2023年3月3日(金)の日記(ぼくは日記を書けない)

こんばんは。お元気ですか。ぼくはとっても元気です。

きょうはお酒をたくさん飲んで、30分で家に着けるはずが電車を寝過ごしては乗り換え、寝過ごしては乗り換え、を繰り返し、家に着くまでに1時間以上かかった。

酔うと眠くなるから、電車で座ってはいけないとおもうのに座ってしまうのは、自分の欲深さをおもい知らされるようです。

飲んでいたのは会社の先輩方とでした。やはり飲み会の場で、恋愛の話は盛り上がる。その人がどのように他者と向きあって、どのような部分に好感を抱き、どのような部分に嫌悪を抱くのか、ということが非常に明確になるし、恋愛の話で盛り上がるのをみるにつれ、どの人も人間の芯の部分、野性的で根源的な過剰さにふれたいのではないか、ということをおもいます。人間の過剰さはときに人間を狂わせ、社会的な規範から逸脱させ、それを人々はおもしろがります。ぼくも、恋愛の話は大好きです。

先輩は、出会い系アプリで知りあった男性とつきあっているそうです。高身長、高学歴、高収入、そして善良、だけど、話がつまらないしたぶん童貞だそうです。つきあって3ヶ月ほどが経つけれど、まだキスはしていない。

不意に、「アプリに関しては先輩だけど、どうなの? どうやっていい人と知りあうの?」と訊かれ、「あれ、ぼくがアプリを使っていることなど話したろうか」とおもったけれど、同時に、「このあいだ酔っ払ったときに話したのだろう」とおもった。

「アプリを使うときのコツはですね」

ぼくは言いました。酔いも手伝って声が大きくなり、電車内に座る人々がぼくらの会話に顔をしかめるのがみえましたが、酔いのせいでそんなことは気になりませんでした。

「目的をはっきりさせることです」

ぼくはたぶん、ドヤ顔をしていたとおもいます。車内に座っている人々の何人かが、マスク越しに「ほう」という顔をしたのがわかりました。

「目的? 結婚して安定したいのか、ただ火遊びしたいのかとか、そういうこと?」

隣で先輩が訊きます。ぼくは、とうに自分の目的とする乗り換え駅を過ぎていましたが、構わず話し続けました。

「ええ。結婚、恋愛、セックス、趣味、同棲。この5つの目的を完璧に切り離して考えることで、自分がどのような目的をもってアプリを使っているのかを明確化させ、それに応じた対応を相手にとることでアプリ使用の満足感を高めることができます」

言いながら、自分でも笑ってしまいそうなほどセミナー口調になっていることがわかりました。が、先輩は赤らんだ顔でぼくをしっかりみつめて、なるほど、と神妙そうにうなずきました。

「先輩はどれですか、どの目的です?」

「ええと、結婚、恋愛、セックス……、あとなんだっけ」

「趣味、同棲、です」

「それなら、結婚、恋愛……、あとセックスと同棲かな。趣味は別にいいや、求めない」

「ほぼ全部じゃないですか」

先輩は目を細め、だって全部欲しいもの、と言った。

「それなら相手を割り振ることは可能ですか? 結婚用の相手、恋愛用の相手、セックス用の相手、同棲する相手」

「えー、同棲する相手と結婚の相手は一緒がいい」

先輩の奥に座る女性が、露骨な嫌悪感を示した一瞥をこちらに寄越した。ぼくはにっこりとその人の顔を微笑んでみつめ、するとすぐに彼女は顔をそむけた。

「それなら配偶者は生活のパートナーとして一緒に住みつつ、セックスと恋愛はほかで楽しむってパターンですね。この目的に定めるだけで、相手かなりみつけやすくなるとおもいますよ」

えー、と言って先輩は笑う。酔うとふたりとも笑い上戸になるタイプだから、くすくすとふたりで笑いあってしまう。

「それってクズ男が寄ってくるパターンじゃん」

「クズ男でもセックスはすごく良ければ、目的に合致してるでしょ」

「なにそれ、男の発想じゃない?」

「生活するのに良さそうな結婚相手を探しつつ、クズ男でセックスがすごくいい人と、セックスとか同棲とかにこだわらずに純粋に恋愛としてときめける相手と会っていく。先輩はこのルートで決まりです」

