市街地ギャオ『アニマル・フーガ』感想
市街地ギャオ『アニマル・フーガ』感想 / 家畜と野生の間を生きる動物たちの逃走
※この感想は、市街地ギャオ『アニマル・フーガ』を読了した人に読まれることを想定しています。この感想は作品の内容に深く触れています。この感想は2万字超えの異様な長さです。この感想は市街地ギャオ強火オタクによって書かれた、市街地ギャオの書く小説って素晴らしいよねということを大声で叫びたい人によるものです。でも何かを熱烈に好きな人から「これ良いよ!」って勧められるとちょっと引いてしまう心理はよくわかるし、寿司大好きな人が苦手な人に向かって「寿司食べない人生なんて損してる!」とか言うのって相手を鼻白ませるだけだとわかっているけど、寿司好きはそうまでして寿司の素晴らしさをあまねく共有したいし極端なことを言いたくなるのは寿司が彼にとって爆発的に美味しい証左でもある。市街地ギャオ読まない人生なんて損してる!
【私と『アニマル・フーガ』との距離】
市街地ギャオ『アニマル・フーガ』はまだ単行本化しておらず、講談社が発行している文芸誌『群像』の2025年12月号に一挙掲載されている中編小説である。群像12月号が発売したのは11月7日で、私が読了したのは2日後の11月9日だった。
この文章を書いている今日は12月9日で、読了からちょうど1ヶ月が経った。本当は、もっと早く感想を書きたかったし書くべきだった。なぜなら発売から1ヶ月が経つと翌月号を並べる都合で前月号はだいたいの本屋から姿を消す。私はこの1ヶ月のあいだにもっとたくさん『アニマル・フーガ』の感想が出てくると思っていたし文芸誌を毎号買う人なんてそうそういないから口コミによって12月号を買って『アニマル・フーガ』を読む人が増えれば良いと思った。感想を即出しすることこそが市街地ギャオ強火オタクの役割だろ!お前がやらなくて誰がやるんだ!!!そう思いながらもずるずる感想を書くのが遅くなってしまったのは、いくつか理由があるけどこの作品と自分との距離がかなり近い位置にあったからだった。
小説『アニマル・フーガ』の視点人物ふたりは、津野拓実(つのたくみ)と橋本裕人(はしもとひろと)というどちらも29歳の東京に住むゲイ男性で、マッチングアプリを使って不特定の人と性的に関係を持っている。津野は付き合って4年の唯人という彼氏がいて、オープンリレーションシップを結んでいる。オープンリレーションシップという言葉は、パートナー以外と恋愛関係や性的関係を持つことをパートナー同士が互いに同意している関係のことを指すが、運用する人間によって「パートナー以外」の指す範囲や許容する行為、事前・事後申告の範囲には幅があると認識している。この小説内の津野&唯人カップルにおいては、「パートナー以外の不特定の男と性的関係を結ぶことを互いに許容している状態」のことをオープンリレーションシップと呼んでいるようだった。唯人が “拓実、もしかしてやってきた?”(P136)と問いかけている描写から、彼らのあいだに事前・事後申告の取り決めはなく、けれど互いによそで性行為してきたことを隠す義務もないという比較的緩めの決めごととして描かれていた。
「オープンリレーションシップ」という、恐らくまだそこまで一般的ではない語に接する機会は「都市部に住むアラサーゲイ男性」が特に多いのではないかという気がする。都市部はゲイ人口が地方と比べ圧倒的に多いから、アプリを使えば出会いの糸は無数に広がっている(“おれらはセックスへのアクセシビリティが高い” P136)し、家父長制や異性愛規範といったシスヘテロ(=ノンケ)文化(到底オープンリレーションシップなどという関係は認められない)とは別の価値観が醸成されやすい。そんな都市部に住むゲイの中でも、アプリの発達に伴って不特定の人間と簡単に出会えることがデフォルトになった世代、パートナーとの関係が長期化し始める世代、そして人生の長期的展望を考え始める世代なのがアラサー/アラフォーの世代ではないだろうか。さらに言えば、アラフォーよりも、今後どう生きていくかのスタイルが公私ともに未確定なのはアラサー世代だろう。
私自身、「都市部に住むアラサーゲイ男性」の文化圏にいる人間なのだが、「オープンリレーションシップ」について知人と話をすることがたまにあるし実践している知人もいる。しかしこの言葉に対する反応は本当に人によってバラつきがあって、“よく聞くけど意味わかんないよねそれ”(P135)という否定的な声もあれば、「そんなことまで話し合える関係って理想的だよね」という肯定的な声も聞く。体感としては「下半身振り回してる人の都合良い言い訳」という否定的な声が多いような気がするが、これは恐らく「相手との話し合いを経ず相互に完璧に合意を取れているわけではないのに【暗黙の了解】などという双方向なのか一方的なのかよくわからない了解のもとに第三者と性的関係を結んでいる人が使う言い訳」というイメージがこの語に付随しているからではないかと推測している。合意の取れていないそれは「浮気」であって「オープンリレーションシップ」ではないと思うのだが、実際そういった言葉の使い方をしている人は多いと感じる。
たとえば5年以上とか、長期的に付き合っているゲイカップルが「家族みたいになっちゃって」と言ってセックスレスになって、彼氏以外の人間とアプリやハッテン場で出会ってセックスしているし多分同じことを彼氏もしているだろうと考えながら暮らすという状況は、実話かフィクションかは知らないけどとてもよく聞く。そのような「ゲイ的」(性関係の部分でモノガミーでない)生き方と、パートナーとセックスをし続け、もしレスになったらそれを解消しようと躍起になるか生活から完全にセックスを排除して生きるというモノガミー的生き方のどちらを生きるのか。それともそれらと別の第三の道を探るのか。だれかと性的もしくは恋愛的な関係を結ぶとき、東京で生きるアラサーゲイである自分は意識的にせよ無意識的にせよそのようなことを常に模索しながら関係を築いてきたと思う。
前置きが非常に長くなったけれど、『アニマル・フーガ』はそのような、特にゲイコミュニティに属する人間がパートナーシップを結ぶときに発生する微妙な揺れ、不安定さを克明に描いている作品である。それゆえ、自分と作品世界との距離を非常に近く感じた。というか、私は一読しただけで作品世界の内側に入り込んでしまった。さらに、後述するようにこの小説ではパートナーシップだけでなくそこに関連した仕事での身の振り方(キャリアの積み方やシスヘテロ的世界との折り合いのつけ方)などへの葛藤なども詳らかに描かれており、描かれる領域が私の普段考えている領域と非常に近く、作品世界と自分の現実世界が混濁してしまう感じがした。「作品に対する感想を書く」という行為は作品から一歩か二歩離れた距離からでないとできないと思っていたので、どこからが感想でどこからが作品なのかがよくわからない状態で書く文章というのは、感想文の体をとった自分語りなのではないかと思い書くのを躊躇してしまった。この1ヶ月のあいだ私はなるべく書くという行為から離れ「生活」をした。あまり触れてこなかったエンタメ系の物語や小説に触れ、自分自身の輪郭を確かめるような1ヶ月を過ごした。結果。特に私と『アニマル・フーガ』との距離が変化することはなく、作品世界と自分の現実世界が混濁するのは小説のリアリティの強度があまりに高いからだし自分語りを伴った他人の感想文が私は大大大好きなので自分がそれを書いても良いじゃないか!と開き直った。なんやねん、それならはよ書けや。
というわけで、これは純粋な作品の感想ではないかもしれませんが私の感想です。そして私自身が自分を解体するような気持ちで書き起こす、私なりの『アニマル・フーガ』解体作業です。
【性愛と情愛のフーガ】
この小説はずーーーっと同じことが、繰り返し、繰り返し語られる小説だと思う。それは性愛(セックス)と情愛(相手に対して感じる人間的な情、慈しみ)の二項対立、あるいはその切り離せなさについて、さらに拡大して性愛と情愛に付随して発生する社会規範(キャリアを含めた人生設計)について、である。
タイトルにもなっている「フーガ」とはイタリア語で「逃走」を意味する言葉で、音楽用語としては何度も同じ感じのメロディー(主題)が追いかけっこするように繰り返されるけれど、完全に同一の主題が繰り返されるのではなく、微妙にアレンジが入って主題が変奏されつつ繰り返される楽曲形式のことらしい。主題が何度も繰り返される音楽形式に「カノン」というのもあるが、こちらは完全に同一のメロディー(主題)が何度も繰り返されるもので、主題に変化が加わる「フーガ」とは区別される。
この小説ではまさに、津野と橋本が異なる角度から主題(性と情)を捉え、追いかけっこするようにふたりの視点が入れ替わりながら物語が進んでいく。主題は同じ素材でできていながらもアメーバのようにくにゃくにゃと形を変えて様々な問いとして読者の前に姿を現す。性愛と情愛の切り離しやすさについて、切り離しにくさについて、切り離しやすさ/にくさの原因となっている社会規範もしくはゲイ文化について、会社員として生きるときの社会規範とゲイ文化のバランスの取り方について、パートナーと生活する上での社会規範とゲイ文化のバランスの取り方について……。この小説は大きく捉えれば「性と情」という一本の太い柱についてずーーーっと語られていながらも、細かく見ていけば様々な問いが浮かんでくる構成となっている。まさに「フーガ」という言葉にぴったりの内容だ。また「逃走」というモチーフもこの小説を語る上では欠かせない。読む前も読んでいる最中も「フーガって何?」と思いながら読み進めたけど、読み終えてその意味を知ると、「これしかない」と納得させられる。毎度のことながら市街地ギャオのタイトル付けの上手さに脱帽してしまう。
【津野ニキの規範と逃走】
この小説は「津野ニキ」こと津野拓実が、取引先から悪意をひけらかすように詰められつつ、それを上手いこといなして商談を進める場面から始まる。津野の仕事の進め方は上司からだけでなく同僚からも、後輩からも評価されていてエリート街道をひた走っているように見える。一気に二階級昇進して管理職となる津野は、後輩の心情を慮って後輩に仕事を任せつつフォローアップのために土日を潰すような人だ。彼は自分が会社において求められる役割をきちんと把握し、そこに全力で乗ろうとしているように見える。上司から “津野くんはやっぱ安定感あるね”(P132)と評され、橋本からは “津野ニキは受賞コメントまでぱきっとしていた”(P140)と思われたり、“この人はきっと、今の彼氏と別れたとしても次の日にはなんてことのない顔で出社できるんだろう。いつもと同じ時間に起きて、ぱきっとしたスーツに身を包んで”(P155)と思われたりしている。彼は仕事を完璧にこなしているが、その完璧さの裏に不安を隠し持っている。会社の人々に自分がゲイであるとバレること、規範から外れていると見做されることを強く恐れているのだ。小説内で、津野の不安は何度も繰り返し描写される。
