ありがとう『通天閣』

みかんのゼリー食べたいいい、って思いながらこのブログを書いている。

でも行かない、いま感じたことを書ききるまでは我慢我慢、と思って書きまする。多分みかんゼリーよりは大事なことだという気がする。

 

2015年の2月に『サラバ!』を読んで衝撃を受け、それ以来大好きになった小説家の西加奈子さん。

ぼくが彼女の作品をとても好きな理由は、どの小説も読むだけで今の自分を肯定してもらえたような気分になるから。ううん、もっと正確に言うと、自分で自分のことを肯定できるような気持ちになるからで、陳腐な言い方になってしまうけど読後に「前向きに」なれるからだ。

そんな彼女が単著で出した小説をとうとう全部読み終わってしまった。

 

最後に読み終わったのは『通天閣』という題名の小説。大阪にある通天閣を中心として、猥雑で胡散臭く、そして下品な街「ミナミ」に生きるしょーもない人々の生活の話だ。

コンビニで売られる懐中電灯なんかを工場でひたすら組み立てて生計を立てている44歳の男と、ニューヨークに行くと突然言い出した恋人に対し、責めるような気持ちでスナックに勤め始めた三十路くらいの女の人が主人公。

工場勤務の男の方は、前日に食べた牛丼の空容器や発泡酒の缶に囲まれる部屋で暮らしていて、家族もなく、毎日コンビニの蕎麦とお稲荷さんセットを食べ続けた結果病気してしまい、昨日も今日も明日も、変わり映えもなければ希望もない、まあつまりは「どーしよーもない生活」を過ごしている。

女は女で、働くスナックに勤める従業員はとんでもない人ばかりで、焦ったときに「タラー」と言いながら指で汗を表現する子(!)、酔うと「マ〇コ」を連発する子(!!)、果てには自分の吐いたゲロで会計をごまかしぼったくるオーナー(!!!)、なんていうとんでも環境で生活している。ニューヨークに旅立った恋人から来る電話は5日に一度から1週間に一度、2週間、1ヶ月と延びていく。

物語の詳しいあらすじはここでは省略するけれど、この2人の生活だけでなく、作中に出てくるほかの多くの人々――列が進んだことに気づかない観光客用のタクシーに「前、空いてまっせ。」と知らせることだけに精を注ぐ老人、化け物みたいに化粧が濃く生理のにおいにやたら敏感なオカマ――の生活も、まあどうしようもないものばかりだ。

 

ぼくは今、大学院2年生でちょうど就職活動真っ最中なので、多分人生のかなりの部分を費やすことになるであろう「仕事」に関連して、「なんのために生きるか」とか「自分の命の使い方」とかを考える時間が最近増えてきている(年齢的なものもあるだろうけど)。

そうしたとき、あくまでぼくの考えだけど、やっぱり「世の中をもっとよくする」「より多くの人が生きやすい社会をつくる」「誰かを救う」っていう目的のために働きたいよな、なんていう崇高な目的を掲げてしまって、でも現実の自分の生活とあまりに崇高なその目標との乖離に驚いてしまって落ち込んでしまう。

だって現実の自分の生活は……うぅ、こんなこと格好悪くて本当は言いたくないのだけれど……、毎日なんのためにやってんのかもわかんない研究を、「信念も何も持ってねぇなこいつ」とか上司に対して思いながら、けれど時には怯えながらやっていて、つまりは「どーしよーもない生活」なのだ。

 

でも、きっと誰しも同じような気持ちは持っているんじゃないかなあ、いや持っていてほしいなあと思うんだけれど、「いま私/ぼくがやっていることって、いったい何になるっていうんだろう?」みたいな空しさはあるよね。この仕事クソみてぇだな、とか、時間を浪費している気がする、とか、何してんだよ自分、とか、そういう瞬間。そういう瞬間をごまかすために娯楽に走ったり、美味しかったご飯をツイッターにお洒落風にアップしてみたり、自撮りでたくさん「いいね」をもらったり。

誰かに救ってほしい、認めてほしい、愛してほしい。

 

通天閣』には、こんな一節がある。「マメ」とは、ニューヨークに行ってしまった恋人のことだ。

『夢に向かって頑張っていないと駄目なのか、何かを作っていないと駄目なのか。自転車でバイト先に向かい、阿呆の相手をして、マメのことだけを思って眠る生活をしている私は、駄目なのか。

「きらきらと輝いて」、いないのか。』(文庫 p171)

クリエイティブなことをしている人は、もちろん素晴らしい。ぼくが今こうして文章を書いているのも、西加奈子さんが『通天閣』を書いてくれたからだし、それに勇気づけられ突き動かされたからだ。すべての芸術はそうやって鏡のように自分自身の心と向かい合わせてくれるし、揺るがないメッセージを届けてくれる。何かを創作する人は神様のようで、「よりよい社会」を作ることに強く貢献していて本当に本当に尊敬する。

けれど、そうじゃない人は無価値なんだろうか。ニートで働きもせず、親の金で一日中部屋に引きこもって漫画やゲーム三昧、ご飯は部屋の扉から親がすっと差し出してくれる、そんな人は?

友達も家族もいなくて、顔が気持ち悪くて不潔で周囲の人からは嫌がられ、誰もその人が死んでもしばらく気づかないような生活を送っている人は?

毎日会社に行っていて、友達もそれなりにいて、だけど毎日はのんべんだらりとして代わり映えせず、ときどき自分のやっていることに意味を見いだせなくなってしまうような人は?

それぞれのレベルでそれぞれの人生で、そのことを意識しやすいかしにくいかが違うだけで、きっと心の奥の奥で望んでいることは一緒なんだと思う。

 

物語の途中、男が勤務する工場にやってきた新入りに子供が産まれる。その新入りは嫁からの電話を受けて、

「産まれたっ!!!」

と叫ぶ(文庫 p192)。町中に響き渡るような大声で、嫁からの知らせを受けて、我が子の誕生に喜ぶ。この世界に新しく生まれた命は、無条件に祝福される。

普段はどもってばかりいるその新入りの台詞は、新しくて眩い光がバッ! と瞬いたかのように強烈で、神聖で、圧倒的なものだった。

 

誰かに救ってほしい、認めてほしい、愛してほしい。

でも本当は、「産まれたっ!!!」その瞬間に命は祝福されているんだった。忘れてた。

今日も明日もその先も続く、のんべんだらりのしょーもない毎日でも、やり過ごすみたいに毎日を暮していても、そっか。ぼくたちは生きてるんだった。産まれたんだった。すでに愛されているんだった。そういうことを、『通天閣』は感じさせてくれる物語だった。

 

何かクリエイティブなことをしなくては!!! 世の役に立たねば!!!

半ば強迫観念みたいにそう感じていた最近の自分にとって、「こんなしょーもない人もおんねんで~。別にそんな焦らんでもええねんで~。」って西さんに言ってもらえたようで、とても救われたし嬉しかった。ありがとう西さん、ありがとう『通天閣』。

 

……とは言いつつ、1ヶ月後くらいにまたぼくは焦り出すんだろな。

ま、いいや。ゼリー買いにコンビニ行こ。