2024年3月21日(木)の日記(小説)

三十歳になった。

朝起きて、フルーツグラノーラにヨーグルトと蜂蜜をかけた遅めの朝食を摂り、ビカクシダに水をやり、金原ひとみの『軽薄』を読み進め、いま書いている小説を書き進めた。一週間ほど前から恋人は海外へ出張に行っており、ひとりで迎える誕生日だった。

Twitterに半年ほど前に書いた小説のリンクをツイートする。金原ひとみが選考委員長をする文学賞に応募した小説だった。二週間足らずで書いたもので、その勢いのようなものが気に入っていたが、てんで駄目だった。友人や家族から、誕生日おめでとうのLINEがいくつか来る。感謝の念を伝える。

高校のとき、「三十歳になったOKちゃん見たくないなー」と言われたことを思い出す。童顔だったから、「おやじになったお前は見ていられない」の意だろうが、三十になったから若さ以外の尺度で他人から見てもらえるのではないか、という淡い期待もある。年齢なんて所詮、ただの属性に過ぎない。自分自身がどうするかの指標、にはなり得ず、他人から自分がジャッジされるときの判断材料でしかない。なんらかの選択を下すとき、年齢に引っ張られてはいけない。

二十代のうちに小説と結婚したい、と思っていたけれど、まだ結婚できていない身としては三十代になっても余裕で小説と結婚したい。死ぬまで結婚できなくても、死ぬまで結婚したいと思い続けるのだろうと思う。

 

恋人のいない家のなかは静かで、日がさんさんと差しこんで窓際の観葉植物を照らす。くたびれて生地の伸びきった紫のyogiboにうずもれて遅々として進まない小説に苛立ちながら、ぼくはひとりで昨晩のことを思い出していた。アオイくんの家に行った帰りだった。彼の家はうちから真南の方角にあり、電車で向かうのにはアクセスが悪いため、車を使うことにしたのだった。夜の十一時半ころ、まっすぐに国道を北上していると、後ろを走っているパトカーがなにかをアナウンスしているのが聞こえた。ぼくはかけていた音楽の音量を下げた。

「そこの○○区ナンバーの車、左に寄ってくださーい」

どきっとした。パトカーはぼくが運転する車の真後ろにぴったりとくっつき、「○○区ナンバーの車、左に寄ってください」と繰り返す。左にウインカーを出すと、「ありがとうございます」と聞こえ、サイドミラーで左の車線に車が来ていないことを確認してから車線を変更する。助手席に置いていたバッグを掴み後部座席の下へ乱暴に放る。

路肩に停車する。パトカーもすぐ後ろに停車する。ひとりきりの車のなかで、警官が近づいてくるのを待ちながら心臓が早鐘を打つのを感じた。窓に若い警官の姿が現れ、ぼくは窓をオートボタンで全開に下げる。

「すみませんパトロールで巡回しています。車のなかに持っていちゃいけないものありませんか? すこし車のなかを見させてください。トランク開けられますか?」

はい、はい、と答えて車から降りる。車の後ろに行きトランクを開けようとして、そうだ運転席の鍵しか開けていないと思いまた運転席のドアをひらく。動揺していた。ドアのボタンを押し、車全体の鍵をアンロックする。ガコン、となにか決定的な音がして心細くなる。警官はふたり組らしく、ひとりの警官が助手席側のドアを開けて車内を見始める。ぼくはバッグドアをひらき、もうひとりの警官にトランクの様子を見せる。

「こういうので止められるの初めてですか?」

よほどぼくが動揺した顔をしていたのか、警官はそう訊いた。

「はい、初めてです」

「お仕事の帰りですか?」

「いえ、知人の家に行った帰りです」

「この車はご自身のですか?」

「はい。あ、自分のというか、自分のパートナーのものです」

パートナーという単語に引っかかったのか、警官は「はあ」と釈然としない顔をした。ぼくは助手席でがさごそとなかを物色している警官にちらりと目をやった。違法なものは持っていない。けれど、警官に見つかってはまずそうなものはそれなりに持っていた。後部座席の下を見られないよう祈った。

