生きる歓びを、命の花束を

原宿にあるデザインフェスタギャラリーに行って、ホリウチ ヒロミさんの個展を見てきた。

原宿駅なんて普段降りることがないから、観光気分で竹下通りに入ってみると3分も経たずに後悔した。祝日ということもあってか、道は人、人、人。クッキー缶をじゃかじゃかと引っくり返したような人混みを、縫うようにして早足に進んだ。

やっとの思いで竹下通りを抜けて、原宿通りという名の裏道に入ると、パーカーのフードを目深に被った兄ちゃんたちがいっぱいいた。

東京は本当に、場所によって住んでいる人種が違うなあ、と思って歩いていると、白い壁に黒い字で、「DESIGN FESTA GALLERY」と書かれた建物が見えて、僕は少しほっとしながらそちらに向かった。

その会場はWEST館とEAST館に分かれていて、展示スペースとしていくつもの部屋があったので、たくさんの人が個展なりなんなりを開いているようだった。

僕はヒロミさんの絵を見に来たつもりだったけど、折角だから、見終わった後でほかの人の作品も見てみようと思った。

 

ヒロミさんのことは、Twitterで知った。

どういうルートで知ったのか忘れたけど、ヒロミさんはペン画を描かれていて、その作品の画像をTwitterで見て、勝手にフォローしたんだと思う。

僕は絵に関してまったく無知なんだけど、単純に、「なんだかとても力強い絵だなあ」と思ったことを覚えている。

僕はTwitterで、好きな歌手とか好きな作家を多くフォローしているので、それと同じような気持ちで、「好きな絵描きさん」としてヒロミさんをフォローしていた。

だから、展示会場に入ったとき、在廊されているご本人に、

「あ、知ってる顔だ。えーと……OK君だ」(OKは僕のTwitterアカウント名)

と言われたとき、(えええなんで認知されてるの!!!)と思ってめちゃくちゃ焦った。

「ブログ読んでるよ。綺麗な文章を書くよね」

とも言われ、僕は思わず「ええっ!! ありがとうございます!! お恥ずかしい!」と答えた。お世辞だとしても嬉しくて、同時に本当に恥ずかしかった。

僕は何かひとつのことに、命を削る勢いで取り組んでいる人を本当に尊敬しているし、そういう人はえてして孤独なのに、それを受け入れる軽やかな雰囲気を持っている人とか神様じゃんと思っていて、要はヒロミさんはそんな感じだった。

僕がヒロミさんの絵を見ているあいだ、展示スペースに来る人来る人、みんなに話しかけていて、どこからいらっしゃったんですかとか、遠くからありがとうございますとか、全員にお礼を言っているようだった。

ヒロミさんと、「大森靖子はインストアLIVEで全員と握手してくれる」みたいな話になったとき、

「すごいよな~。俺絶対できないもんな~」

とか言っていて、いやいやあなただってしてるじゃないか、と僕は心の中で思った。

 

尊敬できる人と会うとき、「もっとすごい自分で会えたらよかったのに」と思う。自分をよく見せようとして、緊張したり恐縮し過ぎたりしてしまう。

「この絵は構図が計算されている感じがして」とか、上っ面の見栄を張った言葉なんかじゃなくて、もっと丁寧に、思っていることを口にすればよかった。

人との出会いとか、人生なんて全部出たとこ勝負なんだから、いつだって「そのときの自分」で勝負するしかないのにね。

堂々と、人と向き合えるように、もっと精進しなければ、と思った。

 

 

 

話は少し離れる。

僕は最近、とても強く感じていることがあって、それは「生き辛い社会だなあ」ということ。

高校のときや、大学に入りたての頃は、尊敬する有名人なんかが、「いまはとても生き辛い時代で」などと言っていても、あまりピンと来なかった。だけど最近はすごく強く感じる。

僕は、「生きる」とは、ただ心臓が動いている状態をいうわけではないと思う。

「人が、その人自身の能力や個性を伸び伸びと発揮する」ことが、「生きる」だと思う。

生きることは、喜びだ。

犬は走る能力があるから、大きな公園を風のように縦横無尽に走り回るとき、彼は生きている。しっぽをぶんぶん振って喜ぶ。

鳥は大空を舞うときに生きるだろうし、魚は水を自由に泳ぐとき、生きるだろう。

犬も鳥も魚も、狭い狭い檻や水槽に入れられて、彼の能力を発揮できなくなったら彼はもはや生きていない。文字通り、「死んだ」ように生きることになる。自らの能力を発揮できないことは、悲しみであり、ある種の死だ。

