人生の勝ち負け

寝て起きると、部屋がオレンジ色の光で満たされていた。

朝陽か、夕陽かもわからない。枕元の時計を掴むと、4時22分を示していた。が、午前か午後かわからない。ベッドの上で、からだを半分だけ起こして、窓の外を見る。

記憶が、浴槽に勢いよく沈めたタオルが浮かぶように、ゆっくり蘇ってくる。

そうだ、きのうは夜通しネットサーフィンをしていたのだ。夜が明けるころファミリーマートに行って、スパイシーチキンを買って食べた。家について、お腹がすいたと思って、冷蔵庫に入っていた紙パックのカフェオレを、一気飲みした。それから、歯を磨いて、水をがぶがぶと飲んで、ベッドにもぐり、スマートフォンTwitterを眺めているうちに、眠ってしまったのだ。たぶん朝7時か8時。だから、今は夕方。

マットレスを撫でるみたいにして、かけ布団の中を探すと、自分のスマートフォンが見つかった。黒い色をした、シンプルなケースに入っている。

画面をONにすると、デジタルの表示で ”16:24” と表示された。やっぱり、夕方だ。

時刻の下に、”11月18日 日曜日”とも表示されている。もう日曜日が終わろうとしている。信じられない、あしたからまた仕事だ。

からだをもう一度ベッドに横たえて、布団にもぐる。眠気は地平線の向こうに消えていて、見えなくなっていたが、呼び戻すことも不可能ではないように思われた。もう日曜の夕方、信じられない、また一日を無駄にしてしまった、きのうあんな夜更かしをしなければもっと有意義な一日になったのに、まだ休んでいたい働きたくない、そういえばお腹空いた、でもごはんを買いに出かけるのすら面倒くさい、どうしたものか、やはりもう一度眠ろうか。

目をつむっていると、意外なことに眠気は地平線の向こうからのっそり顔を出し、何食わぬ顔をして近づいて来た。ここで彼に身を預けたら、あとで絶対後悔するなとわかっていたけれど、起きていても特に楽しいことはないので身を預けた。眠りは、暗くもなければ明るくもなく、とりあえずの間を埋めるためのBGMのように緩慢とした様子だった。そこに、身を浸した。心地良くもないが、不快でもなかった。

 

 

 

寝て起きると、部屋が緑色の光で満たされていた。

なんの光かはわからない。枕元の時計を掴んだが、何時なのかわからなかった。文字盤がいつもと違うとか、そういうわけではないのだけれど、長針と短針があって、何かを指している。それだけだ。時計の針の長いのと短いのが何かを指しているのだが、そのことはそれ以上でも以下でもなく、なんの意味も成していなかった。自分にはその時計の読み方がわからなかった。これでは、今が昼なのか夜なのかもわからない。ベッドの上で、からだを半分だけ起こして、窓の外を見る。何も見えないわけではないが、何が見えるというわけでもない。寝る前は、何をしていたのだったか。

そうだ、きのうは夜通しネットサーフィンをしていたのだ。夜が明けるころファミリーマートに行って、ATMでお金を下ろした。残高はほんの六百円余りになってしまい、今月暮らしてゆけるのか心配になった。家についたら、実家からみかんや、りんごなんかが届いていて有り難かった。特にお腹はすいていなかったが、口さみしかったのでみかんを一つ手に取り、皮をむいた。皮をむいたけれど、中に入っていたのはなんだったか、覚えていない。みかんだったのか、そうではなかったか。

考え込んでいると、部屋に人が入ってきた。家の鍵は、確実に締めてあったはずなのにそいつは、何事もなかったかのように部屋に入ってきた。そいつは、誰かにそっくりの顔をしていた。誰かとは、自分だった。

「やあやあ」

そいつは鷹揚に言うと、自分の椅子に座った。いや、自分の椅子ではない。なぜなら自分はここにいるからで、そいつは自分のではない椅子に座ったのだった。

「ひとつ教えてあげよう、今日は日曜日だ」

「そうか」

いいことを知ったと思った。今日は日曜日なのだ。

「さらにひとつ教えてあげると、明日は月曜日だ」

「そうか」

「月曜日ということは、仕事だ」

そうか、と思った。もう仕事は明日に迫っているのだ。

「仕事は何をやっているんだ」

そいつがこちらに聞いてきた。

「鉄筋コンクリートで固められた7階建てのビルに行って、そこの5階のパソコンの前で数時間パソコンをいじって何かをしているふりをする仕事だよ」

答えると、そいつは、「そうか」と言って黙った。続けてそいつに言ってやった。

「ひどい仕事だよ。こんなのが何の役に立っているかって聞かれたら、パソコンの前で数時間パソコンをいじって何かをしているふりをする、のを見ると満足する人のお役に立っていると言うよ」

