2022年10月27日(木)の日記(矯正、強制、共生、狂正)

人の感受性を矯正しないでほしい。言葉は自由のためにあるよ、誰かを閉じ込めるためじゃない。何かと何かのあいだ、虚無をこじ開けてここが私の自由って、俺の自由って、自分のためだけのフィールドを創るために言葉はあるんだ。言葉の中身も信じないで空っぽの枠組みに成り下がったそれを言葉として吐くそれがお前の自由なら、お前の本心だと言うのなら、俺の自由とお前の自由は相容れない。欲望と欲望がぶつかる。本当の自由はどこにあるんだ、それを探究してきたのが人類の歴史。お前と共生できるだろうか、言葉がこじ開ける無敵フィールドを信じたままで。あいつを強制してほしい。俺を矯正してほしい。共生したい。あいつなんかと共生したくない。あいつを矯正してほしい。俺は強制されたい。されたくない。

 

人の感受性を強制しないでほしい。芸術は人間にしかできない営みだから、機械にでもできるものと一緒なわけがないだろう。言葉の枠組みばかりをいくら上手に積み重ねたって、それはガラクタの積み木、スクラップの海、AIが描いた上手な絵。言葉の奥から滲む気配、生物の奥底に眠る恐ろしい気配、それがわからないんなら。わかるだろ。綺麗な絵を見て感動して、綺麗なアニメーションを見て感動して、綺麗な文章を読んで感動して、綺麗な音を聴いて感動していたら、綺麗なものを強制するようになりました。私の世界には綺麗しかあってはならない。お前の心は醜いから、私の心も醜いから、心はあってはならない。綺麗な心ってなんだっけ。綺麗な心を見ても感動できなくなりました。私は矯正されたい。されたくない。

 

人の感受性を共生しないでほしい。毒にも薬にもならないものなら要らない。毒にも薬にもならないものがほしい。どっちでもいいの、んなわけないじゃん。言っちゃいけない言葉を街のまんなかで叫びたい。大声で、耳をつんざくくらいの、大声で。ぼくはどっちかってぇと、地雷を踏むのも拉致られるのもカフェ難民も飯テロも、もともとの言葉の意味が強いからウッてなるけど、ウッてなるかどうかはそのもともとの言葉の意味をどれだけ強く感じるか次第だから慣用句として使われれば使われるほど耳に馴染んで元の言葉から遠い生活をしていればまったく別の意味の方が強くなっていくのは当然の流れだって思う。それと同時に元の意味からそんな遠い場所にいるのってどうなのかな、って思う。耳に馴染むほどに元の言葉の本当の意味から遠ざかるから、飯テロがどんどん使われたらテロがどんどん遠くなるんだろうなって思う。良いとか悪いとかじゃなくて、ただ思う。平和だなって思う、平和かなって思う、地雷ってなくなってないよねって思う、地雷がなくなったらいいなって思う、ウッてなるのはただのぼくの感受性だから、ウッてならせててほしい。ウッてなる自分を守りたいのなら周りの環境からその言葉を消していくしかないし、ウッてなる自分が別に大事じゃないならどんどん適合していけばいい。え、別にぼくは地雷にも飯テロにもウッ、てならないけど。せっかく生まれた言葉を使わせてほしい。使わないでほしい? 使わせてほしい。ああそうですか、ぼくはウッてならないのでどんどん使えばいい。人がロボットにならずに人間として存在する限り、感受性は異なり傷つけ合うんだから、勝手に共生できる前提で話さないでほしい。ぼくは共生されたくない。矯正されたくない。強制されたくない。うそ、たまに強制されたい。でも本当は、共生したい。

 

 

その摩擦で、嬌声をあげる。

 

 

狂うのと正しいのとどっちがいい? 正しいことこそ狂言綺語、狂っているように見えるけれど、どうやらこの世界では数の多い少ないで狂正が決まるらしい。多い方が正しく、少ない方が狂っている。それならぼくらは皆狂っているよ、だって皆孤独だから。

皆さんの公明正大な選挙の結果、多数決で、狂、狂、狂、狂、狂、狂、狂、狂、狂、狂、狂、狂、狂に決まりました!!! 狂っていることこそ正しい。正しいことこそ狂っているね。狂だらけの世界になって、矯正も強制もされないで、早く共生したい。正しく狂っていたい。強制されないことへの恐怖、自由への恐怖、自由への渇望、愛への欲動、それは希望。

 

こうやって生きていること自体、奇跡なんだって思った。朝の満員電車を待つ人々、どれだけ憎いと思ったあいつも、不幸になってほしいと願った人も、ぼくの不幸を願った人も、生きててほしいって、そう祈った。

YUKIのハローグッバイ -LIL SOFT TENNIS Remix- を聞いて高まった朝に。