色水、庭草、ホウセンカ

須藤くんがオシロイバナと言うと、母はホウセンカと言う。母がアサガオと言うと、須藤くんはツユクサと言う。それからふたりして、サルスベリもあったよね、と笑う。

掘りごたつには、あたしと、母と、須藤くんの三人で座っているのに、彼らはまるで子どもみたいに、ふたりの世界に入っている。

「色水の赤がすごく綺麗で、須藤くん、ホウセンカのを飲もうとするから、私すごく焦ったもの」

「覚えてるよそれ。結局、内村さんがぼくの持ってるビニール袋を叩き落として、ぼくの服が真っ赤になった」

「そうだったかしら。私、そこまでは覚えてない」

「服が赤く染まっちゃって、帰ってから母親にこっぴどく叱られたからね。よく覚えてる」

「思い出話ばっかりしてると、年寄りみたいだよ」

あたしが言うと、ふたりは水鉄砲をくらったみたいな間の抜けた顔をして、こっちを向いた。それからすぐ、母は照れたように笑い、須藤くんは耳の裏を掻いた。

「美織ちゃんには、まいっちゃうなあ」

須藤くんが笑うと、両の目尻にいくつもの皺が入る。あたしにはそれが、木の幹についたひび割れのように見える。年季が入っていて、あたしの同級生には、絶対にないもの。

「あ、もう三時か。そろそろ行かなきゃ」

壁にかかった柱時計に目をやると、須藤くんはそう言って机に手をつき、立ち上がった。母が続いて、あら、もう行っちゃうの、と立ち上がる。

「うん。事務所に戻る時間だから」

あたしは立ち上がらず、須藤くんに「じゃあね」と声をかける。須藤くんは律儀に、「お邪魔しました」と言っておじぎをして、それから玄関に向かった。母はその後について、須藤くんを見送った。玄関で、抱擁のひとつでもすればいいのに、あのふたりは絶対にそんなことをしないと、あたしは知っている。でも母が、あたしの前では自分を「お母さん」と呼ぶくせに、須藤くんの前では無意識に、「私」に変わってしまっていることも、あたしは知っている。

 

 

 

あたしが高校一年生のとき、両親は離婚した。

それを機に、あたしと母は母の実家に引っ越した。母の実家は木造の平屋建てで、少し広めの庭があった。手入れがしばらくされていなかったらしく、名前のわからないたくさんの草が生い茂っていた。縁側に座って庭を眺めていると、時間の感覚がなくなるような気がして、あたしと母はよく、そこに並んで黒豆茶を飲んだ。冬になると雪が積もって、多くの草が雪の下に伏し、白く静かな景色の中で飲む黒豆茶は、より一層香ばしく感じられた。

年が明けて、春がやってくると、雪解けとともに植物たちは首をもたげて、庭のところどころで顔を見せ始めた。庭草の力というのは強いもので、ひと月もしないうちに、庭は丈の低いものから高いものまで、あらゆる種類の植物で覆われた。かつては祖母が手入れをしていたけど、あたしたちが実家に越したのと同時に、祖母は介護保険施設に入居してしまっていた。

「どうしよ、美織ちゃん。これじゃ黒豆茶飲めないね」

母は、うっそうとした庭を見て心底困ったようにそう言った。育ちというより、性格的にお嬢様である母は、何か困ったことがあると、すぐに周囲に助けを求める。大人にはもちろん、子どもであるあたしにすら、簡単にできそうなことを頼ってくる。

「どうしよって、手入れするしかないんじゃないの。ひとつひとつ、雑草抜いていくしか」

「でも、こんなにたくさん生えてるんじゃ……。美織ちゃん、できる?」

「え、あたしだけでやるの? 無理無理。業者に頼めばいいんじゃないの」

あたしは苛立ちと諦めが綯い交ぜになった気持ちで、そう言った。

「業者? こういうことを専門でやってくれる業者さんって、いるのかしら」

「知らないけど。いいよ、あたしが調べて電話しとくから」

面倒くさくなってそう言うと、母は「本当に?」と言って顔を輝かせた。あたしは心のうちでため息をつきながら、居間にあるパソコンを使って、庭の手入れ業者のことを調べた。

