寄る辺ない朝に

薄い青色をしたカーテンから、部屋全体に溢れるように、光が透けて見える。

私は寝返りを打つようにして、身体を左に向けて窓から目を背けた。自然、横に眠っている男の背に、手がぶつかる。シャツ越しに、温かく湿った体温が伝わってくる。この男は、こんなに明るい部屋の中でも、野生動物のように昏々と眠り続けている。この部屋に来ると、いつも、私は朝早く目を覚ましてしまう。必要以上に早く。アサガオみたいに。

男を起こさぬよう、自分の身体にのった綿のタオルケットをそっとよけ、ベッドの上に立ち上がる。大きな河のような男の身体をまたいで、フローリングの床に下りる。下着姿のまま、ハンガーにかけておいたカーディガンを羽織った。ベッドを振り返ると、黒々とした髪が、男の寝顔を隠すよう瞼にかかっていた。

「隆峰」

屈んで、小さく男の名前を呼ぶが、反応はない。髪のかかっていない、鼻筋から顎にかけてのくっきりと際立った輪郭を見て、綺麗な顔だと思う。いつまでも、じっと眺めていられる。私は、彼の寝顔を眺める度、その輪郭を指でなぞりたい衝動に駆られる。なぜそうしたくなるのか分からないけれど、私はいつもそれを呑み込む。彼の顔を眺める代わりに、立ち上がり、私はキッチンに向かった。

コンロに置いたままにしてあった、ホーローのやかんは、半年前の彼の誕生日に私が贈ったものだった。土のような、濃い満月のような、柔らかな色をしたそれは、隆峰の気に入ったようだった。こうして、週の半分以上を彼の家で過ごすようになった今も、コンロの上にこのやかんが置きっぱなしにしてあるのを、よく見る。私がこの家を出るとき、必ず棚にしまっているのに。

ホーローのやかんに水を入れて、コンロに乗せる。つまみを左までいっぱいに回すと、チチチッ、と音がして火がつく。私はつまみを少し戻して、火を弱めた。

 湯が沸騰するまでの間、私は自由に過ごす。顔を洗い、髪を梳かし、キッチンの小さな丸椅子に座って本を読む。ささやかで、劇的な出来事が何ひとつ起こらない連作短編集だ。何も起こらないけれど、登場人物が、ちょっとずつ不幸になっていく。

「おはよ」

ホーローのやかんが、かたかたと音を立て始めたところで、ベッドから声をかけられた。

「おはよう。起きたの」

「うん、起きた」

隆峰は眠そうに、腕全体を使って瞼をこすっていた。私は本をテーブルに置き、その様子を眺める。いい年をした男が、少年のような仕草をしていることに、少し笑いそうになる。

「今コーヒー作ってたとこだけど、隆峰も飲む」

言いながら、コーヒーの壜にスプーンを突き刺し、すくう。ぱらぱらと、砂がこぼれるようにマグカップへ茶色い粉末が落ちる。飲む、と言って、隆峰は立ち上がると、よろよろと歩いて、私の後ろにやって来た。ぴたりとくっついて、私の腰に、腕を回してくる。湯を、マグカップに注ごうとしているところなのに。

「やめて。お湯がこぼれちゃう」

強い口調で言おうと思ったが、明らかに、声に嬉しそうな色が滲んでしまった。見計らったように、隆峰が腕に力を込める。

「こぼれないよ、大丈夫」

腕の力強さとは反対に、柔らかく優しいその声に、私は思わず本当に湯をこぼしてしまいそうになる。

「いいから、離れて」

私がもう一度言うと、束の間、一層強く力を込められた。首筋に、軽く口づけられて、それからようやく隆峰は離れた。再びベッドの方へ戻っていくと、彼はリモコンを手にしてテレビをつけた。ベッドを背もたれにして、ザッピングしている。私の首筋の、口づけられた部分だけが、じわりと熱を持つ。自分から離れてと言ったのに、私は、魂をくりぬかれたような、何か欠けてしまったような気持ちになる。

二人分のコーヒーを運んで、私もベッドとローテーブルの間に座ると、「ひでぇな、考えらんねえ」と隆峰が言った。テレビでは、千代田区中高一貫校で起こったいじめの事件が報じられていた。

 

 

 