「持っていちゃいけないものとか、なにか、切れるようなものとかは、持っていないですか?」

警官は同じことを繰り返し言った。

「持っていないです」

トランクに置いてあった、キャンプに持っていくような携帯型の椅子を警官は掴んだ。

「それは椅子です。キャンプに行くときとかに使うような」

強めの語気で言ったつもりが、その言葉は言い訳めいて響いた。

「キャンプとかよく行くんですか? この車で?」

「はい。パートナーとたまに」

「同棲してるって感じですね」

世間話をしたいのか、詰問したいのか、警官の温度感がうまく掴めないまま頷く。後部座席のバッグの立てる、クシャ、という乾いた音がして、車内を物色する警官の方を見る。彼はバッグなど見なかったようにすぐに手を離し、車から出てドアを閉めた。

「はい、もういいですよ」

戻ってきた方の警官が言い、「××××さんですよね」とぼくのフルネームを言う。

「はい」

「ありがとうございました。お気をつけて」

「はい。ありがとうございます」

ありがとうございます? 自分はなにに対して礼を言ったのだろう、と、自分で言っておきながら自分で思う。こんな風にずかずかと他人にプライベート空間を物色されておいて、ありがとうございます、などと返す自分に、奴隷根性という四文字が浮かぶ。辟易としながら、運転席についてシートベルトを締める。鍵を閉めると再び取り戻された自分だけの空間に僅かに安堵の感情が湧いたが、自分で押した覚えのないハザードランプが点けられていて安堵が遠ざかる。すぐに、先ほど助手席のあたりを物色していた警官が点けていったのだろうと思い至り、まだ緊張の糸が途切れていないことを意識しながら右ウインカーを出す。背後にはまだパトカーがいて、きっとぼくが発車するまでパトカーも発車しないのだろう。動揺で酔っ払った気分になりながら、右車線に気を配りつつ発車する。

国道を再びまっすぐに北上しながら、バックミラーにパトカーが映らないことを確認する。

「××××さんですよね」

最後に、警官はぼくの名前をフルネームで呼んだ。免許証も見せていないのに、どうしてフルネームがわかったのだろう。グローブボックスに、ぼくの名前がわかるものでも入っていただろうか。でも、入っているとしても、この車の書類上の持ち主である恋人の名前が真っ先に出てくるのではないか。いろいろと考えていると、気味の悪さみたいなものが手汗とともに滲み出てくる。もし本当は警官などではなかったら? そう考えると背筋に悪寒が走った。盗聴器を仕掛けられていたら? なにかを盗まれていたら? 物ではなく個人情報を盗まれていたら? そんなはずはない。彼らはパトカーに乗っていたし、怪しい部分はなかった。そんなはずはないのだけれども、もう帰り道で音楽をかける気にはなれなかった。

 

『きのうの帰り、運転してたらパトカーに呼び止められたんだ』

yogiboに体を沈めたまま、書きかけの小説が表示されたPCを膝に載せたまま、携帯でアオイくんにLINEを送る。

『ただの巡回だって言われたけど、なんかすごく動揺した』

なんの内容もないLINE。送った後にそう思い、なんの内容もないLINEを送るくらいには自分はアオイくんに気持ちが傾いているのだなと、ひとごとのように考える。PCを閉じ、立ち上がってテーブルに置く。アオイくんからもらったルームフレグランスのスプレーを、シュッ、シュッ、と何度か中空に噴きかける。昔、男から香水をプレゼントされたことがあった。匂いは記憶に残る。匂い系のプレゼントは、「会わないあいだも俺のこと思い出して欲しい」的なニュアンスをどうしても感じ取ってしまうから、受け取ったときの気持ちでその男に対するこちらの温度がわかってしまう。考え過ぎだろうか。アオイくんは、初対面のときにこのプレゼントを渡してきた。

「すこし早いけど、誕生日プレゼント」

高円寺の居酒屋。貝料理ばかりを出す店だった。フットサルをして、家で一度シャワーを浴びてから来たという彼は、白い服にパキッとしたシャツを羽織っており「爽やか」という概念を体現した存在に見えた。

「え、うそ。本当に? ありがとう。びっくりした」

戸惑う様子のぼくに、彼はにこやかな表情で「喜んでくれて嬉しい」と言った。

「開けていい?」

「いいよ」

小さいが持ち重りのする箱に入ったものを、なんだろうと戸惑いと期待の入り混じった気持ちでひらくと、そのルームフレグランスが出てきた。蓋を開けることなく、容器に鼻を近づけて匂いを嗅ぐぼくに彼は笑った。

