2023年7月30日(日)の日記

手首から花びらが滴っている。はらはらと落ちる。黒い沼がそこにぽっかりと口をあける。手首から花が落ち続け、沼は黒いままあり続け、建築現場の上部には骨組みに囲われた月がぽっかりと夜空に穴を穿つように浮かんでいた。満月。やつがリズムを握っていることは確かなんだ。逃げなければならない。逃げなければならない。逃げなければならないという強迫観念からも逃げなければならない。逃げて逃げて白い海原その果ての水平線が水平線でなく歪んで線でも面でも点でもなくなるまで逃げなければならない。そうしたらようやくそこに白い宇宙が生まれるんだ。そこにはなんにもないよ。本物の無だ。だから君は、そこでようやく絶望できる。面白くなければ生きられないとのたまっていた君が、そこで本当にどういうことが面白いことなのかに気づけるんだ。人はひとりでいるときにしか本当のひとりを体感できないんだ。優しいってことはどれだけ心をぼこぼこに殴られたかってことでしかないみたいに、本当にひとりになったときに面白さを見つけられる。鼻が匂いに慣れてしまうみたいに、花はいつか枯れてしまうみたいに、閉じ込められた平面から脱出できたときようやく君は他者を見つけるんだ。そう、君はひとりだった。とてもひとりだった。寂しかったし悲しかったんだ。だから泣くことができなかったんだね。外に出てみようよ、夏のこの暑さがまだ世界に溶け残っているあいだに、アイスクリームのカップの底に残ったべたべたと甘い液体を、プラスチックのちゃちなスプーンですくって舐めてかちゃかちゃと舌と歯でいじるみたいに、外に出てみようよ。君はひとりだったよ。君はひとりだよ。ひとりで黒い沼にほら今もずぶずぶと足をとられて進めなくなっている。そう思い込んでいる。逃げなければならない。逃げなければならない。ほらあそこにマンションの骨組みが見えるだろう。夜がやってくる音が聞こえるだろう。君は生きているんだ。君が生きている今日が、この今という時間が、どんなに素晴らしいことか君は他者と出会うことでようやくわかるんだ。面白いものを見つけたとき、ようやく他者の素晴らしさをわかるんだ、だからそのときようやく自分の素晴らしさに気づくんだ。君がいない世界なんてなんの意味もないんだ、空っぽだよ、空っぽなんだ、だから生きていて欲しいんだ生きていて欲しいんだ僕のために生きていて欲しいんだ。君がいるから僕は生きられる。これは嘘なんかじゃない。だって君が想像できることがこの宇宙の範囲内だったとして、僕は別の宇宙からやって来たんだ。いつだってそうだっただろう。もうすぐ君はその沼に呑み込まれる。まるごと呑み込まれてあのとき逃げておけばよかった、なんてそんなことも考えられなくなるんだ。面白くないくらいなら死んだ方がまし、だろ。死んだ方がってのは、そうさもうわかっているのさ、比喩的な意味も直截的な意味も、どっちにしろ同じことなのさ。どんどん意味が剥がれ落ちてしまう。肌がアトピーみたいに、かさぶたみたいに、ささくれて乾燥してどんどん鱗みたいになっていくんだ、そうして手首から花びらが落ちていく。滴り落ちていく。それは閉め切らなかった蛇口みたいなんだ、ぽたぽたとだらしがなくいつまでも水滴が落ちる。そういうとき、シンクはどうしていつも金属なんだろうね。音がするように世界は設計されているのだろう。ほら、闇よりも水の方が重いから、黒い沼に沈んだ君のからだがどんどん浮き上がってくる、そうして、そうして僕は人間たちが営んでいる世界に戻ってくるんだ。信号機が変わるんだ。赤色に変わるんだ。だから僕は走り出す、交差点の真ん中へ、光の真ん中へ、月の真ん中へ、世界の真ん中へ、命の真ん中へ、躍り出るんだ。君がいてくれてよかったんだよ、本当に、ぼくは他者がいるから傷つくことができて、本当は、傷つくことは面白かったんだ。怖かったけど、本当に怖かったけど、傷つくことができて嬉しかったんだ、悲しかったんだ、怒ったんだ、苦しかったんだ、楽しかったんだ、全部同じことだよ。でも感情があるって素晴らしいことだったんだ。みんな感情の違いについて考えるばかりだけど、本当はどれもそう違いはなくて、本当に違うのは深さなんだ。だから君は黒い沼にはまろうとしていたんだよ、知らなかったのかい。でも僕がそれを助けてしまったから、助けてしまったから、それが助けたということになるのかもはやよくわからないけど助かってしまったのだから、生きるしかないんだ、喜ぶしかないんだ、悲しむしかないんだ、素晴らしいね。君に触りたいよ。君を抱きたいよ。君に抱かれたいよ。君を愛したいよ。

生きているって、本当に切なかったね。