2021年12月28日(火)の日記と孤独と年末

朝、目が覚める。カーテンは開けたままにしており、すりガラスごしに水のような光が部屋にあふれる。部屋の空気が、つめたい。ふとんのなかは、ぬくい。ぬくぬくとした空気と戯れる。

今日は、休みだ。

お休み最高。ふっふー。羽毛布団と、戯れる。たくさん眠った、でもまだ眠い、寝ていたい。朝のこの眠い感じは、「ま行」もしくは「な行」だ。そして母音は「う」だ。ぬくぬく、あるいは、むにゃむにゃ。ぬむぬむ、でもいいかもしれない。

意を決してふとんから出て、リビングへ。ふとんのなかは弛緩しきった空気が充満していたが、リビングの空気はすこし張っている。窓の外はきっと、もっと張り詰めている(そしてぼくはピンと張った空気が好き)。冬の空気。

バインミーを食べたいので、下北沢のバインミーバーバーへ向かう。Google Map情報で9時開店だと思ったが、9時ぴったりに着いても店は閉まっていた。公式のホームページを確認すると、営業時間は10時から、とのこと。せっかくだから、下北沢を散歩することにする。

朝9時の下北沢は、お店がほとんど開いていない。防寒対策に重たいアーミージャケットを着て手袋をし、ファーの耳当てが付いた帽子までかぶっていたので、時折すれ違う人に見られた。まだ開いていない店の窓ガラスに映る自分の姿を認めると、たしかに、「北極に行かれるのですか?」といった風情だった。

イヤフォンをして、aikoを流す。昨年、結婚をしたというaiko。“秘密” というアルバムの、“学校” という曲を再生する。歌の初めが、『朝9時 雲が前へ進む あたしも家を出る』という歌詞なのだ。いまは9時20分、この曲のなかでは、ちょうど通学の時間帯。

軒先に植物の並んだ花屋の脇を通る。生きている植物は良い。このあいだIKEAに行って、造花ゾーンのところを通ったら、なんだか気分が下がった。スピリチュアルなことを言うつもりはないが、生きている花の方が、造花よりもよっぽど気分が上がる。昔はそんなこと感じなかったのにな。花屋の軒先には、デイジーが咲いていた。そしてたくさんの緑が並んでいた。植物の匂いがする。店員と思しきお兄さんの横を通る。aikoは、『生まれて初めて こんなに逢いたい』と歌っている。恋をすると、心に風穴が空いてそこにパラパラと綺麗なものが入ってくる。風穴のなかは真空で、だから物事すべてをとてもビビッドに感じる。道路のアスファルトすら白く見えるような朝の光や、抜けるような青い空と、冬のあっけらかんとした空気。車が向こうから来て、すれ違う。誰もいないみたいな、休みの日の朝の下北沢。aikoの歌を聞いていたら、自分が20歳かそこらの、ひどく自由気ままで生意気な男の子に戻ったような気がした。

道すがら、いくつかの美しい光景を見た(知らない人の家の、塀の内側から伸びた木の先にたくさんの柿がなっていたこと。それをついばむ鳥たち、空の青さ。それから、居酒屋の前に積まれた発泡スチロールに小さな四角い穴が空いていて、そこから大ぶりな魚のしっぽが見えていたこと。なかを覗き込んだら氷がたくさん入っており、鮪と思しき立派な魚が横たわっていた。外から見ると、穴からはみ出た魚の尾っぽだけが縦にちょんちょんちょん、と並んでいて、愛らしかった)。散歩しているうちに9時40分をまわっていたので、バインミーバーバーへと戻る。

開店時間にはまだ早いが、店はすでに開いていた。バインミージョートゥーと、ベトナムコーヒーを購入する。待っているあいだ、店のおばちゃんが温かいハス茶を渡してくれた。冬の朝によく似合う香ばしさで、その心遣いがありがたかった。帰り際、「この店って何時から空いているんですか」と訊くと、「9時くらいから」ということだった。どうやらGoogle Map情報は正しかったらしい。10時になら絶対開いているが、9時くらいからやっているよ、ということなんだろう。