「それじゃ匂いしないんじゃない?」

「そうだよね」

「ワンプッシュだけ押してみたら」

促され、誰も人のいない方に向けて噴霧すると、清潔感のある香りがあたりに広がった。

「めちゃくちゃいい匂い」

「よかった。万人受けする匂いだと思って」

匂い系のプレゼントをもらって嬉しかったのは、まだ初対面で重いと感じなかったからだろうか。匂いが好みで、パッケージも洒落ていたからだろうか。それともすでに、ぼくはあの瞬間から彼に好意を抱いていたのだろうか。

『え、大丈夫? ちゃんと無事に帰れた?』

『きのう夜遅くまでいてくれたもんね』

アオイくんから返信が来る。既読はつけないまま携帯の画面をオフにする。なんとなく、すぐに既読をつけたくなかった。彼とはリアルタイムで言葉を送り合うようなことをしたくない。距離を保ちたいのかもしれない。日をまたいで誕生日を迎える前に彼の家を出たのもそのせいだった。彼は一緒に誕生日を迎えられないことを、残念そうにしていたが、特段強く引き留められることもなかった。彼には年齢に見合わない余裕がある。昨夜、日に一度ほどしか返信をせず、ひどいときは一週間近く返信を返さなかったことをそれとなく詫びたときもそれを感じた。いいんだよ、と彼は言った。

「返してくれるときの返信が丁寧だから、間隔が空いてもそういうタイプなんだなってしか思わなかったし」

彼は腕枕をしてぼくの髪を撫でた。彼はぼくの六つ下で、まだ二十四だけれど、その差をあまり感じない。彼からは余裕を感じる。これまで自分が付き合ってきたのはことごとく年上の男ばかりだったし、いまの恋人も六つ上だ。でもアオイくんに感じるのは、年上の男に感じてきたそれとは違う。余裕というより、限りなく優しさや気遣いに近いもの。明るいとか前向きとか、そういうのに近いものだ。彼は初対面なのに酔って先に眠るぼくの脱ぎ散らかした服をきちんと畳み、花粉症で鼻をかんだティッシュをゴミ箱に捨て、ぼくが寝返りを打つとそれに合わせて腕枕の位置を調整し寝やすい体勢に整えてくれる。恋人がいる男と会っているのに気持ちが乱れているようにはまったく見えない。次いつ会える、に類することを言わない。昨日はすごく楽しかった! ありがとう。次はなに食べに行くか考えないと。ボクシング行ってくるね! 彼からの連絡はそんな感じで、ぼくといることが嬉しいのだなということは伝わってきても、それ以上に踏み入っては来ない。きちんとこちらが引いた線を守り、それ以上に侵略してくることがない。デリカシーがあって、やはり、余裕がある。いい子だなと思うと同時に、底知れない恐ろしさみたいなものも感じる。彼にも別で恋人がいるのか? 一瞬そう考えるけれど、そういうわけでもなさそうだった。土日はフットサル、もしくはボクシング、祖父の介護、たまに友人と旅行。そんな日常を話しながら、「最近、ほんとに幸せ過ぎて怖いんだよね」と彼は笑った。もしかすると、恋人ではなく、ぼくのような関係の男がほかにもいるのかもしれない。その方が現実的ではある。別にどちらでも構わない。まだ二度しか会っていない男なのに、会っている時間が濃密過ぎて知った気になっている。

「かわちいね」

髪を撫でられながらそう言われた。使ったことも現実で聞いたこともないその言葉を聞いて、この男と自分は生きている世代が違うのだなと強く感じた。

「かわちい?」

「うん、かわちい」

聞き慣れない言葉に対する違和感の表明のつもりだったが、彼は単純に訊き返されたと勘違いしたようだった。じゃれるようにキスをして、胸を舐めてみると、「赤ちゃんみたい」と言われて苦笑した。彼の顔を見上げ、剃った後に伸びてきたごく短い髭に触れ、「じょりじょりだ」と言ってまた長いキスをした。

