2021年7月31日(土)の日記

今日から八月、と思っていたのにまだ七月で、別に八月を心待ちにしていたわけでもないのになんだか拍子抜けしてしまう。

蝉がじゃわじゃわと鳴いていて、それだけで部屋の温度が上がる気がする。ベランダに出て、獅子唐とバジル、唐辛子の鉢に水をやる。獅子唐がひとつ、大きな実をつけていたので収穫する。家で採れたものは、市販のものとは鮮度がぜんぜん違うから美味しい。それに、家で採ったど! という気持ちになれて嬉しい。

朝ご飯には、実家から送られてきた桃を食べる。ちょっと前に、スーパーで桃の価格を見てびっくりした。桃って、果物って贅沢品だよね。桃は切る前に、包丁の背を全体にくまなく押し付けると、ぺろんと綺麗に皮が向けて気持ちいい。でもちょっと実がぐじゅっとなってしまうから、本当は切った後に皮を剝くのが正解なのかもしれない。

桃だけでは足りないので、以前買ったコーンフロスティ(砂糖のたっぷり使われているシリアル)を食べる。牛乳はないから、豆乳をかけて食べる。袋の裏に、「ビタミンたっぷり!」みたいに書いてあるが、比較対象がトーストなのがなんともいえない。トーストにビタミンなんてほぼないんじゃ。

食べ終えると耐え切れず冷房の電源をつける。シャワーを浴びて部屋に戻ると、部屋の冷気が服と肌のあいだに入り込み気持ちがいい。涼しい部屋に夏を感じ、温かい部屋に冬を感じるのは現代人だからだろうか。溜まっていた洗濯物をなくすため、洗濯機を回す。空の様子を見に、再びベランダに出ると、気持ちいいくらいの晴天だった。梅雨は部屋干しで見事に服を臭くしたから、これだけ晴れているのは純粋に喜ばしい。

 

昼前から、久しぶりに西加奈子の『きりこについて』を読み返す。基本的に西加奈子作品はずーっと通底するメッセージが手を替え品を替え描かれているのだが、『きりこについて』は人間の美醜(と猫)に焦点を絞った作品だ。もっといえば、「ぶす」についての話。2009年にこの作品が出てるのって、すごいな。フェミニズム界隈(かいわいって言葉あんま好きじゃないけど)で話題になったりしたのかな。まあどっちでもいいが。

途中で洗濯が終わった音がしたので、大森靖子のアルバム “Kintsugi” を聞きながら洗濯物を干してゆく。改めて、本当にいいアルバムだなと感動してしまう。ひとりきりの部屋の中で、アルバムのラスト曲 “KEKKON –Kintsugi-” を聞いてちょっと泣く。いや嘘。結構ぼろぼろと泣く。最近はZOCのアルバム “PvP” の方ばかり聴いていたけど、やっぱり大森靖子のソロ曲も最高だよなあ、と思う。9月から『自由字架ツアー 2021』というライブツアーをやるらしいので絶対行きたい。最近、「めちゃくちゃやばくて圧倒的なものを見て圧倒されたい」という欲求が日に日に高まっているので、そして大森靖子のライブは絶対にやばいので(100%の確率で心が打ち震えるので)絶対に絶対にこの目で見て耳で聴いて肌で感じたい。人間が互いの違いに反発し合いながらも向き合って向き合って許せないっていいながら受け入れきれないって思いながらもどこか繋がって一緒の世界に生きてるのって最高に尊い。旧劇場版の映画までしか見てないけど、ヱヴァの世界でいうなら靖子ちゃんは完全アスカ。気持ち悪いっていって根本のレベルで肯定してくれる感じとか。

お昼は出汁に浸かっていた夏野菜と白石温麺を食べる。その後また『きりこについて』を読むけど、読んでいる途中で眠くなり、リビングのソファで2時間ほど眠ってしまう。

 

