心に恐竜を住ませる

絵を、見に行った。ひとりで。

ホリウチヒロミさんが壁一面に描いた、大きな絵。

 

原宿のデザインフェスタギャラリーにある、休憩室のような小さなスペースにその絵はある。

私がその絵を見に行くのは3度目だった。最初見に行ったときは、壁の7割くらいが埋まった状態で、その次に行ったときは、ライブドローイングというのか、ヒロミさん本人が絵を描いている様子を見ることができた。彼の後ろから、椅子に座って、作品をじっと見ていた。黒インクのペンで、さらさらと下絵を描くみたいなスピードで描いていくものだから、驚いた。「調子に乗って、描く予定じゃなかったものまで描き過ぎちゃったよ」と笑ったヒロミさんは、生きていることの充実を味わっているみたいで、とても眩しく、かわいらしく見えた。

 

絵は、ヒロミさんの作品が常にそうであるように、力強かった。

特に今回は、絵が完成していく過程を、たった3回(それも短いスパンで)ではあるけれど、追っていくことができたから、絵が力を増していく様子をこの目で見ることができた。とても幸運だったと思う。

 

 

 

以下に、完成した絵を見たとき、私の頭の中に浮かんで、その場で携帯に打ち込んだ言葉を並べる。

 

 

前に進もうとする、圧倒的な、意志

燃える

爆発

泣きながら、進む

バラバラになって、もがきながら、進む

進まざるを得ない

花が咲く

消える

好奇心

執念

大きな流れ

 

 

1回目、まだ絵が7割くらいしか進んでいなかったときには、「再構築」という言葉が頭から離れなかったのだけど、完成した絵からは、もっと勢いの強いものを感じた。

絵は、圧倒的だった。強かった。

「もっと大きい壁に描きたい」という旨のことを、ヒロミさんはTwitterでつぶやかれていたと思うけど、ぼくも、同じことを思った。もっと大きな絵が見られるものなら、見てみたい。

 

今回の会場は、デザインフェスタギャラリーの中の、カフェの区切られた一角、という感じのスペースで、絵を見るための場所ではなかった。だから、カフェで飲み物を飲むお客さんで絵が隠れてしまったり、話し声で騒がしかったりと、集中して絵を眺められる環境ではなかった。そして、絵全体を眺めるためには、あまりに会場が狭く、引きで絵を見ることができなかった。

それにも関わらず。ヒロミさんの絵の勢いや力強さに、ぼくは十分に圧倒された。

豪快なタッチでもなく、むしろ緻密に細い線で描かれたペン画なのに、視界に収まらないほどの距離で見るそれは、自分の中の何か、心みたいなものが持っていかれてしまうみたいだった。

描かれているものは、様々な大きさの動物たちの、骨。骨は左方向を向いているものが多く、それらの骨に絡まるように、引っ張られるように描かれる花や植物の蔦。泡。小さな妖精のような生き物たち。

前回のヒロミさんの個展『ALIVE』では、それらの動物の骨たちが、歓びに溢れているように見えた、とこのブログで書いたと思う。骨だから、表情なんてないのに。

不思議なことに、今回のヒロミさんの絵の動物たちは、皆、悲しそうに見えた。泡は涙のように見えたし、今回も当然、頭骨からは表情など読み取れるはずがないのに、彼らは苦しそうだったり悲しんでいたりするようだった。ぼくの目にはそう映った。自分でも驚くくらい明確に、「この動物たちは苦しんでいる。悲しんでいる」と分かった。悲しんでいるのに、彼らは進もうとしていた。身体の骨が、バラバラに崩れそうになりながらも。

 

 

 

 

 

大人になって思うことのひとつに、「感じる心の大切さ」がある。

子ども時代は、誰しもが無条件にとても「感じている」と思う。なぜならば全てが初めてだからだ。初めて見るもの、初めて聴く音、初めて嗅ぐ匂い、初めて触るもの、初めて味わうもの。

赤のあの「赤い」感じ、を「赤のクオリア」と呼ぶのだけど(しばしば「情熱的な感じ」とか「熱い感じ」「攻撃的な感じ」と表現される赤のあの「感じ」)、子ども時代はクオリアが爆発的に増える時期だと思う。

