて、あっためてから吐きだすこと。これはぼくが小学生のときに気づいた発見。

家の近くにある蕎麦屋へいき、牡蠣のはいった温かな十割蕎麦をたべる。小さなころは、牡蠣は貝柱しかたべられなかったけど、いまじゃ身の部分の方が好きだ。温かなつゆにはいった牡蠣の身は、噛むとなめらかで熱い海のような味がした。とろとろと口の中であふれて、潮のかおりが鼻にぬける。寒い日、起きてから最初に胃にいれる熱いたべものは、しあわせの味がするように思う。

 

ごはんのあと、新宿へ向かう。タワレコYUKIの新しいアルバム “forme” を購入する。早く聴きたくてとんぼ返りで家路につくも、最寄り駅からの道で、前々からいきたかった喫茶店にはいる。ロイヤルチーズケーキとコーヒーを頼んだら、運ばれてきたケーキのお皿に、カラフルなソースアートがなされていて嬉しくなった。外は雪が強くなっており、それを眺める向かいのおばさんの話し声が聞こえてくる。ケーキは、江國香織の散文集を読みながらたべた。

家について、歌詞カードを眺めながら “forme” の世界にじっくりと浸る。たぶん、これまでに聴いたどんなアルバムよりも泣いた。YUKIは変わっていく。かわいい。

 

皿洗いをしながら、実家にいる母へ電話をする。かつてのぼくの部屋と、兄の部屋が工事によってくっついたらしい。壁も貼り換えたそうで、くっついたその部屋には兄夫婦が住む予定だ。YUKIも変わるけど実家も変わっていくのだなあ、と思う。

12歳のぼくは、よく夜になると二階にある自分の部屋の窓をあけて外を眺めていた。冬でもそうした。初めての恋をしていた。夜の町はもの静かで、すっと高い夜空も切なくなるのに適当だった。パジャマで素足で、けっこうな寒さだったと思うけど、仙台の空気はぴんと張っていたからあまり寒さは感じなかった。

あれから12年が経って、ぼくは運転免許を取得したし(ほとんど運転しないのでゴールド免許)、ひとりで暮らしているし、友人と他愛ない話で笑ったり、何人かの人と出会ったりさよならしたりした。ぼくはいまここにいて、外はもう雪がやんでいる。

 

いまから12年後、ぼくはどこでなにしてるかな。わかんないな。

きょう聴いたYUKIのアルバムの12曲目が “24hours” っていう曲でね、作曲がCharaで、作詞がYUKIなの。

 

遊んで 夢見て 眠って 歌って 踊るように

  話し足りないわ 24hours

  抱きしめてよ 24hours”

 

文章を書いてたらもう朝で、ぼくの身体は眠たくなってる。

24 hoursあっという間だな。

いまから12年後、ぼくはどこでなにしてるかな。わかんないな。

とりあえずきょう、手をつないであったかいなと感じたり、頭を撫でられてもっと撫でてほしくなったり、もっと話したいなと思ったり、24歳のぼくは、恋をしているよ。デルフィニウムアジサイ、リンドウ、プルンバゴ、スミレ、それからあの夏の花。そして、言葉が好きだよ。

目印をつけて

ひとりでどこかに行きたい、と思い、家を出た。

海が見たい、夕陽を眺めたい、と思い、立石公園というところに訪れた。JRの逗子駅を降りて、そこからバスに乗って20分ほど揺られて辿り着く。バスはとても混んでいて、ぼくはその中で “デッドエンドの思い出” という、よしもとばななの小説を読んでいた。短篇集で、昔一度読んだことのあるものだった。

そこに着く途中、バスは海沿いを走っていて、だから空が夕焼けていく様子がよく見えた。すうっと通った水平線の上を、はけで描いたように小さく雲が浮いている。

バスを降りると、波が寄せたり引いたりする、低いざばぁという音が聞こえた。綺麗な夕陽が見られるということで有名な場所らしく、浜に降りていく人がたくさんいた。

砂浜には、ゴールデンレトリバーを連れた夫婦や、夕焼けがよく見えるよう、少し小高くなった岩の上に立つ恋人たち、波打ち際を追ったり逃げたりして遊ぶ子供たちなんかがいた。ぼくは少し岩場の方へ移動して、ゆったりと、夕陽が落ちていく様を眺めていた。直接見つめるには、夕陽の光はあまりに眩しくて、軽く目をつむった。まぶたを閉じていても、強い光が見えるのはどうしてだろう。じんわりと、やわらかく目の奥に滲む。軽く目を開いて、それから、夕陽のとなりの山が描く稜線、曇りのない青と橙、そのあわいのうす白い部分を飛ぶ鳥の黒さなんかを、ぼうっと眺めていた。

「立石公園」という名の通り、大きな岩が、立ったような姿で岩場にそびえていた。その後ろに落ちる夕陽を美しく捉えようと、三脚を立ててカメラを構える男の人が、何人かいた。

太陽は、ゆっくりと、しかし確実に落ちていく。

ぼくの隣にいた家族のうちのひとり、男の人が、

「沈んでく、ほらほら、沈んでく沈んでく」

と言う。

「もう半分くらいまできたね」

と子どもが言う。

そこからは、あっという間だった。夕陽の、強い強い光はあっという間に点になり、そして僅かに小高くなった地平線の向こうに消えた。

夕陽の名残りが空に溶けて、陽が落ちた地点の上が明るい橙色にうっすら光っている。

人々の多くが、踵を返して浜を去っていく。ぼくはそのまま、しばらく暮れた後の水平線を眺めていた。携帯で写真を撮ってもみたけれど、画面に写るそれは、この目で見た景色にまったく肉薄しなかった。

波の音と、そのはざまにある静けさが、今も耳の奥に残っている。

 

 

 

大きな自然に触れると、すべてが流れの中にあるんだと感じる。自然に委ねようと思うし、自然に委ねたらこんなところまで来てしまった。

 

誰かと突然に出逢って、大切にしようとしたり、うまく大切にできなかったり。初めてではない別れに、初めてみたいに傷ついてしまったりもする。どうしようもなく動揺する。

 

もしかしたら、過去、ぼくが違う選択をして、そしたらもうちょっと今とは違う形で、一緒に、幸せに過ごせたかもしれない人。ぼくたちはこうして離れ離れで、それぞれの場所で生きてる。ぼくはたくさん間違えて、そのときどうしてその行動を選択したのか、利己的な気持ちだけではなかったことを、誰かにわかってもらいたがってる。

