絶対にひとりになれない私達

部屋の窓を開けていると、しっとりと濡れたような栗の花の匂いが濃く香ってくる。5月の夜。隣接するコインパーキングが、緑色に光る文字で「空」を知らせているのが目に入る。

「もう、うんざりなの」

ひんやりと湿ったシーツに腰かけ、私は電話の向こうの友人に言う。友人は、深いため息をつく。無言の時間が、数秒続く。

「わかった。もうあんたに連絡はしない。でもそんなんじゃ、いつまで経っても友達なんかできっこないし、あんたはそうやって一生ひとりで生きてくんだね」

吐き捨てるように言われて、それから一方的に電話は切られた。

私は携帯電話の画面を見て、きちんと通話が終了していることを確認する。

「そうだよ。ひとりで生きてくの」

そう、呟いた。誰もいない部屋で。

友人――「元」友人と言うべきか――にあんなことを言われて、傷つかないわけはない。自己中心的過ぎる、あんたの優しさは偽善だったんだね、そんなんじゃ誰のことも幸せにできない、とかなんとか。

でも、四六時中、TwitterとかLINEとか電話で繋がれているような人間関係を、私は必要としていないのだ。そういうネットワークで、毎日のように連絡を取り合うことを、「ひとりじゃない」と表現するのなら、私は一生ひとりで構わない、と思う。

ベッドに横たわって、目をつむる。腰と二の腕が冷たい。よく糊のきいたシーツを、確かめるように撫でつけた。冷たく清潔な感触は、私を安心させる。ひとりでいることの安心と、少しの心細さ。

電話を押しつけていたために熱を帯びた右耳を、うつ伏せになってベッドで冷やす。右腕を伸ばし切って、ベッドのへりを掴む。唐突に、男のことを思い出した。男が住んでいる部屋を思い起こす。じめじめと温かく、乱雑に物が散らかった、この部屋と対照的なあの部屋。

ぬるい風が吹いて、部屋のカーテンが膨らむ。ベッドのへりに掴まった、私の指をくすぐる。目をつむって、そのままじっとしていると、自分の身体が夜の闇に溶けるように思えた。

 

 

 

 

改札を出ると、急に雨音が耳に入ってきた。傘を持っていなかったので、駅構内のコンビニで購入する。

外を歩く人は、皆足早に歩いていく。私もそれに倣って、外に足を踏み出す。新品の、透明なビニール傘を広げると、細やかな水滴がビニール傘の上に降り落ちてきた。パタパタとまだらな音が、私の半径70センチを取り囲む。

家へ向かう道は、左手に上水路が流れている。雨が降っているからといって、水嵩はさして増していない。玉川上水という、太宰治が入水して死んだところだ。

ちろちろと大人しく流れる水を目の端に入れながら、私はポケットに手を入れて、携帯電話を取り出した。暗い道を、いくつもの街灯が照らす。私は見慣れた画面に飛んで、発信ボタンを押した。

「もしもし」

受話器の向こうで、男が眠たげな声を出す。

「もしかして寝起きなの」

男は、うん、と答える。五歳児のような話し方だ。

「いま何時だと思ってるの」

私が笑いながら言うと、16時、と適当なことを言う。

「いま19時。仕事帰りだから連絡したの。元気?」

まあ、それなりに、という返事とともに、がさごそと何かを漁る音が聞こえる。コンビニのビニール袋が、部屋にいくつも放ってあるのだろう。

「なあ、俺の煙草どこにあるか知らない」

「知るわけないでしょ」

私は言いながら、男の雑然とした部屋を思う。布団の上に服がいくつも重なっていて、飲みかけの酒がその周りに散らかっている。電子レンジが床に置いてあって、その上によくわからないチラシや、本なんかが積み重なっている。起き抜けのあの男の胸は、少し汗ばんで温かく、まるで私のためにしつらえられたのかと思うほど、私の頭にぴったり馴染む。私は束の間そのことを考える。

しばらくしてビニール袋の音が止み、代わりにカチッというライターを点ける音が聞こえた。私の鼻腔に、彼の服に染みついた煙草の匂いが再生される。

「今日、うち来いよ」

「行かない」

私はすぐに答える。

「なんで」

「今日がなんの日か知ってる?」

男は黙って、煙草を喫っている。面倒くさいと思っているのか、沈黙を楽しんでいるのか。

ふぅ、と躊躇なく息を吐くと、

「知らね」

と言った。

「私達が出会って一年目の日」

私が言うと、めんどくせー、と言って男は笑った。

「じゃあさ、折角の一年記念なんだし、うち来いよ」

「行く」

私がすぐ答えると、

「来るんかーい」

と、やたら大きな声で彼は言う。行くよ、そりゃ、と返事をする。

「うちの近く着いたら連絡ちょうだい。迎え行くから」

「うん」

言いながら私は、嘘つけ、と思う。迎えに来たためしなんて、一回もないくせに。

男は最後に、まってるよ、と言って電話を切る。優しい声で。一瞬、私の耳は真空になって、何も聞こえなくなる。

でも次の瞬間、また私の周囲70センチに雨の音が鳴り始める。パタパタと、まだらに。

左手には玉川上水が流れていて、水嵩は普段とあまり変わらない。足下を照らす街灯の明かりは、白っぽくて頼りない。

そういえば、ひと月前には、駅前に桜が咲いていた。幼児の手の平のようにぷくぷくと、満開の花びらが。それはいつの間にやら消え去って、春の幻だった。焦げ茶色の幹だけが糊で固めたように残っていて、緑の葉をゆわゆわと雨に打たせている。

家に帰ったら、着替えだけして、あいつの家に一刻も早く向かおう、と思った。ろくなものを食べていないあの男に、とびっきり美味しいものを食べさせてやろう。何か温かくて、懐かしくなるようなものを。

歩いているうちに、靴が濡れてくる。雨足は強くなっており、雨音は徐々に均一な、テレビの砂嵐のようになってきていた。ビニール傘越しの景色が、雨のせいでうまく見えない。

ろくでもない男だとは、わかっている。男の世話をするのも、それを喜び勇んでやる自分にも、いい加減うんざりしてはいる。

「もう、うんざりなの」

声に出してみる。しかし雨の音に混じって、自分の耳にもその声はあまり届かない。

遠くの方に、私の家に隣接するコインパーキングの、「空」と表示された緑の電光表示が見えていた。あの光を見る度に、男とこのあいだ飲んだ、コカレロとかいう緑色の甘ったるい酒のことを思い出す。

「もう、うんざりなの」

また口にする。それでも、傘の上で踊る雨粒のように、家へ向かう私の足取りはどうしたって軽くなっている。