2022年9月19日(月)の日記

その川には水位がわかる目盛りがついている。

両岸は護岸ブロックで覆われていて、そこに垂れ下がるような形で、ビニール状の目盛りが張られている。10cmごとの目盛りで、断続的に降る雨の合間を見計らって見に行くと、2m30cmのところまで水位が上昇していた。台風が日本海側から、列島を横断するように近づいてきているという。

川にかかる橋に立って、どぶのように濁った川の様子を見つめながら、ぼんやりとする。家からほど近い場所なので、雨が降り始めたらすぐに帰れる。背後から前方へ、川の水が流れる。いつもより、何倍も流れが速い。

5分か10分か、時間の感覚がなくなり始めたころに、川面になにかが見えた気がした。人の手? そんなはずはない、と思いながらも目が離せなくなる。いま、指の先のようなものが見えた気がする。ほら、指の先が、パーの形に開かれている、第二関節あたりまで2、3本、一瞬だけ――。そう思っているうちに、あっという間にその影は向こうの方へ見えなくなる。ごうごうと川の流れる音。急にまた雨が降り始める。霧雨とただの雨の、ちょうど間くらいの雨。頭皮に良いと謳う高額なシャワーヘッドから出てくるような大きさの水の粒。傘を持たずに家を出てきていたので、濡れてしまう。濡れてしまうが、その場から動けなかった。あれがもし本当に人だったとして、いまから走っても間に合わない。間に合ったとて、どうすればいいのかもわからない。通報をするべきだろうか、でも見間違いだったら? ――考えを巡らせているうちに、あたまの先からどんどん濡れてゆく。流されていったなにかも、どんどん離れてゆく。結局、履いていたスニーカーの靴底に、ひたひたと水が溜まり始めたころ家路に就いた。帰りしなに見ると水位は、2m40cmになっていた。

バスタオルで髪を拭きながら、先ほど目にしたものの話を伸二にすると、「そんなわけないじゃん」と一蹴された。ソファで携帯をいじりながら、「木の枝でも見間違えたんでしょ」「いや枝とかじゃなくて、もっと明るい色の、それこそほんと肌色みたいな感じだったの」「もし本当に人なんだとしたら、水面に出るのは指じゃなくてあたまなんじゃないの」「でも、川って水面から下の流れが激しいっていうから、もし溺れてたとしたらあたまは水面に出ないのかも」「もしそうだとしても、もう手遅れだから考えるのやめな」「手遅れって……」

落ち着かない気持ちのまま濡れた服をすべて脱ぎ、浴室に入る。高い方の留め具にかかったシャワーヘッドに、手をかける。伸二は身長が高いので、いつもシャワーヘッドは低い位置ではなく、高い位置に留められている。手を伸ばしながら、2m40cmって、どれくらいの高さかな、と思う。天井くらいだろうか、いや、もっと高いかも。シャンプーをしながら、「手遅れ」って言い方はないよな、と思う。でもそれは、私の気持ちの問題でしかなく、流れていった人には関係のない話だった。私が苛立っているのは、私のために苛立っているのであり、流れていった人のために苛立っているのではなかった。でも、苛々する。人の命を軽んじているような言い方。

浴室から出ると、伸二はまだソファで携帯をいじっていた。Instagramのストーリーを流し見しているのだろう、飛び飛びに無関係な音声が、次々と流れる。

「ねえ、さっきの話だけど」

言った途端、彼が嫌そうな顔をする。ちらりとこちらを見て、また携帯の画面に目を戻す。

「手遅れって言い方は、ひどいんじゃないの」

「だって現に手遅れでしょ」

「そうかもしれないけどさ、あの話したとき、伸ちゃん全然助けようとか、そういう感じにならなかったよね」

ソファのへりに載せた足が、小刻みに揺れる。貧乏ゆすり。伸二が苛々しはじめたのがわかる。それを見て、私も苛々が募る。

「助けようとしないくせに、手遅れとか言うのって違くない? 助けようとか思わないならせめて、私を慰めようとか、ないの」

伸二が携帯を床に置き、この話する意味ある? と言う。

「助けようとするとかしないとか、関係なくもう助かんないだろ。まずそれが本当に人間だったなんて俺思ってねえし。てか、優実が一番そいつ助けようと思ってねえじゃん。家の中にいた俺にはどっちにしろ助けらんねえし、助けようと思うなら優実がどうにかするしかなかっただろ。慰めるとか言ってんのも意味わかんねえし、結局自分の機嫌を俺に取って欲しいって話?」

「違くて、」

「もう一回言うよ? この話、する意味ある?」

私が言葉に詰まると、床に置いた携帯を手に取って、伸二は再び携帯を見始める。

嫌になって、自分の部屋に入る。勢いよく閉めたドアが、破裂音のような、ヒステリックな音を立てる。

じゃあさ。電気も点けないままベッドに体を投げ出して、心の内だけで、言う。じゃあさ、伸二はいまウクライナで起こってる戦争については、どう思うわけ。傷つかなくてもいい人がいて、でもどんどん負傷したり、死んでいってて、そのことも、なんとかしようとしても助けられないから、考える意味ないって思ってるわけ? 助けられるとか、助けられないとか、関係なく助けようとすることが大事なんじゃないの? 考えたって戦争は止まらないけど、でも考えないのは違うんじゃないの? 手遅れって言ってたら、なにもできないじゃん。それに――。

考えを巡らせるうちに、自分でも見当違いなことを考えているような気もしてくる。戦争とこれとは、また話が違う。でも、伸二のそういうところが嫌いだった。なんでも簡単に断ずるような言い方。

結局自分の機嫌を俺にとって欲しいって話?

先ほど、伸二に言われた言葉が胸に引っかかる。結局私は、自分のことを慰めたり、やさしくされたいだけなんだろうか。だとしたら、そのために人の命を引き合いに出すなんて、最低過ぎる。

がばりと起き上がる。また、自分の部屋のドアを開く。今度はヒステリックにではなく、やさしく。

玄関で靴を履く。先ほどのとは別の、真新しいスニーカー。なるべく走りやすいやつ。

外に出ると、雨脚は弱まっていたが、まだ降り続いている。さっきよりも風が強くなっている。

傘も持たないまま川沿いに出て、川下の方を向く。しゃがんで、靴紐をきつく結び直す。雨があたまを濡らす。首筋を濡らす。紐を結び直してから、思いっきり地面を蹴った。右足、左足、なるべく遠くへ足を着地させる。クラウチングスタートのような形になった、と思う。走る。走る。横目に映る、どぶ色の川。濁流の音、風のぼうぼういう音、足元の濡れたアスファルトの黒。

そのまま柵沿いを、走り続ける。ぜえぜえいう喉の奥で、かすかに血の味がした。走りながら、ビニール素材の目盛りの場所までくる。確認すると、それは2m40cmのままだった。なんのために走っているのかもわからないまま、私は川の先を見つめて走り続ける。激しく上下する視界の中で、人の指が見えないかを探している。私はそれが、見えて欲しいと願っている。心のどこかで願っている。それが正しいことなのかはわからない。正しいかどうかもわからないまま、願っている。

あったかもしれない指の先は川の濁流に呑まれて、私の目には、映らない。