ここにいて

風邪をひいた。

大学院を卒業するための修士論文を、4日で書いた。

ふつうは1、2ヶ月くらいかけて書くものなんじゃないかな。多分。

僕にとっては、修士論文なんて超どうでもよかったから、なるべく執筆期間を短くしたかった。

ここ最近ずっと忙しくって、朝起きて、学校に行ってパソコンとにらめっこしてた。お昼ごはんは、コンビニでプラスチックみたいなおにぎりとカップラーメンを買って、そそくさと食べて、またパソコンのキーボードを叩く。

夜まで座って、誰とも話さなくて、またコンビニに行って、pH調整剤とか添加物とかいっぱい入ったパンを食べる。生きるための食事ではなく、死なないための食事。味わう必要はなく、カロリーが摂取できればそれでいい。お腹がそれなりに満ちたら、またパソコンに向き合う。

やることは終わらないけど、深夜2時を過ぎたあたりで、ストーブの元栓が閉まっているか確認して、誰もいない研究室をあとにする。

外は寒くって、すぐに手がかじかんでしまう。

スーパーブルーブラッドムーンだかなんだか知らないけど、今日はそんなのどうでもいいな。昨日の月の方が、綺麗だった。

自転車のハンドルを握って、下を向いてペダルをこぐ。

 

一日誰とも触れ合わなかった指先が、空しいって泣いてる。

毎日、硬いものばかりに触れている。

ドアノブ、パソコンのキーボード、五百円玉、コンビニおにぎりの袋、ボールペン、スマホ、自転車のハンドル。

昨日と今日の何が違ったんだろう。

「やばくないか? これ。やばくない?」

 

風邪をひいた。咳が止まらない。

朝起きて、マスクをつけて家を出る。マスクをしていると、外気のにおいがわからなくなる。

においのしない町、味のわからないごはん、光る画面しか見ない目、イヤフォンの音しか聞かない耳。

わかったようなこと言って、悟ったようなふりして、結局こんなことしている。お前の命、こんなもんなのか。病院で処方された薬を5粒も飲んで、舌の奥が苦い。

「もっとやれるのに、もっともっとやれるのに。僕、こんなんじゃないのに」

『もっと』って、じゃあ何?

 

徹夜とかして、風邪でぼろぼろになりながら、修論を適当に仕上げた。

研究室を早くあがって、新しく出たYUKIのシングルコレクション『すてきな15才』を買いに行く。

大根。大根食べたい。

駅まで歩きながらそう思った。外食でなくて、ましてやコンビニのごはんでもなくて、生きてるものが食べたかった。

大根。あとネギ。それから鶏肉。にんにくも。

でもご飯より前に、YUKIのCD買おう。

駅に着いて、改札口をぬけて階段を上って、ホームにある青い椅子に座った。咳が止まらなくて、マスクをしていたけど電車に乗るのが申し訳ない気がした。きっと周りの人に嫌がられるだろうな。

やがて電車がやってきて、乗り込むと、誰も彼もがスマホをいじっていた。

7人掛けの椅子に座っている人、ほぼ全員。スマホをいじっていなければ、イヤフォンで音楽を聴いていた。僕が咳をしていても、嫌がる素振りすらされなかった。

スマホをいじっている人を見ると、最近、「美しくない」と思ってしまう。電車の席一列、全員がいじっているときなんかは、「やばくない? これ。やばくない?」って僕の頭の中でブザーが鳴る。まったく気にならないときもあるし、僕もスマホ頻繁にいじっちゃうけど、でも思ってしまう。美しくないし、なんか怖いし、さみしい。

違う方向に視線を移すと、席に座ってお化粧をしている女の人がいた。手鏡を見ながら、丁寧にマスカラをつけていた。

電車で化粧をすること、マナー違反だとされてるけど、気持ちはわかるなって思っちゃう。僕がもし女の人だったら、しちゃうかもな、と思う。急いで電車に乗り込んで、「あーやばいやばい、お化粧お化粧」って。

でも電車の席でお化粧してる人を見ると、やっぱりなんか、スマホを見てる人みたいに、さみしいって思っちゃう。

なんでなんだろうって考えたら、「ここにいないから」なのかもしれないと思った。

目の前にいるのに、「ここ」にいない。

 

僕は高校1、2年生のとき、学校まで地下鉄を使って通っていた。

仙台の地下鉄はそれほど混んでいなくて、でもガラガラというほどでもなかった。

当時はまだスマホはそれほど普及していなくて、大体の人はガラケーだった。ガラケーの時代には、電車の中で携帯をいじる人なんてあまりいなかった。ガラケーでできるゲームなんてたかが知れてるし、LINEのように離れた人とリアルタイムで言葉をやり取りする文化もなかった。

だから、地下鉄に乗っている人は、大体「ここ」にいた。無防備で、でも全身で、そこにいた。

僕は地下鉄に乗るのが好きだった。本を読むでもなく、大抵はぼうっとして過ごした。窓の外にたまに見える景色とか、流れる広告とか、それから、こっそり人のことを観察するのが好きだった。

「あのおじさん、さっきからコクン、コクン、って首が揺れるけど、何に頷いてんだろ」

「あっ、あのお姉さんいま絶対油断してる! めちゃくちゃだらしない顔してる!」

「あそこのお兄さんイケメンだな~、スーツってやっぱしゃっきり見えるな」

こういう観察は、いつも一つの危ない可能性を孕んでいた。

「あ! やっべ、目合っちゃった!!」

視線が合うと、コクンコクンおじさんには「何見てんだよ」って思われそうだし、油断お姉さんにはなんとなく申し訳ないし、イケメンお兄さんとなら嬉し気まずいし、とにかく何かしらの「人間と人間」という、心の動きがあった。それは、生きてる人間が同じ空間にいれば必ず起こるはずの感情の揺れだった。

