「孤独の時代2021」

孤独だ。孤独だなあ、と思う。孤独は気持ちいい。たまに孤独を受け入れられなくなる。それでも私は私の孤独を守りたい。

 

2021年になった。Twitterでめっきり呟かなくなった。結局、SNSなんて自分がどう見られたいか、というところに私は落ち着いてしまう。向いていないのだと思う。どう見られたいか、というのは、私が私からどう見られたいか。その理想はあっても、私は文字でどう見られたいかを表すのが苦手だ。文字で表現を行うときには、自分を表現するのではなく、すべて詩にしてしまいたくなるから。私がどう見られるか、だったのが、詩がどう見られるか、になり、詩はどう見られるかではなく常に私がどう世界を見るかということの表現でしかないから、ツイートは私が見られたい私ではなく、中途半端な詩になってしまう。それならいっそ、初めから詩を書いた方がマシだった。私は他人から肯定されたいから「いいね」をたくさん貰えたらそりゃ嬉しいけど、詩は、お前なんかにわかってたまるかと思うから、「いいね」なんてされたくなかった。嘘。「いいね」されたら嬉しいけど、「いいね」ってなんだよ。なにを思ってどう感じて「いいね」なんだよ。そこの細かいニュアンスなしの「いいね」しか受け取れないヘッポコ感受性しか持ち合わせていないわけではない。

言葉というのは、高尚なものだ。取扱い注意の魔法だ。呪いだ。ただの音で、文字で、枠組みで、組み合わせていくことで言葉は言葉と言葉のあいだ、枠組みを超えたなにかを捉えることがある。それはまるで魔法だ。魔法に魅せられたまま歳を重ねてここまでやってきた。どんな枠組みにも嵌められない、私という不思議な存在や、あなたという不思議な存在が、通過してきた様々を今、捉えたくて、言葉という道具を虫取り網のように振り回すけど、網目をもっと細かくし、正確に虫取り網を扱わなければそれは捉えられない。

 

「わかる」という動詞について、長いこと考えてきた。「わかる」の目的語に、人がくることはあるのだろうか。

それなりに考えたが、今の私の答えとしては、ありえない。人が人を「わかる」なんてことは、絶対にありえない。ひとつひとつ、丁寧に誠実に「知る」を重ねておよその輪郭を理解することは可能だと思うし、人が孤独だからこそ、言葉というものを獲得したのだし、それは愛だ。孤独を消し去る魔法で誰かが誰かを「わかる」とき、その魔法は自由を殺し、その誰かを奴隷へと変える。誰かをわかってはいけない。他者がわからないから、私たちは礼儀を持ち合わせる必要がある。そんなことは当然で、大前提なのだ。

 

欲望の奴隷になってはいけない。欲望を抱く心を無視してはいけない。「わかりたい」なら、「わかりたい」という欲望を持っていることに自覚的にならなければいけない。ひとりひとりが違う出身地、違う生年月日、違う性別を持ち、違う環境、違う物語、違う人生を生きているということを尊重したい、「尊重したい」も欲望だけれど私は生まれたときに「愛したい」という欲望を抱いてきてしまったので愛に生きるまでだ。

 

愛のためには自由が必要で、自由のためには孤独が必要です。

もっと自由になりたい。2021年、あの頃からしたらとても未来、あのときからしたらとても過去、今は「風の時代」とやらだそうですが、私には「孤独の時代」です。

私の孤独を守って、自由な、詩を書いていきたい。