「仕事が嫌なのなら、私が代わりに辞めてきてあげよう」

自分が驚いた、のがわかった。そんなことが可能なのか。そんなことが可能なのでしょうか

「驚いたよ」

それでそう言った。

「驚いたも何も、それが君の望みだろう」

「自分の望み」

「そう、君の望み」

胸に手を当てて聞いてみる。仕事を誰かに辞めてきてほしい? 自分の仕事を、ほかの誰かに辞めてきてもらいたい? エス

「あんたがそうしたいのなら、そうしてもらって全く構わないよ。うん。全く構わない」

そいつは両脚を大きく開いて股のあいだの椅子のへりを掴み、前のめりになって大きくあくびをした。

「わかってないみたいだね」

「何が」

「君は君の思うがままに行動することが可能だということだよ。そして君は何者でもない」

ほら、と言ってそいつはベッドの枕元にある時計を指さした。時計にはあいかわらず長い針と短い針がついていて、規則的に動いているようだった。そのようだったが、やはりあいかわらず何時を示しているのかは読み取れなかった。

「それは時計だ」

「時計だね」

「そう。長い針と短い針が動いていて、それは現在の時刻を示すための道具だ」

「そうだね」

「だけれど君は、それが示しているものをわからない。理解できない。それが、今何時を示しているのかも、そもそも時刻を示しているのかも。それでも、その物体は依然として時計のままだ」

今度は自分の方があくびをする番だった。

「それがどうしたんだ」

「時計がどこまでも時計であるように、君はどこまでいっても君なんだ」

時計の時刻を読み取れないのと同じように、自分にはそいつの言っている意味がわからなかった。言葉が流しそうめんみたいに流れていく。ツーツーツー。なんでこいつはここにいる? なぜ自分の椅子に座っている?

「26歳、男性、身長174センチ、新宿区の7階建てのビルに勤務する会社員、二人兄弟の長男、味噌ラーメンとかぼちゃが好物、ブロッコリーは見た目がいやで食わず嫌い、休日は家で映画を観るか買い物をして過ごすことが多い」

幾つかは真実だったが、ほとんどはでたらめな情報だった。

「それはこの自分の情報を言っているつもり?」

「あとみっつ数えたら、それらの情報が全て消えるよ。いいかい?」

「消える?」

「いやだと言わないなら、承諾したとみなすよ」

「だいたいその情報は正しくないよ」

「さん」

そいつは椅子の上であぐらをかいて、三本の指を立ててこちらに示してきた。

「に」

指を曲げて二本にする。

「いったいなんの真似だよ。年齢も性別も身長も消えるってこと?」

「いち」

好き嫌いも消える? だいたい、消えるってなんだ。

「ゼロ」

そいつは指を全部折りたたんで、手をグーの形にした。

部屋の中が、静寂に包まれた。部屋の中は緑色の光に満ちていて、台所にはきのう自分がむいたみかんの皮が、暑さにばてた犬のような様子でぺたりと自分の場所を陣取っていた。自分が、まばたきをゆっくりしたのを感じた。

「何も変わらないじゃないか」

手をグーの形にしたそいつに言う。椅子の上であぐらをかいて、手をグーにしたそいつはなんだか招き猫のようで、間抜けだった。顔は、あいかわらず自分とそっくりだった。というか、同じ顔をしていた。右目の脇に、小さなほくろがついていた。

「君はもはや、何者でもない」

「会社員でもないってこと?」

「そう! その通り」

「それはいいことを聞いた。それなら月曜に仕事に行かなくてもいいね」

「そう! その通り」

「その通りなら、もうひと眠りさせてもらうよ。会社員じゃないなら、月曜にいつまで寝ていたって怒られないからね」

そう言って、自分は毛布をもう一度かぶり直した。横になって、目をつむる。

「そう! その通り」

毛布にくるまって、みのむしのように丸まりながら、そろそろ出ていってくれないかな、と思った。おい、そろそろ出ていってくれないか?