“「津野くんももう二十九だもんね」と上司まで乗っかってくる。そこに続く言葉がなかったことに安心した自分がばかみたいだった。もう二十九だもんね、もう結婚とか考える年だもんね、そのために家買ったんだもんね、とか。言葉にされなかっただけで言われたも同然なのに。”(P133)
“でももし、社会通念とかそういうのではなく、周囲の人たちがおれがゲイだという可能性を訝って意図的におれに橋本さんの噂を回してこなかったのだとしたら。言葉にならない不安が足元から重力を奪うようにじんわりと浸透していく。”(P150)
“あらゆる噂話がおれのもとに回ってくるのに橋本くんの性的指向の噂だけが回ってこなかったのはやっぱりそういうことなんじゃないかと慣れ親しんだ焦りがまた立ち昇ってくる。”(P170)
こうして見ていくと、彼の仕事の完璧さは、もちろん彼の主体的な意思による部分もあるだろうが「規範から外れたくない」という不安の反動もいくらかあるのではないか、と思えてくる。ここでいう「規範」というのは、【男は三十歳くらいで結婚してやがて子供を儲けて仕事をきちんとこなし出世して家族を養うのがあるべき姿】というような非常に古い価値観のことである。令和にもなって、このような価値観を明確に言葉にする人は少なくなっただろうが、……と書いていてふと思い出したのだが私は先日取引先の女性に「○○さんの年齢だと、そろそろ結婚とかも考えますよねえ?」と(善意で)言われたのだった。こうして明確に言葉にしてくる人も多いのだから、言葉に出さずとも【暗黙の了解】で「そういうものだよね?」と規範を押し付けてくる空気はまだまだ残っているのだろう。
津野はそのように古い価値観を強固に内面化しているが、一方で彼氏である唯人とはオープンリレーションシップという先鋭的な関係を採用している。彼は自ら望んで唯人とオープンリレーションシップになったわけではない。セックスがあるせいで恋人関係は歪んでいく、という認知を持った唯人に要請される形でその関係に合意した。
“いつかしなくなる、と、初めからしない、はまったく違う。未来永劫セックスの可能性が閉ざされた相手と、それでも自分は一緒にいたいのか。意地になって引かなかったことを何度も後悔した。”(P148)
“なんだよそれ、初めに聞いたときはおれだってそう思った。(中略)セックスしない恋人という存在が理解の枠外にあったのも確かだった。”(P148)
つまり津野も初めは、恋人として情愛を育む相手とは性愛を一度経由するのが当然と考えていたし、性愛と情愛を切り分けるということに懐疑的だったということだ。情愛と性愛をセットで考えるという一般的な価値観=規範は、しかしやがて下記のような言い訳とともに彼をオープンリレーションシップという規範の外へと連れ去っていく。
“セックスが関係を繋ぎ止めたり進展させたりするなんて(中略)植え付けられたイデオロギーなんじゃないのっておれも心のどっかで思ってたし、それ以外の部分でちゃんと繋がってられる恋人がいて、なおかつ合法的に色んな人とセックスできるとかむしろラッキーじゃん”(P148-149)
彼が規範の外に出るときの心情は、次のように語られる。
“なんでおれはこの人と付き合ってるんだろうと不可解になって、それが唯人への不信感の萌芽となるのに時間はかからなかった。/「どうせ付き合いが長くなったらセックスしなくなるだろうし、ちょっと早めにそこと向き合っただけって思うようにしてる」/(中略)そうした通過儀礼を越えた先に立ち現れてきた、呵責なく誰とでもやっていいのだという事実に再現のない自由を覚えたのは確かで、その生活が体に染み込んでいくうちに唯人への不信感はあっさりと消失した。調子が良すぎるけど、その割り切りで今の自分が満たされているのは紛れもない事実だ。”(P149)
この部分の心の流れはとてもリアルだ。非常に端的に語られてはいるものの、大好きな人から「恋人でいる限りセックスはできないからお互いほかでしよう」と提案されたときの拒絶感、納得のいかなさ、情愛と性愛を切り分けることへの抵抗感。そして切り離しても恋人との情愛は築いていけるのだと気づいたとき、情愛も、性愛も、どうとでもしていけるのだという果てしのない自由。男女カップルの場合は妊娠の可能性についても考える必要があるが、男同士という前提を置くと、“病気とか痴情のもつれとか、そういうリスクさえケアできてたら問題なくない?”(P149)と津野は語る。
情愛と性愛を切り分けた後の津野は、マッチングアプリで「ヤリモク」活動に勤しむ。コンドームの先端に溜まった精液を搾り出して舐めている相手を見て、“「うわあ」と引いたのと同時にまた会いたくなっ” たりもする(P134)。なぜまた会いたくなるかというと、そのような快楽主義の人間ならば、情愛をまったく介さずに性愛を交わすことができるからだ。しかしその快楽主義だと思った相手には、二度目に会ったときに情愛を仄めかされる。
“相手が好意を隠そうとしていないのは明らかだった。前に会ったときはそんな感じではなかったはずだ。もっと割り切った態度だったはず。いつどんなきっかけで心境の変化が生じたんだろうか。”(P133)
津野が心の中で性愛と情愛の切り分けを行なったのに対して、世間では性愛と情愛を紐づける強固な価値観がある。初めは互いに性愛だけを純粋に互いに求めていたと思っても、その色が徐々に情愛を帯びていくという流れは避けがたい。ヤリモクで訪れたはずの相手の家で事を終えた後、帰り際の玄関で “またキスを求められて、「ごめん、できない」とはっきり断ると家を出た瞬間にがちゃんと鍵を閉められ”、アプリではブロックをされる。情愛を求める相手は、津野のパーソナリティや内面を掴みたがるけれど津野は情愛を求めていないからそこを掴まれたくない。ヤリモク活動をしているときの津野は匿名的だ。マッチングアプリに数多存在している男と同様の “暗がりで斜め後ろから撮られたバストアップ”(P142)や “ジムで撮られたとおぼしき上半身裸の筋骨隆々とした写真”(P143)。そして “アプリ以上に自分も相手も匿名化する”(P161)ハッテン場においては何歳かと問われ、実際の年齢から3つサバ読んで “二十六です”(P159)と答える。性愛にフォーカスしたフィールドにおいて津野は津野自身ではなく、社会的な地位や役割から解き放たれた180センチ73キロの筋肉質な若い肉体となる。情愛と性愛を切り分けた津野は、唯人との情愛を守るためにはなるべくその切り分けた二者の距離をとるべきだというように、情愛を排して純粋に性的な世界を構築しようとしているように見える。性的資本と化した肉体を鍛え続けるのは、より強烈に、より深く性愛の世界に留まるためだ。
このようにして津野は仕事においては模範的と呼べるほど規範のど真ん中にいる「エリート津野ニキ」でありながら、プライベートでは男の恋人と同棲しながら彼氏公認でヤリモク活動を行うというある種常識外れな生活を送る「匿名ヤリモクマッチョ」でいることとなる。津野の生活は常にこの、規範のど真ん中と完全なる外側に同時にいるという二重性、ねじれを孕んでおり、規範の中にいなければというプレッシャーが高まるほどに規範から逃走して性的な世界へと没頭する。しかしその逃走したはずの性的世界では虚無感を覚え(“この空間に、おれは何を求めて来たんだっけ。性欲処理以外にないはずなのに、肉体の快楽とは別のものを満たしたいから人間は性行為を求めるんじゃないのか、とかそんなことを考える。” P161)、その性的世界での満たされなさからまた逃走するように彼は恋人である唯人を求めていく。津野にとっての唯人は、性行為で得られる表面的な承認や消費の感覚とは違う、深い承認や安心の感覚をもたらしてくれる存在だ。津野は切り離したはずの性愛と情愛を、完全に切り分けたからこそ、片方を満たすともう片方を渇望するという切り離せなさに繋がるジレンマを抱えることとなる。
【対照的なふたりの邂逅】
この小説のもうひとりの視点人物である橋本裕人は、あらゆる点で津野とは対照的な人物だ。“仕事のモチベーションはなくて、当然キャリアアップの見込みもなくて、これといった趣味もなくて、恋人もいな” い橋本(P142)は、津野とは真逆の規範意識を持っている。津野が職場で求められた役割を完璧に全うしようとする一方で、橋本は会社側の【暗黙の了解】を無視することに抵抗がない。“まだ全社員スーツ着用がほとんど義務みたいな雰囲気だったのに、橋本さんは入社した翌日からジャケパン” だし(P143)、津野が偏執的と言っていいほどに気にしている社内でのセクシュアリティの公表についても橋本は “チームの人らにはずっと前から言ってる。隠すの面倒になっちゃって。”(P150)と大した逡巡もなさそうに言って放つ。出社しなさ過ぎることによってやる気がないと評されている橋本は津野から見て規範から「弾かれている」と感じるし、橋本自身もそのことには自覚的だ。キャリア組とは違う自分たちを指して “オワコン=終わりのコンサルタント” だなどと自虐してみせたり、月残業を25時間以内に収めることだけを目標に “コンフォートゾーンを頑なに死守し続ける現状に満足している”(P140)と考えたりする。つまり弾かれた存在なりに、戦いの場から弾かれている現状がそれなりに快適であって、その状況を維持したいという消極的な希望を持っているということだ。そう、会社員としてキャリアアップし続けるということはリングの内側で常に戦い続けるようなものだ。キャリア組である津野も恐らくそのことは感じていて、物語の中盤、“「色々考えたけど、ここが自分の最終キャリアでいいかもなって。これ以上は望んでないから」”(P171)と津野が言う。橋本が逃走しているリングと、津野が逃走しようとしているリングは次元が異なるかもしれないが、戦いが発生する場という意味では一緒だ。リングとは、【男はキャリアアップしてより多く、よりたくさん稼ぐのがあるべき姿】という規範である。橋本から見れば津野は十分にリングの中にいるが、津野は社内のリングで戦うことはしながらも他社の人間も乗っているより大きなリングで戦うことは諦めている。他人から見たときにリングで戦っていることを演出しながらも、戦い続けたくはないという津野の、そこが妥協点なのだろう。