 

 

 

生きていく中で、色々な想いを抱えることは、避けられないことだと思います。それは傷となり、痛みとなり、哀しみとなって、心に残るかもしれない。

自分自身の意思や選択では、どうにもできない哀しみもあります。世界は、本当に、夜にごうごうと流れる川の鈍い光のように、ぞうっとするような怖さを含んでいる。

 

 

“ぼくたちは、次の瞬間なにが起こるかわからない世界にいるわけじゃないですか。次の瞬間、というと大げさに聞こえるのなら、「明日なにが起こるかわからない」でもいい。そういった世界に過ごす中で、なるべくなら楽しく嬉しく過ごしたいし、人と愛し合って生きたいと願うのは当然のことだと思うんです。それでも、うまくいったり、うまくいかなかったりする。その全部が美しいって言えてしまうような、そんな小説を書けたら最高だなと思うんです。今というこの瞬間が、だれにとっても初めてのもので、だから不安で、心細くもなるけれど、そこを勇気を持って楽しむ、そんな力を与えてくれる小説を書きたいと思いました。”

 

 

ぼくは真剣に生きたいと思いました。

それは、これまでもそうだったけれど、より強く。これは切実な想いです。

真剣に、誠意を持って生きていくとしたら、正直にならざるを得ない。楽しく笑って生きるためには、自分の生き方に責任を持たざるを得ない。

 

 

穴ぐらに逃げ込んでいる暇はない。

 

 

覚悟が必要だと思いました。

哀しみをなかったことにするのではなく、ぼくは新しくなっていきたい。

過去と今の対比の中に哀しみが生じるなら、ぼくは今に焦点を当てたい。歓びはいつも “今” あることを、ぼくは既に知っている。

 

もっと殴られたい。もっと曝け出したい。

すべてを初めてのように感じたい。ちゃんと傷つきたいしちゃんと喜びたい。勇気を持って。自信を持って。

愛する人の幸せを願い、出逢う人に愛をもって接するしか、ぼくの選ぶ道はない。

もちろん、ぼくはまだまだ未熟で、幼稚で、子どもかもしれない。

それでも、いつまでも甘えていてはいけないと思いました。自分の未熟さや、幼稚さに。

 

 

 

ぼくは、ひとつひとつ、忘れていく。

だから、ひとつひとつ、目印をつける。

ぼくだけにわかる、ぼくだけのための、目印。

惑っていた自分さようなら。

 

ぼくの愛する人が、それぞれの場所で、笑ったり俯いたりしながら、美しい朝の光を浴びていますように。

あの町 あのにおい あの空気

自信を持ちたい

ちゃんと選びたい

ぼくがぼくを選びたい

 

四方が山に囲まれた町で

凍える冬の寒さが空気を満たして

感覚のなくなった体の表面で

目一杯に浴びた星の光 無数の光

 

あの山に灯るのは 道標だろうか

 

ちゃんと選びたい

あなたと一緒にいたい

あなたと一緒にいられる自分を選びたい

 

自信を持ちたい

もっと笑いたい

ゆっくり流れる時間の中で

浮き彫りになるのは本当の自分

 

白い息

ぴんと張り詰めた冬の空気

早い宵闇と遅い夜明け

透き通る遠い空のいつかのグラデーション

 

薪の赤さと 燻されたにおいが

道標だろうか

 

言葉ばかりになって

自信を失くしてわがままになって

泣き出した自分本位な自分

かたくなさ 柔らかく包んでくれる

あなたの口づけで守られた朝

 

大切なものが大切だ

大切じゃないものは大切じゃない

砂時計みたいに溶けていく時間を

利き手じゃない同士の手で

繋ぎ合いたい

 

 

 

ぼくはひとりだ

 

ひとりぼっちは虚しい

ひとりぼっちは悲しい

ひとりぼっちは楽しい

 

あなたもひとりだ

 

ひとりぼっちは寂しい

ひとりぼっちは当たり前だ

ひとりぼっちは楽しい

 

一緒にいられるのなら嬉しい

浮遊する覆い / 遠い国の話

浮遊する覆い 

 

ねえ 別れようとおもえば いつでも別れられるよね私たち

紫の車が光に照らされて 水溜りに浮く油のよう 艶やかに 夜の中

 

ねえ 意味のない会話を いつまで続けるだろう私たち

道行く人のコートが体に触れて 居酒屋の看板のよそよそしい白さ 夜の中

 

 

思い出ばかり

 

 

傷つきたくない

人生に保障なんてない これっぽっちもない

なら どうせなら ちゃんと傷つきたいよ

あなたが相手なら

 

 

細く長い道が濡れている

 

ここに立ち尽くしている私を見て

 

 

声を嗄らす気力も 涙を涸らす体力もないから

 

もうなんにもない私を見て

 

 

言葉尽くすほどに心遠ざかるからって

 

いまは黙った 私を見て 

 

 

 

 

 

 

 

遠い国の話

 

あれはまだうら若き夏の始まり

アスファルト踏みしめて坂道を上る私が君の家に

煙草の灰がソファに落ちるのも気にせず

肩を並べたふたり 香のにおいに捲かれてする 遠い国の話

静かな呼吸と、吸い殻の煙と、遠い国の話

部屋の空気に溶けて すべては幻

 

何もわかってはいない私の話し声

雨に濡れた渋谷の地下にあるバー

酔うことも眠ることもできない君が

忘れることだけできる私の話し声

 

物知りな君がまだ知らないのは 私が話していない世界

あのうす青色の花の名前はプルンバゴ

君の嫌いなアルコール度数の高い安酒に溺れても忘れられない

新宿アルタ前に捨ててきた 私の話

 

君のことを思い返すのはいつも夜

 

 

今はもう老い屈まった冬の始まり

電車の窓から見える景色にこびりついた執着を

上塗りするようにかける電話

しらじらしい街の灯りに酔いしれて

思いの丈はいつも夜色 

君と過ごす 最終局面みたいな毎日

 

