デニムの半ズボンにTシャツという中学生のような格好では、服屋に入るのが躊躇われる。お洒落なブランドの店ならなおさら。
それでも、一緒にいる友人が「入りたい」と言えば、さすがに断ることはできない。
店の中にいるのは皆、服を買いに(もしくは見に)やってきた人々で、そんなときぼくは恥ずかしくなってしまう。
誰も自分のことなど見ていないと頭では思っているけど、売り場にある服を手に取ることすら恥ずかしい。
「あの格好であの服見てるの? 入るお店間違ってない?」
頭の中で、誰かの声が再生される。その声を遠ざけるのは、なかなか難しい。
今年の4月に、大阪市で30代と40代の男性カップルが養育里親に認定されていたことが報道された。
2人は2月から、市から委託された10代の子ども1人を預かっているという。
里親制度は、親の虐待や離婚などの事情でその家庭では暮らせない子どもを、一定期間希望した人の家で預かるという制度だ。
家庭が崩壊することを防止するということ、子どもがいずれその家庭に戻ることを目標として、もとの親の同意の下に別の家庭で子どもを一時的に預かり、養育する制度だから、根本的に養子縁組の制度とは違う。
児童養護施設で行われていることが、一般家庭で行われるようなものだ。
そのため、里親には国から養育費が支給される。
子どもが18歳になるまでのあいだに、もとの家庭の問題が改善されれば子どもはその家庭に戻る。もしくは、子どもが18歳を超えた場合は自立することとなる。
つまり、子どもは里親とずっと暮らすというわけではない。
もし子どもが18歳を超えても暮らしたいという希望がある場合は、そこから養子縁組を結ぶということも可能ではある。
里親になるために特別な資格は必要なく、希望する人が面接や実習を経て登録される。
里親はカップルである必要はなく、シングルであっても登録することは可能であるらしい(地域によっては、独身者の場合資格が必要であったり、年齢制限があったりもするそうだが)。
しかしだからといって、「誰でも簡単に、気軽に里親になれる」というわけではない。厳しい研修で里親になることで引き受けなければならない困難さや大変さを知り、辞退する人も少なくはないという。またプロによる審査も受けなければならない。登録された後も、実際に子どもが委託される人はごく一部ということだ。
さらに、子どもの側から、「この里親は嫌だ。児童養護施設に戻りたい」という要求があればその要求は通る。
この、男性カップルが里親に認定されたというニュースに関して、ネットでの反応は肯定的なものもあれば、否定的なものもあった。
否定的な意見としては、主に次のような発言があった。
『子どもがかわいそう。子どもの気持ちを一番に考えるべき』
『同性愛者の権利が主眼になっているようでは本末転倒。子どもを大人のエゴの犠牲にしてはいけない。子どもに健全な環境を与えることが最優先』
『親が二人とも男とか、子どもは絶対に学校でいじめられる』
このような否定的な意見に対して、ぼく個人はあまり賛同できない。
全体的に『子どものことをもっと考えろ』ということが言われているような気がするけれど、そもそも『子どものことを考える』とはどういうことだろう。
――子どもが「里親が男性カップル」ということを嫌がっている?
子どもの意思は里親制度を運営する上で確実に尊重されているはずだし、子どもが嫌がっているのなら彼らの下にその子は来なかっただろう。
――子どもの人格形成に、母親の存在が必要?
そう言う人は、子どもを産んですぐに妻が他界してしまった男性にも、同じことを言うのだろうか。女性の存在が人格形成に必要だから、そのままだとあなたの子どもは健やかに育ちませんよ、と? 根拠がないし、女性の存在よりも愛情の存在の方が遙かに重要なことのように思える。
――子どもは大人のおもちゃではないのだから、同性愛者が里親になるのは単に彼らのエゴ?
これに関しては、里親となった男性本人がコメントしている。
“里親制度というのは、『子どもを育む役割を引き受ける』ものです。『子どもがほしい』大人のための制度ではなく、子どものために『育つ家庭』を用意する、子ども中心の制度です。多くの大人が、家庭を必要とする子どものために、『育てる役割』の担い手になることに、関心を持ってもらえたら、と思います。”
彼は「子どもがほしい」ということではなく、「育つ家庭を必要としている子どもに、その場を与えたい」という思いが強い(制度としてもその色が強い)ということを言っている。これは完全にエゴではない。
エゴではないし、これはあくまでぼく個人の意見だけど、そもそも「子どもが欲しい」というエゴで子どもを持つことは、いけないことなのだろうか。
異性カップルにとっても、子どもをつくるということはエゴでしかないと思う。親の「愛する人との子どもが欲しい」という欲求で、子どもはこの世に生を受ける(違う場合もあるけど、日本ではこの場合が多いだろう)。
仮にもし今回のこの男性カップルが、「子どもが欲しい」という願望から、里親になったとして(里親は子どもを一時的に預かる役割であるから、「子どもが欲しい」という願望は本当は叶わないけれど)、それはどこが問題なのだろう。
「これまで同性愛カップルの里親は認められたことがなかったから、同性愛者の権利拡大のために里親になろう!」ということであれば、「大人のエゴで子どもをおもちゃにするな」という意見もよくわかるのだが、実際にはそうではない。
そもそも、今回の件では、先ほど述べたように里親はエゴの気持ちから里親になったわけではないようだし、さらには「子どもが欲しいという願望=エゴ」が「子どもをおもちゃにする」ということには結びつかない(だって愛し合った夫婦のもとに生まれた子どもはおもちゃだと思わないでしょ?)。
彼らはただのパートナーで、里親制度を使った。
