ばかばかしいくらいに甘くて脆いNorth Washington Avenueの思い出

シェーンが私の部屋のドアをノックしたのと、私の腋の下で体温計が鳴ったのはほとんど同時だった。

「カオリィ、起きているんだろ? ジュリエットがご立腹なんだ」

体温計を見ると、99℉を示していた。アメリカ留学に来て二ヶ月。未だにアメリカでの華氏表示には慣れない。携帯で調べると、摂氏では37.2℃ということだった。体が気怠い。

「カオリィ、助けてくれよ。カオリィ、カオリィ」

シェーンはジュリエットと喧嘩した朝、いつもこうやって私に助けを求める。彼がドアを叩き続けるので、私は毛布を被りなおして耳を覆った。無駄な抵抗とは分かっているけれど。

やがて、階段の下からジュリエットの叫ぶ声が聞こえた。ジュリエットはガーナから来た留学生で、シェーンのガールフレンドだ。シェーンが典型的な白人なのに対して、彼女は浅黒く美しい肌と、メロンのように大きな胸を持っている。どたどたと階段の木目を軋ませながら、ジュリエットが階段を昇ってくる音が聞こえた。

「シェーン、あなたってどうしていつもそうなの? 私と向き合うことすらしないで、カオリのとこに逃げてばっかり。だいたい、自分の予定くらい自分で把握してなさいよ」

私の部屋がある二階まで、近づきながら叫んでいる。この家は彼女の父親が彼女に買い与えたもので、つまりジュリエットはこの家の家主だ。彼女は一階に住み、私は二階を借りている。

「予定は把握していたって言ってるじゃないか。話を聞いてくれないのはそっちじゃないか、君の方が狂ってる」

「狂ってるって言わないで!」

ドアを隔てていても、毛布にすっぽり隠れていても、このやり取りは聞こえてくる。本当なら、お湯を沸かして紅茶を淹れて、微熱の日の穏やかな朝を迎えるはずだったけれど――私の部屋の窓からは家の前の通りが見えて、住宅街に植えられた種々の木が乾燥した葉を落とすのが見えた。週末の朝、その様子をゆっくり眺めるのが私は好きだった――、部屋の前で行われる論争は尽きることがなさそうだった。

毛布を少し持ち上げて、時計を確認する。今日は土曜日で、まだ朝の8時前だ。私は熱っぽい体を引き摺って、ドアの前に立つ。彼らが戦争の場をここから変えてくれることを願ったが、期待とは裏腹に掛け合いは段々とヒートアップしていき、私は諦めてドアを開いた。

「カオリ、朝からごめんなさいね。うるさかったでしょう」

ジュリエットは私の顔を見た途端に、申し訳なさそうな小さな声になった。

「大丈夫よ、どうかしたの」

シェーンが、「彼女が悪いんだ」と言うと、ジュリエットが振り返り、「黙って!」と言った。

「穏やかじゃないわね」

私が苦笑すると、シェーンは両肩を竦めて、心底困ったよ、という顔をした。

「ちょっと入ってもいい? この人と話してると疲れちゃうから」

ジュリエットが眉間に皺を寄せて言う。

「ええ。シェーンはどうするの」

私が聞くと、「カオリが居てくれて助かるよ。俺は帰る、予定があるからね」と言って、彼は階段を下りていった。

シェーンが階段を下りて、玄関先に停めてあるルノーのドアを閉める音が聞こえると、ジュリエットはソファに座って、さめざめと泣き始めた。

「どうしたのよ」

私が隣に座って、彼女の背中に手を当てると、彼女は吐きだすようにして話し始めた。

「大したことじゃないのよ。シェーンと今日はデートの約束だったの。なのに、彼、今朝になって急に、今日はクラスの仲間とキャンプの予定だって言いだして。そんなの聞いてないって言ったら、前に言ったじゃないかって言われて。もうこんなことばっかり。彼、もう私のことが好きじゃないんだわ」