検索して、画面の一番上に表示された業者に連絡を取ると、連絡の一週間後にその業者はやってきた。

「こんにちはー」

あたしが玄関の引き戸を開けると、そこにはくすんだ黄緑色のつなぎを着た男性が、ふたり立っていた。

「どうもー、××ハウスクリーニングですー。今日はお庭の除草作業に参りましたー」

あたしがどうも、と頭を下げると同時に、母も居間から玄関先にやってきて、今日はよろしくお願いします、とあたしの後ろで深々とお辞儀をした。母が顔をあげると、業者の男性のふたりのうち、後ろに立っている方が、「あ」と小さく声を出した。彼は一時停止ボタンを押されたかのように、そのまま固まった。彼の視線はあたしの頭の上を通り越していたから、振り返ると、母も同じように、目の前に急に妖精が現れたみたいな表情で呆然としていた。それから、蚊の鳴くような小さな声で、「須藤くん……?」と言った。固まったままの男性も、うわごとみたいに、「内村さん」と呟いた。内村は母の旧姓だった。

あたしと、もう一人の業者の男性は、母と、須藤くんと呼ばれた男性にそれぞれ、「知り合い?」と訊くよりほかなかった。

それが、須藤くんとの出会いだった。

 

 

 

須藤くんは母の幼なじみだった。

親同士の仲が良く、幼稚園や小学校のときはよく一緒に遊んだらしい。ふたりの遊びはもっぱら色水遊びで、家の庭や道端、それから裏山なんかに生えている花を摘んでは、ビニールに入れてよく揉んだ。種々の色が、じわりじわりと水に滲む様子は、何度見ても見飽きなかったと言う。

あの日、業者としてやってきた須藤くんは、専用の機械を使って庭の植物をすごい勢いで刈っていった。それはもちろん、もう一人の業者さんも同じだったのだけど、縁側の窓を開け放して母が視線を向けていたのは須藤くんで、それはあからさまだった。実際、須藤くんが庭草を刈る様子は頼もしくて、格好が良かった。草を刈ったときに立ち上る、金属と植物の混じったような青臭いにおいが、生温かい風とともに家の中に広がった。

草を刈り終えた後、次の仕事があるからと言って、須藤くんはうちに長居しなかった。けれど、事務所が近くにあるからとかなんとか言って、彼はそれから度々、あたしたちの家を訪れるようになった。あたしと、それから母の家に。

須藤くんがうちを訪れると、大抵、ふとんを取り去った居間の掘りごたつに三人で座って、世間話のようなものをする。ときどきあたしに向かって、「高校はどうなの」というような話を振るけど、ふたりが本当にしたい話は、そういうのじゃないことをあたしは分かっている。

「内村さんって、結婚してたんだなあ」

母が、お茶を汲みに台所に立っているあいだ、須藤くんがひとり言のように言ったことがあった。

「それ、どういう意味」

あたしが訊くと、

「いや、ぼくが知ってるお母さんは、小学校とか中学校のときのお母さんだからさ。その彼女が、結婚して、美織ちゃんみたいな大きな子どもがいるのかって考えると、なんだか、自分も歳とったなあ、って」

須藤くんは笑って言った。

「須藤くんさ」

あたしが言うと、須藤くんは、「ん」と言って、眉頭を上げてみせた。日によく焼けた肌は、彼が日頃よく触れる、青草のにおいがするのだろうなと思った。

「あたしのお母さんが初恋だったでしょ」

須藤くんは、口を閉じたまま目を細め、春の風が通り過ぎたみたいに軽やかに笑った。でもあたしは、彼が笑う前に一瞬、目に力が入ったような驚いた顔をしたのを見逃さなかった。