「君は会社員でもなければ26歳でもない。大人でもないし子供でもない。男でも女でもないのは勿論のことだけど、誰かの息子でもなければ誰かの友人でもない。君、恋人いる?」

うるさいなあ、とみのむしは思った。

「恋人がいるのなら、恋人のための君、というのももはや存在しないことになるね。君は誰のものでもなくなる。君のための君」

そいつの言葉が徐々に遠くなっていく。ツーツーツー。地平線の向こうから眠気くん、やあこんにちは。

「ただし」

遠ざかる意識の中で、みかんの夢を見そうな気がする。巨大なみかんの皮に包まれる自分。みかんの皮の中に包まれているのは自分。

「これから君は、やることなすこと、全てに責任を持たなければならない。持たざるをえなくなるんだ」

みかんの皮がくるくる回っている。そこに自分が着地する、フォールインみかん。自分インみかん。

「君は自由に決断を下す、そしてその全ての決断に責任がつきまとうんだ。いいかい、全ての決断に、だよ」

ツーツーツー。

「おやすみ、頭をひやしてこい」

 

 

 

寝て起きると、部屋がオレンジ色の光で満たされていた。

案の定、みかんの夢を見た。部屋の中に溢れる、みかん色の光。

枕元に見当たらなかったので、スマートフォンを探して毛布の中をまさぐる。黒い、シンプルなケースに入った自分のスマートフォン

手に硬いものがぶつかり、手に取ると、スマートフォンだった。でも、ケースがついていない、裸のスマートフォンだった。画面をONにすると、 ”10:09” の表示。それからその下に、 ”11月19日 月曜日” 。

出勤時刻をとうに過ぎていたが、上司からなんの連絡も入っていなかった。そうか、あいつが仕事を辞めてくれたんだ。顔のまったく同じあいつ。

これほどまでにない、開放感に満ちた月曜の朝だった。自分にしては珍しく、元気にベッドを降りて、カーテンを勢いよく開いた。当たり前だが、家の前の道路が見えた。当たり前だが。

大きく伸びをして、それから洗面所で顔を洗った。冷たい水でパシャパシャと、水遊びする子供みたいな気持ちで顔を洗った。パシャパシャ、パシャパシャ。一度顔を上げて鏡を見ると、目頭のあたりに目やにがついたままだった。全然洗えていない。

気を取り直して、綺麗好きな海賊のような気持ちで顔を洗った。冷たい水で念入りに、ぐわしぐわしと。ぐわしぐわし、ぐわしぐわし。顔を再び上げると、目のまわりもしっかりと綺麗に洗えていた。しかし、力を込め過ぎたせいで、顔全体が赤くなってしまっていた。しかしそれも致し方なし。

リビングに戻り、クローゼットを開ける。スカートやワンピースが、いくつも入っている。少し驚くが、それはそうだ、と思い直す。自分はもともと男ではなくて、女だったのだから。いや、しかし今は女ですらない。何者でもなくなったのだから。

パジャマを脱いで、割に露出の激しめなワンピースを着た。肩紐があって、ぴっちりとしたフォルムのパープルの奴。

クローゼットのドアの内側についている姿見に、自分の姿を映す。うん、いい感じ。腰に手を当て、髪に手を当ててみる。様々なポーズをとってみる。くるりと回転してみる。うん、いい感じ。

メイクを念入りに行い(何しろすっぴんは誰にも見せたくなかった。ひどい顔だから)、意気揚々と外に出る。太陽はしっかりと昇っていた。11時35分。自分の部屋がみかん色の光で満ちていたことを不思議に思う。太陽の光は何色でもなかった。ただ、アパートの白色の壁についたうす茶色の汚れや、植込みの冴えない緑や、アスファルトの限りなく黒に近い灰色や、そういう、世界の色をはっきりとさせるだけのものだった。世界は極彩色では勿論なかったが、それなりに色がついていた。どんなものにも、色はついていた。自分の肌は少し赤味がかったようなみかん色を、うすくうすく伸ばしてクリーミーにしてほんの一滴青色を混ぜたような色をしていた。ワンピースは、パープルだと思っていたが、正確にはパープルではなかった。青でもなかったし、ネイビーというわけでもなかった。それらの言葉の指す真ん中、もしくはそこからわずかにずれた位置にある色であるようだった。

家の近くにある駅まで続く道を、歩いていたが、途端にそれがめんどうくさくなった。会社に行かなくていいのなら、自分は今どこに向かうべきなのだろうか。やるべきことがないということは、自由でもあったが、その自由は自分にとってあまりに大きすぎて、有り余っていた。クリップひとつを持ち歩くために、大きな風呂敷を持たされたような気分だった。かえってその風呂敷が荷物だった。

道端にある自動販売機でりんごジュースを買って、脇道に入り、だれもいない小さな公園に寄った。平日の公園。ベンチに座り、ポーチの中からスマートフォンを取り出した。そして、Twitterの画面を開く。

