2022年5月30日(月)の日記

朝目が覚めたときから、頭の中にYUKIが歌う『漂流教室』が流れていた。銀杏BOYZの曲をYUKIがカバーしたやつ。家を出てピカピカの朝の光の中、駅までの坂道をこの曲を聴きながら走った。世界はただ輝いている。当たり前の景色の中に、どれだけの幸福が含まれているだろう。

ついさっき一瞬外にゴミ出しに出たら犬が光っていた。首輪かなにかにピカピカ点滅するライトをつけられた犬が二匹散歩していて、一匹は赤、もう一匹は青に光っていた。「え、なんで?」みたいな顔をして歩いている様はかわいらしかったけど、ずっと視界に点滅する光があるのは犬側からしたらえらく迷惑なんじゃないだろうか。犬が車にひかれたりしないような安全装置なんだろうか。

 

 

言うべきことを言う、ということが苦手なんだけど、今日は仕事でそれができた気がする。頭の回転が遅いので、瞬発的に言うことはできないのだけど、ねばって、現状の問題点を伝えられた。不必要に阿らず、やるべきことをやるのである。仕事なのだから。愛想よく、って、それは処世術かもしれないけど仕事の目的は別の場所にあるはず。もっと考えるべきことがあるのだ。仕事は他人と共通の目的に向かってやっていく場だから、学びの場だ。苛々したり怒ったり悲しくなったり、そういうのがなにもない場所でのんびりやるよりも、そういう感情が発生する場にいることで学べることって絶対ある。ご機嫌に余裕を持って生きたい。仕事以外のときはご機嫌余裕しゃくしゃくだけど、仕事のときはそうじゃない、って、なんか違うと思うから。

 

 

自分が誰か人の話を聞いたときに、その人が「辛い」「苦しい」を言う前から「辛かったね」って言いたくない。ぼくは、それをよくやってしまう。その人が辛いか苦しいかは、その人が決めることであってこちらが決めつけることじゃない。寄り添うのって正しいのかな。もっと寄り添って欲しい。もっと寄り添いたい。「寄り添いたい」という欲求を、「わかってほしくなんてない」人間にぶつけてしまえばそれはもう暴力だ。優しくしたい。優しくされたい。人間が人間を「救う」なんてことができるのかな。ぼくは誰も救えない。救えないけど一緒にならいられるよ。肉体で。言葉で。同じ地球で。ね、そうだよね。

 

 

通勤のとき、いつも同じ時間に会う白杖の方がいる。通勤の時間ってみんな急いでるし、どかどかぶつかるし、けっこう容赦なくって、見かけたときは「一緒に歩きましょうか」と言う。ぼくと一緒に歩いているとみんな意外と道をよけてくれる。ぼくと一緒に歩いているから、ではないのかもだけど。はたから見たときにはぼくが「助けてる側」で、白杖の方が「助けられてる側」になるのかな、と思うけどなんか癪だ。いつだって助ける側は、助けることで「自分が誰かの役に立てている」「自分には価値があるのだ」と思わせて「もらっている」。助けられてる人は、助ける人を助けさせてあげている。助ける側の方こそ感謝をするべきじゃないか、とよく思う。同じ時間に通勤(向こうは通勤じゃないかもだけど)する人としての親近感だけでなく、感謝させてもらっている敬意みたいなのがある。強者と弱者、みたいな構図はいつも違和感があって、切り取る側面でそのように見えるだけで、人間は全員が対等であるはずだ。

 

 

変えられないもの。他人・過去に起きた事実・瞬間的な感情。

変えられるもの。自分・過去に起きた事実の解釈・思考・言葉遣い・行動。

未来はまだ起きていないから、変えるも変えないもない。変えられるものに属する思考は行動になる、行動は習慣になる、習慣は運命になる。運命は変えていける。人生は変えていける。変わっていくのが人生、とも言える。

変えられない宿命というものがあるとして、生まれた場所、家族構成、その他諸々、そうかもしれないけど、人生は自分で変えていけると思う。かわいいはつくれる? 知らないけど、人生の方がつくれる。すべてが思いのまま、ということではなく、思い通りにならないことばかりでも、人生はつくれる。物語はつくれる。好奇心でも攻撃性でもいいから生きて生きて生きて、いつかあなたの話を聞かせてほしい。それを見たい聞きたい味わいたいというぼくの好奇心がぼくを生かしていく。

すべての偶然に意味なんかなにひとつなかったとしても、愛と未来の詩をうたおう。意味のある偶然を紡いでいこう。同じ時代、同じ地球にいる、同じ人間。ぜんぜん違う人間。たったひとりの私、たったひとりのあなた。おやすみなさい。