このように、対照的でありながら本質的な部分では同じ方向を向いている津野と橋本の関係性がこの小説の面白いところなのだが、彼らが対照的なのは仕事への向き合い方だけではない。性愛と情動の捉え方についても対照的だ。橋本はマッチングアプリで情動を排して性愛の対象としてだけ見られることに嫌悪感を抱いている。つまり性愛と情動を連動したものとして捉えている。津野は玄関先でやった後の相手からキスをせがまれても拒むが、橋本は拒まない。たとえ直後にブロックする相手であっても。
“玄関で「またね」と、まるでそれが当然の礼儀であるかのようにキスをして、ドアが完全に閉まる瞬間まで満面の笑みで手を振ってきた彼に「また」が本当にあるような気がしてくる。”(P140)
橋本は7年ぶりにインストールしたマッチングアプリで、ヤリモクだらけになっているアプリの世界に驚きを覚える。
“友達募集を謳ってるやつとはメッセージを重ねていく中で自然と性的な方向に会話が流れていったし、恋人募集を謳ってるやるには初手から「やりませんか?」を繰り出された。友達や恋人にするつもりはないけど性欲処理くらいならしてもいいか、ということなんだろうか。今のぼくの市場価値は。”(P141)
性愛だけで結ばれる関係よりも、情愛で結ばれる関係の方が上だと彼が考えていることがわかる。また、橋本は性愛と情愛を切り離さずにいるべきという規範を持っている人間でもある。そんな橋本にとって、性愛と情愛を切り離すことを正当化するような思考は理解の埒外にあり、嫌悪の対象である。
“げー彼氏持ちかよ死ねよ。これまで彼氏持ちを表明しているアカウントはすべてブロックしてきた。キモいから。コソコソやるやつも堂々とやるやつも等しくキモい。コソコソやるやつは単純に姑息だし、堂々とやるやつは相手にも浮気の責任の一端を押し付けようとしていて姑息だ。死ねよ。”(P142)
彼にとって恋人以外の第三者と性的関係を結ぶのは浮気にほかならないし、浮気を恋人が承認するなどという発想はあり得ない。なぜなら橋本にとって性愛とは情愛とセットだから。恋人関係とは情愛を相互に独占的に育む関係なのに、第三者と性愛(=情愛)を交わすことは契約違反だという認識。だから津野がオープンリレーションシップという関係を説明したときもそれが堂々とした浮気以外の何なのかと感じ拒絶反応を示している(“お互いセックスは外注してる” と語る津野に対して、“何それ。なんで付き合ってるんですか?” と問う橋本のシーンは象徴的だ)(P147)。
このように、対照的な規範を持っている同士である橋本と津野が、アプリでヤリモクを匂わせつつ出会う。橋本は「恋人がいながら第三者を性欲処理の道具のように使おうとする厚顔なやつがどんな人間なのか」ということを知るために、もっと言えば「6年半付き合った元彼である大樹がどのような原理で行動していた人間なのか」を知るために津野と会おうと考える。津野側が橋本と会おうとした理由は明確には示されておらず、“社内でなんの影響力も持たないこの人になら、別に自分がどう思われたって構わない”(P144)というかなり不遜な態度しか語られていない。これは推測なのだが、橋本が未知の思考をしている完全なる他者を理解したかったのと同様に、津野も自分が強力に内面化している規範に無頓着でその外側へと望んで軽々と弾き出されているような橋本という未知の思考の他者を理解したい、という希求があったのではないだろうか。理解したい、というより、自分の規範を壊してくれる人を欲していたのかもしれない。そしてそれを、橋本の社内での地位が低いという事実が後押しした。「セックスしない恋人」という頭では理解していても上手く捉えられない関係や、加速していくヤリモク熱とヤリモク熱のどこへも繋がらなさへの冷えた虚無感、二階級昇進してより仕事中心になるだろう生活の変化への不安。そういったあれこれが言葉にならない引っかかりとなって、津野を同僚である橋本とのゲイとしての邂逅へ向かわせたのではないか。アプリのアカウント交換だってそうだ。そろそろヤリモクも辞めどきかなとぼんやり考えるともなく考えていたにせよ、そのような提案をしたのはきっと津野自身が性愛との距離、情愛との距離、唯人との関係なんかを測り兼ねていたからではないだろうか。まあ単純に、ゲイっぽい職場の同僚がアプリにいたからヤリモクっぽく会いに行ったらおもろいし会ってみようかな、別に見た目どタイプではなくともやれる相手ではあるし、やらなくても話せたら面白そうだし、くらいの温度感だったかもしれないけど。
かくしてゲイとして出会い直したふたりの、初めましてのシーンは非常に興味深い。“「ぼくだってわかってて、会いに来たんですか」”(P144)と伏し目がちに問う橋本は、相手が純粋な性愛だけを求めて来たのかを問うている。NOであれば、あーでも会社の同僚だし情愛入っちゃうから流石になしですよね気まずー!この件はなかったことで!的に終われそうなものだが、津野はそれに対し、“「うん。わかってて、会いに来ました」”(P144)と返す。橋本のことを橋本として認識した上で来ていますよ、普段からあなたのことを知った上であなたを性愛の対象として見ていますよ、でもこちらは彼氏いるし情愛を育むってよりただのヤリモクですよ、というメッセージ。この時点では橋本と津野の関係のメーターが性愛側に振れるのか情愛側に振れるのか未知数だが、“「いや無理でしょやるとか」”(P144)と息を吐いて言う橋本のひと言で、この関係性が一気に性愛側から遠のき、津野の “「だよね」”(P144)の同意でそれが完全なものとなる。その後に橋本が津野を飲みに誘うことで、情愛側のメーター(友愛色が強い)が少しずつ振れていく運びとなる。
最近Xでバズっていた(2025/12/7の投稿で12/14時点2202リポスト1.7万いいね)、「ゲイの恋愛とは性愛なのか」ということに関するポストを思い出す。そのポストには『現代日本におけるゲイの親密性の探求』という大阪大学大学院の冨安皓行さんという方の論文のリンクがくっついていて、この論文はまさにゲイは関係を構築するときに、言葉や行動を通じて性愛的なバロメーターと情愛的なバロメーターを調整しているのだというような内容のものだった(論文の副題は “-性的/非性的な関係の二分法を超えて-” となっている)。橋本と津野が出会ったときのシーンは、まさにこのふたりがどのような方向で親密になっていくのか、の方向調節がなされる様が描写されている。互いの親密性は、方向の調節が都度なされることによって確保される(物語の後半、津野が橋本と恋人関係になる未来を想像するシーンが描写される。そこでも関係性の調整がなされ、彼らは友愛的な関係を継続する)。
この「出会い直し」を通じて、橋本は6年半の長期にわたって交際していた元彼、大樹のことを説明し想起させられることとなり、一方の津野は、初めて唯人との関係のことを他者へ事細かに説明し、言語化することとなる。面白いのは、ふたりがそれぞれ無意識下に抱えて顕在化していなかった問題が、ふたりが出会うことで意識に上りそこに向き合うようになり始めるということだ。津野と橋本は、互いに向き合うというよりは、一緒にいることでそれぞれが唯人や大樹というそれぞれの心を占める存在を見つめ直すことになる。この『アニマル・フーガ』という小説は津野と橋本の関係を描いているように見せつつも、その実はそれぞれが測りかねている他人や過去との距離を変化させていく過程を描いている。小説内において、彼らと外部世界のあいだで何か劇的なことは起こらない。描かれるのは主に彼らそれぞれの内面の動きである。小説の始まりと終わりとで、彼らが見ている世界はまったく違うものとなる。それこそ劇的な変化である。市街地ギャオという作家は、内面、思考、感情を描くのが(描き過ぎないのが)本当に上手な作家だ。
【自らを家畜化する人間たち】
橋本の家でふたりが会話をする中で、橋本の元彼である大樹が津野と最近性的関係を結んでいたことが判明する。同僚が元彼と最近やっている世界線、嫌すぎる。橋本の元へは定期的に大樹からのLINEが入り続ける。性愛をほとんど求めてこなかった大樹のLINEからは、別れても尚、都合よく情愛を受け取ろうとし続ける姿勢が感じ取れる。性愛というフィールドにおいて人が匿名化していくように、情愛というフィールドにおいてでさえも大樹は匿名化している。元彼である橋本へ週一の頻度でLINEを送りつつ、一度やっただけの津野がアプリで足跡をつけただけで「また会いたいです」と連絡を寄越す。
“やりたいですではなく、会いたいです。既に性行為をした相手に奥ゆかしさを見せるのは、そこに何かしら性欲以外の情が含まれているからだ。この半年間でぼくは何度それに絆されそうになって、その都度性行為に帰結してはもうこの関係はおしまいだとブロックしてきたか。性行為以外の情は性行為の可能性をぶら下げられた途端に無効化される。”(P153)
ここでもまた性愛と情愛の連関が出てくる。たしかに、どれだけ性欲以外の情に触れたとしても最終的に性行為に雪崩れ込んでしまえばそれは壮大な前戯へと成り下がる。バランスを欠いた情愛は、いとも簡単に性愛へと飲み込まれ吸収合併されてしまう。情愛を価値の上位に位置付けている橋本は、だからこそ性愛の絡んだ関係性へ冷めた視線を向けるし、それだけ冷めた視線を持っている橋本でさえも簡単にヤリモクの関係に及んでしまうくらい性愛の引力は強い。人々が情愛の大切さを説き、情愛を尊いものとして扱うのは、それほどまでに性愛に飲まれず自立して存在する情愛というのが稀有だからかもしれない。特に、情愛も性愛も入り乱れて存在するゲイの世界においては。
匿名の性愛。匿名の情愛。誰でもいい、ということ。人々がそれらを表面的には疎みながらもときに強烈に求めるのは、SNSでのインプレッションを伸ばしたいのと似て少なからず誰かに承認してもらいたいという欲望かもしれない。誰かに見て欲しい、認めて欲しい、という切迫した欲求は人間が根本的に抱える寂しさなのだろう。
