6月某日
夏の盛りに蝉が鳴くような音を立てて雨が打ち付けている。傘に、建物に、コンクリートに。植込みに咲く紫陽花は、どれだけ強く雨粒が打ち付けようと、その青い身体を地面に投げ出さずにいる。
駅のホームから身を投げてしまった男のことを思う。彼に、「こんなことをしなくて大丈夫」と言える人は、いなかったのか。轢いてしまった運転士のことを思う。彼は、私たちの代わりに男を轢いた。スクールバスを待っていた子供たちと、その親のことを思う。そして彼らを襲い、刺殺した男のことを思う。彼は、なぜ人を殺さなければならなかったのか。そして刺された人は、なぜ刺されなければいけなかったのか。
6月某日
6月になると、凄惨なニュースばかり目に入ってしまって頭が痛くなる。シリアの内戦のこと、日本のこと。不思議だけど、去年もそうだった。僕のバイオリズムなのか知らないが、哀しいニュースを追って、また哀しくなる。なぜ自分がのうのうと、こうして毎日生きているのかよくわからなくなる。なぜ死んだのが自分ではなかったのか、なぜ殺したのが自分ではなかったのか、今もよくわからない。尊い命が、理由もなく奪われる理不尽が哀しく、殺人や自殺という理不尽に身を浸さずにはおれなかったその命もまた、尊いひとつの命だったという事実に、打ちひしがれる。
世間様はいつも、殺された側にばかり目を向ける。被害者にスポットを当てて、被害者の情報ばかりが流れる。加害者はイコール異常者で、罰すべき人間以下の人間みたいに扱う。
「あなたは生涯、自分を含め、誰のことも殺さないと言い切れますか」
そう自問したとき、僕はイエスと躊躇いなく言えない。
異性愛者と同性愛者が、明確に違うけれどそのあいだにはっきりとしたボーダーがないのと同じように、殺人者とそうでない人間のあいだに、明確なボーダーなんてあるのだろうか。条件が揃えば、みな殺人者になりうるのではないか。あくまで、可能性の話として。
6月某日
人のことを簡単に馬鹿にする人大嫌い。美醜の価値観が幼い人大嫌い。実感に頼らず、噂話ばかりする人大嫌い。
対象が大嫌いなとき、対象よりずっと手前に「対象を大嫌いな自分」がいて大嫌い。一番切り離したかった部分が一番近くにいて内包しちゃってるじゃんね。ナルシシズム。
それでも、想像力のない人は大嫌い。想像力のない自分のことだって、大嫌いでいたい。だって、嫌いが分離の欲求、好きが融合の欲求なら、自分が殺したい自分くらいはっきりさせときたい。自分だから分離できないし、想像力ある自分に成長して統合したい。
6月某日
6月に入って、大嫌いが身体の中に溜まって心が弱り、身体が弱った。スマホばっかり見ていると大抵の場合体調を崩す。色と形と音だけのデジタルには、人間のアナログな温かみがない。
自分が幸せなとき、視界を開いて不幸な情報をキャッチしようとしてしまう。社会に生きている責任として、「自分だけ幸せならそれでいいや」とはどうしても思えない。以前、そんな風なことを言う人がいて、激しく反感を覚えた。お前ひとりで生きてんのかよ。
人が死のうと思うとき、人が人を殺そうと思うとき、きっと世界は美しくない。美しくない世界は、あまり生きたくない。
紫陽花が雨に濡れている。朝が来て、昨晩の雨の名残が、青いがくの上に滴として残る。「人間は自然に勝てないな」とよく思うけど、そんな自然も世界が美しくないときには美しくない。何もかもが美しくないときは自然の美しさも目に入らない。取るに足らない。
6月某日
生湯葉シホさんのブログを読む。
『ああ世界、美しいなと急に思う。』 (2019/6/17 湯葉日記『鳩と視線』より)
こういう瞬間は、身に覚えがあると感じる。急に視界が開ける感覚、生きていることの美しさ、全肯定の瞬間。
当たり前に、当たり前にあるべき幸せが、当たり前にある時空間。そういうものが描写されていると、救われるなと思う。「ああそうだ、そういう世界もあるんだった」と思わせてくれる。
「世界が美しいと思える時」というのは、「人間が美しいと思える時」なのかもしれない。素晴らしい芸術に触れたとき、世界がパカッと薪を割ったときのように開かれて、美しく見えたりする。それはその芸術作品が素晴らしいからなのだが、素晴らしい芸術作品はいつもその裏にある人間の美しさをも見せてくれる。世界はいつも、どんな心の眼で見るかを問いかけてくる。
人間は自然に勝てないけど、自然だって芸術に勝てないときがある。人間なんて、と思うときもあるけど、それよりも、「紫陽花なんて」って感じだ。美しいけれど、紫陽花なんて、大したことない。
今日も、絶望の底にいる人が、世界が美しいと思えるような世界でありますように。僕は芸術を信じてる。
死なないで。