「そんなことないわよ」

私はただ、ジュリエットの背中をさすってあげる。シェーンが彼女の部屋に泊まった翌日、こんな風に喧嘩をしていくのは日常茶飯事だ。毎回、すぐに仲直りしてべったりに戻るくせに、彼女は喧嘩の度に感情的になり、絶望的になる。そのまっすぐさが、十代の女の子のようで、私にはときどき眩しく感じる。

「きっとブラックのガールフレンドなんか、嫌になっちゃったのよ」

「コリーみたいに?」

「そうね」

コリーというのはジュリエットが前に付き合っていた東欧系の男性で、肌の黒い女性と付き合っていると仲間から馬鹿にされる、というクレイジーな理由でジュリエットと別れ、彼女を深く傷つけた。

「シェーンはコリーとは違うでしょ。シェーンの方が優しくて新時代的な男性だわ」

「それにハンサムよ」

泣きながらそんなことを言うので、私は思わず笑ってしまう。彼女の熱っぽい体を抱きしめ、同時に自分の体も熱っぽいことを思い出した。

「なんだ、あなたシェーンがまだ好きなんじゃない。それなら答えは簡単でしょ」

「わかってるけど、彼を前にすると感情的になっちゃうの」

「早く仲直りしなさい」

「わかった。ありがとうカオリ」

そう言うと、彼女は私のほっぺに軽いキスをした。

「ショーヘイは倖せ者ね。こんな素敵なガールフレンドがいるんだもの」

私は曖昧に笑った。

「今日は会う予定なの? あなたたち、いつも週末にデートしてるじゃない」

「今週は日曜に会う予定なの」

ジュリエットがまだ何か話しだしそうな気配だったので、私はそれを遮って言った。

「ジュリエット、私なんだか熱っぽいみたい。申し訳ないけど、ちょっと休ませてもらいたいの」

ジュリエットは、「それは大変だわ」と言って、立ち上がった。「食欲はある? 料理を作ってあげる」と言われたので、「大丈夫よ、もう少し眠っていたいの」と答えた。

「具合が悪いときに、ごめんなさい。でもカオリに話を聞いてもらえて、少し落ち着けた」

「いいの。うまく仲直りできるといいわね。幸運を祈ってる」

彼女は、「お大事に」と言って部屋を出ていった。

私は朝からのごたごたに少し疲れて、ベッドに戻った。自分の体温が僅かに残ったままの毛布に潜り込むと、思いのほかすぐに、私の意識は眠りの淵から落っこちた。

 

 

 

 

翔平さんは店員に、豆腐のテリヤキ、スシの巻きコンボ、それからヒバチを注文した。私が「ヒバチって何?」と聞いたら、「嘘だろ、ヒバチ食べたことないの? 立派な日本食なのに?」と私をからかうので、「じゃあ頼んでよ」と私が言ったのだった。豆腐のテリヤキも、巻きコンボなるものも、どんな料理かよく分からないものばかりだった。

その店は “FUJI HIBACHI & SUSHI” という名前で、日本食レストランを謳っているらしかったが、メニューには私の知らない日本食ばかり載っていた。翔平さんに「香織ちゃん、こっち来てから日本食食べた? 熱も下がったんだし、回復祝いで行ってみようよ」と誘われたとき、少しだけ恋しくなり始めたお味噌汁とか、あわよくば肉じゃがとか、そういうものを食べられるかもと私は淡い期待をしていた。でもメニューを見たとき、それがもはや叶わない願いだということに私は気づいた。