市街地ギャオ作品には頻繁に、人生という膨大な可処分時間を「承認されたい」という欲求を抱えたまま過ごさなければならないことへの絶望、というモチーフが現れるように思う。人々はあるとき津野のように筋トレに励み、“自分の体に興奮されることに興奮することを覚えてしまう”(P158)ようになって寂しさを性欲へ転化したり、またあるときは仕事に邁進したり忙殺されたり、あるときは酒に溺れたり、あるときは恋人や友人とのささやかな日常で可処分時間を埋める。しかしそこに手応えなどというものはない。承認完了!もう一生私はOKです!とはならない。だからこそ手応えを求めて人々は筋トレの負荷を上げ、仕事に一層邁進し、酒を溺れるほど飲んでしまい、セックスはどんどん激しさを増していく。首絞めプレイによる興奮は、暴力の過激さを実感可能な生の手応えへと導いてくれるのだろう。「生の手応え」は、それこそ手で触れて掴んで「手応え」を確かめることなど到底不可能だからこそ、苛烈さによって「実感したことにする」ようにしか得られないものかもしれない。そうしてエスカレートしていく。橋本が過去に大樹の首に手をかけたのが明確な暴力であったのに対し、セックス中に望んで為される津野から相手への首絞めは「生の手応え」の手助けだから暴力でありながら暴力ではなくなる。きっと死に近づくほど強烈な手応えとなって、極点までいったとき相手は本当に死ぬ。生の極点が死であるというのは皮肉な話だ。
そのような苛烈な手段に(現状では)頼ることなく、膨大な可処分時間をやり過ごすために津野が取り入れているのが「ルーティン」だ。
“決まった時間に家を出て決まった時間の電車に乗る、決まった時間に昼休憩をとる、そういったルーティンがなくなってしまえば自分の生活はあっという間に崩壊してしまうんじゃないか”(P158)
ちょっとの不快を計画的に取り入れることで、「生の手応え」を得ること。まともな社会生活を送るための免疫力を得ること。
そして津野と同様に、橋本も膨大な可処分時間を前に、どのように生きようかと途方に暮れている。
“今をいなすだけの日々なのに、この先もひとりで生きていけるだけの基盤は構築されているし、今のところそれが崩壊する気配もない。(中略)飼い殺し、と誰に飼われているでもないのにそんな言葉が浮かぶ。ただ生きているだけ。でも決して生存を脅かされることはない。”(P142)
人間は何かに縛られていないと、膨大な時間に押し潰されて発狂して死ぬ。そのような感覚を、津野や橋本だけでなく皆が実は感じているのではないか。
津野は自分で自分を縛る何かを用意することに対し、「自己家畜化」という言葉を想起する。タイトルである『アニマル・フーガ』とも響き合う言葉だ。人生という膨大な可処分時間がどこまでも続く果てしなく広大な荒野だとするならば、自己家畜化とはそこに芝生を植え、自分で自分を囲う柵を立てるようなことだろうか。あまりに広大で、どこに行けばいいか、何をすればいいかわからないから、柵を立てて決まった時間に決まった場所へ行くことにしよう。それは自分がなぜここにいるのかという本質的かつ致命的な問いを忘れるための涙ぐましい努力である。草原が、実は荒野であることも忘れさせてくれる。
皆、荒野を忘れたい。“「会いたいです」「やりたいです」「今日は?」「どこでもいきますよ」「なんでもします」「お兄さんのやりたいように使ってください」「無視しないでほしいです……」”(P162)橋本の手に渡った津野のアカウントに集まる数々のメッセージは、荒野を彷徨う羊たちの悲痛な叫びに聞こえる。性はより簡単に、より劇的に荒野を忘れられる方法だ。だからこそ性的に魅力的な外見、肉体は価値を持つ。性的資本があるというのは、人生へインスタントに手応えを与えてくれる存在であるという意味での価値である。皆が何かに飼われたがっていて、荒野にいるのだという事実を忘れられるよう自己を家畜化していく。
【パートナーとの生活を成り立たせるもの】
ルーティンやキャリアアップのために忙殺されていくこと、性愛へと過度に傾倒していくこと、そのどちらの先にも “手応えのなさ”(P165)を感じてしまうとき、人はどうすればいいのか。津野はその寄る辺なさを “弱さ”(P171)として抱え込み、誰にも吐露できずにいる。
津野と橋本は、アカウント交換をしたことで情愛や性愛にまつわることを考えるときに自然とどこかで互いを意識することになっただろうと思う。初めは侮りの感情から入ったものの(入ったからこそ)、津野にとって橋本は職場という規範、性愛という逸脱、そして唯人という情愛に関することをすべて話せる唯一の人物へとなっていく。これまで吐露できなかった弱さを、橋本へならぶつけられると津野は感じるようになっていく。
“おれも話したかった。(中略)そして最後には酔った勢いのまま笑い飛ばしてほしかった。/これもきっと酔ってるせいだ。下世話さだけじゃなく、弱さまで隠しきれなくなっている。”(P171)
この「弱さ」「寄る辺なさ」を、津野は情愛によって埋めようとする。規範のリングの上にも、性愛のフィールドの中にも何もないから、“もう、今自分の手に乗っているものだけでいい”(P172)。恋人である唯人と週末の予定を映画にするか、仕事を優先するか、すこし先には旅行に行きたいねと話すことで寄る辺なさは癒やされていく。
“おれたちは曖昧なまま付き合い始めたけど、それでもこうしてふたりの未来を見据えた共同生活を成立させられるようになった。その事実だけで十分じゃないか。過去の選択の理由なんて、すべて後付けされるために存在しているんだから。どんな理由であっても、今幸せならそれでいいに決まってる。絶対に。”(P173)
唯人との情愛に癒やされて瞬間的な幸せのピークを感じるこのシーンにおいて、津野は “人生の最終ステージ”(P172)を「現状」に設定している。荒野の果てしなさに疲れ、柵で囲うことにも疲れた津野は、これまでせっせと植えてきた芝生や柵や家に囲まれた今この場所が、荒野において最も心地いい状態だということを認識し、もうここから動きたくないと言う。切り離されたはずの性愛は再び情愛と癒着し始める。
“キスしたのはいつぶりだっただろう。(中略)お互い勃起したことに言及することも言及しないこともあって、でも何を言おうがそれ以上の発展はない。ないけど、それでも身体接触を一切絶っているわけではない。だから、大丈夫。何が大丈夫なんだろう。大丈夫じゃなかったことなんて、これまで一度もなかったはずなのに。”(P175)
上記のシーンは切ない。性愛も情愛もどちらも満たしてくれる存在があれば自分はこの荒野でも安心して生きていけるのにという切実さが、切ない。この切実さは私にも身に覚えがあるし、大丈夫と思い込もうとしているとき人はちゃんと大丈夫じゃなくて、津野がそのことを自覚していることも切ない。希求が切実であるほど、切迫しているときほど安心による幸福感は高まるものだ。
しかしすぐにその幸福は揺らぐ。アプリで橋本のアカウントへ唯人から「いいね」が来ていたからだ。
“友達募集とも恋人募集とも買いていなかった。だけど、彼氏がいますという記載もなかった。(中略)唯人の目的はいったいなんなんだろう。”(P176)
これさえあれば、と思っていた地盤が揺らいだことで津野は追い詰められていく。これまで唯人から「やってきたでしょ」と訊かれることはあっても、津野側が唯人の性愛に関するトピックに触れる機会は皆無だったからこそ、唯人はどこまで性愛と情愛を切り分けているのか不安になる。完全に切り離されていれば唯人の情愛は自分のものだが、もしそれが強く癒着していれば、情愛ごと津野が切り離される可能性だってある。
タイトルの『アニマル・フーガ』にある「アニマル」が何を指すかについて、直接的な暗示のあるシーンがある。
“橋本くんが、あの部屋のあのゲーミングチェアの上で虚ろな目をしながら元彼にメッセージを送っている姿を想像する。本当に物がなかったあの部屋。(中略)物がない割に延べ床は広かったから、独房というよりは動物園のシロクマとかトラとか、ああいうでかい動物の檻を思い起こさせる。(中略)人間にとっては広く見えても、野生で暮らしていたはずのシロクマやトラにとってはきっと息が詰まるような空間なんだろう。家畜化されていない動物にとっては。”(P176)
橋本にとっての元彼大樹は、かつて存在した情愛の残滓だ。情愛の残滓に、それでも執着し続けてしまっている橋本の寄る辺なさ。物がほとんどない空間には生活のにおい=情愛のにおいがない。津野はそれが仮暮らしであって欲しいと願う。情愛のない空間にいながら、かつての情愛の残り香へと手を伸ばしている橋本という存在の「惨めさ」は、それ自体が津野自身が唯人を失う未来における津野の「惨めさ」のイメージと繋がっていく。自らを規範や過去に縛り付け家畜化された人間という名の動物は、自分を縛り付ける安心安全な檻から逃走して野生の動物として生きていくことはできるのだろうか。
会社の飲み会で酔い潰れた津野を介抱して唯人との家に運んだ橋本は、“周囲に隠れられるもののない平原で、辺りをきょろきょろ見回しながらおそるおそる脚を休める(中略)シマウマとかヌーとかそういう動物”(P184)のような気分になったりする。物がほとんどない部屋から飛び出して、自分の規範や過去から飛び出した野生動物としての体験。他人である津野の肉体や、津野と唯人の生活を見て、“そうまでして、他人と性行為をしないとこの暮らしは成り立たないのか。” と考え、その矢印はブーメランのように橋本の過去へと突き刺さる。“大樹は、そうまでしないとぼくとの暮らしを成り立たせられなかったんだろうか。ぼくが大樹を問いたださないことでしか大樹との暮らしを成り立たせられなかったのと同じように。”(P184)
パートナーとの生活を成り立たせるものとは何だろう。それは互いの情愛と性愛のバランスの調整なのかもしれない。そのバランスの違いを無視することで橋本はかつて大樹との生活を成り立たせ、津野と唯人はオープンリレーションシップという関係をとることで成り立たせている。
終盤で、非常に印象的だった文章がある。京都旅行に三人で向かう新幹線で、窓際の席で寝ている唯人に聞こえないよう、橋本は携帯のメモ帳機能を使って津野に「アプリの件ちゃんと聞けたの?」と問いかける(P197)。津野は首を横に振って、情けないよなと冷たい声で答える。
“津野くんが問いただすのを怖がっているのは、唯人くんが大事だからか、それとも唯人くんのいる生活が大事だからか、どっちなの。”(P197)
読んでいてハッとした。パートナーとの生活を大事にすることと、パートナーを大切にすること。私はこの小説を読むまでそれらを同じものだと捉えていたけれど、それは限りなく似ていながらも僅かに、しかし決定的に違うものなのかもしれない。
“ぼくはきっと後者だった。六年間ずっと。”(P197)