初めて知る感情や、初めて感じる感覚。子どもが生き生きとして見えるのは、何をせずとも毎日が新しく、瑞々しい発見に満ちているからだと思う。

大人になると、そうはいかない。

知った感情をなぞっているように感じたり、見たことのあるもの、聞いたことのあることが増えていく。「初めて」に出会うことは、決定的に少なくなる。

「感動」という言葉は、感じて動くと書くが、心が感じ入って動くことは、とても貴重になっていく。

心が動く瞬間に出会うことは、生きることの原動力になると思う。逆さに言ってしまえば、心が動く瞬間に出会えなければ、生きることはひどく虚しく、空虚なものになってしまう。ぼくは感じる心を失いたくないから、心を育てたいから、芸術に触れるし、言葉を綴っている。新しいものを探している。何も感じられなくなることは、とても怖い。

 

感じる心を持つことは、一方で、悲しみを持つということでもある。何も感じなければ、虚しく空虚ではあるけれど、悲しみもきっとない。

誰かの何気ない一言に、深く傷ついたとき、ぼくたちには2つの道がある。

悲しみに蓋をして、見なかったこと感じなかったことにしてしまう道。

もう一つは、傷を見つめて深く悲しみ、その傷ととことん向き合う道。

後者の道を選ぶと、人生はときにあまりにも険しい様相を見せる。剣山の山を登るように、進むことが困難で、傷つき果てることが必至なもののように。ぼくたちは進めなくなる。あまりに険し過ぎる道を前に、やはり傷など見なかったことにしよう、と道を切り替えたくなる。

 

 

 

ホリウチヒロミさんの絵は、「傷から目を背けない道」を進む者たちの絵だ、と思った。

彼らは苦しんでいる。もがいている。けれど、道を切り替えようなどという気配は、微塵も感じられない。「感じること」を決して放棄しようとしない、強い意志。

ぼくが特に強く心惹かれる、一匹の骨がいた。後で、『その骨は、猫だよ』とヒロミさんに教えていただいたのだけど、猫の骨はほかの誰と比べてもぼろぼろになっているように見えた。胴体部分の骨は、ほとんど元の形を留めていない。けれどギリギリのところで「自分」の形を維持し、進もうとしている。彼はどうして、そうまでして前に進むのだろう。決して大丈夫でないのに、前を向き続けているのだろう。

しばらく、じっと、絵を眺めていた。

彼が、彼らが進む理由。その勢い。それは、「生きること=感じることそのものへの希望」にほかならないのではないか。絵を見ていて、そう感じた。

描かれている彼ら(動物の骨たち)は傷ついている、悲しんでいる。傷つくことが「できて」いる。悲しむことが「できる」ことを決して放棄しないでいる。それは喜ぶことが「できる」ことと繋がっている、けれど、彼らは決して「喜び」に向かって進んでいるわけではない。傷つくことが「できる」自分の生命を祝っている。悲しむことが「できる」自分の生命を、いうなれば歓んでいる。

絵は言っている。

「私たちは苦しんでいる。傷ついている。もがいている。私たちは悲しむことができている。悲しむことができる生命を抱いている。喜ぶことができる生命を抱いている。私たちは進む。理由などはない。私たちは進みたい。進まざるを得ない。どうせ進むのなら、感じることができるこの生命を抱えながら、進みたい。もがきながら進みたい」

それは「生きる」ことにほかならなかった。

 

 

 

今回の絵のタイトルは、『Life Goes On.』なのだそうだ。

人生は続いていく。生命が命を抱えながら進んでいく。なんてぴったりのタイトルかと思う。

絵の中に、一際大きな骨がいて、それは恐竜の骨のようだった。そして彼の進む力は特に強く見えた。絵に勢いをつくっていた。

ぼくは心の中に、彼に住んでもらおう、と思った。悲しみに押し潰されて、前に進めなくなりそうなとき、感じることから逃げたくなったとき、彼の力を借りようと、そう思った。

 

 

 

絵は、少ししたら消えてしまうそうだ。絵の上からまた白いペンキか何かを塗り足して、消されてしまうそうだ。

「花火みたいですね」とヒロミさんに話したことを思い出す。

でも、絵は消えても、ぼくの心には既に恐竜に住んでもらっている。だから大丈夫なのだ。ぼくは今そう思っている。