君に貰った煙草の味を思い出してばかりの日々を振り子のように繰り返して

煩わしいこの錘を運命と呼ぶなら

行きつ戻りつ 戻りつ 戻りつ

最後には突き放してほしい

理解できない異国の言葉のように

これは遠い国の話だから

名前もわからない花が散って地面に敷き詰めた

君の見てきた遠い国の話だから

からまる

こんな風になるなんて、自分でもびっくりしている

突然にお互いが、お互いの世界に現れて

どんどん知っていってしまうよ

知っていってしまう

 

あの人はとても自立した人

あの人は他人に期待をしない人

孤独を受け入れているように見えて、だから惹かれた

静かに絶望している人だって思ったから、変えたかった

世界は素晴らしいって思ってほしくて

 

ぼくの知らない世界をたくさん見てきた人

だから絶望してほしくなかった

あの人が甘えられる場所をつくりたかった

あの時、あの人は幸せだって言った

もともと絶望なんてしてなかったのかもしれないけど

でも変えられたかなって嬉しかった

 

誰にも言えない。

 

あの人はとても正直な人

あの人はとても優しい人

どんどん知っていってしまうよ

知っていってしまう

 

中途半端な優しさが、一番人を傷つける

どうすればあの人を大切にできるのか

どうすれば自分を大切にできるのか

毎日考えている

毎日手探りしている

 

どうするのが正解なのかが全然わからない

あの人を大切にしようとして、時間を重ねた分だけ

最後には全部裏返ってあの人を傷つけるのかな

ぼくも傷つくのかな

ぼくの優しさは中途半端で、不誠実で、子供じみている

 

恋なんて、始まり方でだいたい行く末も見えるもの

いつまでも同じではいられない

二人とも

当たり前だけれど

 

過ごした時間を、ぼくが、どう捉えるかはぼく次第

あの人が、どう捉えるかはあの人次第

 

いつ決断するの?

迷っているあいだにも、命は燃えてしまう

期限を先延ばしにするほど、あの人を愛してしまう

あの人を傷つけてしまう

 

しゃくしゃく余裕でいたいのに

全然わからない、上手な愛し方がわからない

 

あの人はとても正直な人

あの人はとても優しい人

あの人は

人生の勝ち負け

寝て起きると、部屋がオレンジ色の光で満たされていた。

朝陽か、夕陽かもわからない。枕元の時計を掴むと、4時22分を示していた。が、午前か午後かわからない。ベッドの上で、からだを半分だけ起こして、窓の外を見る。

記憶が、浴槽に勢いよく沈めたタオルが浮かぶように、ゆっくり蘇ってくる。

そうだ、きのうは夜通しネットサーフィンをしていたのだ。夜が明けるころファミリーマートに行って、スパイシーチキンを買って食べた。家について、お腹がすいたと思って、冷蔵庫に入っていた紙パックのカフェオレを、一気飲みした。それから、歯を磨いて、水をがぶがぶと飲んで、ベッドにもぐり、スマートフォンTwitterを眺めているうちに、眠ってしまったのだ。たぶん朝7時か8時。だから、今は夕方。

マットレスを撫でるみたいにして、かけ布団の中を探すと、自分のスマートフォンが見つかった。黒い色をした、シンプルなケースに入っている。

画面をONにすると、デジタルの表示で ”16:24” と表示された。やっぱり、夕方だ。

時刻の下に、”11月18日 日曜日”とも表示されている。もう日曜日が終わろうとしている。信じられない、あしたからまた仕事だ。

からだをもう一度ベッドに横たえて、布団にもぐる。眠気は地平線の向こうに消えていて、見えなくなっていたが、呼び戻すことも不可能ではないように思われた。もう日曜の夕方、信じられない、また一日を無駄にしてしまった、きのうあんな夜更かしをしなければもっと有意義な一日になったのに、まだ休んでいたい働きたくない、そういえばお腹空いた、でもごはんを買いに出かけるのすら面倒くさい、どうしたものか、やはりもう一度眠ろうか。

目をつむっていると、意外なことに眠気は地平線の向こうからのっそり顔を出し、何食わぬ顔をして近づいて来た。ここで彼に身を預けたら、あとで絶対後悔するなとわかっていたけれど、起きていても特に楽しいことはないので身を預けた。眠りは、暗くもなければ明るくもなく、とりあえずの間を埋めるためのBGMのように緩慢とした様子だった。そこに、身を浸した。心地良くもないが、不快でもなかった。

 

 

 

寝て起きると、部屋が緑色の光で満たされていた。

なんの光かはわからない。枕元の時計を掴んだが、何時なのかわからなかった。文字盤がいつもと違うとか、そういうわけではないのだけれど、長針と短針があって、何かを指している。それだけだ。時計の針の長いのと短いのが何かを指しているのだが、そのことはそれ以上でも以下でもなく、なんの意味も成していなかった。自分にはその時計の読み方がわからなかった。これでは、今が昼なのか夜なのかもわからない。ベッドの上で、からだを半分だけ起こして、窓の外を見る。何も見えないわけではないが、何が見えるというわけでもない。寝る前は、何をしていたのだったか。

そうだ、きのうは夜通しネットサーフィンをしていたのだ。夜が明けるころファミリーマートに行って、ATMでお金を下ろした。残高はほんの六百円余りになってしまい、今月暮らしてゆけるのか心配になった。家についたら、実家からみかんや、りんごなんかが届いていて有り難かった。特にお腹はすいていなかったが、口さみしかったのでみかんを一つ手に取り、皮をむいた。皮をむいたけれど、中に入っていたのはなんだったか、覚えていない。みかんだったのか、そうではなかったか。

考え込んでいると、部屋に人が入ってきた。家の鍵は、確実に締めてあったはずなのにそいつは、何事もなかったかのように部屋に入ってきた。そいつは、誰かにそっくりの顔をしていた。誰かとは、自分だった。

「やあやあ」

そいつは鷹揚に言うと、自分の椅子に座った。いや、自分の椅子ではない。なぜなら自分はここにいるからで、そいつは自分のではない椅子に座ったのだった。

「ひとつ教えてあげよう、今日は日曜日だ」

「そうか」

いいことを知ったと思った。今日は日曜日なのだ。

「さらにひとつ教えてあげると、明日は月曜日だ」

「そうか」

「月曜日ということは、仕事だ」

そうか、と思った。もう仕事は明日に迫っているのだ。

「仕事は何をやっているんだ」

そいつがこちらに聞いてきた。

「鉄筋コンクリートで固められた7階建てのビルに行って、そこの5階のパソコンの前で数時間パソコンをいじって何かをしているふりをする仕事だよ」

答えると、そいつは、「そうか」と言って黙った。続けてそいつに言ってやった。

「ひどい仕事だよ。こんなのが何の役に立っているかって聞かれたら、パソコンの前で数時間パソコンをいじって何かをしているふりをする、のを見ると満足する人のお役に立っていると言うよ」

