私の輪郭

「夏が近づいてくるとさ、夜道、外気の温度と肺のなかの温度が同じで、身体の輪郭が、少し揺らぐ感じがするでしょ」

二見さんはまるで、花って綺麗でしょ、とでも言うような感じで、そんなことを言う。

私たちはランチに、オフィスビルの高層階にある、創作フレンチを食べに来ていた。壁がガラス張りで、私の席からは、新宿御苑にこんもりと茂った緑が見える。

「身体の輪郭が、揺らぐ」

「そう」

ほっそりと生白い二の腕を、白いブラウスから覗かせて、彼女は目の前に置かれた仔羊のローストに、ナイフをするりと差し入れた。生々しく赤い色が現れ、滑らかな動作で切り分けると、彼女はそれをフォークで刺して弧を描くように口に入れた。

「おいし」

皿を見ながら、確かめるように二見さんは呟く。ゆっくりと、頷くように顎を動かし、二見さんは咀嚼する。少ししてから、陶器のようにすべらかな彼女の喉元が上下に動いて、彼女が肉を呑み込んだことが見てとれた。

「思えば、食べるっていう行為も、自分の輪郭を変える感じがするわね。だって、自分のなかに他者を入れて、新たな自分にしてしまうわけでしょ」

私は、彼女の言葉をよく理解できないまま、はあ、と曖昧に頷いた。私に構うことなく、彼女はゆるやかに仔羊を切り分け、次々とそれを口に運んでいく。私は、自分の皿にのった料理のことも忘れて、彼女の動作の美しさに見とれる。磨きたてのようなナイフの銀色に、午後の陽射しが反射して強く光る。店内の喧噪のなかで、彼女が持つ食器が立てる音だけが、立体的に浮き上がって聞こえるような気がした。肉を切り分ける度、落ち着いた白色をした丸い皿が、肉汁の赤やグレイビーソースの黒で汚れていくが、彼女はそれをいちいちつけ合わせの蓬でぬぐって食べるので、最終的に皿の上はほとんど跡形もなく綺麗に片付いてしまった。

「梨木君は、ないの。自分の輪郭が、あやふやになるような瞬間って」

そうですね、と言って、私は皿にもたせていたフォークとナイフを手に取り、鴨肉のロティに手をつける。鮮やかな若草色をしたそら豆のソースが、余白を大きくとった皿からはみ出しそうにかかっている。私は切り分けた鴨肉で、皿の上をすべらせるようにしてそのソースをすくい、こぼさないよう口にする。ざらざらとした豆の舌触りと、鴨肉の野性的な味が、口のなかに一気に広がる。

「輪郭があやふやになる、という表現が、いまいち、理解できなくて」

「そう」

二見さんはつまらなそうに言って、精巧なガラス細工のような手でナプキンを持ち上げ、口をぬぐった。私は、二見さんの機嫌を損ねてしまったように感じ、焦って思いつくままを口にした。

「たとえば、途方もなくおいしい料理を食べたときに、とろけそうだ、と思うようなことはあります。口のなかから崩れてしまうような、そんな感じ。輪郭があやふやになるって、そういうことを言っているのですか」

二見さんはナプキンを手に持ったまま、少し驚いたような顔をして、それから模範的と思えるような笑顔を浮かべ、「そうそう、そういう感じ」と笑った。私は少し安心し、それから、彼女が持つナプキンに口紅の赤が移っているのを認めて少し、どきりとした。

「どこまでが自分で、どこからが他者や外界なのか、わからなくなるときのことね。そういうのが私、好きなのよ。汗ばんだ肌のまま、裸でふたり、ぴたりとくっついて眠るのなんて最高。暗がりは光より輪郭を淡くさせるから、暗闇でならなおさらね」

二見さんが私のことをからかっている様子はないが、私は、どんな顔をしてこの話を聞けばいいのかわからなかった。会社の同僚とはいえ、なんの気もない男性に、裸で眠るときの話を女性からするということが、あり得るのだろうか。

食器同士のぶつかる硬質な音を、無様なほどに立てながら、私は鴨のロティを食べ続けた。動揺で味は、よくわからないものとなっていたが、二見さんは私に、焦らないでゆっくり味わってね、と言った。僅かに首をふり、私は自分の皿に集中する。

鴨肉を切り分け、肉でソースをすくい、口に運ぶ。そしてまた肉を切る。皿の上は、ソースの若草色と、肉汁の赤とが混ざって、なんとも言い難い抽象画のようになっていった。

「二見さんは、変わっていますよね」

料理を食べている様子を一方的に見られ続ける、という状況に我慢できなくなり、私はそう口にした。彼女といるといつもそうだが、なにか、言葉を口にしなければならないような気がして、焦ってしまう。それで、少し失礼なようなことを言ってしまう気がする。