橋本は大樹と暮らし続けた6年ものあいだずっと、暮らしを崩壊させないよう、大樹に直接浮気を問い詰めることをしてこなかった。振る労力すら惜しむようになっていった橋本にとって、大樹が大事なのではなく、大樹との生活こそが守るべきものだった。相手のことが本当に大事なら、生活を守るのではなく、相手の傷や寂しさにこそ寄り添おうとするものなのかもしれない。
“本当に唯人のことを思ってるんだったら、唯人のトラウマに寄り添うべきだったんじゃないのかな”(P195)
この小説のラストにおいて、津野は唯人のトラウマに寄り添う=情愛と性愛のバランスを調整することを決意する。先ほど私は、『パートナーとの生活を成り立たせるものとは何だろう。それは互いの情愛と性愛のバランスの調整なのかもしれない』と書いたが、これは正確には違った。なぜなら、互いの情愛と性愛のバランスを調整することによって津野は唯人との生活を崩壊させるかもしれないからだ。津野は、オープンリレーションシップという関係を結ぶことで唯人と情愛と性愛のバランスを調整していたのではなく、「オープンリレーションシップ」というブラックボックスにそのバランスを投げ込むことで、唯人と情愛と性愛のバランスを調整するという作業から逃げていた。付き合い始めた当初はきっと、「情愛と性愛のバランスを取る」作業の一環として「オープンリレーションシップ」という関係を築こうとしたのだろう。しかし、関係がひとつの言葉として固定されることによって、その調整を行うことをふたりは次第にしなくなっていった。“ここが人生の最終ステージなんだと”(P195)固定することによって津野は安心しようとした。パートナーとの生活は、ふたりの違いをうまく無視して見ないようにすることでも成り立たせることができる。
誰かと生活をともにするということはひとつひとつ妥協点を探り合っていくことだ、というような言説をよく聞くけれど、特に「情愛と性愛」の問題に関しては、妥協点を探り合うこと、落とし所を見つける話し合いそのものが相手の負の感情を呼び起こしやすく、結果として破綻へと繋がりやすい。相手との生活を長く続けていくことが大事だからこそ、相手との違いをうまく無視できるように過ごすこともあるかもしれない。
けれど同時に、相手との違いを無視することは、相手の寂しさやトラウマ、傷を無視することにも繋がってしまう。そして、自分の弱さを無視することにも。
“ここまで弱さを見せた相手なら、おれは楽になれるんじゃないか。唯人じゃなくて、橋本とだったら。ふいにとんでもない想像が過ぎって、それがどんどん心を支配していく”(P196)
津野は、自身の弱さと、自分ひとりで向き合う強さを獲得できていない。誰かに縋りたい。誰かにわかって欲しい。性愛にも情愛にも縋りながら追い詰められていく津野の姿は、切実に読む者の胸に迫ってきながらも、どこかで誰にでも縋ろうとする大樹の姿と重なって見える。
“寂しい人は、その寂しさの出どころを決して探そうとはしないんだろう。だからずっと寂しい。どこにいても誰といても”(P197-198)
せっせと自己家畜化して安全・安心な場所に留まろうとしてきた津野が、それでも規範や過去から切り離された荒野に投げ出されようとしたとき、橋本は津野のそばで寄り添って、励まし続ける。
“大岩に形代を貼り付ける唯人くんを見守りながら「もう誰とも会ってないの?」と聞いてみると、「会えるわけないよこんな状況で」と怒ってるようにも聞こえる声で返ってきた。/「じゃあ大丈夫だよ」/「なんも大丈夫じゃないだろ」”(P199)
橋本がここで「大丈夫」と津野に言うのは、津野が抱える弱さや寂しさが、匿名性を帯びていないことを受けてのことだろう。情愛と切り離された性愛は人間を匿名的な存在にする。寂しさが性愛と癒着してしまうと、大樹がそうであったように負のスパイラルに陥る。寂しさは匿名では埋まらない。埋まらないから寂しくなって、また性愛を求める。しかし津野は匿名にはなっておらず、寂しさを情愛でも埋めようとしている。匿名ではない津野と、匿名ではない唯人という人間同士として。それはまた新たに情愛と性愛のバランスを調整しようという意思となり、ふたりの生活を破綻させるかもしれないが、まったく新しいステージにふたりの生活を運ぶかもしれない予感にも満ちている。
【前を向いて逃走する動物たち】
追い詰められて不安定さを増していく津野と、対照的なのが橋本の存在だ。橋本は小説の初め、情愛と性愛が完全に癒着した価値観(=異性愛規範)の中で生きていつつも、ヤリモク活動に半分足を突っ込んでいたり、大樹という過去に縛られていながらも徐々にそこから解き放たれようとしていたり、という中途半端な位置にいた。しかし津野と出会い、津野と唯人という異性愛規範から程遠い場所で生きるふたりの生活に(予期せず)入り込み、アプリのアカウントを津野と交換してヤリモク活動をしなくなっていくうち、自分が従っている規範や縛られていたものを冷静に見つめられるようになっていく。
“唯人くんにあけすけな嫌悪やお門違いな憎しみを抱かなかった自分にも安心する。普通の人だな。自分に念押しするようにそう思う。”(P181)
“ぼくはもう大樹の人生の円周から弾き出された人間なのだと気づく。外側から大樹を見ている。”(P184)
先日、都内にあるファミレスに集まってゲイの友人たちと自分の5人で『アニマル・フーガ』のプチ読書会をしたのだけれど、そのときに友人のひとりが言っていたことが印象に残っている。その友人は、橋本が大樹を「寂しい人」とわかった瞬間にそれまでの執着が消える感じがよくわかる、と言った。わからない存在へ執着してしまう感じと、わかった後にもういいやってなる感じ。
橋本は大樹と6年も生活をして、その間ずっと大樹という人間がわからなくて、別れた後もなんだったのだろう自分が受けたあの理不尽は、と考えて考えて、そして津野のアカウントを介して接触する。そうしてそれでも否応なく大樹との距離は離れていく。かつて苛烈だった自分の感情とも距離ができ、よりフラットに状況を見渡せるようになっていく。
“「消えちゃった。なんか、びっくりするくらい何も思わないな。寂しくないし、安心もしないし」/「何も思わないくらい過去になったってことなんじゃないの。偉いよ。ちゃんと前向いてて」”(P193)
大樹のアカウントをブロックした橋本と、津野の会話だ。「前を向く」という表現に対して橋本は、“こうして何も思わなくなっていくことを、前を向いていて偉いなんて表現していいのだろうか”(P193)と考える。正体がわかった相手に対して、執着は消え、意識からも消えていく。そうしてまた新たな状況に自分を投じ、目の前にあるものへ意識を向けていく。それはもうどうにもならないことへの執着を切り捨てて幸せになるために必要なプロセスだ。どうにもならないこと、アンコントローラブルなことに人間は執着してしまう。
“ひとりで味のしなくなった絶望を噛み締めるくらいなら一歩踏み出せばいいのに。過去の自分に言い聞かせるように、心の中で津野くんに呼びかける。その一歩が何にも結実しなかったとしても、必ず次の一歩の呼び水になるはずだから。ここから大岩まではたった四歩で辿り着けてしまうんだよ、津野くん。”(P199)
今いる場所から一歩を踏みだすということ。アンコントローラブルなことを忘れたり、意識の外へ放り出したりできなくても、とにかく一歩足を踏みだすこと。橋本は “前を向くことの本質さえ理解していないまま”(P200)それでも津野に足を踏みだして欲しいと願う。踏みだしたその方向が前なのか、右なのか左なのか、それとも後ろなのかすらわからなくても、その場に留まってゆっくり絶望を噛み締めるのではなく動いて欲しいと願っている。
小説の終盤、橋本は津野に対してこうも言う。
“言葉にすることの限界だってあるんだと思う。過去の自分がそれなりに幸せだって思ってたものを、勝手に忘れて、勝手に分析して、それで前向いたって言えるのかな。今の自分の幸せを担保するためにそんなことやっていいの、って。”(P203)
言葉にして、分析して、「わかる」こと。わかって忘れること。橋本はそれを「前を向く」とは呼ばない。わからないこと、アンコントローラブルなことをどうにもできないまま抱えて生きていくこと。そこが前かもわからないまま一歩踏みだして、どこに向かうかもわからないまま進んでいくこと。橋本にとって、それが荒野を荒野として受け入れ、生き抜くことなのかもしれない。
パートナーシップもキャリアも、すべては荒野に植えられた芝生だ。柵だ。小屋だ。自らを取り囲む「囲い」だ。それは嵐によって吹き飛ぶかもしれないし、改築する過程で壊れるかもしれないし、自らの意思でそこを出る日が来るかもしれない。人生は本質的には荒野で、荒野が荒野であることを忘れて生きようとする津野に、一歩踏みだせと呼びかける橋本は、その呼びかけの残酷さも認識している。けれど、呼びかけずにはいられない。
“安定したキャリア、安定したパートナーシップ。野生から一番遠く離れた場所に安住していた津野くんに、ぼくは今残酷な問いを立てているのかもしれない。なし崩し的にそこから弾き出されただけに過ぎないぼくが。取り繕うように「規範がまったくないのも困るけどね。どう生きていったらいいかわかんないし」と返して津野くんの分のウーロン茶を勝手に注文する。”(P203)
橋本はそうして、自分自身も柵の外側へと飛びだそうとする。大樹のことを “完全に吹っ切れてはない”(P205)まま、酔ってアプリを辞めると豪語する。けれどすぐに “でもアプリ消して、ぼくは何したらいいわけ?”(P204)とまた荒野の果てしなさ何もなさに途方に暮れたりもする。この小説は、橋本が “猟奇殺人鬼の部屋”(P1192)と自嘲する何もない部屋にダイニングテーブルと二脚の椅子を導入したことを津野に告げ、そこへ小走りで帰る姿と、津野が唯人にアプリをなぜやっていたかを聞こうと考えながら唯人の元へ向かうところで終わる。彼らは今自分のいる場所から、まさに飛びだそうとしている。
“今おれは終わりに向かっているのだろうか、それとも新たな始まりに向かっているのだろうか。どちらであったとしても、それを前に進んだと認識していいだろうか。”(P206)
この小説は視点が津野→橋本→津野→橋本……と交互に続いていき、それは最後の最後まで変わらない。「*」によって視点の切り替わる箇所が示されるが、最後の最後、P202においては視点の切り替わりに「*」が使用されることはなく、津野→橋本→津野の視点の切り替わりがシームレスに、「*」で区切られることなく小説の最後に至る。