平日の12時前に呟いている人間はおらず、タイムラインは行き止まりにぶち当たりました、とでも言うように止まっていた。まったくもって止まっていた。画面の一番上までスクロールした上で、何度も指でさらにスクロールする。更新、更新、更新、更新。

何も変化が起こらなかったので、自分でツイートすることにする。

“ひまだー”

四文字のひらがなが、タイムラインの一番上に鎮座する。人差し指で画面を下に押しやる。スクロール。更新、更新、更新、更新。

何度やっても、「ひまだー」が画面の一番上で上下運動するだけだった。壊れたばねみたい。ひまだー。ひまだー。ひまだー。ひまだー。

やがて、更新の動きに合わせて、声を出すようにした。指で画面をスクロールしながら、「ひまだー」と言う。段々、山田さんみたいに、誰かの名前を呼んでいる気持ちになってくる。ひまだー、ひまだー、ひまだー。

「うるせえなあ」

足下のあたり、ベンチの下から声が聞こえてぎょっとした。立ち上がり、恐る恐るベンチの下を覗くと、寝袋のような形をした何がしかにくるまっているみのむしがいた。いや、人間。ホームレスだ。

「ごめんなさい」

しゃがみこんだまま、喉から絞り出すようにして声を出すと、みのむしは舌打ちをした。チッ、というのではなく、もっと機械的な、金属が響くみたいな硬い音がした。キッ、というような。

何かを言うのかと思って、待っていたが、それ以上ホームレスは何も言わなかった。それで、しゃがんで、首をかしげた自分が、そのホームレスと見合う、みたいな形になった。彼は男で、存外に若かった。多分、三十代。

じっと見ていると、彼はまた舌打ちをした。キッ。舌だけではなく、喉の奥を使っているかのような音だ。もしかしたら、これは舌打ちではないのかもしれない。喉打ち?

そのうち、彼は連続喉打ちするようになった。キッキッキッキッ

初めは恐怖が支配していたが、やがてそれがほかの感情に取って代わった。優越感だ。何しろ、奴はベンチの下で、寝袋のような何か――風呂敷を繋ぎ合わせたような、土にまみれた袋状のもの。袋の外側には新聞紙、ビニール袋が巻きつけられている――にくるまっているのだ。ベンチの下から出てきて、パープルとかネイビーとかの中間にある色のワンピースを着たこの自分に暴力をふるおうとしても、奴がもぞもぞしているあいだに逃げ切ることができるだろう。余裕だ。物理的に、自分の方が圧倒的に優勢だった。その上、奴はホームレスだ。もう会社員ではないという点を考慮しても、社会的にも自分の方が圧倒的に優位だった。

スマートフォンを取り出し、ツイート画面にする。

“ホームレス。男。三十代。ベンチの下。喉打ちが得意。”

ツイート。タイムラインの一番上に、その言葉が舞い降りる。「勝った」と思った。目の前の男は、相変わらずキッキッとしていた。眉のあいだには、生まれたときから刻まれたように深い皺が刻まれ、この世の全てを恨んでいるような目をして、自分のことを睨んでいた。ワンピースを着た、美しい自分を。

男は、キッ、キッ、と続けていたが、それは徐々に情けない響きを帯びていった。歯切れのいい元の音ではなくなり、痰がからんだのをなんとかしようとして、試行錯誤するような弱々しい響き。コッ、コッ。

男は、自分の人生を恨んでいるのだ。憐れだった。連続喉打ちが情けない音に変わるにつれ、みのむしが横向きになったからだを動かし始めた。頭を地面から離すように、まるでそういう筋トレ方法でもあるように、せっせとくねくねし始めた。コッ、コッ、コッ、コッ。

自分は、スマートフォンの画面を再びONにして、カメラ機能を起動した。そして写真を撮った。ホームレスのみのむし男の、憐れな筋トレ運動。

カシャァ。

作り物のように、完璧な「カメラのシャッター音」だった。そのことが一層、自分を興奮させた。

カシャァカシャァ。コッコッ、コッコッ。カシャァカシャァ。コッ、コッ。

男の目には、うっすらと涙が浮かんでいるように見えた。惨め。圧勝だ。と思った。

この崇高な勝利を、より完全なものとするため、再びTwitterの画面に戻る。

“連続喉打ちホームレス男。惨めにみのむしのような動きをして、写真を撮られてしまう。自分の人生を恨んでいるんだね、かわいそう”

