2024年2月27日(火)深夜の日記(なにひとつ説明しなくてもぜんぶわかって。)

2024年1月30日(火) 深夜

 

 

適当な暇つぶしで男と寝た。ひらいた窓から朝のはじまりのにおいがした。
遠くの方に新宿の無機質なビル群がそびえて、死んでるみたいだった。
出窓に腰かけて、煙草を吸いながら携帯でSNSを眺めた。
パレスチナのこと。
ICJが即時停戦を命じなかったこと。
UNRWAへの日本の資金拠出が停止したというニュース。
絶望的だ。と自分が感じるよりも先に「絶望」という文言が目に入る。
煙草の灰がベランダに落ちて、けれどベランダは灰色のコンクリだったからどこに灰が落ちたのかわからなかった。灰なんて落ちなかったのかもしれない。煙を吐いた。
SNSを見ていると、自分がどんどん莫迦になっていくのを感じる。信頼できそうなアカウントの言っていることが正解だと、思ってしまう。いや、正解だとすら思わなくなる。元からぼくもそう思っていた、と。そう思ってしまう。
今の自分は、考えることすらできない。無知だな、と思う。短くなり過ぎた煙草を銀色のサッシに押しつけると、ジュ、と微かな音がした。
薄手の服にダウンジャケットを羽織ると、まだ眠っている男を横目に家を出た。窓をあけたままだったからか、ドアを閉める間際で男が寒そうに身を縮こまらせるのが見えた。

 


 