隆峰とは、学生時代にアルバイト先で知り合った。

荻窪にあるスペインバルで、私は学生、彼は店長だった。もう、4年も前のことだ。私はアルバイトを始めてすぐ、1ヶ月もしないうちに辞めてしまった。仕事が嫌だったのではなく、隆峰と私の関係が露見するのが恐ろしかったからだ。それくらい、私達は露骨に惹かれ合っていた。他の社員の目を盗んで、バックヤードでキスを交わしたし、帰りのタクシーには手を繋いで乗り込んだ。

隆峰の家は四ツ谷三丁目にあって、仕事が終わった後はそこにタクシーを使って一緒に帰った。彼は結婚していたのだけれど、「妻はここには絶対に来ないから」と言った。二人の家が別にあるのか、単に別居しているのかは分からなかったが、それは私にはどうでもいいことだった。それより、妻は来なくとも、私以外の女がこの家に来ることはあるのか、ということの方が、私には重大だった。尋ねると、「来るわけないじゃん」と隆峰は笑った。曇りのないいつもの笑顔だった。私はそれを信じた。正確には、その言葉を受け入れるほかなかった。

彼はいつも、店から家に帰ると、パチャラン・トニカという私の好きな酒を作って出してくれた。自分にはビールを注いで、一緒に乾杯をした。グラス一杯分の酒を飲み終えると、セックスをした。隆峰は予想外に、誠実なセックスをする。身体をじっくり検分するように触り、私の反応を見る。乱暴で分かりやすいやり方でなく、時間がゆっくりと流れるようなやり方でそれをすることは、彼を一層魅力的に見せた。彼は仕事の後、私が家に行くと毎回そうした。

朝、彼の家を出るとき、自分の身体に残った彼の匂いと、舌と記憶の奥に残るパチャラン・トニカの味は、私を心の底から幸福にした。

 

 

 

「4年って、よく飽きもせずやるよな」

「え」

訊き返すと、隆峰は顎をくいと上げてテレビを指した。テレビでは変わらず、千代田区中高一貫校で4年にもわたって行われたいじめの事件について、その内容が伝えられていた。

「一人の人間を、4年も執拗にいじめ続けるって、どんな神経だろうな。教師も教師だし」

「うん」

私は、熱いコーヒーを飲みながら、この男と過ごした4年という歳月を考えてみる。その間、何か大きく変わったことはないように思えた。変わったことといえば、小さなことばかりだ。私は25歳になり、彼は33歳になった。私は就職をし、この家に泊まる頻度が多くなり、週の半分以上をこの家で過ごすようになった。彼は相変わらず結婚をしていて、週の半分以上はこの家におらず、私と会っても毎回はセックスをしないし、それの前にパチャラン・トニカを作ることもなくなった。

分からないことだけが、変わらないままに残っていた。私の横に座る男の妻が、どんな人なのか。この家に帰らない日は、どこで何をしているのか。私のほかに、どんな女と会っているのか、それとも会っていないのか。

毎日を構成するものは変わらないが、それはゆっくりと姿を変えていく。砂丘が、風によって少しずつ、その陰影を変えるように。

「隆峰」

私は男の名前を呼ぶ。

「ん?」

男は、テレビに目を留めたまま生返事をする。綺麗に隆起した鼻と、すっと線を引いたように潔い顎の輪郭。私はいつものように、そのラインをなぞりたくなる。そしてそれを呑み込む。

きっと私は、この男の輪郭を滅茶苦茶にしてやりたいのだ。この指の腹で、なめした革のように滑らかな肌を押して、めり込んで、溶け合って、この男の綺麗な横顔を、滅茶苦茶にしてやりたい。その輪郭を、崩してみたい。

私がしばらく黙っていたので、男は不思議そうにこちらを向く。私は微笑んで、「コーヒーどう?」と訊く。ん、あぁ、美味しいよ、と言って、男は再びテレビに視線を戻す。

私は、自分の持ったマグカップに入った、黒く反射するコーヒーを見て、一つ心に決める。このコーヒーを飲み終わったら、この男とセックスをしよう。男の綺麗な輪郭が、快楽に醜く歪むような、互いの輪郭が、溶けて分からなくなってしまうような、セックスをしよう、と。

テレビの話題は、いつの間にかいじめの事件から変わっていた。

テレビの横の窓からは、ちょうど良い明るさが部屋に投げ込まれている。薄い青色のカーテンは閉まったままだが、淡い青の光が、透けて見えた。溢れるように、囁くように、朝の光が透けて見えた。