郁子さんのこと

フレッシュネスバーガーにいる。

わたしの目の前には郁子さんが座っていて、焦げ茶色の丸テーブルに、春そのもののようにぷっくりした手を、重ねて置いている。

「フレッシュネスバガーのね、チャイがとっても美味しいのよ」

集合場所である中央公園で会うや否や、郁子さんはそう言った。

「チャイ?」

「そう。フレッシュネスバガーの、チャイ」

郁子さんは、ハンバーガーのことを、「ハンバガー」と言う。コーヒーのことは「コヒー」、スーパーのことは「スパー」、コントローラーなら「コントロラー」である。その方がネイティブな発音に近い、と思っているらしい。

「そうなの。それは行かなくてはね」

「そうなの。行かなくてはなの」

中央公園からは、ちょうど道路を挟んだ向かいにフレッシュネスバーガーがあった。

店に入ると、郁子さんのアドバイス通りわたしはチャイを頼んだ。隣で郁子さんが、「ブレンドコヒーをひとつ」と言う。

「チャイを頼まないの?」

と尋ねると、

「ほら、わたしは大人だから」

と言う。

「大人はコーヒーを飲むものなの?」

と尋ねると、

「違うの、大人は自由なの。今はコヒーを飲みたい気分だから」

と言う。

ほう、と思う。郁子さんはときどき、核心をついたことを言う。それでわたしは、郁子さんを尊敬してしまっている。大人は自由。そうかもしれない。

店員からは、白い文字で31と書かれた、深緑色の札を貰った。お席までお持ちしますので、しばらくお待ちください、とのことだった。

レジから一番遠くに位置する、ふたり掛けの席に、わたし達は座った。31の札を丸テーブルに置くと、ことり、と呑気な音が鳴った。札を置いてしまうと、わたしは手持ちぶさたになり、テーブルの下でスカートの裾を伸ばしたり、繊維を引っ張ったりしながら、郁子さんのことを眺めていた。

郁子さんは、肩にかけていた赤色の小さなバッグから、くすんだ紺色の箱を取り出した。ココアシガレットだ。それをテーブルの上に乗せると、いつもの手つきで箱を開ける。郁子さんの手は小さくてぷっくりとしているから、慣れた作業でも、どこかおぼつかなく見える。薄い茶色をしたチョークのようなそれを、郁子さんは口にくわえた。ガリ、とひと齧りして、それから親指と人差し指でつまんで口から離し、ふうー、と煙を吐くように息をつくと、彼女は再びそれをくわえた。

「海は元気なわけ?」

 

 

 

郁子さんは小学5年生だ。

毎週水曜日の午後2時に、わたし達は中央公園の、「変な銅像」の前で待ち合わせをする。その後、近くの喫茶店や飲食店に入るか、辺りを散歩する。公園にいる鳩にパンくずを撒くこともある。だいたい1時間くらい話したり、歩いたり、ぼうっとしたりして、遅くとも4時前には解散する。あまり遅くなると、郁子さんが海のことを心配するのだ。

待ち合わせ場所である「変な銅像」は、郁子さんが、「変な銅像ね」と言ったので、そう呼んでいる。どこがどう変なのかは上手く言い表せないのだが、たしかに変なのだ。わたしの職場は中央公園からほど近い場所にあるので、その銅像は毎日のように目にしていたが、「これは何を表している銅像なのだろう」とは思っても、結局よくわからないから、気にしないでいた。でも、郁子さんはきちんと、わからないままに言い表した。「変な銅像ね」と。わたしは、ほう、と思った。そう言われると、もうその銅像は、「変な銅像」以外の何物でもないような気がした。

水曜日以外の日、郁子さんが学校に行っているのか、わたしは知らない。きっと、行っていないのだと思う。でも郁子さんはいろいろなことを知っているし、彼女から、「学校を休んでいる後ろめたさ」みたいなものは感じない。きっと、郁子さんは大人なのだ。大人で、自由だから、学校なんて気にしていないのだ。わたしは職場が水曜休みだから、堂々と郁子さんと遊んでいるけど、他の曜日だったら後ろめたい気分になってしまうと思う。わたしは、今年でもう25になるというのに、郁子さんの半分も大人じゃないと感じる。年齢なんて、なんのあてにもならないことを、わたしは郁子さんから学んだ。

 

郁子さんと出会ったきっかけは、犬だ。

ある日、中央公園に犬が捨ててあった。段ボールの中で、タオルにくるまれて、その犬は眠っていた。

人目につく場所に捨てられていたから、わたしが朝、通勤するときにちょっとした人だかりができていた。でも持ち帰る人は誰もおらず、次の日も、その次の日も犬はそこに捨てられたままだった。人だかりは、全然できなくなった。