“隙間” というアカウント名の、器とタトゥーが好きな人がいて、その人の書く日記が好きだった。既読のつかない相手へLINEで日記を送り続け、そのスクリーンショットSNSにアップしていた。
どうしてそのアカウントを知ったのか今はもう思い出せない。日記に綴られる、セックス、美学、哲学、自意識にまみれた生活は読んでいるだけでこちらの心までひりつくようだった。自分とは異質な存在に触れたときにだけ発生する、安心とは真逆の感覚。紙やすりで肌の表面をなぞるような、決して「快」ではないはずなのに「快」だと錯覚してしまうような感覚が、彼の日記を読むと自分の中で沸々と湧いた。
プリントした日記(LINEのスクリーンショット)を、彼が『日記祭』というイベントで販売する、それも手売りすると知って、「絶対に行く」と思った。そしてぼくは実際そうした。2023年12月10日のことだった。
下北沢の会場――屋外のイベントだった。通りと周辺一帯が会場になっていて、机を出してその上に販売物を置く様子は、どこか学校行事を思わせた――に行き、マップの “隙間” の方へ向かうと、果たして彼はそこに立っていた。彼と思われる人(彼は顔出しをしていない)から日記を買っている人がぼくより前にすでにいて、ぼくは彼らが話し終えるのを少し離れたところで待っていた。彼らはにこやかに、軽やかに会話しているように見えた。日記からイメージされるだろう象とは異なり、軽やかに、にこやかに彼は話しているような気配が伝わってきた。彼の顔はあまり見ないようにちらちら様子を窺うも、なかなか話し終わらなさそうなので周辺をうろうろと歩き回り、また “隙間” ブースへ舞い戻るも、今度は別の人間が彼から日記を買っていた。どうやら彼の日記は人気のようだった。人が全然寄り付いていなさそうなブースもあったのに。
周辺をうろうろとしてから、もう一度行くと、ようやく “隙間” ブースは空きになっていた。彼がひとりで立っているところに近づきながら、ぼくはひどく緊張していた。なぜかわからない。彼が赤裸々な日記、それも性依存と言って良いほどセックス中心の生活を明かした日記を書いているからだろうか。それを顔出しで手配布しているから? 一瞬そう考えたが、それは違うと思い直した。自分をひりつかせる相手だと、気づいていたからだと思う。自分とまったく異なる世界を持っている相手。飄々としているように見えて、絶対に初対面の人間に、自分の殻をひらかない人間であることが、話す前からわかっていた。そしてぼくも絶対に、彼に殻をひらかないだろうことを、必要以上にひらくまいとするだろうことを、体が感じていた。だから緊張していた。手に汗をかいた。
恐らく2023年の出来事の中で、彼から日記を買う時間が最も緊張した。朝吹真理子と話すより、千葉雅也と話すより、金原ひとみと話すより緊張した。
いつも日記楽しく読んでます。応援しています。と伝えると、えーありがとうございます、と、心底嬉しそうに彼は言った。その声が、Spotifyで聞いていた声と一致して、そのことを伝えた。聞いてくれてるんですね、ありがとうございます、とまた言われて、心がさらに固く閉じた。
買おうと思っていた日記以外に、『日記ガチャ』なるものも販売していると彼が言った。
「何が入ってるんですか?」
「こっちの日記に入れられなかった日の日記とか、ぼくの写真が入ってます」
ぼくの写真? どういうことかうまく把握できないまま、「じゃあ、それもひとつお願いします」と言った。焦っていて、後から『日記ガチャ』はもっと買えば良かったと後悔した。日記を読みたかったし、応援したい気持ちもあった。しかし完売したらしいから、ぼくよりもっと聡く、冷静な人が複数買いしたのだろう。
財布から金を出し、支払う。
彼が、何で知ってくれたんですか、というようなことを言い、Twitterで繋がってます、と答える。OKってアカウント名です、と伝えると、「ああ! ときどきドバーッと一気にツイートされますよね」と言われる。笑って、「そうかも」などとやり取りしつつ、金銭の授受が完了する。
「もしお時間あったらまた来てください。よければ話しましょう。今日、まだしばらくここにいるので」
にっこりと笑いかけられて、きつく閉じていた心がカタカタと音を立てる。
ありがとうございます、応援してます、と言って、ぼくはその場を足早に去った。
その日は昼から予定があって、自転車に乗り、すぐに一度家に帰った。本当に予定があったから、帰ったけれど、もし予定がなかったら、彼と話をしていただろうか。
自転車で都道をかっ飛ばす。午前中の冷えた空気が頬を切る。よく晴れていて、ときおり排気ガスのにおいが鼻をかすめた。
もしも予定がなければ、行かない、行かない、と思いつつ、彼のブースにまた行ってしまった気がする。でも、ぼくが “隙間” の彼と話している場面は、もっと心をひらいた状態で会話している様子は、想像がつかない。お互い心をすこしひらいた時点で大爆発が起こる。その爆風に巻き込まれる。近づくことそのものがスイッチになるみたいに、ぼくは彼の爆風に巻き込まれる。
彼は繊細で、ぼくも繊細だ。だけど繊細さの種類が違う。彼もよく嘘を吐くし、ぼくもよく嘘を吐く。だけどその動機は違う。彼は仲間を求めていて、ぼくも仲間を求めている。その希求は切実で、その切実さはきっと孤独から来ている。きっとぼくたちは、磁石のように強い仲間になり得ると同時に、互いを強く嫌悪し得るだろうと思う。
……そこまで考えて、ほぼ「これください」「はいどうぞ」くらいのやり取りしかしていない相手に、ここまで妄想を繰り広げている自分に苦笑する。相手の性格を勝手に決めつけて、危険だの仲間になれるだのと、莫迦らしい。
自転車を降りて自分の家に入ると、リュックから先ほど買ったばかりの『うつわ日記』――銀色のパッケージをしていた――を部屋の机の上に置き、朝食の準備を進めた。

 


 


多分、この世界に生きて莫迦にならない方法は、欲望に向きあうことだ。自分の欲望に徹底的に向きあうことをすれば、必然的に他者の欲望に向きあうことにもなる。
今こうしているあいだにも人が死んでいる。死んでいる、と今パソコンに打とうとして、躊躇した。本当に死んでいるのだ。人が意図を持って、意思を持って人を殺している。
ぼくはそれがとても怖い。
目をつむって、爆風に巻き込まれるイメージが湧くのとはわけが違う。現実に、爆発に巻き込まれている人がいる。今、いる。
戦争はすべての意味を無化する。現実の暴力によって他者から意味を奪う。藝術の意味、テクストの意味、命の意味。意味の無化ほど怖いものは、ない。

