2021年7月4日(日)の日記

雨、雨、雨。雨は好きだけれど雨ばかりが続くのは好きではない。雨の良いところは、部屋の片づけが進むところと、片づいた綺麗な部屋からぼんやりと憂鬱そうに外を眺める遊びができるところ、それから植物が生き生きと見えるところだ。文字通り濡れたような緑に慰められ、紫陽花やアガパンサスルリマツリのつややかな青紫の美しさにハッとさせられる。

毎年6月になるとメンタルが崩れる。気圧のせいなのか、梅雨だからなのかわからないけれど、陰惨なニュースや半径5メートル以内で起こる今の社会の悪い部分を煮つめたような出来事に動揺させられる。うまくNOを突きつけられたら良いのだが、にこやかに笑顔でスルーしてしまって後から、「この悪い社会を作っている一因は私だな」と思い至る。

 

 

このあいだ友人とお酒を飲んだときに言ってしまった言葉を、後悔し、とても反省している。その友人は誰かを傷つけること、誰かの尊厳を損なうことにとても敏感な人で、今のこの社会のあり方――女性であるがために受けなければならない不当な扱いが黙認され、外見至上主義、人種差別のある不寛容な世の中、他者を排除することによって一部の人間だけが表面的な生きやすさを享受する社会――に、ずっと怒っている人だ。自分のためではなく、ほかの人のために怒ることができるその人のことを、私はとても優しい人だと感じるし尊敬している。

私はこの何年か、社会に対する自分自身のスタンスを模索していた。悪いところを挙げればきりがなく、考えれば考えるほどどうしようもなく虚しく、悲しく、やり切れない気持ちになるこの社会に対して、真正面から相対することは、私の心を容易に壊してしまう。戦争のことを考えると、陰惨な事件のことを考えると、差別や偏見に傷ついた人のことを考えると、どうしようもなく胸が痛くなった。そしてそんな私ですら、誰かや何かに偏見を抱き、傷つけながら生きているという事実はあまりにもグロテスクだった。生きることへ向かうエネルギーは、テーブルの端に置いてあるグラスが倒れて中の水が一瞬にしてすべて出ていってしまうように、あまりにあっけなく失われてしまう。私にはそれが怖かった。私は幸せでいなければならない、と思った。私が幸せでいることで、私に余裕ができ、その余裕で周囲の人に優しくできるのならば、私は自分が幸せでいなければならないと思った。こんな社会で生きるためには、優しくし合うしかないのだから。

私は幸せでいるために、可能な範囲で情報を遮断した。陰惨なニュースは見なければ、聞かなければ私の世界から無かったことになる。簡単な話だ。この世に生きている限り、どんな場所にいようと、起きている出来事と無関係ではない。そのことをわからないわけではなかった。むしろ、わかっているからこそ、私は私が見る情報を選択すべきだと思った。いたずらにそれらの情報に触れたとて、私の心が壊れれば私は身近な人にすら優しくできない。一方で、この世界の苦しみから目を背けることは、不誠実なことだと思う。シリアで爆撃を受けて、地獄のような世界を経験した少年は、SNSを通じて世界に言っていた。 “We are killed by your silence.” 『私たちは、あなたがたの沈黙によって殺されています』『人々はシリアで起こっていることのすべてを知るべきです』と。そうだ。知らないということは罪になる。私は知らないことを知らないことのままにすることで、日々誰かを殺し続けている。では、知ったことによって、何ができるのか。私が部屋でひとり泣いた。それ以外に、何ができるのか。何が起こるのか。考え続けることか。部屋でひとり泣き、考え続けることで、私に何ができるのか。わからなかった。わからなかったが、何もしないことは不誠実過ぎると思って、言葉を綴った。私が詩を書くことは、文章を編むことは、この世界へのささやかな抵抗であり、希望であり、懺悔であり、自分自身への言い訳だった。テーブルの端に置いてあるグラスの水は表面張力を失い、とうに溢れてしまっていたが、私はそちらを見ることなくテーブルの中央へ流れてきた水の一部を布で吸って、道行く人に掲示した。やがて乾いた布を、また水に浸して、掲げた。テーブルの端は見なかった。いつの間にかテーブルの端を見ることを恐れるのではなく、テーブルに端があることすら忘れるようになった。グラスからは水が溢れ続けた。私は幸せだった。