そういう意味で「生きている」人間は、いま少ないと思う。

いまは価値観が画一化されていて、「常識」や「良心」から外れたことをすると一斉に非難の対象となる。インターネットやSNSの影響もあって、少しでも何かをやらかしたらすぐに拡散・炎上するし、自分の意思よりも世間の目の方が優先度が高いような気がしてしまう。

逆に、「常識」や「良心」に従ったことならなんでもやっていいし言っていい、みたいな風潮もあって、正しさの暴力でめっためたにされる人をよく見る。

世の中の「常識」に、生まれてから死ぬまで沿えるような、そんな人なんていないと思う。誰だって間違いを犯すし、なぜその間違いを犯したのかを周囲が想像しようとする優しい社会であってほしい。「生きられる社会」であってほしい。

会社で上司の理不尽な要求に笑顔で応えなければいけないとき、悲しいのに接客のために無愛想になれないとき、僕らは死んでいる。

自分の「欲求」や「意思」や「感情」を、無理矢理にでも曲げなければいけないとき、僕らは死んでいる。

死んで、死んで、毎日死んで、そのうちに感じることができなくなる。「自分」が何を感じているのかがわからなくて、ただ周囲に要求されていることを感じている(と思い込む)機械みたいになる。

それは、苦しい。

苦しいけど、周囲の期待を押し切って、自分の意思を貫くことはもっと苦しい。勇気がいる。仲間はおらず、信じられるのは自分の「生きたい」という衝動だけだ。

みんな楽をしたいから、そっちの道を選ばない。

でも本当に苦しいのはどっちの道なんだろう。僕は最近考えている。

 

 

 

ヒロミさんの絵を間近で見たときに感じたことは、「生きてる!」ということだった。

もっと言うと、「一緒に生きてる!」という感じを、僕は印象として持った。

今回の個展で一番大きな絵は、高さが2mくらいあって、横幅も3mくらいはあったと思う。たくさんの骨たちが、同じ方向を向いて行進していくような、駆けていくような、勢いのある作品だった。

骨は多様な形をしていて、たくさんの花や蔦が、そこに咲いたり絡んだりしていた。

頭骨からは当然だが、表情を読み取れない。そこに描かれている動物たちが、いったいどんな感情を抱いて、どんな表情をしているのかはわからない。

でも、「生きてるよ!」とその絵は言っていた。生きてる! 生きてる!!

喜怒哀楽で言うならば、間違いなく「喜び」だったと思う。「喜び」というよりは、「歓び」。生きていく上で、避けることのできない悲しみ、怒り、苦しみ。でもそれらを感じる僕らは、「生きてる!」。

決して痛みを無視した上で成り立っているわけではない、「生きる」ことの困難さや苦しみを内包した上での、ふつふつと湧いてくる内的な歓びが、その絵からは存分に発せられていた。

そして描かれたたくさんの生き物(骨)たちは、その歓びを共有しているように見えた。人間としてですらなく、生物としての、生きとし生けるものが感じることのできる歓びで、彼らは繋がっているようだった。

それは大きなエネルギーで、花は狂ったように咲き乱れ、骨からは涙なのか汗なのか、それとも何か違うものか、わからないけど溢れ出るものがあった。

「僕ら、一緒に生きてるよ!!!」

この絵のタイトルはなんですか、とヒロミさんに尋ねると、絵の右隣りにあるあれがタイトルだよ、と言われた。

絵の隣を見てみると、骨を組み合わせた可愛らしい文字で、「ALIVE」と描かれたタイトルがあった。

そうか、ALIVEか!

個展のタイトルが、「ALIVE」なのは知っていたけど、特に強く気に留めていたわけではなかった。

でもその大きな絵のタイトルが、「ALIVE」だと知ったとき、「あぁ!」と、なにか腑に落ちたような、納得したような気になった。

そして同時に、「生きる」ことの孤独さに目がいきがちだった自分にとって、「生きる」ことで繋がれる歓びがあるのだということを、その絵が教えてくれたような気がして、とても嬉しかった。

 

ヒロミさんの個展会場を出ると、頭が熱で浮かされているような、脳みそがぐらぐらと揺れているような気がして、僕はぼーっとしてしまっていた。

会場に入るときは、ヒロミさん以外の作品も見てから帰ろうと決めていたのに、「もうこれ以上インプットは無理!」と頭が言っていたので、僕は素直にそれに従うことにした。

会場からぽんっ、と一歩外に出ると、もう一つの出口から、ちょうどヒロミさんも外に出たところだった。

「あ」

とお互いに顔を見合わせて、どうもと会釈してから別れた。

目の端に映る、「生きている」ヒロミさんは、やっぱり軽やかでやわらかな人に見えた。