写真を添付しようと思い、カメラロールをスクロールする。奴は後半になるほど、弱々しい表情をしていた。敢えて、前半の力強く自分のことを睨みつけている写真を選択する。俺はお前に負けてなんていないぞ、とでも言いたげな表情。しかし、奴は自分に圧倒的に負けているのだ。かわいそう。

いつの間にか、男は筋トレ運動も、喉打ちもやめていた。全てを諦め、放心したようにどこか遠くを見ている。

ツイートする前に、文章をもう一度見返す。

“連続喉打ちホームレス男。惨めにみのむしのような動きをして、写真を撮られてしまう。自分の人生を恨んでいるんだね、かわいそう”

特に最後の一文は気分がよかった。それで、声に出して奴に言った。

「自分の人生を恨んでいるんだね、かわいそう」

男は、もう自分のことを見ていなかった。どこか遠くを見て、聞こえているのか聞こえていないのか、顔から表情というものが消えている。

奴に何も反応がないことは、自分をとても苛立たせた。もう一度、大きな声で言った。

自分の人生を恨んでいるんだね! かっわいそう!!

しかし、反応はなかった。自分は舌打ちをして、ツイートボタンを押した。チッ。その音と同時に立ち上がり、公園を出ることにした。自分はとても苛々していた。タイムラインの一番上に、惨めな男の写真がツイートされる。その写真を見ると、少し気分がすっとするような気がした。しかし苛立ちはすぐに戻ってきた。公園を出るとき、ベンチの方を向いて最大限の音量で舌打ちした。キッ。喉は使わなかったのに、喉打ちのような音がした。

公園を出て、あてもなく歩いた。自分はとても苛立っていた。自分の体の中に、3ヶ月放置した排水溝の中のようなどろどろと醜い怒りが充満していた。それは自分の中にある、あらゆる感情を蝕み、犯していった。

蹴るようにして地面を歩き、自動販売機の脇にあるペットボトルのごみ箱を蹴り倒した。なるべく大きな音を立てて。それをする前は、必ず辺りを確認した。誰もいなければ、蹴る。誰かがいれば、もちろん蹴らない。普通の、パープルの色のワンピースを着た、美しい女性の顔をして人とすれ違った。そうすると、優越感を感じることができた。みのむしホームレスより、自分はあきらかに優れていた。あきらかに

陽射しは、強くなる一方だった。目に見えるどれもこれもが、薄汚れて見えた。太陽の光は何色でもなかったが、太陽の光に照らされて鮮明になる色は、どれも汚らしい色をして見えた。近所にある図書館の前の、花壇に咲いたたくさんの花も、同様だった。一見綺麗な色をしているようだが、その実、奴らはわざとらしかった。外国の着色料たっぷりのお菓子みたいに、真っ赤な色をした花。みかん色の花。青色の花。ぼんやりと澱んだ緑の葉。花びらの中心には、おしべとめしべ。花はよく見るととてもグロテスクなのだ。わざとらしい色をした花びらの中心に、ぶつぶつと夥しい数の、触手のようなおしべ、めしべ。細かく、膨大な数の突起。黒く、規則的で、それは生きていた。汚らわしい、と思った。そしてそれは世界とまったく同じだということに気がついた。愛だ、夢だ、とうわべは綺麗なことを言っていても、よくよく目を凝らして見れば、汚らわしくグロテスクなものばかりだ。世の中なんて、そんなものだ。

自分は、周囲に誰も人がいないことを確認してから花壇に唾を吐きかけた。唾は泡をぶくぶくと含んだまま、花びらの上に飛び散った。だらりと、花びらから垂れて土に落ちたものもあった。

苛々は収まらなかった。

自分は図書館の横を通過し、市役所を通過し、住宅地を突っ切って橋を渡り、病院の隣を通った。途中でファミリーマートに寄り、スパイシーチキンとファミチキと、紙パックのカフェオレを買った。イートインコーナーのあるコンビニだったので、そこでそれら全てを胃に入れた。カフェオレを全て飲み切った後、お腹がまだすいているのか、吐きたいのかよくわからなくなった。胃がむかむかとした。お腹が、ぐう、という音を立てたのでポテトチップスとチョコホイップパン、それからアメリカンドッグを追加で買うことにした。アメリカンドッグを注文するとき、レジの店員が、「あたためますか」と聞いてきた。眼鏡を掛けていて、やせぎすの猫背で、顔ににきびがたくさんある男の店員だった。声は小さくこもっており、「あたためますか」が「あっめむすく」に聞こえるほどだった。