 

 

社会への怒りを折に触れて吐露する友人は、いつも苦しんでいるように見えた。その日もお酒を飲みながら彼がこぼす言葉は、あからさまな吐露でなくとも、端々から社会への怒りが透けて見えるようだった。私が意図的に避け、触れようとしないものに積極的に触れては心から血を流しているように見える彼は、いつかの私自身と重なって見えた。いや、いつかの私自身ではなく、私が選ぶかもしれなかったもう一人の私自身と重なった。そんな彼は自分のことを自虐的に話すこともあるが、私からしたら、誠実以外の何物でもなかった。彼の奥に透けて見える怒りは、赤い血が陽に透けて、薄い肌が赤らんで見えるような、そんな人間的な美しさを備えていた。

いつも傷つきながら、律儀に血を流し続ける彼に私が吐いたのは、「役割があるんだと思うんだよね。社会に怒り続けて、きちんと声をあげようとする君のような人がいるように、ぼくは身近な人に優しくし続けたい。きっとそれが、それぞれの役割だから」というような言葉だった。私はあなたのことを、傍で見守り続けたい、いつも私の代わりに怒り続けてくれてありがとう、という意味なのだが、なんて傲慢で、無責任で、残酷な呪いの言葉なのだろうと、今書き起こしながら愕然としてしまった。これはつまり、「あなたは不当な社会に怒り続けてね。私は社会のことはあまり見ないし、怒らないで済む平穏な世界にいるから、あなたが身代わりに傷ついてね。私はそれを平和な場所から励ましているから」という意味に、なるのではなかろうか。なんて狡くて、卑怯な考えなんだろう。

彼はきっと、一緒に怒ってくれる人を必要としていたんじゃないだろうか。ときには一緒に血を流し、ときには彼が休むことを許してくれる、そんな人を必要としていたんじゃないだろうか。怒ることはエネルギーを必要とするし、ときには自分の尊厳が傷つけられてしまうような思いもするから、怒る役、優しくする役、なんてものがあるとしても、その役割は流動的にすべきだし、「はい、あなたは怒る役ね。」なんていうように押しつけるべきものでは決してないはずだ。この社会をより良いものに変えていくためには、それぞれが役割を固定せずに、相補的に支え合い、それぞれのやり方でNOを示していかなければならない。そのときそのときで役割が変化していったとしても、NOを示す人がひとりであって良いわけがない。私があのとき言うべきだったのは、「あなたのせいじゃない。」ということ、そして「私も一緒に怒るから、すこしでも良い世界に変えていきたいね。」ということだった。私は私の心を守る責任があるが、それは不寛容な世界を見て見ぬふりをして良い理由にはならない。私は私の心も守りたいし、好きな人の心だって守りたい。そのためには、自分の狡さと向き合わなければいけない。

 

 

雨が降っている。これから先、一週間ほど、また雨が続くそうだ。紫陽花は徐々に色が汚くなり始めている。

最近、自分が蚊取り線香の匂いが好きだということに気づいて、特に部屋で蚊に刺されたわけでもないのに、蚊取り線香を焚いた。そうすると、降りやまぬ雨が、夏の通り雨のように感じられて、自分の心もすこし丸くやわらかくなったように感じる。数年前の自分よりも、私は自分が強くなったように感じる。自分の心が脆いことを知り、壊さない術をすこし知ったように思う。だから、今なら、もうすこし先まで行けるのではないか。水の入ったグラスを、テーブルの中央に置くことができるのではないか。

私は幸せなまま怒る。幸せなまま泣く。幸せでいるために休む。もっと優しくなるために、もっと幸せになるために、優しくされるために、幸せになってもらうために、私は知る。私は見る。私は、私が怒ることをもう恐れない。