「味噌スープも、お新香も、肉じゃがも生姜焼きもどこにもないじゃない」

私が訴えると、

「スシとサシミコラボレーションも、ベントーボックスも、イエローテイルハラペーニョもあるのに?」

彼は目を見開いて、肩を大げさに上げて答えた。それから、メニューの端っこを指さして、

「味噌スープならここにあるよ。頼む?」

と言った。私は、「わかった、降参。降参する。これがこの国の “Japanese style” なのね。味噌スープはいいや、要らない」と言い、軽く片手を振った。

「ごめんごめん、怒らないで。ここ来たら香織ちゃんどんな顔するかなと思って。でもこんな田舎町じゃ、そんなにちゃんとした和食なんて、どこ行っても食えないよ」

翔平さんはそう言って笑った。この人は、笑うと目尻に放射状の皺が刻まれて、少年みたいだ。「くしゃっと笑う」という形容の仕方があるけれど、この人の笑い顔は、きちんと折り目をつけました、という感じ。

私には、成田を発つとき見送りに来てくれた年上のボーイフレンドがいる。日本で働いていて、きっと結婚も視野に入れている。彼からは手紙がときどき届いて、そこには最近あったこと、私が元気にしているかの心配、私が帰国したら一緒にしたいことなどが綴られている。翔平さんは翔平さんで、日本にガールフレンドを待たせているという。日本の大学にいた頃から付き合っていて、帰国したら結婚しようと約束しているそうだ。私たちはどちらも、もとの恋人と別れるつもりなんてないくせに、こういうことになってしまった。きっと二人とも、この何もかもがばかばかしいほど大きな国で、過去をきちんと所持し続けられるほど強くはなかったのだ。私はこの国では「妻木香織」ではなく、「カオリ」だったし、私自身の存在は、吹けばくずれる脆い砂糖菓子みたいだった。すぐにでも消えてしまえそうだった。

「翔平さんってさ、私のこと『香織ちゃん』って呼ぶよね」

届いたヒバチは、肉と野菜のただの炒め物みたいな料理だった。翔平さんは旺盛な食欲を発揮して、マヨネーズのたっぷりとかかったスシの巻きコンボを食べているところだった。

「ん?」

それがどうしたの、みたいな顔をして翔平さんは言う。チョップスティックスも用意されていたけれど、翔平さんは手づかみでスシを食べていた。

「こっちの人って、私のこと『カオリ』って呼ぶじゃない。明らかに日本とは違うアクセントで、呼び捨てで。翔平さんが呼ぶ私の名前って、なんだか『日本語』って感じがして安心する。ちゃんづけしてくれるのも、アメリカにはない文化じゃない? Ms. Kaoriなんてジュリエットに呼ばれないし、そんなの仰々しいし」

翔平さんは、エビやアボカドの入った巻きズシを片手に持ったまま、ぽかんとしていた。私は焦って、手をひらひらと振って言った。

「いいの、気にしないで。香織ちゃん、って呼ばれると、なんだか安心するって話」

私はチョップスティックスを使って、巻きズシを一つつまむ。米自体が僅かに油っぽく、これはジャンクフードだなと思った。

「香織ちゃんは、かわいいよね」

今度は、私がぽかんとする番だった。それから数秒してすぐ、吹きだしてしまった。

「何それ、いきなり。びっくりする」

片手に持ったままにしていた巻きズシを、翔平さんはぽんと口に入れ、私の言葉なんてなかったみたいにこう言った。

「香織ちゃんはさ、アメリカが好き?」

この人さっきから、一体何考えてるんだろう、と思ったが、口にはしなかった。それはきっとお互い様だった。

「ええ、好きよ。でも、ばかばかしい感じがする」

「ばかばかしい?」

「そう、印象としてはね。空はばかばかしいくらいに広くて青いし、太陽もばかみたいにギラギラしてるし、ソフトクリームは日本の三倍くらい、ウォルマートのケーキはまっ青からレインボーまで毒々しいもの勢揃いって感じ。全てが極端で、現実味がなくって」

話しながら、私は悲しくなってしまった。私たちの関係もそうかもしれない。現実味がなくて、ばかばかしい。

「そっかあ、ばかばかしい、ね」

翔平さんは、それ以上何も言わなかった。私は心を見透かされたような気がして、ヒバチを黙々と食べ続けた。

 

 

 

 