「え?」

大きな声で、威圧的に聞く。店員はわかりやすく委縮し、さらに小さな声になった。

「っめむっく」

「なんて言ってるか全然聞き取れないんですけど」

するとレジの奥から、先輩と思われる40代くらいの女性店員が出てきて、にこやかに歯切れよく、「申し訳ございませんお客様。こちらのアメリカンドッグあたためますが、よろしいですか?」と言った。

「はい」

女性店員は、驚くほど腰が低かった。申し訳ございません、申し訳ございません、と言いながら、猫背の男の店員に、「ほら、さっさとあっためて。早く!」と指示していた。

それを見て、自分の腹の虫が少し収まるのを感じた。「勝っている」と思った。

会計を済ますとき、金額を言う男の店員の声はあいかわらず小さかった。レジスターには “¥367” と表示されていたので、367円だとわかったのだが、自分はもう一度、「え?」と言った。男の店員は委縮した。

だから、声小さくてわからないんですよね

店員は、「すみません」と小さく口ごもって、停止した。自分は財布から367円ぴったりを出すと、レジカウンターの上に乱暴に置き、舌打ちをした。キッ。

商品の入ったレジ袋をかっさらい、店の外に出た。自動ドアが閉まるとき、「申し訳ございませんでした!」と言う女性店員の声が聞こえた。奴らは人生の負け犬だ、と思った。そう考えるのは、気持ちが良かった。奴らは人生の負け犬だ。自分が奴らよりも勝っている、あきらかに

コンビニの前の駐車場で、スマートフォンを取り出す。いつの間にか、Twitterに通知が来ていた。歩きだしながら、スマートフォンをいじる。

「連続喉打ちホームレス男」のツイートがリツイートされていた。1リツイート。「気持ち悪いですね」というリプライが来ていた。自分の勝ちが、確実なものへとまた一歩近づいたような気がした。「ほんと、気持ち悪いですよね」と返信する。

道は上り坂だったが、自分の心持ちは軽くなっていた。先ほどまでの苛立ちはどこへやら、意気揚々と歩いている。そのうち、スマートフォンの通知がどんどん溜まっていった。

2リツイート5いいね、ドラッグストアの横を通る、3リツイート9いいね、ラーメン屋の横を通る、7リツイート17いいね、上り坂がゆるやかになる、20リツイート22いいね、80リツイート50いいね、264リツイート92いいね、上り坂が再び急になってくる、593リツイート121いいね。

 

“連続喉打ちホームレス男。惨めにみのむしのような動きをして、写真を撮られてしまう。自分の人生を恨んでいるんだね、かわいそう”

 

道端に、黒い車が停めてあった。

スマートフォンの画面を一心に眺めながら、大股で歩く、人間の姿が車体に映った。ふと立ち止まる。肩紐が落ちそうになっていることに気づき、肩まで紐をずり上げる。

Twitterの通知欄は、いつのまにか、「お前が一番きもい」「ホームレスなら晒していいと思っているのですか」「こんなのをアップするあなたの精神構造が一番かわいそう」というようなリプライで溢れかえっていた。

自分は手に提げていたレジ袋から、アメリカンドッグを取り出した。ケチャップとマスタードをかけて、味わうためではなく胃を満たすために食べた。チョコホイップパンの袋を開け、左手でパンを持ちながら右手でTwitterのリプライをスクロールする。どうでもいい言葉を、無感情に流し見ていく。

「君は自由に決断を下せるんだよ」

坂道の上から、聞き慣れた声が聞こえた。急な坂道の上から、そいつはゆっくり歩いてこちらにやって来る。自分と同じ格好、パープルのワンピース、自分と同じ顔、脂汗が額に浮かぶのがわかった。

「そのツイートを消すことだってできるし、消さないでそのまま拡散することもできる。アカウントを消したっていいし、君の隣にある黒い車を蹴り飛ばしてもいい。家に帰ったっていいし、この道の上で裸になったっていい」

「パープル」

自分は、小さくそう口にした。小さくげっぷが出て、チョコホイップパンの最後の一かけらを口に放り込む。

「この服? パープルだと思う?」

太陽は、だんだんと翳ってきていた。そいつが着ているワンピースの色は、太陽に照らされていないせいか、パープルなのかよくわからなかった。でも、自分が今日選んだ服は、パープルっぽかったはずだ。