この最後のブロックにおいて、津野は唯人にアプリを辞めようと思うことを告げ、橋本とアカウント交換をしていたことを告白し、唯人になぜアプリをやっているのかを訊こうとしている。そして唯人からは普段のじゃれ合いとは異なる感触で触れられ、ふたりのあいだの情愛と性愛のバランスが変化する兆しも示されている。そして実際にアプリを辞める。橋本も、これまでアプリで行っていた “ゲーム”(P203)を一度終了させて “周回プレイ”(P204)をしようかなと告げ、“自分の人生がひとつ区切られたような気”(P204)になりながら生活を続けていこうとする。
これは私の勝手な解釈だが、「*」による区切りは、そのまま彼らを区切る柵を意味しているように思う。彼らは彼らの規範や過去といった囲いの中にいて、守られてもいたけれど、最後彼らは柵=「*」を飛び越えて荒野へと乗り出し、果てしない自由の中で出会い直す。“わかり合えない”(P204)存在として近くにいることを選ぶ。
柵を飛び越えて、進む方向こそが前なのだと信じて囲いから軽やかに逃走していく彼らが、荒野の中でそれでも幸福に生きていける未来があることを、読者である私は心から願ってやまない。
【終わりに】
この感想を書き始めたときは「私の感想です」などと言っていたくせに、書いてしまえばほとんど引用!ほとんど『アニマル・フーガ』本文からの引用!論文とかだったら引用の割合が多過ぎて絶対にダメなやつ!な感じになってしまいました。それは多分、最初に書いた通り私とこの作品世界が混濁し過ぎていて、この小説の感想を言おうとするとこの小説の言葉からしか言えなくなってしまうという不思議な状況が生まれたからだと思います。書く前は、自分語りがいっぱいになっちゃうかなと思ったけれど、逆だったかも。
感想を書きながら、「そういうことだったのか!」と作品を一段と深く理解できたような気持ちになる瞬間が何度かありました。どんな作品もそうですが、市街地ギャオ作品はそういう傾向が特に強くあると思います。一読しただけでは、「ふーん」と流してしまえそうなくらい些細な、些細な機微がふんだんに盛り込まれている。私が彼の作品にのめり込む理由のひとつがそれです。彼の作品は掘れば掘るほど宝物みたいなものがたくさん埋まっていて、だから、多くの人にもその宝物を見つけて欲しい。
私が読書に求めることのひとつが、「価値観の破壊と再構築」なのですが、市街地ギャオの作品を読んでも私の価値観は破壊されないことが多いです。しかし、彼の作品を読み込んで、心に浮かび上がってきたことを言語化したり、他者の作品の感想を聞いたり感想を話したりすると、自分が分解されていくような気になります。分解された中から自分の新たな側面を発見したり、分解した自分を再構成したりすることができます。彼の作品は、読み終えることが完了形なのではなく、感想を言語化するところまでが読むことの完了形のような気すらします。本当に面白い作家です。
人生は荒野、というのは私が常日頃から感じていることで、あまりにそこに沿って感想を書いてしまった気がしますが、おかげでこの荒野を生きていける勇気を作品から貰えたような気がしています。このような素晴らしい作品を読めたことに心から感謝したいです。
最後に、『アニマル・フーガ』で私の好きなシーンを引用して終わりたいと思います(最後まで引用かい!)。津野と橋本のやり取りがふたりの関係性を示しているようで、微笑ましいです。津野が二日酔いでダウンしていて、それを橋本がぞんざいに介抱するシーン。
“はいはいおやすみー、話を断ち切るように橋本がおれのノートパソコンを閉じる。さようならー、と新品のペットボトルを握らされる。畳まれて部屋の隅に寄せられていた布団を指差して、「ここで寝ていい?」と聞くと「絶対寝れないだろ」と笑われた。”(P189)
書いてて思ったけど、「介抱」と「解放」って同じ響きだね。
最後までこんな長くてまとまりのない文章を読んでくれた人、本当にありがとう。お互いに荒野で強く生きていきましょう。
2025年12月20日 市街地ギャオ強火オタクより
2025年7月6日(日)の日記(自由のモード)
週末に小説を一文字も書いていない。金曜の夜は『進撃の巨人』を見て、土曜は友人たちと小岩に行ってカフェでランチして街ブラして温泉入って中華とパフェ食べて中野でお酒飲んで、日曜はセックスして新丸ビルでタイビュッフェたらふく食べて上野の東京都美術館でミロ展見てラーメン食べて帰ってまた『進撃の巨人』見てメロン食べていま。
楽しかったなあって感じがする。ぼくは他人から見えている以上にあんまりなんにも考えていなくて本当なにも考えていなくて、思考しているから書くのではなく書くことで思考しているから、なにも書いていない週末はなにも思考していない週末ということになりちょっとそれってあんまりにもどうなんだろう、と思って、こんな夜中の二時前に小説書く体力ないし日記でも書いてみようかな、と思っていま。
去年から自分を破壊したいなーと思って生活を破壊していたら歯止めが効かなくなってあ、そろそろ本気でやばいかも、と思って歯列矯正を始めた。歯列の矯正って自分の身体を破壊して再構築する感じだし、ぼくは身体と精神は極めて近い距離にいる完全に他人だと考えているけど身体を変形させれば精神の方にも影響が出ることは確かなので、歯列矯正によって人格が矯正されるだろうと思い込んで矯正を始めた。これって歯列の乱れが人格の乱れに繋がっているというかなりやばい思想に繋がるし絶対そんなことないんだけど、「最近の自分の人格が自己規定していたところからかなり逸れて歪になっているな」とそのこと自体は自分が望んだことであるのにそこに危機感を抱いてブレーキをかけようとしている自分が自分の身体と精神はかなり近い距離にいる他人であるという思考を利用して歯列矯正を人格矯正のきっかけにした、という話なのだ。そして目論見は無事成功していま。「矯正」って言葉の響きは恐ろしくて、そもそもなにを正しいとして「矯正」していくの? とも思うけど、いわば「矯狂」していたことは自覚しているのでまあ一旦「矯正」していこうよ、という自分なりのバランス取りなわけですな。
「矯狂」の過程で狂ってしまった意識が身近な他人を巻き込んで破滅していくのは当然の流れで、かなり大好きな友人に往復書簡してくれー! と頼み込んでかなりとち狂った相手をめたんこに傷つけまくる往復書簡を始めたら、案の定一往復半で音沙汰がなくなって、ほとんど毎日メールの受信フォルダを確認するも、相手からの返信はなく、でも返信ちょうだいよと言う勇気もなく、ぼくって他人に興味ないと思ってたけどこんなに高頻度でメールが返ってこないかなと気にするくらいにはその友人のこと気になってたんだな、と思っていたら、さっきこの日記を書き始める直前に受信フォルダに往復書簡の返信が来ていて動揺していまこれ読んだら日記書けなくなるわ、と思ってまだ読んでなくていま。
二十歳くらいのとき、ぼくの人生は孤独・自由・愛の三本柱でやってくぞって決めてから、自由がずっとわかんなかったけど孤独をのたうち回って色々やってるうちにちょっとだけ自由が見えてきたかもしれない。感情に支配されているうちは不自由で、全部気分でやってるうちはだから不自由で、だからぼくは不自由なんだけど、不自由な中でああでもないこうでもないって、自分のいる場所をX軸上の対極に矯正/矯狂したのちY軸上の対極に矯正/矯狂したのちZ軸上の対極に矯正/矯狂したのち、これまで自分が行った場所であればある程度どこにでも行けるぞ、でももうここには行きたくない、でもここにだったら行きたい、留まりたい、という選択をすることが自由なのではないか。だからぼくはもっと自由になるためにこれからも新たな軸の対極を目指して自分の自由の幅をぐんぐん大きくしていかなければならない、不自由に殺されたくないから。きょう行ったミロ展でミロが何歳になってもずっと新たな表現や技法を開拓していっていることに驚いたけど、ああやっぱそうだよねって納得した部分もあった。色々やってるけど芯の部分というか本質的な部分はずっと変わらなくて、ミロもずっと自由であろうとしただけなのではないか。ぼくも自由でありたい。どこにでも行ける自由なんて存在しないけど、自由を広げていくことはできるはずだから。
レオ・ベルサーニのことがここ最近は気になっている。セックスとは自己破壊なのか? ジェンダー以前の不安定な偶然性に身を晒すことがセックスなのか? セックスってなんなんだろう? 現在存在する言語では非常に浅いし不足していると感じるほど他者との関係性にセックスは深く関与している感じがする。男性とか女性とかゲイとかバイとかいう言葉をもっと解体したいけど解体するだけでは駄目な感じがしている。社会的に許されない感情を描くことは藝術のミッションのひとつだと思うけど、正しいセックス/正しくないセックスってなに、正しい関係/正しくない関係ってなに、正しい心/正しくない心、正しい体/正しくない体ってなに、言葉や自分の中ではもっと自由に、つまりは自分の心に正直でありたい。ぼくはぼくに嘘をつくから。正しさに抗うためには狂えばいいってものでもない。なにかを破壊するにはその外部から破壊するのではなく内部から破壊する必要があるので、正しいなにかの内側から新しい正しさに変態してゆくこと。それは正しいのか狂っているのか外側から見たらすぐには判断がつかないようなものかもしれない。
正しいのか正しくないのかすぐには判断がつかない関係を求めて、返ってきた往復書簡を読んで眠ろうと決めて、いま。
あたしのからだ
あたしのからだ
恋なんて相手の人生に全乗っかりできるって思いこみだろってあいつは言った。
孤独であるほど恋ができる。
あたしはからっぽだから、誰かにこのからだと重みを預けようとしただけ、あいつの言葉をからだの中にしまいこんだだけ。
虚しさに追いつかれないように走る。
走る、走る、走る、句点がこないように走って走って、地面を見たら影が目の端にちらと映ってまた腕を振って息が切れて血の味がするけどどうせ逃げている限りは捕まることをどこかで期待している、とおもって走るのをやめた。
空白。
虚しくなるほど恋ができる。
すべての絵は描かれるまで白紙。ゴッホの絵も、ピカソの絵も、この詩だって白紙、だった何か。
どうせ逃げ続けるのなら虚しさでも喜びでもあまり変わりはないだろうと喜びから逃げ続けてみれば、喜びだって恐ろしくってあたしは笑いながら走っている。
やめてやめてやめて、って笑いながら喜びから逃げ続けたら走ることそのものが喜びになった、りしないかな?