家に着いて、ガスヒーターで温まった部屋のなかで、バインミージョートゥーを食べる。パクチーと、ヌックマムが効いていておいしい。そういえば、「ヌックマム」という言葉も、朝のまどろみを表す言葉としては適切かもしれない。ぬっくまむ。まだ眠いよう、ぬっくまむ。むにゃむにゃ、ぬっくまむ。

ベトナムコーヒーは、練乳が入っているだけあって、大層甘かった。

 

 

年の暮れも押し迫ってきており、今年はどんな年だったろうな、ということを考える。今年の初めには、ブログで「孤独の時代2021」という文章を書いた。直近のブログを読み返してみても、「孤独」という言葉を多用しており、孤独を意識した一年になったのかな、と思う。先日、友人とバーミヤン(「100日発酵」紹興酒5年熟成が一杯99円など、アルコール類がはちゃめちゃに安かったのだ)で7時間ほど飲んだときに、「孤独という言葉を、そんな風には使ってなかったな」と言われた。どういう文脈だったか忘れたが、びっくりした。目から鱗、という感じがした。ぼくは「孤独」という言葉や概念が好き過ぎて(そして嫌い過ぎて)、「孤独」ということの意味について、それこそ自分のなかだけで100日発酵5年熟成くらいしているから、ぼくは「孤独」という言葉をあまり一般的な意味で使ってないのかもしれない、と思った。

日本語で「孤独」、というと、その言葉は「寂しさ」や「孤立」などの言葉の近くに位置づけられる気がするが、ぼくが思う「孤独」はその「孤独」ではない。日本語の「孤独」は英語で言うところの “loneliness” に近いイメージがあるが、ぼくが思う「孤独」は、きっと “solitude” の方なんだと思う。“solitude” の意味も和訳すれば「孤独」になるのだけど、“loneliness” よりももっとニュートラルで、善い意味とか悪い意味とかじゃなくて、事実っぽいというか、ただ「ひとり」であるというだけ、というか。「孤独」であることに意味づけするのは人間の方で、「孤独」自体に意味は特にない、というそっけなさが、ぼくは好きです。だから、孤独であることは寂しいことでも、楽しいことでもない。そして同時に、孤独であることは寂しいことにもなり得るし、勿論、楽しいことにもなり得る。

孤独を意識した一年にしたい、と思ったのは、「他人は変えられない」ということを、もっと体の芯から理解したいと思ったからだ。ぼくにとっての「孤独」は、「他人は(ぼくの思う通りには)変えられない」ということと非常に密接に結びついていて、それは逆に言えば、「他人がぼくを変えることはできない」ということだ。それをよく理解しないまま生きていると、誰かを支配しようとしたり、支配されようとしたりして、人生がどんどん苦しく、虚しいものになってしまうと思った。

この一年間で、孤独を体の芯に叩き込めたか、と言われると、心もとない。まだまだ他人を自分の思うがままにコントロールしたくなったり、思い通りにならない他人に苛立つ自分はいなくならない。それでも、思い通りにならない他人を受け入れる心の広さ(他人はぼくの思いも寄らない思考回路をしているので、衝動的に反発することなく一度相手の考えをじっくりと聞き入れようとする姿勢)や、苛立つ自分を認める余裕を、すこしずつ手に入れているようには感じる。すこしずつ、本当に、すこしずつ。