事実はそれだけで、子どもが彼らのエゴの「犠牲になった」と考えられてしまうのは、ではどうしてなのだろう。
「同性愛者の両親(里親)の下で子どもが育つ」ということに問題を感じる理由は大きく、内的な部分と外的な部分の、二つに問題を分けられると思う。
内的な問題というのはつまり、「男性同性愛者の親の下では、子どもが健全な成長をしないのではないか」というような家庭内の問題(「子どもの人格形成に、母親の存在が必要なのでは?」という意見がこれにあたる)。
対して外的な問題というのは、「同性愛者の両親と子ども、という世間的には特殊な属性から、その子が不当な扱いを受けるのではないか」という家庭外の問題(「親が二人とも男とか、子どもは絶対に学校でいじめられる」という意見がこれにあたる)。
内的な部分の問題に関しては、正直、「ただの偏見だろ」と思う。
「子どもも同性愛になってしまう」なんて意見は問題外。性的指向は周囲からの影響でそう簡単には変わらないし、「同性愛であること自体が問題」という発想はどうしてそう思うかについてもっと考えてください、という感じ。
「健全な成長」がそもそも何を指すのかが不明確なところはあるが、グレる(未成年のうちに喫煙をする)とか女性恐怖症になるとか異常性癖の持ち主になるとか、そういうことを「不健全な成長」というのであれば、それは「養親が二人とも男である」という属性から発生した問題だとは言えないのではないか。
男女の親から生まれた「普通の」子どもであっても健全な成長をするかどうかは分からないし、子どもの(人間の)成長には非常に多くの要因が絡まっている。
健全な成長を妨げると「思われる」要因をひとつずつ取り除いていくことなど不可能だし(それを実行するためには、親は完全に正しい日本語で規則正しい生活を送り感情的になってはならず、みたいなことが必要? でもそれだと逆にグレそう笑)、それよりはグレた子どもにどう対応するか、女性恐怖症になった子どもにどう対応するかが重要だと思う。それに関しては「男性同性愛者」という属性はまったく関係がなく、親が愛のある行動をとってあげられるかが問題だ。
つまり、内的な部分に問題を感じるのはナンセンスなのでは? とぼくは思う。
そして外的な問題について。
『子どもはまず間違いなく奇異な目で見られる。これに対して里親は責任取れるの?』
『学校では絶対にいじめられるだろうね』
これらの意見に枕詞のようについてくる言葉がこれ。
『俺は別に偏見とか持ってないけど、世間が許さないよ』
Twitterでたくさんの匿名の意見が見られるようになったこの時代、これまではなんとなく感じているだけだった「世間」というものがよりハッキリと可視化されたように思う。
Twitterだけでなくインターネットの掲示板、ニュースのコメント欄、いたるところに「世間」は顔を覗かせている。
「世間が許さない」と言う人に対して、「世間が許さないんじゃなくてお前が許さないんだろ」と言う人がいる。
ぼくはあまりそうは思わない。
世間が許さない≒お前が許さない というより、 世間が許さない>お前が許さない という方が感覚的にはしっくり来る。世間の方が圧倒的に大きい何かだ。
「世間が許さないよ。学校ではいじめられるし、周りからは奇異な目で見られる」
たしかに、いじめられる可能性は否定できない。周りから奇異な目で見られる可能性も否定できない。
男性同士の里親を擁護して、それでその里子がいじめられた場合、ぼくはその責任をとれるのだろうか?
多分とれない。
というか、いじめを直接止めに行くことを、ぼくはできない。
その子がどこの学校に行っていて、何歳で、名前もなんていうのか知らなくて、それなのに無責任に、里子がいじめられる可能性の高くなりそうな男性同士の里親を認めてもいいのだろうか。
でももしここで、ぼくも「世間が許さないから」と言ってしまえば、「許さない世間」はさらに補強されるのではないだろうか。
「世間が許さない」と思う人が世間をつくり、その世間が他の誰かに「許されない」と思わせ、その誰かがまた世間をつくり、その世間が他の誰かに「許されない」と思わせ……
「世間」というのは実態があるようでない、集合意識のことだと思う。
個人の意識は集合意識に影響され、また同時に集団意識を構成してもいる。
だから、「世間が許さない」と言葉にすることは、「許さない世間」をつくりあげることに加担してしまっていることになるのだ。
それだったら、「世間が許さない」と言わないことから始めてはどうなのだろうか。
言わない代わりに、どうしたらもっと、その里子がいじめの対象にならないような社会にできるのか、男性同士の里親というのが、奇異な目で見られずに済むような社会になるのかを、考える。その方が「世間が許さない」と言うよりもよっぽど生産的だし、「許す世間」をつくる一歩になるのではないだろうか。
そしてそんな風に考え続けることこそ、責任をとることに繋がると思う。
「世間が許さない。もし問題起きたら責任とれんの?」
この台詞を、言いたくなってしまう気持ちはわかる。わかるけど、責任をとりたくない、とる気がない人の逃げの台詞でしかない。
きっと里親になったご本人たちだって、里親になる前にこんなことは腐るほど考えたに違いないんだ。
それでも彼らは、逃げずに勇気を持って立ち向かったんだから、足の引っ張り合いはもうやめて建設的な未来の話をしよう。ぼくはそっち側にいたいよ。
たくさんの意見がネット上で、そのほとんどが匿名の形で表明された同性カップルの里親のニュース。
匿名という名の世間に負けないで、「ぼくは認めるよ!」の声を上げたい。
小さくてもいいから上げたい。
もしも今度、ダサい服装のままお洒落な服屋に入ることがあったとしたら。
周りの目は気にせずに、気になると思うけど気にせずに、自分の気に入った服を手に取って見てみようかな、と思う。
それで友人に、「この服めっちゃよくない?!」とかって笑って話してみたい。