2022年5月15日(日)の日記

よく知りもしない舌がわたしの体を這うとき、なめくじが進む道行きを想像する。いくつかの段差を乗り越える健気な足跡、ちょうど窓の外は霧吹きから噴霧されたような細やかな雨が降っており湿度が高く、その舌には生きやすい環境なのだろうと思った。濡れた通り道は触れるとセロハンテープの粘着面でない側のような、ぺたぺたした感触があり、わたしはどういうわけか、子どものころ裸足で学校の廊下を歩いたときを思いだした。

部屋はものがすくなく、たいそう大きな窓がひとつあるわたし好みの空間だった。窓はカーテンが開け放たれており、陰鬱で退屈な灰色の空がよく見えた。上半身を起こすと町の様子が眼下に広がる。八階から見る景色はどれもミニチュアじみており、嘘っぽく映った。窓ガラスはよく磨かれており、そういう部分もわたし好みだった。

「午後から晴れるみたいだよ」

ひと通りのことを終えたあと、男は言った。空模様を見て言ったかと思ったが、男は携帯を見ながら言ったようだった。なんだか興醒めだった。携帯を見ながら話す男は嫌いだった。

「そろそろ帰ります」

そう告げると男は残念そうな顔をした。もう帰るの、まだすこしゆっくりしていきなよ。そんなようなことを言ったが、無視して靴を履いた。特段、強く引き留められるようなこともなく、男はベッドに寝た格好のままだった。

知らないマンションの一室をでて共有通路の端にあるエレベーターに向かう。下ボタンを押してから、やっぱり階段で下りようと思い直し、階段に向かう。地上へ向かうわたしと、おそらく今ごろ八階へと昇っているエレベーター。すれ違うタイミングはいつだろう、それをわたしは知らない。そんな如何でも良いことを思いながら階段を下りる。なめくじが通過する道行き。わたしの後に濡れた道ができていたなら楽しいのに。そんな、やはり如何でも良いことを思いながら足を動かす。階段へは雨がときおり斜めに降り落ちて、ひいやりとした空気が感じられた。そうして、うす暗かった。

 

電車に乗っているあいだ、椎名林檎の『月に負け犬』をヘッドフォンで大音量にして聞く。音漏れしているだろうが、電車に乗っている連中はどいつもこいつも陰気な顔をしており、気に食わなかったから音漏れ上等だ。携帯の中の世界ではなく、現実のちゃちな音漏れに苛立ちやがれ。

『月に負け犬』は優しい曲だ。「人間はいつ死ぬのだかわからない。だからいまこの瞬間に、全力であなたの命は存在していて良いのだと伝えるよ」ということを歌っている。

電車の中で感動してしまったので、下車した後、新宿駅の西口で待ち合わせた彼氏に、

椎名林檎の『月に負け犬』って優しい曲だよね」

と言ったら、

「その曲知らない」

とこたえられて、苛立った。腹いせに先ほど会っていた男に、まったく同じ旨のLINEを送ったところ、

『いま調べてspotifyで聞いてみたけど、良い曲だね』

と返ってきた。良い奴かもしれない、と思う。

すこしだけ歩いて、目当てのカフェで彼氏とフルーツサンドを食べる。

「さっぱりしてて美味しいね」

と言うと、彼氏は携帯を見ながら、うまいね、とこたえる。携帯ばっか見るのやめなよ、と言うのも面倒で、なにも言わずにフルーツサンドを呑みくだす。そろそろ潮時かもしれない。もともとそんなに好きじゃなかったし、顔が初恋の人に似ていると思ったから付き合ったけど、むかつく言動をされる度、「初恋の人を汚すなよ」というよくわからない義憤に駆られるので早く別れたい。

「次いつ会う?」

先ほどの男にLINEを送り、目の前のフルーツサンドに戻る。美味しいことには美味しいが、3つほど食べたところでもう飽きた。恋愛と同じだ。楽しいのは最初だけ。後は惰性。だったらわたしは楽しいだけの最初を繰り返していたい。「人生を楽しく過ごしたい」と考えるのは至極まっとうな思考回路のはずだ。

キャンプ用品を見たいと彼氏が言うので、興味もないが付き合うことにした。フルーツサンドの店を出ると雨はあがっていたが、曇り空が世界に蓋をしているようだった。色鮮やかなフルーツサンドの後に目に入るからか、空も街も人も、ひどく味気ないように見えた。

キャンプ用品の店には30分ほど滞在したが、結局彼氏はなにも買わなかった。なんで付き合わされたんだよ、と思わなくもなかったが、そう考えるのはおそらくもう彼氏のことを好きではないからで、やっぱりもう潮時だと思った。近いうちに、なにか別れる理由を見つけなければならない。

新宿駅で彼氏と別れ、自分の家へと帰る。まだ別れていないのに、別れることを決意した後いつもそうなるように、足取りが軽く、すでに自由な感じがした。男から、「あした?笑」とLINEが返ってきている。悪い気はしない。

 

 

 

いつも感情の方が早くて、理屈は後づけでしかない。

わたしの生きがいは、人生の甘くて美味しい部分だけをつまんで食べること。フルーツサンドは3つしか要らない。ピザの耳は食べない。ビールは最初の一口だけでいい。あなたと会うのはこれでもう最後。そっちの方が良い思い出になるじゃん。

悪い気しかしない。

 

 

 

家に帰って、電気も点けないまま窓を開けると、サッシの上をなめくじが這っているのに気づいた。通過した道が粘っこく濡れており、わたしはその道に舌の先を付け、なめくじを追いかけるように舌を這わせる。ゴムを食べたときのように独特な苦い味が広がり、わたしは、やっぱり今朝会った男とはもう会わないでおくことにする。だって、大して好きでもないから。大して好きでもないのは、大して知らないから。大して知りもしない男の舌は、やっぱり気持ちが悪いと思った。男の舌の生々しい赤さが、まぶたの裏によみがえる。

わたしはそのままなめくじに追いついて、口の中で転がし、吞み込んだ。喉を通り、みぞおち辺りにやわらかなものが落ちていく感覚がある。わたしの内部を、なめくじは這っているのだろう。濡れた足跡も、体の中はどこも湿っているから、残らないかもしれない。しょっぱいものを食べたらしぼんで死んでしまうだろうから、わたしはこれからも甘いものしか食べない。ずっとずっと、甘いものしか食べない。わたしの大切ななめくじを守るために。わたしの愛おしいなめくじを、生かし続けるために。