2023年7月2日(日)の日記

いつものファミレスで小説を書いていて、ひと息つこうと思って携帯を見ていたら「優しくて正しい」主張を読んでしまって心がぐちゃぐちゃに傷ついてしまった。なんでだろう、お金払った文章に傷ついたことは一度たりともないのに無料で読める文章で傷ついてしまうことはたまにある。こんなに「優しくて正しい」主張でぐちゃぐちゃに傷つくの久しぶりだな~、と思ったけど傷つくの嫌いじゃないからなんで傷ついたのか自分の傷をかっぴらいて見つめるなどした。小説を書くよりそちらに費やす時間が今日は多くなってしまった。しかし自分が表現したいことがより鮮明に見えたから良かった。傷と向き合うことでしか見えないことがある。

 

マジョリティVSマイノリティみたいな構図もう嫌だ。マイノリティ=弱者=配慮されるべき存在、という図式で単純化されるとき、まさにその「マイノリティへの配慮」によって切り捨てられる存在がいる。社会における配慮=システムであり、システムは必ず汎用性を持たせるために原理的にマイノリティを生みだしてしまう。マイノリティって多数派/少数派の少数派なんかじゃない、多数決の土俵にすらのぼれない存在だ。選択肢にそもそもいない存在だ。システム作ってもマイノリティへ配慮したことにはならない。「私たち」という言葉は恐ろしい、そこに救われる人もいれば絶望する人もいるだろう。それならぼくは、同じマイノリティだから連帯しよう、みたいなのからは永遠にはぐれていたい。カテゴリーの有無だって二元論ではないはずだ。何者でもない同士で、そして無限に何者でもある同士で話そうよ。

傷つかないことを目指す社会がそんなに良い社会だとどうしても思えない。傷つかないことを目指すと、傷を傷として認識しない不感症になるか、傷=絶対悪と見なすことになる気がする。傷のない社会=想像の範囲外にあることなんて何もありません社会=画一化の社会ではマイノリティの傷つきは無視され続ける。であるなら、大事なのは傷つかない/傷つけないことを目指すのではなく、傷を負ったときにその傷がどんな傷なのかをきちんと観察してどう傷と付きあっていくか考える体力を確保できる社会を目指すべきだと思う。

 

配慮されるべき存在、を想定することは、人間の感受性を画一化していくこととどう違うのだろう。こういうときに悲しむべきとか、こういうときに傷つくべきとか、そういう「べき」を想定した瞬間そこから外れた人間を人間扱いしないこととすごく近い位置にある気がする。見たくないことを見ないで済む世界は、「見たくないこと」が世間的な「見たくないこと」に一致している一定数の人間だけを人間扱いする世界。人間が人間である限り、見たくないもの、感じたくないもの、傷とだって一緒に生きていかなきゃ。

同じ着地点を目指しているのだから、不自由の方ではなく自由の方向で、抑圧ではなく創造の方向で共存したいと願いぼくは小説を書き続けます。