濡れた手

濡れた手で鞄の中をまさぐる。熱を帯びた手。ここにありはしないかと、沢山の紙屑湿らせては掴んで。皮膚に革のにおいが移るまでべたべたと、濡れたのは私の所為じゃない。

鞄の隙間という隙間に指を這わせて、「それ」を見つけることで頭がいっぱい。

隅から隅まで探し尽くして、もうこの中にはないだろうと、三度繰り返して、ようやく諦めたとき気付いた。

 

「それ」は鞄の外にあるのだ!

 

空を切る手はとうに乾いて、皮膚は冷え切っている。それを追いかけるのだ。時間は万物に平等で、足跡だけ残したそれは、既に遠く向こう。

いつも気付いたときには遅く、肌に張り付いた革のにおい煩わしい。この鞄さえなけりゃ、これが不幸か、なんにも私の所為じゃない。鞄を放り投げれば、放物線を描き、紙吹雪のように中身が落ちる。利き手の中には何も握られず、枯葉のように草臥れたこの手。

 

何も持たず、歩く道の先に賢者が待ち構えていた。

「この先に何がある」

問うと、

「花が美しい季節だ」

笑って言う。

「答えになっていない」

責めると、彼は笑うだけ。

「その季節はいつだ」

「今さ」

私は笑うよりなかった。

「賢者とは名ばかりだね」

賢者は私の目を見るばかりで、何も言わない。

 

私は満ち足りて、幸福になりたかった。何も持っておらず、鞄も、「それ」もなく、愚かな身ひとつあるこの魂。

何故なのかが分からない。何故こうなったのかが。身ひとつでここにいるのか。身ひとつあれば見られるもの、それは鏡、途轍もなく大きな、空の果てもなければ地の果てもない、大きな鏡。

 

鏡は冷たく、とても澄んでいた。革の嫌なにおいはしつこく、消えずにいた。総て、賢者の所為だ。

乾いた手で、鏡の表面に触れる。とても恐ろしく、醜く、酷いものが映しだされる。

私は目を逸らす。

手は鏡から離さない。

とても冷たい鏡。とても澄んだ鏡。

 

それは私にだけ見える。目には映らない。

それはとても恐ろしく、醜く、酷いものの中に隠れており、とても恐ろしく、醜く、酷いものそのものである。

それはとても美しく、慶ばしく、祝われるべきものの中に隠れており、とても美しく、慶ばしく、祝われるべきものそのものである。

私は言祝いだ。

なぜならば、私は不幸だったが、同時に幸福でもあったからだった。

おめでとう。

手の平は徐々に熱を持ち、やがて濡れだした。私は地面に落ちていた鞄を拾い、その中に手を突っ込んだ。

 

 

 

「それ」は初めから私の手の中に。物事の始まりから終わりまで、総てが私の所為。私は鞄の底に残っていた紙屑を、そっと掬い上げる。勢いよく手を振りかざし、紙吹雪を散らす。賢者はいつの間にかいなくなっていた。うっすらと、私の皮膚からは革のにおいがする。

それは私の中にあるものであり、私の外にあるもの。本質は常に、相反する両極が同時に兼ね備わっている。初めから失うものなど何ひとつなく、濡れた手、現はきっと夢のようだったよ。煩悩で、衝動で、破壊で、幼児性で、鏡を割る気なのか。やり方はふた通りしかなく、本当の不幸者はどっち。安心しようとした途端、それは砕け、破片は紙屑のようだ。鞄を握りしめていた自分に恥じ入り、身ひとつの私、再び言祝いだ。おめでとう。

 

 

濡れた手を、じっと見詰める。