「さて、どうだろうね」

彼が答えるとすぐ、母が台所から戻ってきた。お盆を机に置いて、湯呑みに入ったお茶を須藤くんとあたし、それから自分の座るところの前に置く。

「初恋をやりなおすならさ」

あたしが言うと、須藤くんは焦ったように、「こらこら、美織ちゃん」と言った。母は、のんびりとした口調で、「何の話?」と言う。

「あたしもまぜてほしいな」

「ねえ、何の話してるのって」

母は、まるっきり子どものように言う。実際、母も須藤くんも、きっと子どもの頃に戻っているのだ。三十年という年月の河を渡って、あたしの知らないあの頃を、もう一度やりなおしている。初恋と呼ぶべきか、初恋とすら呼べない、もっと色や形の淡い、しかし何より柔らかくて温かな時間を。

あたしだって、それにまぜて欲しいのだ。だって、ふたりだけでやりなおされたら、三十年も経った意味がないもの。

「ううん、なんでもない。なんでもない話をしてた」

あたしが言うと、母は怪訝そうな顔で、掘りごたつに座った。それから、「あ、お煎餅も持ってくればよかった」と言った。おかきとか、ぬれ煎餅とか、お茶に合いそうなお菓子、いまうちにいっぱいあるのよ、と。

「いいよいいよ、いま、お腹いっぱいだし」

須藤くんが、優しく答える。このふたりを見ていると、あたしはいつも、複雑な気持ちになる。思い出せない記憶に、無理やり手を伸ばしているような、「もどかしい」と「せつない」が混じったような気持ち。

「ねえ」

あたしは言って、掘りごたつから立ち上がる。居間のふすまを開け、廊下に出て、縁側に通じる窓に手をかけた。須藤くんが春先に刈ってくれた庭は、いつの間にか新たな植物がいくつも顔を出しており、窓を開けると、少しむっとする空気が家の中に入ってきた。植物たちの、強い、生命のにおい。夏が近づいていた。

「うちの庭にある草で、色水つくれないかな」

庭を眺めながら言ったが、母と須藤くんにも声は届いたようで、「そうねえ、草じゃあ色水はつくれないわねえ」と母が、「花があればね」と須藤くんが答えた。

あたしはそのとき、緑色と茶色が占める庭の隅の方に、小さな赤を見つけた。

「あれ、なんだろ。何の花かな」

あたしが指さすと、ふたりも立ち上がって、縁側までやってきた。

「あれ、ホウセンカじゃない? 珍しい」

「本当だね。綺麗な赤色だ」

あたしと、母と、須藤くん。三人で、一緒に庭の隅を見つめていた。

ホウセンカって、色水つくれるよね」

あたしが言うと、母は笑った。

「そうね。でも、あれしか花がないと、すごく薄い色水になっちゃうと思うけど」

「そっか、美織ちゃんは色水つくったことないんだね」

「色水なんかで遊ぶの、昔の人くらいじゃないの」

「昔の人だなんて、失礼な」

須藤くんが言って、母が笑った。あたしも、笑った。

「ねえ、あのホウセンカ、しばらく水やりしてみましょうよ。そしたら、あの辺りに、もっとたくさん咲くかもしれない」

「須藤くん、それまでうちの庭、除草しないでね」

須藤くんは、わかった、と真剣な顔をして言った。

あたしは、庭のホウセンカが、勢いよく種を飛ばす瞬間を想像した。ぱちん、と弾ける音と、その軌跡を。

庭に咲いたホウセンカからつくる色水は、きっと綺麗だと思う。三十年かそこら昔、母と須藤くんがつくった色水の赤も、きっと鮮明で、美しかったと思う。

縁側に、三人で並んでホウセンカを見た今日のことを、いつかまた思い返す日がくるのだろうか。あたしはそれを、ひとりで思い出すだろうか。母と須藤くんのように、ふたりで、ではなく、たったひとりで。

「手を繋いでもいい?」

あたしが言うと、ふたりは驚いた顔をした。あたしも、自分で少し驚いた。けれど、母も、須藤くんも、頷いてくれた。須藤くんが、座ろうか、と言ったので、あたし達は、三人で縁側に腰掛けた。

あたし達は、それからしばらくの間、手を繋いだまま、庭の隅に咲くホウセンカの花を見つめ続けた。