「仕事が嫌なのなら、私が代わりに辞めてきてあげよう」

自分が驚いた、のがわかった。そんなことが可能なのか。そんなことが可能なのでしょうか

「驚いたよ」

それでそう言った。

「驚いたも何も、それが君の望みだろう」

「自分の望み」

「そう、君の望み」

胸に手を当てて聞いてみる。仕事を誰かに辞めてきてほしい? 自分の仕事を、ほかの誰かに辞めてきてもらいたい? エス

「あんたがそうしたいのなら、そうしてもらって全く構わないよ。うん。全く構わない」

そいつは両脚を大きく開いて股のあいだの椅子のへりを掴み、前のめりになって大きくあくびをした。

「わかってないみたいだね」

「何が」

「君は君の思うがままに行動することが可能だということだよ。そして君は何者でもない」

ほら、と言ってそいつはベッドの枕元にある時計を指さした。時計にはあいかわらず長い針と短い針がついていて、規則的に動いているようだった。そのようだったが、やはりあいかわらず何時を示しているのかは読み取れなかった。

「それは時計だ」

「時計だね」

「そう。長い針と短い針が動いていて、それは現在の時刻を示すための道具だ」

「そうだね」

「だけれど君は、それが示しているものをわからない。理解できない。それが、今何時を示しているのかも、そもそも時刻を示しているのかも。それでも、その物体は依然として時計のままだ」

今度は自分の方があくびをする番だった。

「それがどうしたんだ」

「時計がどこまでも時計であるように、君はどこまでいっても君なんだ」

時計の時刻を読み取れないのと同じように、自分にはそいつの言っている意味がわからなかった。言葉が流しそうめんみたいに流れていく。ツーツーツー。なんでこいつはここにいる? なぜ自分の椅子に座っている?

「26歳、男性、身長174センチ、新宿区の7階建てのビルに勤務する会社員、二人兄弟の長男、味噌ラーメンとかぼちゃが好物、ブロッコリーは見た目がいやで食わず嫌い、休日は家で映画を観るか買い物をして過ごすことが多い」

幾つかは真実だったが、ほとんどはでたらめな情報だった。

「それはこの自分の情報を言っているつもり?」

「あとみっつ数えたら、それらの情報が全て消えるよ。いいかい?」

「消える?」

「いやだと言わないなら、承諾したとみなすよ」

「だいたいその情報は正しくないよ」

「さん」

そいつは椅子の上であぐらをかいて、三本の指を立ててこちらに示してきた。

「に」

指を曲げて二本にする。

「いったいなんの真似だよ。年齢も性別も身長も消えるってこと?」

「いち」

好き嫌いも消える? だいたい、消えるってなんだ。

「ゼロ」

そいつは指を全部折りたたんで、手をグーの形にした。

部屋の中が、静寂に包まれた。部屋の中は緑色の光に満ちていて、台所にはきのう自分がむいたみかんの皮が、暑さにばてた犬のような様子でぺたりと自分の場所を陣取っていた。自分が、まばたきをゆっくりしたのを感じた。

「何も変わらないじゃないか」

手をグーの形にしたそいつに言う。椅子の上であぐらをかいて、手をグーにしたそいつはなんだか招き猫のようで、間抜けだった。顔は、あいかわらず自分とそっくりだった。というか、同じ顔をしていた。右目の脇に、小さなほくろがついていた。

「君はもはや、何者でもない」

「会社員でもないってこと?」

「そう! その通り」

「それはいいことを聞いた。それなら月曜に仕事に行かなくてもいいね」

「そう! その通り」

「その通りなら、もうひと眠りさせてもらうよ。会社員じゃないなら、月曜にいつまで寝ていたって怒られないからね」

そう言って、自分は毛布をもう一度かぶり直した。横になって、目をつむる。

「そう! その通り」

毛布にくるまって、みのむしのように丸まりながら、そろそろ出ていってくれないかな、と思った。おい、そろそろ出ていってくれないか?

「君は会社員でもなければ26歳でもない。大人でもないし子供でもない。男でも女でもないのは勿論のことだけど、誰かの息子でもなければ誰かの友人でもない。君、恋人いる?」

うるさいなあ、とみのむしは思った。

「恋人がいるのなら、恋人のための君、というのももはや存在しないことになるね。君は誰のものでもなくなる。君のための君」

そいつの言葉が徐々に遠くなっていく。ツーツーツー。地平線の向こうから眠気くん、やあこんにちは。

「ただし」

遠ざかる意識の中で、みかんの夢を見そうな気がする。巨大なみかんの皮に包まれる自分。みかんの皮の中に包まれているのは自分。

「これから君は、やることなすこと、全てに責任を持たなければならない。持たざるをえなくなるんだ」

みかんの皮がくるくる回っている。そこに自分が着地する、フォールインみかん。自分インみかん。

「君は自由に決断を下す、そしてその全ての決断に責任がつきまとうんだ。いいかい、全ての決断に、だよ」

ツーツーツー。

「おやすみ、頭をひやしてこい」

 

 

 

寝て起きると、部屋がオレンジ色の光で満たされていた。

案の定、みかんの夢を見た。部屋の中に溢れる、みかん色の光。

枕元に見当たらなかったので、スマートフォンを探して毛布の中をまさぐる。黒い、シンプルなケースに入った自分のスマートフォン

手に硬いものがぶつかり、手に取ると、スマートフォンだった。でも、ケースがついていない、裸のスマートフォンだった。画面をONにすると、 ”10:09” の表示。それからその下に、 ”11月19日 月曜日” 。

出勤時刻をとうに過ぎていたが、上司からなんの連絡も入っていなかった。そうか、あいつが仕事を辞めてくれたんだ。顔のまったく同じあいつ。

これほどまでにない、開放感に満ちた月曜の朝だった。自分にしては珍しく、元気にベッドを降りて、カーテンを勢いよく開いた。当たり前だが、家の前の道路が見えた。当たり前だが。