 


 


「スタバ買うのやめなよ」
「なんで?」
「ボイコットが有効って聞いたよ。よくわかってないけど、イスラエルの利益になりそうな企業にお金出したくない」
「よくわかってないのに不買してんの? そういうのが一番嫌い。経緯わかってる?」
「なんとなくは」
「そもそもスタバは労働組合が強いって背景があるじゃん。そんな中労働組合パレスチナに連帯する声明を出して、イスラエル側から批判喰らって、それで会社側がその声明に対して会社の評判を傷つけたって組合を訴えたの。そしたら今度パレスチナ側から『テロや暴力を支持するのか』って批判喰らって、どっちからも不買喰らったわけ。その後、会社側は、労働組合側へ提訴したのは政治的な意図はないって表明を出したの。それでもアンエジュケイティッドな人たちによる店舗の破壊活動とかが止まんないって状況」
「それはなんとなく知ってるけど」
「じゃあどうしてスタバ買うのやめなよ、になるの? 原料にイスラエル産のものが入っているわけでもないのに、政治的な意図はないってすでに表明している企業を不買する理由はなに?」
「……でもアパルトヘイトの時代なんかは、ボイコットが実際に制度の解体に一役買ったわけでしょ、と思ったけど……」
「けど?」
「…………」
「もう少し自分で考えてから行動しなよ。正直スタバの不買とかオナニーだと思うよ。SNSで長いものに巻かれるより、自分の頭で情報取捨選択して考えるべき」
「オナニーにならないようにしたいと思ってるよ。実質的な行動をしたいって、ちゃんと思ってるよ。たしかにスタバのことはよくわからないまま、触らぬ神に祟りなし的に不買に参加しちゃってた感はあるけど。でも、この虐殺に参加したくないって気持ちで、理解するのを保留にして買い控えてただけだよ。それを責められたくない」
「不買は勝手だけど、こっちにそれを押し付けんなよ」
「じゃあ実際、どうすればこの虐殺に抗することができると思うの?」
「直接的な寄付とか、デモで頭数増やすとかじゃないの。そもそも、イスラエルパレスチナ問題って、日本にとっては…………、
…………、……。……、…………?
……。
…………?
……? ……? ? ? ? ??

 


 

2024年2月27日(火) 深夜

 

 

 

 

なにひとつ説明しなくてもぜんぶわかって。
なにひとつ説明しなくてもぜんぶわかって。
なにひとつ説明しなくてもぜんぶわかって。

 

あなたがもしここにいてくれたならうれしくてそれだけでいいとおもえる。
あなたがここにいてくれるからそれだけでいいとおもってる。
あなたがここにいてくれればよかったのに。ただそれだけだったのに。

 

あなたがいなくなった。

 


 

善悪もわからないくせにわかったような口利きやがって。
善悪もわからないくせにわかったような口利きやがって。
善悪をわからないからわかったような口利きやがって。
善悪をわからないからいつも口閉じやがって。
善悪をわからないからいつも考えるの止めやがって。
善悪をわからないなら、ただ、わたしは、

 

善悪を、

 

 


わたしさえよければよかったのに。
誰にも興味なんてない。
誰に対しても興味なんてないって、本当はそうなのに。
あなたさえいてくれればよかったのに。
わたしのためにあなたがいてくれればよかったのに。
あなたがいなくなった。
あなたがいなくなった。

 

……それで?

 


それで、それで、それで……。

 

それでも、わたしはここにいるから。
いるから?
ここにいるから。
わたしはここにいるから。

 

それで?

 

わたしはここにいるから。わたしはここで生きて死ぬから。だから、わかってよ。
なにひとつ説明しなくてもぜんぶわかって。
なにひとつ説明しなくてもぜんぶわかって。

 

 

 

なにひとつ説明しなくても、ぜんぶわかって。