「パープルだと思う」

「君がそう思うなら、君にとってこの服はパープルなんだろうね」

「ネイビー? それとも青? 正解はどうなの」

自分が尋ねると、そいつは心底おかしそうに笑った。

「さっきパープルって言ったじゃん。もう一度聞くよ。この服は何色に見える?」

自分の目は、そいつの姿を上から下までなぞった。自分と同じ顔、自分と同じ服。しかし、服の色が何色なのかはより曖昧になっていた。

「わからない。家を出たときは、パープルとネイビーと青が混ざったようなワンピースに見えた。そのどれでもないような」

「ねえねえ」

そいつは、あきれたように、息を吐くみたいにして言った。

「今の話をしているんだよ。い、ま。家を出たときじゃなくって、今、この服が何色に見えるかって言ってんの」

自分は、完全に途方に暮れてしまった。あのときの時計みたいに、自分にはそのワンピースが何色か、見当をつけることすらできなくなった。この目は、見えているのに何も見えない。

スマートフォンは振動を続けていた。通知音のふざけたような音――ぷりん、と聞こえた――が、坂道で向き合う自分たちに、BGMのように降ってきた。ぷりんぷりんぷりん

Twitterの拡散はとどまることを知らなかった。3089リツイート、322いいね、3175リツイート、324いいね。ツイートへのリプライが、言葉の海が、雪崩が、どこかの誰かに押し寄せていた。

「これ許可とったんですか。とっていないなら法律違反です、通報しますよ」「きも」「喉打ちってなんだよ笑」「ツイート主の顔はもっとキモいんだろうなあ」

苛立ちや反発よりも、どこの誰に言っているのだろう、という気持ちと、恐怖と、嫌悪感と、軽蔑が混ざったような感情が湧いてきた。屠殺場で殺される牛の動画を眺めるような気分だった。

「どうするの?」

ぷりんぷりんぷりん

自分は急いでツイートを削除した。それを誰かに見咎められているような気がして、あたりを見回した。そいつが、坂の上に立っているほか、誰もいなかった。

振り返ると、自分は随分と高い場所に立っていて、町が一望できた。町の向こうには、山が見える。稜線がはっきりと、力強い線を描いている。曇り空だったが、綺麗な写真が撮れるかもしれない。町を見下ろして、スマートフォンを構えた。カシャァカシャァ

カメラロールをスクロールして、一番映りのよさそうな一枚を選ぶ。アプリで加工して、色を鮮明にする。その写真が何色なのかもよくわからないが、色を鮮明にする。急いで、画面に入力をする。

 

“町の景色”

 

それだけ言葉を添えて、写真をツイートする。途端、反応が返ってくる。298いいね、801いいね、4862いいね。

「綺麗な写真ですね」「やばいねこれ」「いい写真ですね、これどこですか」「いいね」「いいね」「いいね」ぷりんぷりんぷりん

「そのツイートした写真、君は綺麗だと思う?」

自分は苛々した。そいつは、いつも質問ばかりする。質問されることが、自分は嫌だった。ただただ苛々した。

「質問ばっかりしてないで、まずはあんたがどう思うか言ったら」

「まだ気づかないの? 君は――――なんだけど」

「は?」

そいつの言っていることが、途中うまく聞き取れなかった。

ぷりんぷりんぷりん

BGMにしては、その音は耳障りだった。自分は、スマートフォン機内モードにした。急に、静かになった。風が耳もとで、ぼうぼういうのが聞こえた。

「後ろを振り返って、その写真のもとになった景色を見てみたら?」

自分は言われた通り、後ろを振り返った。そいつの顔を、見ていたくなかった。

坂の上から見える景色は、くすんでいた。ぱっとしない山の緑、灰色がかった家々、つまらなさそうな顔をして並ぶ灰色のビルたち。うんざりだった。自分は、世界にうんざりしていた。楽しいことなんて全て虚構だ、こんなぱっとしない景色に何千いいねもくるんだから。

苛々する。なんで、と思った。何に対してかはわからないけれど、なんで。なんでなんでなんで。

「あああああああ」

苛々が絶頂に達して、手に持っていたポテトチップスの袋を破って、道にぶちまけた。黒い車の上にもぶちまけた。レジ袋を力いっぱい投げると、ゆっくりと地面に落ち、風に運ばれてゆっくり坂を下りていった。自分は走り回り、そこら中に落ちているポテトチップスを踏みまくった。踏んで踏んで、踏みまくる。思ったより大した音は鳴らなかった。しょぼい音で、ぱり、と鳴るだけだった。

道路に落ちているポテトチップスをあらかた踏み終えると、ポテトチップスを踏んだだけの道路だった。自分が、ポテトチップスを道に撒いて、踏んだだけ。粉々になったくずが、道に散乱していて、見苦しかった。自分は、その場にしゃがみこんだ。