自分は恋人と別れるつもりはない。アオイくんとの関係の、先行きの見えなさに困惑する。自分の意思で始めたこの関係は、付き合うことにも、同棲することにも、結婚することにも繋がっていない。なにひとつ、区切りとして説明できるステージは用意されていない。

けれどこの困惑こそ、自分が求めたものではなかったか。

安定した生活。安定した関係。繰り返される日常。三十を目前にして、そういったすべてに嫌気が差したのではないのか。生きる実感を失いそうになったのではないか。――でも、安定を壊したいわけでもない。ぼくの心は、ひとところに落ち着いているのでなく、不安定に揺れるわけでもなく、中途半端な位置でぼうと浮遊しているかのようだった。ただただ、自分の背後にいる自分が、自分の取る行動を面白がって観察している。もしアオイくんとの関係が恋人に露呈し、恋人との関係が終わりを迎えても、逆にアオイくんがもう会えないと言ってきて関係が終わりを迎えても、ぼくはきっとそのどちらの展開に対してもきちんと悲しみ、絶望し、所定の手続きを経た上でできあがった新たな状況を甘んじて受け容れるだろう。そしてそう冷静に思えてしまえる自分に、絶望してもいる。

 

夕方、家を出て新大久保にあるネパール料理屋に向かう。

平日にもかかわらず山手線は人で溢れかえっており、ピンボールが何度も何度も壁にぶつかるように人のあいだを歩き、吐きだされるように改札を出た。

タカリセットにするか迷ったけれど、誕生日だし、好きなものを色々食べたいと思い、ダヒプリ(プリにマサラチャットとヨーグルトソースをかけたもの)、干しマトンとジャガイモのスパイス炒め、乾燥発酵野菜を使ったカレーを注文した。料理はボリュームがあり、それらを平らげるあいだにネパールアイスというネパールビール、アンナプルナ(ネパールウォッカグレープフルーツジュースソーダグレナデンシロップ)、ククリラムというネパールラムのロックを飲んだ。どれも美味しかったが、特にククリラムが美味しかった。

食べて、飲んでをしながら、金原ひとみの『軽薄』を読む。主人公は二十九で、作中、三十歳の誕生日を迎える。十も下の、甥との恋愛を描いた小説で、いまの自分の状況とあまりにリンクし過ぎており、のめりこむように読んだ。まだ読み終えていないが、自分がまだ金原ひとみ作品をすべて読了していないということは希望であり、いずれすべて読み終えてしまうという絶望でもある。すべてを読んでも、きっと何度も読み返すだろうが、初読はいつも一度きりだ。人生で、『軽薄』を読めるのはたった一度。すべての体験や、すべての瞬間にも同じことが言えるが、とりわけ芸術に対してそれを強く感じる。自分の心が感じたことを、誰にも共有できない感情や光景を、誰にも共有しないまま生きて死にたい。

『軽薄』を途中でやめられず、追加でジャガイモのクミン炒めと、オールドダルバールというウイスキーのグラスロックを頼む。味は美味しかったのだが、あまりに食べ過ぎてお腹がパンパンになった。詰め込むように食べ終え、お会計をする。

腹ごなしにと思い、そのまま新大久保から新宿、新宿三丁目新宿御苑駅の順に歩く。宇多田ヒカルの “Somewhere Near Marseilles―マルセイユ辺り―” “Find Love” “Face My Fears” “誰にも言わない” 辺りを繰り返し聞き、早足で人混みを縫うように歩いた。そのままカフェに入り、コーヒーを飲みながら小説の続きを書く。このところ書く時間がまったく取れておらず、そのせいか書き進められない。結婚が遠のく。諦めて途中から日記を書く方向性にシフトした。

 

 

大人になることが、「誰とも共有できないものを、自分ひとりだけで抱きかかえる」ということであるなら、すこしは大人になれただろうか。永遠に大人になれないような気もするし、すこしずつ大人になっていっているとも感じる。

幸せは、誰とも共有できない場所にしか存在し得ない。ぼくはそう信じている。生きている限り必ず終わりは来る。分かち合えない場所に、どれほど大切な人が行ってしまったとしても、必死で創りあげた幸福が壊れることはない。真実は変わらない。

 

ひとつひとつ、壊れない幸せを拾って、抱いて、守って、これからも生きていきたい。