店を出ると、外はもうすっかり暗くなっていた。夜気を吸い込むと、秋のすっきりと乾燥した空気が胸に染み入った。コートの前ボタンを留めて、翔平さんの車の方へ向かおうとすると、腕を掴まれた。

「少し散歩しよう」

月の明るい夜だった。街灯はおよそ30メートル毎に一つしか立っておらず、暗かったけれどじゅうぶんに歩けた。私たちは手を繋ぎ、翔平さんの黒いロングコートのポケットにその手を入れていた。街灯が近づく度、私たちの影は濃くなり、離れる度、私たちの影はアスファルトの黒に溶けた。翔平さんはずんずんと歩いていたけれど、その辺りの道路は道幅がやたらと広い割に、歩道らしい歩道はなく、私たちは車道にはみ出しながら歩いた。車はほとんど通らず、たまに来たときも車道側を歩く翔平さんがいちいち私をかばうように歩くので、私はぼうっとしながら歩いた。そのうち、ぼうっとするのが、熱のせいかもしれないと気づいた。

「実はまだ、熱が下がってないの」

そう白状すると、翔平さんは立ち止まって、ちょっとやり過ぎだというくらいに動揺した。驚きと心配が、その表情から容易に透けて見えた。

「どうして。家でゆっくりしてなくちゃ。99℉って言ってたのは本当? すぐに車のところに戻って帰ろう。早く言ってくれれば、簡単なものなら料理だって作ってあげられるし、俺が看病したのに」

「翔平さんが作れるのってステーキだけじゃなかったの?」

私が笑うと、翔平さんはあきれたようにため息をついた。

「冗談よ。99℉は本当だし、今はもうちょっと下がってるんじゃないかな」

「じゃあ、帰ろう。治りかけで、長引いてもよくないよ」

私は翔平さんの顔を見る。まっすぐに私のことを見つめる目は、街灯の光の影になっていて、とても黒々として見える。この人はどうしていつも、私のことをこんなにまっすぐに見つめるのだろう。

「本当は昨日のあいだに言うか迷ったの。でも言ったら、今日のデートがなしになっちゃいそうで」

翔平さんは、いつもの顔で笑った。折り目をつけたような目尻の皺。

「そんな心配しなくても、俺はいつでも香織ちゃんに会いに行くよ」

日本に帰ってからも? 聞きたかったけれど、声にできなかった。ポケットの手を一度ほどいて、向き合うような形になってから、もう一度繋いだ。そこに答えなどあるはずがないのに、彼の顔を見つめてみる。

「どうしてそんな、不安そうな顔をしてるの」

翔平さんに聞かれて、自分の顔がそんな風になっていることにたじろいだ。平気な顔をしているつもりだった。不安そうな顔になっているのは、彼を見つめたからで、手を繋いでいるからで、こんな風に秋の夜に一緒に散歩するからだった。彼と一緒にいればいるほど、そう遠くはない別れが、目の前でちかちかと点滅するような気がした。

「そんな不安そうな顔、してる?」

「うん、してる」

風が少し強く吹いて、私たちの周囲に、とても大きな葉を落とした。乾いたそれらを踏まないよう、その場に立ったまま、翔平さんの顔を見つめた。

私は、平気そうな顔をしようとしたけれど、そうするほどに情けない表情になってしまうことが自分でもわかった。黙っていられなくて、私は適当に思いついたことを話した。

「あのね、昨日、またシェーンとジュリエットが喧嘩したの。いつもジュリエットは感情的になっちゃうから。どうせまた、すぐ仲直りしてべったりになるんだろうけど」

「それで不安なの?」

「ううん。でも、ジュリエットは優しい子よ。昨日も、体調が悪いって言ったら、夕方くらいにオクロスープを持ってきてくれたの」

「オクロスープ?」

「ガーナの家庭料理なんだって。オクラのシチューみたいなもの。体があったまって助かった」

自分でも、ちぐはぐなことを言っているのがわかった。でも、喋っていないと感情を抑えられないような気がした。私は感情的になってはならなかった。それをしたら、今まで守っていた何かが、すべてくずれていくような気がした。私は少し、ジュリエットを羨ましく思った。シェーンの前でどうしても感情的になってしまうジュリエット。どうしても、翔平さんの前で感情的になることができない私。