もう誰にもこのからだの重みを預けられない。
恋もしないまま狂って笑って走っている、あたしのからだ。
あまりに美しい一日
あまりに美しい一日
あまりに美しい一日だったから
わたしは泣いた
あまりに美しい一日だったから
わたしは踊った
暗闇で
あなたを想った
目が覚めたらあなたが隣にいて
口づけたら砂が零れた
両手の指のあわいから
零れるのも忘れるくらい
どんどん砂が零れた
濡れて 笑った
あなたと映画を観る
今日はディナーの約束があるから
ブランチは軽めにしよう
部屋を暗くしたら もう
そこは映画館
ポップコーンも背もたれもいらない
魔法みたいな 魔法じゃないみたいな
続けてまた映画を観よう
フライトまでは時間がある
あまりに美しい一日だったから
わたしは怖くなった
あなたのいなくなった部屋をみて
あなたの写った写真をみて
あなたがいた台所をみて
あなたのいない部屋をみた
あまりに美しい一日だったから
わたしは泣いた
残りの一生を 生きていけるくらい
美しいとおもった
2025年1月21日(火)の日記(光を思い出す)
関係の終わりがいつも清々しいのはなんでなんだろう。
「別れよっか」とさして深く考えず、だけど深く考えないで思い付きで言えるほどには浅くない関係だったからこそ、別れた帰り道は繋がっていた細かな糸がいくつも千切れて蜘蛛の巣から解放されたみたいに身が軽い。眠いときに眠れてキスしたいときにキスして本を読みたいときに読めて、歩きたいところまで歩ける。自分の意思で。
夜は深くて、あらゆる明かりは黄色くて鮮やかでぼくはひとり。ひとりぼっちでアスファルトの上で、ばかみたいに笑っていて。
冬は寒いけどネックウォーマーの内側はあたたかくてこのままどこまででも歩いていかれる。電車に乗らなくても家まで帰れるかもしれない、と思いながら歩いても結局途中で疲れて電車に乗りたくて悲しい気持ちになるのがわかるから悲しい気持ちになる前に電車に乗ってしまおう。白い線を踏んで、踏んで、踏んで帰ろう。
例えば手と手があと5センチだったこと。口笛が全然吹けなかったこと。マフラーの起毛にかさついた唇の皮がひっかかって、小刻みに首を振っていたこと。後ろから抱きついたときに気が付いた香水のこと。大きい音が苦手だってこと。キスできる距離に近づいたときのざらついた肌とか剃った後伸びてきている眉毛とか琥珀色した睫毛のあいだの光、愛おしいって掬い上げようとして零れたすべて。
恋愛でしか生きられないのかなって思う。世界が暗いならあなたを光にするしかないけど、もうあなたは光じゃないのかもしれない。誰も、ぼくの光にはなれなくって、だから本当はあなたなしで生きられるのかもしれない。光はぼくの外にあるのではなくてぼくの内側にあるのかもしれなくて、だから誰かと生きて自分の中に枠を作ってその中で生きることができなくて、ぼくは枠を嵌められる存在ではなくて枠を嵌めていく存在だからあなたはどんどん小さくなって世界はどんどん小さく暗くなった。枠を嵌めていく瞬間こそが光だから、光は灯った瞬間に消えてしまうんだね。
言葉と関係を結ぶ、その方法について。
言葉と関係を断ち切る、その方法について。
全部全部、好きになった瞬間にはもう飽きていて、だからさようならをしなければ腐ってしまうのは当然なんだ。だからさようなら。あなたの事情とかなんも関係ない。ぼくがさようならをしたいから、ぼくがときめきたいから、たださようなら。
そうしてぼくはようやく息を吸える光が見えるあなたに触れる心ときめく。
バイバイした後であなたがどうしているかなんて知らないけどあのときキスしたことすごく幸せだったなって思いだしてこれからを生きてゆける感じはなんだか美しい気がする。
2024年12月26日(木)の日記
アッピラパッパ、殺人、誘惑、クリスマスケーキに刺さったささくれ、を食べるおっさん、いつもの場所で露出してたら、ナイフが街灯を照り返して突き刺さった君の視線、ああ、もっと突き刺して
あああ、ああああ
ここで、ここで、ここに、わたしが望んだから、ここで、ここで、ここに、お前がいるんだろ
ああああああああああ、あああああああああああ
愛のある生活、ってなんか冬にあったかい部屋でウニとか食べちゃってさ、なんか湿度が高くって加湿器とか点けちゃってさ、ウニってなんだよ、ウニウニウニウニ、舌と舌を倒れたドミノみたいに積み重ねてさ、ぐちゃ、ぐちゃ、ぐちゃぐちゃ、もうやだ、べつに、べつに、べつにベロが三枚だって四枚だっていいんだろ、タンを食べる
ああ、あ
浴室がせまくて裸のあなたとコンテンポラリーアートみたいに体を組み合わせた、換気扇回せよ、回せない壊れてるから、かびが生えるだろってまたドミノ、あ、あ、あ、あ、
だめだよ、だめだよ、こんな
小学生が眼球と眼球をくっつけたらなにが見えるんだろうねって言ってた、わたしだってあなたの脳味噌の奥を見つめてみたい、こうやって、目と目をさ、限界、まで、近づけて、え、え、なんでやめるの? 知ってる、べつに、べつに、別々に大人になったからできなくなったんじゃなくて、わたしもあなたもなにによって繋がってもいない隔絶した一個人、恥なんて知らない、けど、恥ずかしいよ、恥ずかしい、あ
ねえ、早く食べてよ、もう、やだ、あああ
排水口に髪たまってるよ、ここで、ここで、ここに、やだ、もう、きたない、指が、ああ、なんでこんなことになったの、中上健次ってさ、知ってる? あのね、そんな小説家がいんだけどさ、あ、あ、あ、蛇淫って短編が、あって、あって、あ、さ、さ、その、
ここで男性がゆっくりと女の首を絞めてマヨネーズ容器に入った残り少ないマヨネーズをしぼりきるように女の目尻から黄色く粘ついた液体がこぼれる描写が挿入。男性は浴槽に女を荒々しく横たえる、面倒くさそうにしているが男性は勃起している。それを脱衣所の陰から盗み見る男(の映像)。また寝床で男性が男の首を絞める、眠ったのか死んだのかはわからないが男は目をみひらき画面は真っ暗に
「ああ、あなたの病名はですね、アッピラパッパ症候群ですよ。まあ要はただのさびしがり屋です。さびしさのあまり通常では考えられない非常識な行動を起こしてしまう。心当たりは? ええ、ええ、そうでしょう。ここは病室で、あなたはアッピラパッパ症候群と診断されたのですからどんな行動を取っても構わないんですよ。ええ、どうぞご自由に」
空から紙が降ってくる、ばらばらと、大量の紙、裸で、転げまわる、狂喜乱舞という言葉が似合うほど体全体で、体全体では足りないから地球を巻き込むみたいに転げまわって、立ち上がり、踊る、紙が降ってくる、ばら、ばら、と、なにかが書いてある、プロパガンダかとおもい野次馬精神で紙を掴み、読む、読み上げる、大きな声で誰かが、誰か、誰かが歌っている、
えー、この地球では、きょうも、えー、にせんにじゅうよねん、じゅうにがつの、にじゅうろくにち、ええ、本日ですね、本日も、えー、えー、いや、きのう、きのうですね、もう日付を跨ぎましたね、ええ、きのうも、ひとがひとを殺しました、クリスマスに赤子が凍死しました、えー、えー、きのうか、いや、いま、いまですね、いまひとが、ひとを
いまひとがひとを愛しました
あ、ああい、あい、あい、あい、あいえぬじー、現在進行形で、あい、あい、愛が、あ
「えー、あたし病気なんですかあ? ええー、だる。結局、病気っつったらわかったーってなるからそう言ってんでしょ? わかったー、なんて言ってやんないんだからあ、だってあたしは死ぬまであたしっていう病気だし」
恋人と人生ずっとずっとずっと死ぬまで幸せに過ごしましたー、ちゃんちゃん、ちゃん、ちゃん、はっぴーえんどの後の、ばっど、ばっど、ばっどエンディング、の、後の、後の、後に続く、あの、君がいなくなった後の、あの、別の君と過ごした、あの幸せな時間の、後の、後の、ばっど、ばっど、ばっと、
「恋愛とかあ、よくわかんないしぃ、困るっていうかあ、マニキュアが照り返す光、ナイフに反射して公園を徘徊する不審者を照らす光、光、光は蛾とかあ、そうゆーの寄せ集めるからちょいきもいっていうかあ、ふざけんなよグロいんだよ世界がさー、原爆資料館に行ったときにキモーとか言えちゃう感受性でさあ、あたし世界平和謳ってんだよね、普通に」
「毎日人間が人間を殺す世界でご飯食べたり仕事つまんなーとか言ったり好きな人にラインしたり好きな人できなくて困ったり浮気したりあったかい部屋でネトフリ見たり友達と酒飲んだりしてんの? キモー」
「ご飯食べたり仕事つまんなーとか言ったり好きな人にラインしたり好きな人できなくて困ったり浮気したりあったかい部屋でネトフリ見たり友達と酒飲むのが人生でしょ?」
「えー? それが人生なのー? 人生って、えー、そんなもんだっけ?」
人生って、えー、そんなもんだっけ?