その犬に餌をあげたり、面倒を見たりしていたのが、郁子さんだった。

わたしが朝、もしくは帰りに中央公園を通るとき、ときどき郁子さんがいるのを見かけた。小さな体で大きなドッグフードの入った袋を持って、せっせと傾けて中身をお皿に入れていた。ぷくぷくとしたその手で、まるで手作り菓子を包むように優しく犬を撫でていることや、犬にリードを繋いで、一緒に走り回っていることもあった。犬は随分と郁子さんに懐いているように見えた。

けれど、いつまで経っても犬の家は段ボールのまま、彼女が家に犬を持ち帰る気配はなかった。わたしは、ある日思い切って彼女に話しかけてみた。

「こんにちは」

声をかけると、犬の隣にしゃがんでいた郁子さんは、恐れと警戒の色をした目でこちらを見た。

「その犬、家に持ち帰って飼ってあげないの?」

彼女はあからさまに不機嫌な様子になり、睨むようにして、

「なんでわたしが飼わなきゃいけないのよ」

と言った。予想外の返答に、わたしはたじろいだ。

「なんでって……。あなた、いつもその犬の面倒を見てるでしょう。ずっと外に置いておくのもかわいそうだし、それなら家で飼ってあげた方がいいかなと思って」

「ならあなたが飼えば?」

しゃがんだまま、挑戦的とすら思える口調で彼女は言った。

「飼うってことは、責任を持たなきゃいけないでしょ? わたしには無理よ。だって、お金を稼いでないから。海が病気になっても、病院に連れていってあげられないかもしれないし」

「海?」

わたしが訊き返すと、彼女はあからさまに眉根を寄せて、不快さを表現した。それから、犬の方をちらりと一瞥して、

「この子の名前」

と言った。さも、そんなの文脈でわかるでしょう、とでも言いたげに。

「だいたいの『自称大人』はすぐそうやって、責任持つつもりもないのに、かわいそうだとかなんとか言って善い人ぶるのよ」

捨て台詞のように、そう言うと、彼女は再び段ボールで眠る犬に視線を落とした。そして、「海」という名前の犬を、愛おしそうに撫でた。

わたしは、彼女に、悪く言われたのだったが、ちっとも腹は立たなかった。それは、彼女が子供だったからではなく、彼女の言うことがもっともだったからだ。怒るどころか、わたしは恥じ入っていた。犬を飼えば、と話しかけたのは安易な思いつきだったし、実際、海のことをおもんぱかった発言ではなかった。わたしは、善い人ぶっただけだった。

「あの」

わたしが声を出すと、郁子さんは海を撫でたまま、こちらを向くことなくぴしゃりと、「保健所に連れていきなさいとか言わないでね」と言った。

「わたし、飼います。海のこと」

彼女はぱっと顔をあげ、こちらを向いた。眉根を寄せていた先ほどの表情とは打って変わって、無防備な幼さのある、驚いた顔をしていた。

「わたしが、責任をもって飼います。海が病気になったら病院に連れていくし、毎日ちゃんとごはんもあげる」

郁子さんは少しのあいだ、思案顔をして、それから、「本当に?」と言った。本当に、ちゃんと毎日ごはんをあげる? 本当に、病院にちゃんと連れていく? 本当の本当に? わたしは何も言わず、代わりに一度ゆっくりと、大きく頷いて、本当だということを示した。

「わかった」

郁子さんは立ち上がり、わたしの顔をしっかりと見据えて、わかったわ、ともう一度言った。

「海をきちんと飼ってくれる人がいるなら、海にとってもその方がいいと思う」

わたしは頷いた。

「でも、すぐには持ち帰れないわ」

「そうね、家の中で飼うなら、トイレとかゲージも用意しなきゃだし」

「来週の水曜までに準備を整えるから、それまでもう少しだけ、海のお世話をお願いしていい?」

「わかった、お願いされる」

彼女の声は、とても意志的に響いた。

「ありがとう。水曜のお昼に、海を迎えにくるわ」

海に目を落とすと、相変わらずすやすやと眠っていた。犬を飼いたいなんて思ったことはなかったけど、その様子はとても可愛らしく見えた。

その翌週、約束通り、わたしは海を引き取った。家に初めて入れたときは、興奮と緊張のためか、海はたくさん吠えたが、元来は大人しい性格らしく、海はすぐに家での生活に馴染み、今では一日、木でできた骨型のおもちゃをカジカジして遊んでいる。

「ひとつ、わたしからお願いがあるの」

海を引き取った水曜に、郁子さんはそう切り出した。

「週に1回、わたしと会ってほしいの。ほら、海が元気かどうか、報告してくれると安心だし」

私は笑顔で請け負った。

「全然構わない。わたし、水曜は仕事が休みだから、水曜になら会えるけど、どうかな」

「それなら、毎週水曜は海の元気を報告する日にしましょう」

それ以来、郁子さんとは、毎週のように会っている。

 

 

 

「海は元気よ」

私が答えると、郁子さんは、そう、と返事をして、それ以上何も言わず、ココアシガレットをカジカジしている。その様子が海とあまりに似ているので、わたしは少し笑ってしまう。半分ほどの短さになったそれを、口から離したり、くわえたり、また齧ったり、煙を吐くように息をついたり。