大きく伸びをして、それから洗面所で顔を洗った。冷たい水でパシャパシャと、水遊びする子供みたいな気持ちで顔を洗った。パシャパシャ、パシャパシャ。一度顔を上げて鏡を見ると、目頭のあたりに目やにがついたままだった。全然洗えていない。

気を取り直して、綺麗好きな海賊のような気持ちで顔を洗った。冷たい水で念入りに、ぐわしぐわしと。ぐわしぐわし、ぐわしぐわし。顔を再び上げると、目のまわりもしっかりと綺麗に洗えていた。しかし、力を込め過ぎたせいで、顔全体が赤くなってしまっていた。しかしそれも致し方なし。

リビングに戻り、クローゼットを開ける。スカートやワンピースが、いくつも入っている。少し驚くが、それはそうだ、と思い直す。自分はもともと男ではなくて、女だったのだから。いや、しかし今は女ですらない。何者でもなくなったのだから。

パジャマを脱いで、割に露出の激しめなワンピースを着た。肩紐があって、ぴっちりとしたフォルムのパープルの奴。

クローゼットのドアの内側についている姿見に、自分の姿を映す。うん、いい感じ。腰に手を当て、髪に手を当ててみる。様々なポーズをとってみる。くるりと回転してみる。うん、いい感じ。

メイクを念入りに行い(何しろすっぴんは誰にも見せたくなかった。ひどい顔だから)、意気揚々と外に出る。太陽はしっかりと昇っていた。11時35分。自分の部屋がみかん色の光で満ちていたことを不思議に思う。太陽の光は何色でもなかった。ただ、アパートの白色の壁についたうす茶色の汚れや、植込みの冴えない緑や、アスファルトの限りなく黒に近い灰色や、そういう、世界の色をはっきりとさせるだけのものだった。世界は極彩色では勿論なかったが、それなりに色がついていた。どんなものにも、色はついていた。自分の肌は少し赤味がかったようなみかん色を、うすくうすく伸ばしてクリーミーにしてほんの一滴青色を混ぜたような色をしていた。ワンピースは、パープルだと思っていたが、正確にはパープルではなかった。青でもなかったし、ネイビーというわけでもなかった。それらの言葉の指す真ん中、もしくはそこからわずかにずれた位置にある色であるようだった。

家の近くにある駅まで続く道を、歩いていたが、途端にそれがめんどうくさくなった。会社に行かなくていいのなら、自分は今どこに向かうべきなのだろうか。やるべきことがないということは、自由でもあったが、その自由は自分にとってあまりに大きすぎて、有り余っていた。クリップひとつを持ち歩くために、大きな風呂敷を持たされたような気分だった。かえってその風呂敷が荷物だった。

道端にある自動販売機でりんごジュースを買って、脇道に入り、だれもいない小さな公園に寄った。平日の公園。ベンチに座り、ポーチの中からスマートフォンを取り出した。そして、Twitterの画面を開く。

平日の12時前に呟いている人間はおらず、タイムラインは行き止まりにぶち当たりました、とでも言うように止まっていた。まったくもって止まっていた。画面の一番上までスクロールした上で、何度も指でさらにスクロールする。更新、更新、更新、更新。

何も変化が起こらなかったので、自分でツイートすることにする。

“ひまだー”

四文字のひらがなが、タイムラインの一番上に鎮座する。人差し指で画面を下に押しやる。スクロール。更新、更新、更新、更新。

何度やっても、「ひまだー」が画面の一番上で上下運動するだけだった。壊れたばねみたい。ひまだー。ひまだー。ひまだー。ひまだー。

やがて、更新の動きに合わせて、声を出すようにした。指で画面をスクロールしながら、「ひまだー」と言う。段々、山田さんみたいに、誰かの名前を呼んでいる気持ちになってくる。ひまだー、ひまだー、ひまだー。

「うるせえなあ」

足下のあたり、ベンチの下から声が聞こえてぎょっとした。立ち上がり、恐る恐るベンチの下を覗くと、寝袋のような形をした何がしかにくるまっているみのむしがいた。いや、人間。ホームレスだ。

「ごめんなさい」

しゃがみこんだまま、喉から絞り出すようにして声を出すと、みのむしは舌打ちをした。チッ、というのではなく、もっと機械的な、金属が響くみたいな硬い音がした。キッ、というような。

何かを言うのかと思って、待っていたが、それ以上ホームレスは何も言わなかった。それで、しゃがんで、首をかしげた自分が、そのホームレスと見合う、みたいな形になった。彼は男で、存外に若かった。多分、三十代。

じっと見ていると、彼はまた舌打ちをした。キッ。舌だけではなく、喉の奥を使っているかのような音だ。もしかしたら、これは舌打ちではないのかもしれない。喉打ち?

そのうち、彼は連続喉打ちするようになった。キッキッキッキッ

初めは恐怖が支配していたが、やがてそれがほかの感情に取って代わった。優越感だ。何しろ、奴はベンチの下で、寝袋のような何か――風呂敷を繋ぎ合わせたような、土にまみれた袋状のもの。袋の外側には新聞紙、ビニール袋が巻きつけられている――にくるまっているのだ。ベンチの下から出てきて、パープルとかネイビーとかの中間にある色のワンピースを着たこの自分に暴力をふるおうとしても、奴がもぞもぞしているあいだに逃げ切ることができるだろう。余裕だ。物理的に、自分の方が圧倒的に優勢だった。その上、奴はホームレスだ。もう会社員ではないという点を考慮しても、社会的にも自分の方が圧倒的に優位だった。

スマートフォンを取り出し、ツイート画面にする。

“ホームレス。男。三十代。ベンチの下。喉打ちが得意。”

ツイート。タイムラインの一番上に、その言葉が舞い降りる。「勝った」と思った。目の前の男は、相変わらずキッキッとしていた。眉のあいだには、生まれたときから刻まれたように深い皺が刻まれ、この世の全てを恨んでいるような目をして、自分のことを睨んでいた。ワンピースを着た、美しい自分を。

男は、キッ、キッ、と続けていたが、それは徐々に情けない響きを帯びていった。歯切れのいい元の音ではなくなり、痰がからんだのをなんとかしようとして、試行錯誤するような弱々しい響き。コッ、コッ。

男は、自分の人生を恨んでいるのだ。憐れだった。連続喉打ちが情けない音に変わるにつれ、みのむしが横向きになったからだを動かし始めた。頭を地面から離すように、まるでそういう筋トレ方法でもあるように、せっせとくねくねし始めた。コッ、コッ、コッ、コッ。