翔平さんが、私の顔を覗きこんだ。キスをするのかと思ったけれど、違った。彼は、私のことをじっと見ていた。彼も、とても不安そうな顔をしていた。私はたまらなくなって、少し背伸びをした。ポケットに入れていない方の手で、彼の背中に手を当て、キスをした。秋の乾いた空気の中で、ポケットの中の空気だけが湿度を高く保っていた。うっすら目を開けると、翔平さんの顔の向こう、雲と雲のあいだに、満月に少し満たない月がはっきりと見えた。私は再び目を閉じて、ポケットの中に入れている手に力を込めた。翔平さんも手に力を込め返してくれた。ばかばかしいくらいに悲しかった。

体を離すと同時に、手もほどいた。自分のコートのポケットに手を入れると、そこは冷たかった。翔平さんを先導するように、私はもと来た道を引き返した。枯れた大きな葉を、小気味いい音を立てて踏みながら。後ろから、翔平さんが私を呼ぶ。香織ちゃん、と。

「今度、映画に行こうよ。ほら、大学で学生の自主制作映画をやるって、このあいだ図書館の前でチラシ配ってただろ」

「うん」

私は、ずんずんと歩く。

「早く、シェーンとジュリエットが仲直りするといいね」

私は、ずんずんと、一人で歩く。後ろを歩いている、翔平さんの困ったような顔が目に浮かぶ。自分でもびっくりする。いつの間に、この人のことをこんなに好きになってしまったのだろう。

「しばらく仲直りしてくれないといいな」

小さな、小さな声でそう言う。多分、翔平さんには聞こえていない。

私は、シェーンとジュリエットがずっと仲直りしなければいいような気がしていた。彼らが、もとの仲に戻らないあいだは、少なくとも翔平さんと一緒にいられるような気がした。

翔平さんの車に乗って、家に戻る途中、私はときどき翔平さんの横顔を盗み見た。信号待ちで車が止まっているとき、翔平さんの横顔越しに、街灯で照らされた深緑色の看板が見えた。

 

“North Washington Ave.”

 

白い文字で、そう書いてあった。

翔平さんが私の視線に気づいて、こちらを向く。黒い瞳が、街灯の光で少しだけ茶色く光って見える。

「翔平さん」

私は意味もなく、彼の名前を呼ぶ。穏やかな顔で、ハンドルに手を添えたまま、翔平さんがこっちを見ている。きっともう信号は青だけれど、私がまた言葉を発するまで、彼はこっちを見たまま車を発進させないつもりだ。田舎の住宅街は、どの家も眠りについているのか、静まり返っている。

私はきっと、この光景をしばらく忘れないだろうと思った。この夜の中で、その看板だけが現実的で、確からしいものに見えたからだった。看板が、私にとってはこの日の出来事の証人だった。彼が私を家に送ってくれる帰り道、微熱と秋の夜、湿った手と乾燥したたくさんの枯葉、明るい月、穏やかな顔で私の様子を窺う私の愛しい人。私はきっと、この光景を長いこと忘れない。彼が日本に帰って、もとの恋人と結婚することになろうと、私がどこの国にいて、何をしていようと関係なく。

いつか死んでしまうことをわかりながら生きるように、私たちはいつか別れることをわかりながら今一緒にいる。それはばかばかしいくらいに悲しくて、ばかばかしいくらいに甘くて、ばかばかしいくらいに脆いことだった。

近い未来、私はこの瞬間のことを思い出して切なくなるだろうか。

翔平さん、信号青だよ。

私が知らせると、彼は思い出したように前を向いて、ゆっくりとアクセルを踏んだ。看板が徐々に私たちの後方に流れていき、やがて、私の視界から消え去った。