シュウマイはよく転がる。
このあいだ夜に家の近くを歩いていたらシュウマイを蹴ってしまった。最初シュウマイとはわからずに、「道に白くて丸いものが二個、落ちている」と思ったが、よく見たらシュウマイだった。近くに半額のシールが貼られた惣菜用の容器も落ちていて、おそらく近所のスーパーで買ったものだと思う。誰かがスーパーからの帰り道に落として、中身が出てしまってそのまま放っていったのだろう。
「すべてが嫌になっちゃったのかもね」
隣で歩く人が言う。もう一度蹴ると、シュウマイはころころとまっすぐ転がった。その様子はどこか愛らしく、可愛らしい感じがした。
すこし前に選挙があった。衆議院選挙。衆議院選挙って、なんだか可愛い響きだと思う。しゅうぎいんせんきょ。舌っ足らずの子どもが話すような言葉だ。ハロウィンの日だった。
選挙速報を家で見ていると、途中、京王線の車内で男が刃物を振り回し、液体を撒いて放火した、というニュースが入ってきた。男はどうやら仮装をしていたらしい。選挙速報の合間にそのニュースはたびたび挟まれ、現在進行形で起きているのだというその異常な出来事に、否が応でも気をとられた。家の中に漂う夕食後の温かく穏やかな空気と、あまりにかけ離れていて現実味がなかった。同じ日本で、「たったいま」起きている出来事。なるべく、その場に居合わせた人が無事でいられるよう祈って、その日は十二時ころに眠った。
選挙前日の夜、ぼくは絵を描いていた。数年前に撮った、夜道に咲く薔薇の写真を見ながら描いた。写真を撮ったのは、たいそう孤独な夜だった。当時すんでいた家の近くを徘徊していたとき、夜の闇の中、ぼうっと浮かぶような佇まいで咲いていたのを見つけて、なんとなく写真に収めた。好きだった男から連絡が返ってこず、大切だった人たちとも次々と疎遠になっていった季節だった。自分から遠ざかった人もいたし、勝手に遠ざかっていった人もいた。ぼくはとても不幸だったけれど、不幸というものは得てして甘い。大きな飴玉をだらしなく舌で弄ぶように、緩慢でぬるい不幸にゆるゆると浸かっていた時期だった。なんだかそのときのことを懐かしく思って描き始めたのだ。正確には、そのときを懐かしく思ったのではなく、そのときの気分と選挙前夜の気分が共鳴した。日付を越えるすこし前から描き始めて、ひと段落つくころには朝四時半をまわっていた。
不幸なときというのは、視野が狭くなる。長い目で見られなくて、余裕がなくて、人に優しくできなくなる。京王線の犯人は、「人を殺して死刑になりたかった」と供述したという。絶望していたんじゃないかな、と思う。絶望とか不幸なんてものは、別に珍しいものではない。そこら中にごろごろ無造作に転がっている。転がっているけど、それにぶつかるまではそこにあったことにすら気づかない。シュウマイみたいだ。まさかこんなところに、シュウマイが落ちているなんて!
よく事件に関する報道で、犯人の近隣住人に聞き込みをして、「いい子だった」とか、「事件を起こしたなんて信じられない」とか言っているのを見るけど、違和感を覚える。犯罪を起こす人間は常におかしな言動をしている、わけではない。自分とは決定的に違う世界に生きている、わけでもない。絶望や不幸は、目に見えない。誰の足下にも転がっていて、気づいたら蹴り飛ばして、ころころと転がっていくものだ。
ぼくは今日も幸せだった。それは、運によるものだと思う。明日、相当な不幸に陥るかもしれないし、なにが起こるかわからないのが人生だ。
ぼくは幸せだから人に優しくできるし、こうして日記を綴ることができる、好きなことができる。それは自分のおかげではない。周囲の人が、愛をもって接してくれるからで、大切な人が、今日も生きていてくれる(そう信じられる)からだ。環境のおかげだ。感謝している。ぼくが今日も、優しくて幸せで穏やかで楽観的でいられるのは、周囲の人々のおかげで、食べもののおかげで、家のおかげで、自分の体のおかげで、ぼくが触れるすべてのもののおかげなのだ。ありがとう、と思う。
きっと選挙は、政治は、絶望や不幸をなるべくなくしたり、避けがたい不幸に遭遇したとき、その不幸がどこまでも転がっていくのを止めるようにしたり、そういうためにあるのかな、と思ったりもする。じゃあどうすれば止められるの? そのことを、考えなければいけないと思った。ぼくはとっても幸せだけど、ぼく「だけ」が幸せなのでは、だめなのだ。
考えるためには、知識が必要で、いろいろな物事には背景があって、だから歴史を知る必要もあったりして、最近世界史について学んだりしている。戦争はなぜ起こるのかとか、そしたら安全保障とか、経済とかにも繋がってくる。以前までまったく興味がなかったけれど、本当にちょっとずつ。いろんな物事は繋がっているのだな、と思う。
高校生のころ、「大人になったら勉強し直したくなるよ」とか言う大人を、そんなわけないと信じなかったし、ダサいなとすらうっすら思ったけど、いまなら彼らが言ったことがわかる気がする。もっともっと、知らなきゃいけないことがたくさんある。知ることではなにも変わらないけれど、知ることからしか始まらない。
そういえばあのシュウマイ、蹴ったあと放っておいてしまったけど、翌日には消えていた。誰かが片付けてくれたのだろう。ありがとう、シュウマイ回収屋さん。