自分は、スマートフォンの画面を再びONにして、カメラ機能を起動した。そして写真を撮った。ホームレスのみのむし男の、憐れな筋トレ運動。

カシャァ。

作り物のように、完璧な「カメラのシャッター音」だった。そのことが一層、自分を興奮させた。

カシャァカシャァ。コッコッ、コッコッ。カシャァカシャァ。コッ、コッ。

男の目には、うっすらと涙が浮かんでいるように見えた。惨め。圧勝だ。と思った。

この崇高な勝利を、より完全なものとするため、再びTwitterの画面に戻る。

“連続喉打ちホームレス男。惨めにみのむしのような動きをして、写真を撮られてしまう。自分の人生を恨んでいるんだね、かわいそう”

写真を添付しようと思い、カメラロールをスクロールする。奴は後半になるほど、弱々しい表情をしていた。敢えて、前半の力強く自分のことを睨みつけている写真を選択する。俺はお前に負けてなんていないぞ、とでも言いたげな表情。しかし、奴は自分に圧倒的に負けているのだ。かわいそう。

いつの間にか、男は筋トレ運動も、喉打ちもやめていた。全てを諦め、放心したようにどこか遠くを見ている。

ツイートする前に、文章をもう一度見返す。

“連続喉打ちホームレス男。惨めにみのむしのような動きをして、写真を撮られてしまう。自分の人生を恨んでいるんだね、かわいそう”

特に最後の一文は気分がよかった。それで、声に出して奴に言った。

「自分の人生を恨んでいるんだね、かわいそう」

男は、もう自分のことを見ていなかった。どこか遠くを見て、聞こえているのか聞こえていないのか、顔から表情というものが消えている。

奴に何も反応がないことは、自分をとても苛立たせた。もう一度、大きな声で言った。

自分の人生を恨んでいるんだね! かっわいそう!!

しかし、反応はなかった。自分は舌打ちをして、ツイートボタンを押した。チッ。その音と同時に立ち上がり、公園を出ることにした。自分はとても苛々していた。タイムラインの一番上に、惨めな男の写真がツイートされる。その写真を見ると、少し気分がすっとするような気がした。しかし苛立ちはすぐに戻ってきた。公園を出るとき、ベンチの方を向いて最大限の音量で舌打ちした。キッ。喉は使わなかったのに、喉打ちのような音がした。

公園を出て、あてもなく歩いた。自分はとても苛立っていた。自分の体の中に、3ヶ月放置した排水溝の中のようなどろどろと醜い怒りが充満していた。それは自分の中にある、あらゆる感情を蝕み、犯していった。

蹴るようにして地面を歩き、自動販売機の脇にあるペットボトルのごみ箱を蹴り倒した。なるべく大きな音を立てて。それをする前は、必ず辺りを確認した。誰もいなければ、蹴る。誰かがいれば、もちろん蹴らない。普通の、パープルの色のワンピースを着た、美しい女性の顔をして人とすれ違った。そうすると、優越感を感じることができた。みのむしホームレスより、自分はあきらかに優れていた。あきらかに

陽射しは、強くなる一方だった。目に見えるどれもこれもが、薄汚れて見えた。太陽の光は何色でもなかったが、太陽の光に照らされて鮮明になる色は、どれも汚らしい色をして見えた。近所にある図書館の前の、花壇に咲いたたくさんの花も、同様だった。一見綺麗な色をしているようだが、その実、奴らはわざとらしかった。外国の着色料たっぷりのお菓子みたいに、真っ赤な色をした花。みかん色の花。青色の花。ぼんやりと澱んだ緑の葉。花びらの中心には、おしべとめしべ。花はよく見るととてもグロテスクなのだ。わざとらしい色をした花びらの中心に、ぶつぶつと夥しい数の、触手のようなおしべ、めしべ。細かく、膨大な数の突起。黒く、規則的で、それは生きていた。汚らわしい、と思った。そしてそれは世界とまったく同じだということに気がついた。愛だ、夢だ、とうわべは綺麗なことを言っていても、よくよく目を凝らして見れば、汚らわしくグロテスクなものばかりだ。世の中なんて、そんなものだ。

自分は、周囲に誰も人がいないことを確認してから花壇に唾を吐きかけた。唾は泡をぶくぶくと含んだまま、花びらの上に飛び散った。だらりと、花びらから垂れて土に落ちたものもあった。

苛々は収まらなかった。

自分は図書館の横を通過し、市役所を通過し、住宅地を突っ切って橋を渡り、病院の隣を通った。途中でファミリーマートに寄り、スパイシーチキンとファミチキと、紙パックのカフェオレを買った。イートインコーナーのあるコンビニだったので、そこでそれら全てを胃に入れた。カフェオレを全て飲み切った後、お腹がまだすいているのか、吐きたいのかよくわからなくなった。胃がむかむかとした。お腹が、ぐう、という音を立てたのでポテトチップスとチョコホイップパン、それからアメリカンドッグを追加で買うことにした。アメリカンドッグを注文するとき、レジの店員が、「あたためますか」と聞いてきた。眼鏡を掛けていて、やせぎすの猫背で、顔ににきびがたくさんある男の店員だった。声は小さくこもっており、「あたためますか」が「あっめむすく」に聞こえるほどだった。

「え?」

大きな声で、威圧的に聞く。店員はわかりやすく委縮し、さらに小さな声になった。

「っめむっく」

「なんて言ってるか全然聞き取れないんですけど」

するとレジの奥から、先輩と思われる40代くらいの女性店員が出てきて、にこやかに歯切れよく、「申し訳ございませんお客様。こちらのアメリカンドッグあたためますが、よろしいですか?」と言った。

「はい」

女性店員は、驚くほど腰が低かった。申し訳ございません、申し訳ございません、と言いながら、猫背の男の店員に、「ほら、さっさとあっためて。早く!」と指示していた。

それを見て、自分の腹の虫が少し収まるのを感じた。「勝っている」と思った。

会計を済ますとき、金額を言う男の店員の声はあいかわらず小さかった。レジスターには “¥367” と表示されていたので、367円だとわかったのだが、自分はもう一度、「え?」と言った。男の店員は委縮した。