 

でも、今は。

スマホを覗き込んでいる人達は、観察していても面白みがなかった。だって絶対目合わなそうだし、「あの人何考えてんのかな」とか思えない。ゲームしてるならそのゲームに熱中してるんだろうし、LINEしてるならその友達のこと考えてるだろうし、ネットならそのネットの文章読んでるんだろうし。

みんな「ここ」にはいなくて、どこか遠い場所にいるようだった。電車はそれなりに混んでるから体の距離は近いのに、心の距離は途方もない遠さだね。

お化粧してるあの女の人も、これから会う人に、自分の顔をよく見せるためにお化粧をしているのだ。

そう。化粧とは「見せる」ためにするものなんだ。

つまり、あの女の人にとって、「見せる」対象の人間はこの電車にいないのだ。この電車の中にいる存在を、極端に言ってしまえば人間として見なしてなくて、「見る」「見られる」の関係が成り立っていないのだ。僕たちは「見せる」対象にならないのだ。

こんなにたくさん人間がいるのに、みんな断絶していて、なんか恐ろしい。美しくない。

 

化粧をしてる女の人の前には、大学生くらいの男の子がつり革につかまって立っていた。片手で文庫本を開いて、読んでいる。

僕はそれを見て、ちょっと安心した。

「あ、やっと【ここ】にいる人がいたー」って。

そう思ってから、あれ、でも待てよ。と考えた。

本を読んでいる人だって、「ここ」にはいないのでは? ずっと遠くの物語の世界に行っているのでは?

うーん、でも、本を読んでいる人は、たとえどれだけ熱中していても、「ここ」にいる感じがするんだよなあ。この違いはなんなんだろ。

うんうん唸って考えていると、一つの答えに辿り着いた。

「本は物質として、ここにあるから、それを読んでいる人も【ここ】にいる感じになるのかもしれない」

小説家の江國香織さんが、昔こんなようなことを言っていた。

『物語は場所を必要とするんです。本棚であれどこであれ、【本】という物質として体積をとる。だから私は、作品を電子書籍にはしたくない』

江國さんの言葉を、前まではあまり理解できなかったけど、今なら少しわかる気がする。

物質として存在することは、世界の中にそれが含まれていること、異世界なんかじゃない現実の中にそれが存在することを強くするのかもしれない。

スマホをいじっている人は、その中の世界が現実の容積に対してあまりに広すぎて、ときどき「スマホ」をいじっているということを忘れてしまう気がする。スマホは所詮、スマホなのだ。

VRの技術が発達して、将来マトリックスみたいにVRの世界で生きられたような気になっても、それは結局、『VRの装置に映しだされた映像を見ている現実の自分』に過ぎない。

物質として存在するものは、『現実の自分』という感覚を忘れさせないでいてくれる気がする。本を読む自分は、『現実世界で生きる本を読む自分』なのだということをわからせた上で、本はその中の世界に連れていってくれる感じがする。ページをめくると、段々と終わりに近づいていく。

画面の向こう側にはなんでもあるような、無限に広いような錯覚を覚えてしまうけど、きっと違う。現実はいつだって「ここ」にあるし、スマホは手のひらの中にあるだけ。ニュースのできごとも手のひらの中じゃなくて、「ここ」の延長にある、現実の「あそこ」で起こってることなんだ。画面の中にはなんでもあるけど、なんにもない。

 

そんな当たり前のことを考えていると、やがて電車が目的の駅に着いた。

イオンモールの中に入っているタワレコで、予定通りYUKIのCDを買った。あ、てか今の時代CDじゃなくてデータでも曲買えるのか。でもやっぱり、物質があるっていいよなー。

それから、CDの隣に置いてあったライブDVDまで買ってしまった。5分くらい迷ったけど、「ええいままよ!」と思って買った。後悔はしてない。金が欲しい。

CDとライブDVDを買ったあとで、最寄り駅でもないのにイオンで大根を買った。丸々1本。それから長ねぎも1本、鶏もも肉とにんにく、それから塩さばも買った。

スーパーの袋をぶら下げながら、帰りの電車に乗った。

袋から長ねぎがはみ出していて、湿度の高い車内の空気に触れていた。死んだみたいな電車の空間に、生きているものがあることが嬉しかった。「みんなーネギだよ~! これから僕これ食べるよ~」と謎の宣言を心の中でしながら、タワレコとスーパーの袋持って電車に乗ってる僕を、みんなどう思ってるんだろ、と気になった。みんな画面の向こうに夢中で、僕のことなんて誰も見てなかったかもしれないけど。

家に帰って、塩さば以外の買った食材を全部入れてスープを作った。

煮込んでほろほろにやわらかくなった、念願の大根を一口食べたとき、「あ~久しぶりにやわらかいものに触れた!! 生きてるー」と思った。鶏もも肉も、くたくたの長ねぎも、まるまる一片のにんにくも、全部全部、僕の体になってくれると思えた。

それから、YUKIのCDを早速聴いた。

CDにはセルフライナーノーツの書かれたブックレットも入っていて、とても良かった。

YUKIのやわらかな声と、『巨大化した愛、わけて』もらった。

たっぷり眠って、次の日朝起きると、風邪は随分とよくなっていた。