「くそみたい」

かすれた声が出た。もはや、叫ぶだけの力は残っていなかった。

「何が」

そいつが、坂の上から問いかけてきた。自分は、振り返ることもせず、くすんだ町を見下ろしながら答えた。

「人生が。自分の人生が」

そう言って、自分が先ほどしたツイートを思い出す。

 

自分の人生を恨んでいるんだね、かわいそう”

 

負けていた、と思った。そう思った瞬間、胃液がせり上がってきて、盛大にその場で吐いた。先ほど胃に入れたファミチキやらアメリカンドッグがいっしょくたになって、黒いアスファルトを汚していた。胃に入っていたものが全部出て、からっぽになるまで吐いた。周囲に、そいつ以外誰かいるかどうかなんて、もうどうでもよかった。胃の中のものが全部なくなっても、嗚咽が続いた。背中を誰かにさすられた。円を描くように、誰かの手が自分の背中に当てられていた。そいつだった。

「何。同情?」

そいつは、黙って自分の背中をさすり続けた。惨めだった。ほかの誰よりも、あの公園のホームレスよりも、にきびだらけのコンビニ店員よりも、自分が惨めだった。ベンチの下で生活する彼より、叱られ続ける店員よりも、道で半狂乱になってポテトチップスを撒いて踏みつけ、ゲロを吐く人間の方が圧倒的に惨めだった。客観的に見ても、あきらかに惨めだった。

「ねえ、ここからの景色、どう見える」

そいつが、不意に背中をさする手を止めて自分に聞いた。

「きったない町だなって思う。色もくすんでてはっきりしないし、つまんなそう」

そいつは笑った。これまでで一番愉快そうな声を出して。

「じゃあ、自分が着ている服は、どんな色?」

自分の体を見た。服はパープルというより深い青に見えた。吐しゃ物がかかって、より濃い色に見えているだけかもしれなかったが、そう見えた。

「パープルってより、青のワンピースって感じ。深い青色。ゲロで汚れてそう見えるだけかもだけど」

自分は、思ったままを口にした。自分が思ったままを。

「あはは、そうかもね。パープルってより、青って感じ。同じ感想」

「うん」

そいつは、笑って自分の背中をばんばんと叩いた。不快な感じはしなかった。

「君が見える世界が、君の正解なの」

「くそみたいな世界だね」

そいつは、尚も愉快そうだった。あはは、と笑いながら肩を揺らしてきた。「君がそう思うんだよ、ほかの誰でもない、君が」

ほかの誰でもない、自分。くそみたいな自分。

わたしが?」

「そう」

わたしは考えた。ここから見える景色はくすんでいる。あのホームレスは惨めだった。コンビニ店員も惨めだった。でも、と思う。――でも。

「あのホームレスも、コンビニ店員の男の子も、おばさんも、負けてたのかな」

「さあ」

そいつは、どうでもよさそうに言った。

「自分が見たいようにしか、世界は見えないんだよ。勝ちか負けかも、幸か不幸かも、全部自分が決めるの」

「ゲロまみれのこの状況が、幸福だとは思えないけどね」

そいつは、笑わなかった。

「ほかの誰でもない、何者でもない君が決めるんだ。ほかの誰にも決められない」

もはや、勝っているか負けているかなんてどうでもよかった。でも、そいつの言うことが真実だということはわかった。わたしにとって、真実だった。

「もう一度言うからよく聞いていて」

そいつは、ひとつ咳払いをした。いや、わたしが咳払いをした。

「君は自由に決断を下す、そしてその全ての決断に責任がつきまとうんだ。いいかい、全ての決断に、だよ」

わたしは、深く、うなずいた。坂の上にへたりこんだまま、大きく息を吸った。口の中がすっぱかった。水で口をすすぎたかった。服を脱いで、お風呂に入りたかった。

惨めなわたしの、くそみたいな人生。でももう、それをほかの誰かのせいにしたりはしない。わたしは決めた。わたしの責任で、決断をした

ゆっくりと立ち上がると、陽が徐々にかたむいていた。まだ夕暮れではない。しばらくここでぼうっとしていれば、みかん色の夕暮れが見えるだろうか。

わたしは坂を駆け下りる。全力疾走で駆け下りる。しばらく坂を降りて、息をきらしたまま、後ろを振り返る。そいつはいなかった。粉々になったポテトチップスと、黒い車と、わたしの吐いたゲロ。太陽に照らされて、鮮明なそれら。馬鹿みたいだけど、その景色は悪くないものに見えた。Twitterにアップした町の景色なんかより、わたしには、ずっと美しい景色だった。ずっとずっと。