2021年11月15日(月)の日記

書く書く書く書く。書かなければ意味がない。

角角角角。言葉は角があっていつだって何かを捨象する。

核核核核。自分の中に深く潜って宝物を探す。捨象されない何かを探す。深く潜るほど辺りは暗くなり、光は鮮やかになる。だいたいは息がつづかず、諦めて浮上するはめになるのだが。

孤独であることにしか希望を見出せなくて、生きている限りは全員ひとり残らず孤独なのに、孤独を見て見ぬふりするみたいなのは単純に好みでないのだ。孤独を肯定したい。孤独に肯定したい。ただそれだけだ。孤独は別に肯定すべきことでも否定すべきことでもなくてただ平坦な事実でしかないのだけど、私は弱くて、すこしでも足元がぬかるんだ瞬間に孤独が恐ろしくなってしまう。孤独から逃げてしまう。人間が孤独であるということはただの事実なのだから、目の前に立ちはだかる事実から逃げるなんてことの方がただ絶望なのだけど、人間は虚しさに足を取られると途端に孤独を耐え難く感じるものなのかもしれない。本当に恐るべきことは孤独から目を逸らすこと。でも私は弱い。この世界には孤独から目を背けるきっかけが無数に散りばめられていて、世間的には称賛されていることさえあるから、常に意識しなければならない。孤独から逃げたくない。だから、孤独を肯定したい。否定しないために。そのために書くのだ。恐いから。弱いから。好きだから。希望だから。光はいつも内側にあり、内側にあることに気づくから外側の光がわかる。

 

21歳になる直前、ぎりぎり20歳のときに書き始めた小説の書き出しは、「東京の夜の空は羊羹みたいだ。孤独と幸福を押し固めたみたいに、やわらかくて底無しに甘い色をしている。」だった。夜中まで、国道沿いのサイゼリヤに行って、重くて分厚いパソコンに向かってひとりで書いていた。帰りに自転車でびゅんびゅんスピードを出して風を切ったり、音楽を聴きながら歩道橋の上から行き交う車を眺めたりした。歩道橋の上が好きで、たくさんの人生が交錯しているような感じになるのと、空が広く見えるという理由で好きだった。あと、ひとりになれるから。藝術が好きなのは、きっとひとりになれるから。誰といても、絵画を目の前にするとき、小説を読むとき、音楽を聴くとき、「作品と向き合う」という真摯な気持ちでそこに立てば、私はひとりになれた。作品は私をひとりにしてくれた。作品と一対一。それ以外に何もない。ゾーンに入れれば、作品や作者と対話を行うことだってできる。優しく慰め合うことも、血みどろの喧嘩をすることも、何もせずただ見つめ合うこともできる。これ以上ロマンチックな時間を知らない。だから藝術が好き。

 

別に他人なんてどうでもいい、と言えば、その言葉が本当みたいになる。何よりも他者が大切、と言えば、それも本当のようになる。ぜんぶ嘘だしぜんぶ本当。そんなの当たり前だよ。

だから私は、本当「っぽい」ことじゃなくて、本当のことを知りたい。本当のことっていうのは、孤独。本当のことっていうのは、自由。本当のことっていうのは、愛。ほら、ぜんぶ違うことを言っているみたい。口ではなんとでも言えるの。黙って書くしかない。言葉なんかでは捉えられそうにないものを、言葉を使って浮かび上がらせるの。全然足りない。書く書く書く角核カク描く書く。