朝が来る

夜明けのまえに、外に出る。

青々とした藍色の空に、まだいくつかの星が出ていた。

誰もが眠りについていて、町はとても静か。ピロロロ、と鳴く鳥の声と、やわらかなスニーカーの立てるひそやかな足音がするだけ。世界に僕だけしかいないような気持ちになる。あまりに静かだから、手に持って出てきたiPodもイヤフォンを耳にすることなく、ぶらぶらと垂らしたまま歩いている。

電車の線路沿いの道にくると、家の屋根の向こうの空がうっすらと赤くなっているのが見えた。朝焼けが迫ってきている。

 

空の色が昔からとても好きで、高校生のころ毎日のようにガラケーで空の写真を撮っていた。季節や時間帯によって変わるその色や模様が単純に美しくもあり、「今日しかこの空模様は見られない」と思うと、画像として残しておきたかった。

友だちに、「空の写真撮る人って病んでるらしいよ」と言われてびっくりした。

「え、僕ほぼ毎日空の写真撮ってるんだけど」と言うと、

「めっちゃ病んでるじゃん」と笑われた。たしかに空の写真撮るのって、病んでるっぽいな、と思って僕も笑った。実際はめちゃくちゃ元気だった。

季節の変わり目や朝焼け、夕暮れから夜にかけての空が特に好きだった。景色の淵が赤く色づいていて、そこから紫や藍色の空が広がっていく。春はピンクとか水色とか、ぼんやりとしたパステルカラーが多いのに、夏になるにつれて透き通ったような青や赤など、はっきりとした色合いになるのもおもしろい。

千葉に来てから、空の写真を撮ることはしなくなった。

「千葉の空は狭いなあ」とよく思う。仙台の空はもっと広かった。空の広い土地が好きだ。こっちに来てから、歩道橋や線路沿いの道が好きになったのは、空が広く見えるからかもしれない。

空の広い場所で綺麗な空を見る度に、「自然の美しさに人間は勝てないなあ」と、おじいちゃんみたいなことを考える。

でも本当にそう思う。

早朝の空は特に、なんだかとても大きな力に包まれているような、自分の魂がとても自由だというような気分になる。どんな未来にもできる、「今日」という日を何色にでも塗れる、清々しい自由さだ。

 

夜明け前の静けさに満ちた町を散歩していたら、刻一刻と空は変化して、いつの間にかきれいに晴れた眩しい朝が来ていた。車の通りも少し多くなって、人々が活動を始める。

朝の光の、暴力的なまでに希望に満ち溢れた眩しさ。強制的にリセットさせられる光。

朝に日光を浴びると、幸福感が増したりやる気が出たりするらしいけど、本当にそうだ。お天道様の力はすごい。喜びのスイッチが無理やりにでも押されてしまう感じ。

夜があって朝がある。哀しみがあって喜びがある。

当たり前だけど、うまくできてるよなあ、と感動する。人間も自然の一端なのだと実感する。

座席のあるコンビニに行って、お味噌汁を食べながらガルシア=マルケスの『百年の孤独』を読み始める。読み進めるうちに、うとうとしてしまったからコンビニを出て、YUKIの『朝が来る』を聴きながら家路につく。

帰る途中に見た、綺麗な朝の光は写真に写さなかった。