だから、声小さくてわからないんですよね

店員は、「すみません」と小さく口ごもって、停止した。自分は財布から367円ぴったりを出すと、レジカウンターの上に乱暴に置き、舌打ちをした。キッ。

商品の入ったレジ袋をかっさらい、店の外に出た。自動ドアが閉まるとき、「申し訳ございませんでした!」と言う女性店員の声が聞こえた。奴らは人生の負け犬だ、と思った。そう考えるのは、気持ちが良かった。奴らは人生の負け犬だ。自分が奴らよりも勝っている、あきらかに

コンビニの前の駐車場で、スマートフォンを取り出す。いつの間にか、Twitterに通知が来ていた。歩きだしながら、スマートフォンをいじる。

「連続喉打ちホームレス男」のツイートがリツイートされていた。1リツイート。「気持ち悪いですね」というリプライが来ていた。自分の勝ちが、確実なものへとまた一歩近づいたような気がした。「ほんと、気持ち悪いですよね」と返信する。

道は上り坂だったが、自分の心持ちは軽くなっていた。先ほどまでの苛立ちはどこへやら、意気揚々と歩いている。そのうち、スマートフォンの通知がどんどん溜まっていった。

2リツイート5いいね、ドラッグストアの横を通る、3リツイート9いいね、ラーメン屋の横を通る、7リツイート17いいね、上り坂がゆるやかになる、20リツイート22いいね、80リツイート50いいね、264リツイート92いいね、上り坂が再び急になってくる、593リツイート121いいね。

 

“連続喉打ちホームレス男。惨めにみのむしのような動きをして、写真を撮られてしまう。自分の人生を恨んでいるんだね、かわいそう”

 

道端に、黒い車が停めてあった。

スマートフォンの画面を一心に眺めながら、大股で歩く、人間の姿が車体に映った。ふと立ち止まる。肩紐が落ちそうになっていることに気づき、肩まで紐をずり上げる。

Twitterの通知欄は、いつのまにか、「お前が一番きもい」「ホームレスなら晒していいと思っているのですか」「こんなのをアップするあなたの精神構造が一番かわいそう」というようなリプライで溢れかえっていた。

自分は手に提げていたレジ袋から、アメリカンドッグを取り出した。ケチャップとマスタードをかけて、味わうためではなく胃を満たすために食べた。チョコホイップパンの袋を開け、左手でパンを持ちながら右手でTwitterのリプライをスクロールする。どうでもいい言葉を、無感情に流し見ていく。

「君は自由に決断を下せるんだよ」

坂道の上から、聞き慣れた声が聞こえた。急な坂道の上から、そいつはゆっくり歩いてこちらにやって来る。自分と同じ格好、パープルのワンピース、自分と同じ顔、脂汗が額に浮かぶのがわかった。

「そのツイートを消すことだってできるし、消さないでそのまま拡散することもできる。アカウントを消したっていいし、君の隣にある黒い車を蹴り飛ばしてもいい。家に帰ったっていいし、この道の上で裸になったっていい」

「パープル」

自分は、小さくそう口にした。小さくげっぷが出て、チョコホイップパンの最後の一かけらを口に放り込む。

「この服? パープルだと思う?」

太陽は、だんだんと翳ってきていた。そいつが着ているワンピースの色は、太陽に照らされていないせいか、パープルなのかよくわからなかった。でも、自分が今日選んだ服は、パープルっぽかったはずだ。

「パープルだと思う」

「君がそう思うなら、君にとってこの服はパープルなんだろうね」

「ネイビー? それとも青? 正解はどうなの」

自分が尋ねると、そいつは心底おかしそうに笑った。

「さっきパープルって言ったじゃん。もう一度聞くよ。この服は何色に見える?」

自分の目は、そいつの姿を上から下までなぞった。自分と同じ顔、自分と同じ服。しかし、服の色が何色なのかはより曖昧になっていた。

「わからない。家を出たときは、パープルとネイビーと青が混ざったようなワンピースに見えた。そのどれでもないような」

「ねえねえ」

そいつは、あきれたように、息を吐くみたいにして言った。

「今の話をしているんだよ。い、ま。家を出たときじゃなくって、今、この服が何色に見えるかって言ってんの」

自分は、完全に途方に暮れてしまった。あのときの時計みたいに、自分にはそのワンピースが何色か、見当をつけることすらできなくなった。この目は、見えているのに何も見えない。

スマートフォンは振動を続けていた。通知音のふざけたような音――ぷりん、と聞こえた――が、坂道で向き合う自分たちに、BGMのように降ってきた。ぷりんぷりんぷりん

Twitterの拡散はとどまることを知らなかった。3089リツイート、322いいね、3175リツイート、324いいね。ツイートへのリプライが、言葉の海が、雪崩が、どこかの誰かに押し寄せていた。

「これ許可とったんですか。とっていないなら法律違反です、通報しますよ」「きも」「喉打ちってなんだよ笑」「ツイート主の顔はもっとキモいんだろうなあ」

苛立ちや反発よりも、どこの誰に言っているのだろう、という気持ちと、恐怖と、嫌悪感と、軽蔑が混ざったような感情が湧いてきた。屠殺場で殺される牛の動画を眺めるような気分だった。

「どうするの?」

ぷりんぷりんぷりん

自分は急いでツイートを削除した。それを誰かに見咎められているような気がして、あたりを見回した。そいつが、坂の上に立っているほか、誰もいなかった。

振り返ると、自分は随分と高い場所に立っていて、町が一望できた。町の向こうには、山が見える。稜線がはっきりと、力強い線を描いている。曇り空だったが、綺麗な写真が撮れるかもしれない。町を見下ろして、スマートフォンを構えた。カシャァカシャァ

カメラロールをスクロールして、一番映りのよさそうな一枚を選ぶ。アプリで加工して、色を鮮明にする。その写真が何色なのかもよくわからないが、色を鮮明にする。急いで、画面に入力をする。

 

“町の景色”

 