孤独について考えを深めるにあたって、「自分を変えられるのは自分だけだ」と強く思っていた時期があった。それはいまでも、本当にそうだなと思う一方、そうではないと思う自分もいる。人間は「変えるもの」ではなく、「変わっていくもの」なのだ。他人であれ自己であれ、人間を「変える」という発想自体が尊大だと、最近は感じている。ぼくは数年前の自分とは大きく変わったが、それは自分が「変わろう」と思ったからであり、同時に、他者との関わり合いや自己と向き合うなかでおのずと「変わった」からでもある。自然に変わっていくぼくを、変わっていくあなたを、否定しないであげたい。2021年は自分のなかに潜む欲望の取捨選択の年にもなったけれど、自分のなかの「喜びたい欲望」「笑いたい欲望」は捨てずに取ってあるので、必然、変わることを肯定する必要が出てきている。ここについてはまだまだ、修行途中である。

ぼくは孤独だから、他者を変えられないけれど、世界は変えたいなあと思う。他人を変えるのは尊大、とか言っておいて、さらに尊大(もはや傲慢)なことを言ってしまうが、世界を変えたい。自分が変われば世界は変わるのだけど、そういう意味での世界変革はもう完了していて、ぼくはもう十分に幸せだし、自分についてはもうほどほどでいいやと思っている。もっと他人に幸せになって欲しい。他人は変えられないけど、他人が幸せに変わるための環境づくりについては、ぼくにできることがたくさんあるはずだと感じている。「幸せ」というのは、「なにかをありがたいと感じられる心の状態にあること」なのかな、平たく言えば「感謝すること」が幸せなのかなと思っているので、感謝できるきっかけをつくることができたらいいなと思う。ぼくはいま、本当に幸せで、それは周囲の愛する人やアーティストや環境や偶然に対して、本当にありがたいと感じているからで、そうであるなら自分が愛する人にもっと愛を与えたり、素晴らしい藝術を創造して発信したりできれば、世界は変えられると思っている。言霊というものがあるなら、ありがとう、と言う度にぼくは幸せになり、ありがとう、と言われる度にぼくは誰かを幸せにしている。ありがとう、をもっと増やしたいんだよね。

 

 

2022年はどんな年にしたいかな、と考える。

いまのぼくの目標は、「もっとオーダーメイドな人間になりたい」ということで、相手にとってのオーダーメイド、それは相手の声を、言葉を、気配を、命を「聞く」ということ。2021年の反省として、孤独を誤読して、「尊大な孤独」とでも呼ぶべきものになってしまったことが度々あった。まだまだぼくは未熟者だな、と思ったので、もっとオーダーメイドしたいです。

相手と対面でコミュニケーションするときに、このブログ書くときみたいな思考回路が働くと、自分の内へ内へ、ひいては真実へと向かう言語になってしまうため、言葉の矢印がまったく相手に向かなくなり、相手と対面で話しているのに相手に向かって話していない、という非常に失礼な状況になってしまう。もっと相手の話をしっかりと聞ける人間になりたい。自分の内へ内へ向かいたくなる欲動、その内側を曝したいという露出狂じみた衝動は、藝術に落とし込もうと思った。その方がうまく伝わる(意味ではなく美しさが)し、本意だ。

オーダーメイドであるためには、自由でいなければならない。体感としては、時代の感じはどんどん不自由の時代になっていると感じますが、もっと孤独を強く胸に抱いて、自由にいたいね。自由は孤独にしか宿らない。ほら、SNSとかって不特定多数に向かって放たれた言葉であふれてるからさ、誰もあなたのための言葉なんて言っていないですよ。誰に向けられた言葉でもないものに、勝手に刺さってても虚しいと感じるのは道理だと思う。公共の場所だしさ、表現はやすりで削られた安心安全なものになりがちだし(やすりで削られていないものを公共の場に放ったら、不用意に誰かを傷つけるだけだから不適切だと思うし)、ほら、やっぱさ、密室で会おうよ。本当はもっと捕まえられたいでしょう。もっともっと、あなたのことを捕まえるために、独創的で創造的でオーダーメイドな関係を築きたいよ。2022年はきっと、自由の年。そして関係の年。

そこのあなた、どうか健やかな年末年始をお過ごしください。仙台は雪がたくさんあって空気がしんと澄んでいて最高だよ。おやすみ。