起きたあと、夜ご飯を挟んで本を読み終える。すごくいい。『こうふく みどりの』や『窓の魚』も読み返したくなった。やっぱり、個の肯定がぼくは好きなんだな。ぼくが好きなもの、作品、人、すべて個の肯定をしているのばかりだなと思う。

世の中に不足しているのも、個の肯定だと思う。女だからとか、男だからとか、ゲイだからとか、イケメンだからとか、会社員だからとか、HSPだからとか、統合失調症だからとか、ホームレスだからとか、低学歴だからとか、金持ちだからとか、そういうんじゃなくて(というかそういうの全部込み込みで)、自分が自分だから、あなたがあなただから、なんだよね。ゲイだからそういうの傷つく、んじゃなくて、ぼくはそういうの傷つく、だし。その人の属性ひとつでその人が表せるはずなくて、見た目も中身もすべてひっくるめたその人、の一瞬一瞬が重なりあった歴史、の最先端にいるのが今のその人なんだから、当たり前だけどそんな雑な属性のくくりで個を肯定できるわけがない。

「差別を助長する」のがダメなんじゃなくて「差別」がダメなんだし、ハラスメントがダメって「ハラスメント」に至った経緯とかそのときの詳細な状況とかのディティール重要だし、”#MeToo” っていうけど本当にMeTooできる気持ちなんてないし、「あなたは誰かを傷つけていますよね」って傷ついた人となんの関係もない人たちが盛り上がっていくのって傷ついた側も傷つけた側もさらに深く傷つくだけなのでは? ってなんか全部が、わかりやすい方にわかりやすい方に転がっていく雰囲気があるの不健全だ。わかりやすーい話は、簡単に肯定ができるような気になるけど、そんな雑な議論ではなにも肯定できやしない。いや、こう書くと、「差別助長してOK!」「ハラスメントもディティール次第でOK!」「#MeToo反対!」「誰かが傷ついてても関係ないやつは黙っとれ!」みたいにぼくが思っている、ととられるだろうか。そうは思ってないけど。そういうYes / No の白黒はっきりした世界にぼくたちは生きていないでしょう。いや、はっきりすることはできるのかもしれないけど、はっきりしているところまでがその人の持ち合わせている解像度なんだろう。神は細部に宿る、というけれど、ディティールがなさ過ぎる粗いドット絵みたいな解像度で世界を捉えるのは、ぼくは嫌なんだ。自分が塗りつぶしていた粗い画素の部分に気づいてフォーカスして、もっともっともっと画質よくしてゆけば絶対世界美しいと思うんだよね。自分の尺度では推察できない相手の感情や心の機微があることを理解して大前提に置いて、その上で相手の心を想像して話を進めるのが大事なんだと思う。そしてそのためには画質よくないと捉え切れないなにかがあるんだよ。集団になるとお手軽に気持ちよくなれる。けど、そんな解像度で生きるのは、自分の孤独への侮辱行為だよ。

 

格好いい大人を何人も知っているから、希望を持つことができるんだ。完璧ではない人間が、「許す」という選択肢を持っていること自体が救いだ。そして勿論、「許さない」という選択肢を持っていることも。

夜、三年か四年前に書き始めて、途中で止めていた話を結構書き進めた。読みたい話がたくさんある。書きたい話も、たくさんあるはずだ。ぼくは、どんな風にどんな部分の解像度を上げて、美しいものをつくれるだろう。

「めちゃくちゃやばくて圧倒的なものを見て圧倒されたい」のは、なにも世界からだけじゃない。自分の中から出てきたものにだって、ぼくは圧倒されたいのだ。

 

 

 

読んだり書いたりしていたら、いつの間にか朝になっていた。

明け方のこの時間がぼくはとても好き。夏の明け方、純粋な欲望。

ベランダに出ると、夏の明け方の匂いがした。隣の公園に行って、ラジオ体操をして毎日スタンプを貰っていた子どものころを思い出す。

もう八月だ。今日も、獅子唐たちに水をやろう。