無意味なことこそ大切

音楽をよく聴いている。

歩きながら、ご飯を作りながら、洗濯物をたたみながら、友人を待ちながら。

自分としてはそれが普通だと思っていたから、このあいだ友人に「本当に音楽好きなんだね」と言われて、「あ、これってスタンダードじゃないんだ」とようやく自覚した。

 

音楽を聴き始めたのは、中学校に入ってからだった。

当時はiPodなんかじゃなくって、MDプレイヤーが主流だった。姉の持つSonyウォークマンを勝手に借りて、夜眠る前に毛布にもぐってこっそりと聴いていた。

なぜこっそり聴いていたかというと、母親はイヤフォンで音楽を聴くと耳が悪くなると思っている人だったから(正しいけれど)。

朝起こされたときにイヤフォンがぼくの顔の横でぐじゃぐじゃに絡まっているのを見つけると、母は決まって顔をしかめた。

それでも夜な夜な、ぼくは姉のウォークマンを持ち出してベッドに忍び込むことをやめなかった。しんとした部屋の中で毛布を被ると、毛布が擦れる音や自分の息遣いが思いの外大きく聞こえてドキドキした。カチャカチャと音を立てながら冷たい機器をいじると、暗闇の中でぼんやりと信号の青色のような光がともって、粗いデジタルのトラックナンバーが表示される。ボタンを押して再生した瞬間、ぼくは全く違う世界にいる。

イヤフォンで聴く音楽は、それまでのどんなものとも違った。

歌手の声だけでなく、打ち込みの小さな音まで、細かいひとつひとつの音を聴き取ることができて、そしてそれはとても色彩的で、立体的で、瞬間的だった。

そのころ聴いていた曲で印象に残っているのは、大塚愛の『未来タクシー』という曲と、チャットモンチーの『とび魚のバタフライ』という曲だ。

『未来タクシー』はアルバムの1曲目に入っている曲なので、イントロの「これから始まるぞ感」がすごかった。電子音の多いソリッドな感触のイントロを聴きながら、これから始まる音楽の旅に、ぼくは毎回胸を躍らせていた。

『とび魚のバタフライ』は、サビの入りが、『ブルー ブルー ブルー ブルー ブルー ブルー ホワイト ブルー』という歌詞で、それに続いて、『何て果てしない空!』と歌われるのだが、ぼくはこの曲で本当に自分がとび魚になったと思った。海から外へ飛び出た瞬間の、その鮮やかで強い青色を見たと思った。実際はベッドで毛布を被っているだけなのだけれど。

 

  

どんなことでも、「初めて」の衝撃というのは大きい。その衝撃に突き動かされて、これまでどれだけ多くの音楽家や、画家や、発明家が生まれたろうと思う。

いまぼくは、谷川俊太郎さんの『ひとり暮らし』というエッセイを読んでいるのだけど、その中に、『六十年近くこの世に生きていると、生まれて初めて見る光景というのがだんだん少なくなってくるのもやむおえない』という一文がある。

23年しか生きていないぼくですら、昔よりも「初めて」を感じることが少なくなったなあと思うのだから、60年生きたらいわんや、という感じだ。

今後どれくらい生きられるのかわからないけれど、「初めての○○」に出逢ったとき、どれくらいの衝撃を受けられるだろうと思う。それはつまり、「感じる心」をどれだけ持ち続けられるかという問題と同じだ。

半月ほど前、夜中に人と大学構内を歩いていると、「金木犀の匂いがするね」と言われた。

それを聞いてぼくはとても嬉しくなったのだけど、「感じる心」は、そういう「無意味なこと」と深く繋がっているような気がしている。

肌寒い季節になってきて、ゆっくり湯船に浸かるのが楽しみだな、と帰り道に考える。

机の上に季節の花を飾ってみる。

きょう起きたできごとを、事細かに日記につける。

美術館に行く。音楽を聴く。本を読む。

どれも無意味なことで、それをしたからといって現実は全く何も変わらないかもしれない。

何も変わらないかもしれないけれど、そういう無意味なことを省いて意味のあることばかりしていたら、できあがるのはそれこそ無味乾燥な人生なのではないか。

思えばぼくの人生の中で、大切にしたいことのそのほとんどが、はたから見れば無意味なものなのかもしれない。

「無意味なこと」は価値がなく思えたり、ときには切り捨てたくなってしまうものかもしれないけれど、無意味なことこそ大切にしたいとぼくは思っている。