それだけ言葉を添えて、写真をツイートする。途端、反応が返ってくる。298いいね、801いいね、4862いいね。

「綺麗な写真ですね」「やばいねこれ」「いい写真ですね、これどこですか」「いいね」「いいね」「いいね」ぷりんぷりんぷりん

「そのツイートした写真、君は綺麗だと思う?」

自分は苛々した。そいつは、いつも質問ばかりする。質問されることが、自分は嫌だった。ただただ苛々した。

「質問ばっかりしてないで、まずはあんたがどう思うか言ったら」

「まだ気づかないの? 君は――――なんだけど」

「は?」

そいつの言っていることが、途中うまく聞き取れなかった。

ぷりんぷりんぷりん

BGMにしては、その音は耳障りだった。自分は、スマートフォン機内モードにした。急に、静かになった。風が耳もとで、ぼうぼういうのが聞こえた。

「後ろを振り返って、その写真のもとになった景色を見てみたら?」

自分は言われた通り、後ろを振り返った。そいつの顔を、見ていたくなかった。

坂の上から見える景色は、くすんでいた。ぱっとしない山の緑、灰色がかった家々、つまらなさそうな顔をして並ぶ灰色のビルたち。うんざりだった。自分は、世界にうんざりしていた。楽しいことなんて全て虚構だ、こんなぱっとしない景色に何千いいねもくるんだから。

苛々する。なんで、と思った。何に対してかはわからないけれど、なんで。なんでなんでなんで。

「あああああああ」

苛々が絶頂に達して、手に持っていたポテトチップスの袋を破って、道にぶちまけた。黒い車の上にもぶちまけた。レジ袋を力いっぱい投げると、ゆっくりと地面に落ち、風に運ばれてゆっくり坂を下りていった。自分は走り回り、そこら中に落ちているポテトチップスを踏みまくった。踏んで踏んで、踏みまくる。思ったより大した音は鳴らなかった。しょぼい音で、ぱり、と鳴るだけだった。

道路に落ちているポテトチップスをあらかた踏み終えると、ポテトチップスを踏んだだけの道路だった。自分が、ポテトチップスを道に撒いて、踏んだだけ。粉々になったくずが、道に散乱していて、見苦しかった。自分は、その場にしゃがみこんだ。

「くそみたい」

かすれた声が出た。もはや、叫ぶだけの力は残っていなかった。

「何が」

そいつが、坂の上から問いかけてきた。自分は、振り返ることもせず、くすんだ町を見下ろしながら答えた。

「人生が。自分の人生が」

そう言って、自分が先ほどしたツイートを思い出す。

 

自分の人生を恨んでいるんだね、かわいそう”

 

負けていた、と思った。そう思った瞬間、胃液がせり上がってきて、盛大にその場で吐いた。先ほど胃に入れたファミチキやらアメリカンドッグがいっしょくたになって、黒いアスファルトを汚していた。胃に入っていたものが全部出て、からっぽになるまで吐いた。周囲に、そいつ以外誰かいるかどうかなんて、もうどうでもよかった。胃の中のものが全部なくなっても、嗚咽が続いた。背中を誰かにさすられた。円を描くように、誰かの手が自分の背中に当てられていた。そいつだった。

「何。同情?」

そいつは、黙って自分の背中をさすり続けた。惨めだった。ほかの誰よりも、あの公園のホームレスよりも、にきびだらけのコンビニ店員よりも、自分が惨めだった。ベンチの下で生活する彼より、叱られ続ける店員よりも、道で半狂乱になってポテトチップスを撒いて踏みつけ、ゲロを吐く人間の方が圧倒的に惨めだった。客観的に見ても、あきらかに惨めだった。

「ねえ、ここからの景色、どう見える」

そいつが、不意に背中をさする手を止めて自分に聞いた。

「きったない町だなって思う。色もくすんでてはっきりしないし、つまんなそう」

そいつは笑った。これまでで一番愉快そうな声を出して。

「じゃあ、自分が着ている服は、どんな色?」

自分の体を見た。服はパープルというより深い青に見えた。吐しゃ物がかかって、より濃い色に見えているだけかもしれなかったが、そう見えた。

「パープルってより、青のワンピースって感じ。深い青色。ゲロで汚れてそう見えるだけかもだけど」

自分は、思ったままを口にした。自分が思ったままを。

「あはは、そうかもね。パープルってより、青って感じ。同じ感想」

「うん」

そいつは、笑って自分の背中をばんばんと叩いた。不快な感じはしなかった。

「君が見える世界が、君の正解なの」

「くそみたいな世界だね」

そいつは、尚も愉快そうだった。あはは、と笑いながら肩を揺らしてきた。「君がそう思うんだよ、ほかの誰でもない、君が」

ほかの誰でもない、自分。くそみたいな自分。

わたしが?」

「そう」

わたしは考えた。ここから見える景色はくすんでいる。あのホームレスは惨めだった。コンビニ店員も惨めだった。でも、と思う。――でも。

「あのホームレスも、コンビニ店員の男の子も、おばさんも、負けてたのかな」

「さあ」

そいつは、どうでもよさそうに言った。

「自分が見たいようにしか、世界は見えないんだよ。勝ちか負けかも、幸か不幸かも、全部自分が決めるの」

「ゲロまみれのこの状況が、幸福だとは思えないけどね」

そいつは、笑わなかった。

「ほかの誰でもない、何者でもない君が決めるんだ。ほかの誰にも決められない」

もはや、勝っているか負けているかなんてどうでもよかった。でも、そいつの言うことが真実だということはわかった。わたしにとって、真実だった。

「もう一度言うからよく聞いていて」

そいつは、ひとつ咳払いをした。いや、わたしが咳払いをした。

「君は自由に決断を下す、そしてその全ての決断に責任がつきまとうんだ。いいかい、全ての決断に、だよ」

わたしは、深く、うなずいた。坂の上にへたりこんだまま、大きく息を吸った。口の中がすっぱかった。水で口をすすぎたかった。服を脱いで、お風呂に入りたかった。

惨めなわたしの、くそみたいな人生。でももう、それをほかの誰かのせいにしたりはしない。わたしは決めた。わたしの責任で、決断をした

ゆっくりと立ち上がると、陽が徐々にかたむいていた。まだ夕暮れではない。しばらくここでぼうっとしていれば、みかん色の夕暮れが見えるだろうか。

わたしは坂を駆け下りる。全力疾走で駆け下りる。しばらく坂を降りて、息をきらしたまま、後ろを振り返る。そいつはいなかった。粉々になったポテトチップスと、黒い車と、わたしの吐いたゲロ。太陽に照らされて、鮮明なそれら。馬鹿みたいだけど、その景色は悪くないものに見えた。Twitterにアップした町の景色なんかより、わたしには、ずっと美しい景色だった。ずっとずっと。