えー、そんなもんだっけ?
えー、そんなもん、
えー、
え、
人間がきもいからきもちいー、E、E
E、E、E、EE、EEE、E、E、いー、いーーー
あ、いい
人間の会話なんてただのリズムだから、だから適当なこと言っても書いてもある程度リズムさえよければ聞けちゃうし読めちゃうんだよねー、キモッ、いー、いー、いーーー
人間の存在なんてただキモいんだから、だからどんなに仲良くなってもヤってもある程度センスさえよければ会えちゃうし笑えちゃうんだよねー、キモッ、キモッ、肝ーーー
内臓がピンクで本当によかった、だって黄色とかだとキモいじゃん。安心してキモくなれるね。
わたしが花占いしたらさ、好き、きもい、好き、きもい、好き、好き、好き、好き、だからどんな結果になったとしても全部きもいよ、覚悟してよ、覚悟して生きてよ。
ばいばい。おやすみ。さよなら。にんげん。あ、
2024年11月19日(火)の日記
しんどいなあ、と思いながら一日を過ごした。
しんどいなあと思ってるなんて思われたくないし思いたくないから「しんどいなあ」なんて言葉はすぐにかき消して仕事をしていたけどしんどいなあ、と思いながら仕事をしていた。
小説書きたいけど疲れていて書けない。そんなの言い訳だと思ってきのうは午前二時までパソコンの前で粘っていたけれど、言葉を無理やりひねり出して書いた文章は午前二時に全消ししてパソコンを閉じた。そんな日が続いている。
このあいだ町屋良平さんをはじめて生でみて生の声を聞いたのだけど、小説を書くにあたっての前提条件として「まずすっごい休むこと」「労働は最低限にして創作に不必要な要素を削ること」と仰っていて、休まなければいけないかもしれない、と思った。もちろん小説を書くための身体的・心理的な要件は各人で異なるだろうけど、仕事をもっと適当にすべきかもしれない、と思った、というかこれ書きながら思ってる。わたしは疲れすぎている。わたしは、というか、わたしの身体は疲れている。
最近よく考える。身体というのは一番身近な他者なのではないか、と。「心と体はひとつだ」という言説をよく耳にするけれどそんなことないと思う。心と体はばらばらで、ぜんぜん無関係に存在していて、完全な他人だけれど、あまりに身近にいすぎるから相互に影響を及ぼし合ってるだけなんだと思う。友達より家族より恋人より身近な他人。それが身体。起きていたくても眠ってしまったり、食べたくても吐いてしまったり、若いつもりでいても白髪や皺が増えていて鏡をみてぎょっとしたり。
そりゃ身近な他者とは考えていることや感じていることが一致していて動きも一致していて、という方が気持ちいいし楽しいしやりやすい。でもお前と俺は他人なんだよ、と思う。こんなの自分の顔じゃないと思うのも、こんなの自分の性別じゃないと思うのも、こんなの自分の身長じゃないと思うのも、一番身近な他人が自分とは異なる特徴を持っていた、というだけの話なんじゃないか。もちろん、一番身近な他人から人間はもっとも影響を受けるのだ、という前提のもとに。
しんどいなあ、と思いながら一生を過ごした。
しんどいなあと思ってるなんて思われたくないし思いたくないから「しんどいなあ」なんて言葉はすぐにかき消して人付き合いをしていたけどしんどいなあ、と思いながら人付き合いをしていくのはしんどいなあ。
友達、と一緒にいても、恋人、と一緒にいても、こいつを利用しているだけなんじゃないか、という考えが消えない。セフレ、はその点楽だった。お互いに相手の体を利用し合っているのだというある種の開き直りがあって、後ろめたさが薄れる。普通はセフレといる方が後ろめたくなるものなのだろうからぼくは壊れているのかもしれないけれど、もともと壊れている人間が壊れていないふりをするよりも壊れている前提で繋がっている方が取り繕わなくて済む感じがするのかもしれない。
「FWBって言葉知ってる? Friend With Benefits の略なんだけど、要はセフレってことらしいよ。随分都合のいい言葉を生み出すよね、普通にセフレって言えばいいのに」
友達が言ったとき、ぼくは「えー、なんか言葉をお洒落な包装紙みたいに使うんだねぇ」と感心したふりをしていたけれど、実際はそんなことは思っていなかった。すべての「友達」はFriend With Benefits だよなあと思い、その身も蓋もない感じがよく表れていて良い言葉だなあ、と思ったのだった。目の前でカフェラテを飲みながら延々と「FWB」について、その言葉の小賢しさおよび浅ましさを話している彼をみながら、わたしはこの友達に利用されている、と感じていた。休日に時間を割いて、相手の話にほどよく同調して、ときには疑問を呈しながら、けれど根本的には同意する人間の役割をするよう求められているなあ、とぼんやり考えながらレモンスカッシュを飲んでいた。ぱちぱちと喉の内側で炭酸が弾けた。休日のカフェはとても混んでいた。みんな他人を利用していて満足そうだった。
家に帰ると恋人がいた。恋人は洗濯物を畳んでいた。わたしは洗濯物を畳むのがひどく苦手なので、いつも恋人を利用して畳むことにしている。ソファに座って洗濯物を畳む恋人の後ろに無理やり体を差しこんで後ろからハグをする。背中の温もりを感じ、ぼくはその温もりで自分の淋しさを癒すことにする。別にこの人間じゃなくてもいい。でもこの人間じゃないと駄目なんだ、って顔をしていた方が彼はぼくをうまく利用してくれるし、ぼくも彼をうまく利用できるからそういう顔をしておく。利用されることが喜びであるというのが、自分にとっての「友達」と「恋人」の境界なのかもしれない。彼とはここ2年ほどまったく肉体的な接触がないけれど、Friend With Benefits感がある。先ほど、ぼくにとってすべての「友達」は「FWB」だと言ったけれど、「友達」はどちらかというとFriend With His Benefit もしくは Friend With My Benefit 感がある。双方にとっての利益ではなく、片方にとっての利益。
居酒屋で話を聞いてもらうとか、話を聞いてあげるとか、楽しいアクティビティをするとか、全部なにかしらの欲望がベースにあってその欲望に敏感すぎるからこんなことを考えてしまうのかもしれない。「わかって欲しい」「わかってあげたい」「なにも考えたくない」その欲望の満たし合いが見え透いていて人間って気持ち悪いなあとかって思うけど、本当は、ぼくが、誰よりも一番わかって欲しいし、誰よりも一番わかってあげたいし、誰よりも一番なにも考えたくない気持ち悪い人間なんだけど、そんなこと表明したって誰からも利用してもらえなくなるだけだから、今日も誰かをうまく利用できるようにせっせと利用してもらえる自分に磨きをかけているのです。しんどいなあ。
最近気づいたんだけど、食欲、性欲、睡眠欲、どれも満たされてるときってなんにも考えられなくなりませんか。おいしいもの食べたとき、「おいし~」しか考えられないし、性的なことしてたら知能0になるし、睡眠欲満たされてるときってつまり眠いから眠りに転じる刹那ってもう無。無、無、無、の連続で気持ち良く生きてきた人類に未来はない。
誰かを利用しなければ生きていけないならもう生きていたくはない。虚無になればいいのに、もっとからっぽになれよ。
*****
小説が進まないときに限って日記がはかどってしまう。
もっと日記らしい日記を書きたいのに、なにも考えずに書けるから日記は楽だなあ。
「しんどいなあ、と思いながら一日を過ごした。」から始めたから、その言葉につられた言葉が出てきて、またそこにつられた言葉が……的な感じで書けて/書いてしまう(だからしんどい文章になった)。本当は小説もそのようであるはずだけど、小説ではそれができないのなぜだろう。
このあいだ市街地ギャオと大田ステファニー歓人と福海隆と読書会の知り合い何人かと、大奥みたいなだだっ広い座敷で飲み会する夢をみた。深い臙脂色の座布団がいっぱい並んでて焦げ茶色の艶のある机がたくさん横に繋がって並んでた。真ん中のスペースには机なくて、座布団がいっぱい並んでいた。お盆にのった日本酒とか飲んでた気がする。目が覚めたとき、「なんだ、夢か。本当に飲みいきたいな」となった。ぼくにとっての仮想味方(仮想敵の反対語)は月なのだけど、市街地ギャオを仮想友達にしてしまっている気がする。実在する人物なのに、申し訳ない。
銀座で自撮りしたツイートは消すのに、『メスイキを知らない俺様に書けない小説があるような気がしている』という酔っ払いLINEは進んで公開するの面白すぎて帰宅中の電車でにやついた。
つまり、市街地ギャオに新しい小説を書けるようにするメスイキがこの世には存在するということ。
……へ? 市街地ギャオが他人の手によってメスイキさせられた場合、その他人は市街地ギャオにメスイキをさせたのみならず、小説を書かせたということになる。……ほ?
ぼくは他人を利用したくも他人から利用されたくもないので、まずは自分の体を自己の責任のもとで配慮し尊重し知ってゆきたいです。しんどくてもがんばってご自愛してこうね、寝ます。おやすみなさい。