口と夜

肝要な事を口にすれば負け。僕はさっきから、下手な芝居を打っている。どうとでも取れるような言葉を並べて、本当の事は夜に隠して。明かりを消して、何も見えなくする。その両の目は飾りだから、月が隠れたとき見開かれるものが本物。おそらくは、二人のあいだに本当のことなんて何もない。貴方の目に見える僕だけが真実、僕の目に見える貴方だけが現実。欲しいものをあげる。

「何も言わないで」

いつだったか忘れたけれど、悪い噂を耳にしたことがあった。でも耳を塞ぐまでもなかった。だってこの目に見えることだけが現実だから。この花が枯れるまでは傍にいるよって、僕の部屋を訪れたときに置いていったリンドウの花は、いつまで経っても咲かなかった。蕾のまま朽ちていって、僕は見て見ぬふりをした。花言葉は『悲しんでいるあなたを愛する』、嘘みたいだけれど本当の話。

「何も言わないで」

どうあがいても、また同じ場所に戻ってしまう。貴方の望むこと全てに応えたなら、一つだけ、僕の望むことに応えて欲しい。また同じことを繰り返している。傷つく度に期待をして、期待をする度に裏切られる。それなのにまた、懲りずに期待をする。僕もそうだったけれど、貴方だって十分に傷ついていた。だって芝居をしていたのはお互い様の筈だから。欲しいものをあげる。

「何も言わないで」

要求に応じるほどに、互いの輪郭がより一層はっきりと際立って、孤独が色濃く影を落とした。この目に見えることだけが真実なら、独り相撲を取っているのと何が違うんだろうって。でも、口にはしなくても、貴方もそう思っていることだけは確か。似た者同士は、ぴたりとくっつくか憎み合って離れるか。二つに一つ。そのあいだはないのだと、低く響く声が言う。リンドウの花は捨てた。

「何も言わないで」

貴方の肩は夕陽に染まる丘。貴方の背中は荒涼とした砂漠。節くれだった指は老木の幹。少年のような目は海の底の鉛。薄いシャツを捲り上げて、大きな背中に爪を立てる。強く強く力を込めて、跡を残しておく。明かりは点けないで、口は開かないで、夜に呑み込まれそう。あられもない夜に。

貴方が去った後の僕は、本当の独り。