2022年5月29日(日)の日記

電気を点けたままリビングで寝落ちてしまっていたから、朝方ベッドにもぐって眠り直す。起き抜け、自分の魂が上空に浮かんでそのままどんどんと上昇し、大気圏を突破して宇宙空間に飛んでいくというイメージを持った。夢ではないが、想像ともまた違った感覚。宇宙空間でぼくはたったひとり(というか魂なので、たったひとつ、という感じ)、そのとき胸に去来するのは不安なのか自由なのか、不安だとしたらなにが不安なのかを見つめ直す。ぼくは自由なのだ、と言い聞かせてみる。なにが不安なんだい、と自分に問いかけてみる。死ぬとき、どんなに愛している人がこの世にいても、いなくても、ぼくはたったひとりでこの世を去らなくてはならない。なにも残してはいかれない。あらゆる絆や執着は、手放していかなくてはならない。いつか手放す。それは大事にしないことではなく、むしろ毎日を大切にすることに繋がっている。悔いを残したくはない。いつか死ぬから、そしてぼくはそれを悲しいと思うから(そしてちょっぴり淋しいと思うから)、いまを精一杯生きる。大げさなことではなく、真剣に生きる。すこしずつ成長したい。まだ怖がる自分がいる。なにが怖いんだろう、と、また問い直す。自由を感じられるようになってから起きる。自由を感じられること、それは、良い予感を感じることに繋がるのだと思った。それは、ワクワクするということ。死ぬまでワクワクした~いわ~(YUKI)。

 

 

五月にしてはとても暑い日だった。昼間に外に出ると日差しの強さに目が眩む。

きのうは夜遅くまで読書会の人たちとZOOM飲みをしていたから今日は遅起きで、ゆっくり眠っていたら正午過ぎになっていた。読書会ではぼくの大好きな『愛するということ』(エーリッヒ・フロム著)が課題本だった。面白い会だった。英語タイトルは “The Art of Loving” だ。アートの語源が「アルス」という言葉で、「技術」という意味を持つのだが、特殊で専門的な技能のことではなく、それがないと共同体が成り立たないというような、必修のものとしての技術、という意味らしい。たしかに、愛は人類の必修科目なのかもしれない。

戦争で、ロシア国内ではどんな小さな独立集会でも徹底的に潰されているのだと聞いた。人間はどこかに所属していたいという欲求があるから、国家や国家の下位組織以外の独立集会が成立してしまうと、その独立組織への帰属意識を持った人間が国へ反旗を翻すかもしれず、どんなに小さな集会であっても独裁者にとっては脅威なのだそうだ。そういった集会が禁じられてしまえば、自分たったひとりだけが「はぐれ者」として国家に反逆する、という選択肢しかなくなるが、そんな重圧を抱えながら生きるのは容易なことではない。プロパガンダの仕組みも同じことで、「いまこれがメジャーな価値観です」「これが多数派」ということを先に提示することで、もしその情報を受け容れる側がほかの情報へアクセスできなくなっている場合、現状がそうでなくともあとからそれが現実になっていくそうだ。人間は孤独に耐えられない。

ぼくは常に孤独を感じるし、もしも愛がなければ発狂してすぐにでも死んでしまうと感じる。「現代においては死ぬほどの孤独なんて存在しないのでは」と言っている方がいた。「孤独ってそんなに悪いことなんでしょうか」と。ぼくも孤独が悪いものだとは思わない。正確に言えば、良いとか悪いとか価値判断を下すのはその人自身で、「人間が孤独である」というのはニュートラルな事実だと思う。良いものにも悪いものにもなり得るもの。主催の方が「孤独という言葉の意味が、使う人によって違うのかもね」と言っていた。そうなのかもしれない。でもそうか、みんながみんな死ぬほどの孤独を感じているわけではないのか、と、まあ当たり前なのかもしれないけれどそんなことを思った。

ぼくにとって、孤独はいつでもここにあって、畏敬の念を抱くほどに恐ろしいもので、それとたったひとりで向き合わなければいけないことが不安で、弱い自分にとってはときに持て余してしまうもので、だからこそ人や自分に優しくしようと思える源でもあって、大事にしたいものなんだと改めて実感した。ぼくにとって、孤独と自由と愛はひとつのセットだ。孤独がなければ自由も愛もない。『愛するということ』、ほかの方も仰っていたけど、たしかにぼくの価値体系があの本によって組み変わっているのかもしれない。価値体系が変わるということは人生が変わるということだ。ぼくはあの本を読んでから、愛とは成熟した人間の世界に対する態度であるとずっと考えている。愛のある人のことを見て、愛のある人の話すことを聞いて、愛のある人の創り出す藝術に触れて、ぼくは生きる勇気をもらってきたから、ぼくも愛のある人になって周囲に勇気を与えたいと思う。人間としての成熟をいつも一番に考えている。

 

 

昼過ぎに起きたあと、キャロットラペと胡瓜のみそ和えと納豆、母親が送ってくれた茄子の漬物と餃子で昼ごはんにした。キャロットラペは簡単でおいしい。酢と同量のオリーブオイル、砂糖と塩、たっぷりのこしょう。これだけでいくらでも食べられる。

夜はこれまた母親の送ってくれた鶏もも肉を照り焼きにした。醤油とみりんと酒と砂糖。焼くのはヘルシオにお任せして、ちぎったレタスと薄切りにした林檎を添えた。

しなければならない振込みや掃除、洗濯をこなし、股関節のストレッチをし、木村カエラのアルバム「いちご」を初めて歌詞カードを見ながら聴いて泣き、自分でつくったごはんを食べる。当たり前の生活かもしれないけれど、それが一番大切。生活力がない、という自覚があるから、自分できちんと生活をできるようにしていきたい。退屈しないこと。散漫でまとまりを欠いた生活ではなく、規律を保った生活を送ること。これも愛するために必要なこと。

 

 

年齢も、性別も、名前も、経歴も捨てて、まるのまま、自分がそこにいるのなら、ぼくはそれでも軽やかに笑って立っていられるだろうか。「勇気」という言葉にピンとくることがしばらくなかったけれど、いま一番欲しいものは、もしかすると勇気なのかもしれない。もっとたくさんの素晴らしいものを見て、勇気をもらいたい。自信を持ちたい。

久しぶりに10分ほど瞑想をしたけれど、やはり全然じっとしていられなかった。10分後にセットしたタイマーよりも先にヘルシオが「鶏ももの照り焼きできたよー」という合図のピピピを鳴らしたのですこし笑ってしまった。宇宙空間にたったひとりだとして、うろたえず笑っていられる強さが欲しい。おやすみなさい。