「そう? どのへんが?」

二見さんはさして気にする様子もなく、面白がるような、挑戦的とすらいえるような表情をして、こちらを見つめてくる。テーブルの上に両肘をのせて、乗り出すような恰好だ。私は、目をまっすぐ見ることも、あからさまに逸らして新宿御苑の緑を見ることもできずに、彼女の腕にはまった細い金色のブレスレットを眺めながら、答えた。

「考えていることとか、言葉が、ですかね」

二見さんは、乗り出していた身を引いて、椅子の背もたれにゆったりと寄りかかった。口元を僅かに開き、子どものような表情で外を眺める。

「ねえ梨木君。梨木君はいつも、言葉を焦って使っているでしょ」

私は、見透かされていたような気がして口ごもる。

「えぇ。まぁ」

「私ね、いつも、言葉を言葉以前から使うように心がけているの。だから変に聞こえるのかもしれない」

「言葉以前?」

「そう。言葉になるよりも手前の、混沌としたもの。私は、言葉以前の何物かを伝えたくて、言葉を使うの。でもだいたいの人は、そんな面倒くさいことしないでしょ? 言葉を伝えるために、言葉を使っている」

私は、少し考える。

「面倒くさいというより、そんなこと考えたこともなかったから」

そう言うと、最後の一切れになった鴨肉にフォークを刺した。肉はいい加減に冷めてしまっていて、口にすると、鴨のしっかりとした肉質で、なかなか噛み切れなかった。そら豆特有の、青くさいような香りと、野趣に富んだ鴨肉の味。何度も噛んでいると、そのごと、肉の味が染み出てくる。それはやがて、私の身体に変わっていくものだ、と思った。

「言葉や、言葉以前のものは、身体を超えているのよ。私の輪郭を、超えている。だから、きちりと言葉が通じたとき、やっぱり私、輪郭がぼやける気がするの。それが好き」

私はようやく鴨肉を食べ終わり、フォークとナイフを皿に置いた。銀色をしたそれらは、輪郭をしっかりと保ち、皿とぶつかって小さく音を立てた。かちゃり、と。それを聞いて、そういえば肉を切るとき、肉とナイフがぶつかっても、このような音はしないなと、思った。当たり前だけれど。

「二見さんの話を聞いていて、思ったことがあるんですけど」

「なあに」

「あの、肌はもちろん、筋肉とか骨とか、私たちの身体を構成しているものって、絶えず分解と合成が繰り返されているじゃないですか」

「そうみたいね」

二見さんは、面白がるように私を見る。私は構わず続ける。

「細胞がどんどん入れ替わって、身体はその形を保ちながらも、分子レベルでは外界と入れ替わっていきますよね。私たちは自分の身体を、疑いもせずに自分だと認識しているけれど、私たちを構成する分子はもともと、あそこに見える新宿御苑の木の葉だったものかもしれないし、仔羊の肉や鴨肉の分子だったかもしれない。そう考えると、外界と私たちの境界なんて、そんなにはっきりしたものじゃないと思うんです。生命って、空間のなかの、単に分子の密度が高い部分でしかないのかもしれない」

二見さんは、「梨木君、さすが理系だね」と言って笑った。

「私が言いたかったのもそういうことかもしれない。存在が滲む感じが、好きで、でもどこまでいっても私の身体はここにあるの。言葉は私を超えてあるけど、私の身体は、ここにあるの」

「二見さんは、生命ってことですね」

二見さんが、ふふふと笑ったとき、ウェイターがやってきた。グラスに水を注ぎ、メインディッシュの皿を下げていく。もうすぐ、デザートがやってくるのだろう。

「二見さんの話、よくわからないと思っていたけど、少しだけ、わかったような気になりました。いや、わかったというか……」

私は、じっくりと、言葉を探す。そうして、言葉を選び取る。

「二見さんの話を、自分に、馴染ませることができた」

「それは、よかった」

二見さんはにっこりと笑った。

「梨木君。今、言葉以前のことを伝えるために、言葉を使ったでしょ」

「そうかもしれません」

私は、先ほどはできなかったこと、二見さんの目を見て話すことが、今はできた。彼女の目は宇宙のように深い黒で、白い羽のようにふわりとしたブラウスと対照的なその色を、見ると、私の肌はざわりと粟立った。

「あ」

小さく声が漏れて、その音は私の足元に転がり落ちていく。

店の外、ガラスの向こう側には、無機質な灰色のビル群がそびえていて、とても強固な輪郭をしているように見える。向こうには、新宿御苑の緑。さらに遠くの方に、皇居の緑も、見えていた。

店内は冷房がきいていて心地よいが、今日はきっと暑い日だ。強い陽射しが、あらゆるものの輪郭を際立たせている。道端の草木を、道路の白線を、ビルの外壁を、レストランのテーブルクロスを、照らしている。

新宿の、オフィスビルの高層階で、デザートを待ちながら、たくさんの輪郭に囲まれて。私は確かに、存在の輪郭を滲ませていた。

粟立った肌は、デザートがやってくるまで、しばらくのあいだ、収まらなかった。