チャイとコーヒーなんて、すぐに淹れられそうなものなのに、なかなか席に運ばれてこなかった。店の奥のキッチンから、泡だて器を使ったときのような、低い金属音が聞こえてくる。

「ねえ、郁子さん。郁子さんは、好きな男の子とかいないの」

わたしが尋ねると、郁子さんは怪訝そうな表情をした。

「どうしたの、急に。そういうのって、自分が訊いて欲しいから、わたしにも訊いたんでしょ」

わたしは、自分でも意図していなかったことを言われて、少しだけ焦った。でも、図星かもしれなかった。郁子さんは、なんでもお見通しなのだ。

「そういうわけじゃ、ないんだけど。まあ、どうでもいい話よ」

小学生に語るような話ではないと思って、わたしははぐらかした。けれど、

「いいから、なんでも言ってみなさいよ」

と言われてしまった。わたしは迷った。こんなことは、子供に話すことではない。でも、と思う。でも、郁子さんは子供ではない。大人なのだ。それで、言うことにした。誰にも、言ったことはなかったけれど。

「あのね、わたし、会社の人のことが好きなの。上司なんだけど、その人も、わたしのことが好きみたいなの」

郁子さんは、よかったじゃない、と言って、紺色の箱から2本目のココアシガレットを取り出した。口にくわえて、やはり煙草を喫むときのような仕草をする。息を吸って、息を吐く。煙は出ない。

「でもね、その人には奥さんがいるの。結婚してるの」

郁子さんは、途端に、眉根を寄せて、不快そうな顔をした。わたしは、やはり、こんな話は子供にするべきじゃなかった、と思って後悔をした。

「やめなさいよ、そんなこと。不倫なんて。海の教育によくない」

わたしは単純に、小学5年生でも「不倫」という単語を知っているものなのかと、少し驚いた。

「海の教育には、たしかによくないかも。でも、海にはそのことを言ってないから、きっと知らないと思う。犬だから、当然だけど」

「言わなくても、空気で伝わるわよ。海は空気に敏感なの。犬だから、当然だけど」

そうね、と言って、わたしは下を向いた。茶色のコーデュロイスカートの表面に、綿ぼこりがついていた。わたしはそれを、指でつまんで、床に放った。

そのとき、男性の店員が、両手にひとつずつ紙のカップを持って、こちらの席にやってきた。

「お待たせいたしました。こちらがブレンドコーヒーと、チャイになります。ごゆっくり、お過ごしください」

その店員は、コーヒーをわたしの前に、チャイを郁子さんの前に置くと、31と書かれた深緑色の札を持って、再び店の奥の方へと戻っていった。わたしは、紙カップを入れかえて、チャイを自分の前に、コーヒーを郁子さんの前に置いた。郁子さんは、それに、と言った。

「それに、海の教育だけじゃなくて、あなた自身にもよくないわ」

郁子さんはわたしの目をしっかりと見て言うものだから、そしてそれが正論だったから、わたしは彼女の顔を直視できなかった。わたしは、いつの間にか冷えた指先を温めるために、両の手で、チャイの入った紙カップを包んだ。カップは、熱いほどだった。わたしは、自分の好きな男の顔を思い浮かべながら、でも、恋愛がすべてなわけじゃないでしょ、と言った。言い訳するみたいな気持ちだった。

郁子さんはコーヒーを一口飲んで、ココアシガレットをくわえた。大きく息を吸って、息を吐く。驚いたことに、郁子さんの口からは、白い煙がひゅるひゅると出てきた。

「恋愛がすべてじゃないけど、すべてが恋愛に表れてしまうということはあるでしょ」

煙はぷわぷわと空中を漂った後、やがてすぐに消え去った。郁子さん、ここ、禁煙席よ、とわたしは言ったが、彼女は知らんふりをした。

「ほら、熱いうちに、チャイを飲んでごらんなさいよ」

わたしは、彼女の言う通り、熱い紙カップを持って、チャイを一口飲んだ。香りがよくて、ミルクがやわらかく、こっくりと甘い味がした。

「なるほど、たしかに美味しい」

「でしょ」

わたし達はそれから、30分かそこら、その店に滞在した。その後、店を出て、中央公園で解散をした。外は春のように暖かく、郁子さんはいつものように、「海によろしく伝えておいてね」と言った。わたしは、わかった、と返事をした。

家に帰ると、海は、やはり骨をカジカジして遊んでいた。

 

 

余談だけど、わたしは後日、その男と別れた。男は妻のもとに戻って、会社ではわたしに、何食わぬ顔をして挨拶してきたりする。

わたしの家には、海がいる。健康で、大人しくて、骨の形をしたおもちゃで一日遊んでいる、海。

来週も、郁子さんに、海は元気だと伝えようと思う。