はははは、と一音一音をはっきり発音するような発声で、先輩は笑いました。

「楽しそうだけど、なんか虚しそう」

あ、私ここで降りるから、と言って先輩は下車しました。ぼくは周囲から決してあたたかくみられていないことを実感しながら、その電車に乗り続けました。

その路線の終点に、昔よく会っていた恋愛用の相手がいました。二年前に彼の家で別れを告げてから、一度も会っていませんでしたが、急に連絡したらどうなるだろう、という悪い考えが頭をよぎりました。

「元気してる?」

LINEの画面をひらいて、送信用の紙飛行機マークさえ押せばメッセージが飛んでいく状態で、ぼくは、結局そのボタンを押せませんでした。

うつらうつらして、何度も乗り過ごしながら家に辿りつき、いまは、こうして、よくわからない日記を書いています。

ときどきおもうんです。あのとき、ぼくがあなたのことを「恋愛用の相手」として決め打ちしなければ、ぼくたちはどうなっていたのだろうと。セックスも生活も、全部一緒くたにあなたに打ちこみますと決めていたなら、いまぼくがいる地点とは、大きくいる場所が変わっていたのだろうかと。

「楽しそうだけど、なんか虚しそう」

先輩が言った言葉が脳内で再生されます。虚しいとは、おもわない。おもわないけど、ぼくはそうやって大事なことのひとつひとつを、ヘンゼルとグレーテルみたいに律儀に一個ずつ、落としていったのかもしれませんね。

この日記を読んだなら連絡をください。また、大事なものを拾い集めましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……とここまで書いたところで、なんでぼくはいつも嘘ばっかり書いてしまうのだろうとおもう。ぼくの日記は日記と書いていながらも事実に即してはおらず、すべての小説がそうであるように自分の体内を通過した言葉であるという時点で100%の真実になってしまい、そういう真実を日記として書き綴っていこうという試みのためこれはこれでしょうがない。

事実に即して書くのであれば、きょうは優しさってどこからくるのだろう、ということを考えていた。ここのところ他人に優しくすることができていなくて、それはつまり、余裕がないからで、余裕がないのは睡眠時間がすくなくて〆切に追われているからなのだということを、わかってはいる、わかってはいるけど、人生なんて常に〆切に追われているものであるからして、〆切に追われているから人に優しくできないのであればそれは根本的に人に優しくてきない人間なのではないかということを考えてしまったりする、うそ。これも指先が吐き続けている嘘。

仕事上の〆切を守れない奴が、守れなかったことに堂々と逆ギレしたりして、でもそんなこと正直ぼくにはどうでもよくて、どうでもいいから優しくできる。優しくできるのって、あれ、どうでもいいから優しくできるのだろうか、そんなはずはない、だって優しさっていうのは対象への知識と配慮と責任と尊重から成るものであるから、どうでもいい相手に優しくできるはずがないのだ。どうでもいい相手には知識もなけりゃ配慮も責任もなく、あるのは無責任な尊重だけだ、それを優しさとは呼ばない。ああまた指先がすべっていく。ぼくは酔っ払っていたらすっ転んでくるくるでんぐり返しを百万遍繰り返すようにこうやってでたらめをいつまででも書き並べられるようだ。

そう。優しさの話。

優しさというのはどこからやってくるのだろう、という話。きっと生命力だ。そうなのだ。ぼくはわかっているのだ。優しくされない人に一方的に優しくし続けることは無理でしょう? 優しくしてくれる人にはいつまでだって優しくできるでしょう? 優しくいられるのは自分が優しいからではなくて周囲が優しいからでしょう? でも優しくいられるのは自分が本質的に優しさを具えているからとも考えられるでしょう? それはつまりすべての人間に優しさは具わっていると考えることでしょう? 暴力が連鎖するのを止めるためにぼくは優しくなりたいとおもったけど、暴力を振るわれ続けるのに優しくし続けるってそれは暴力の連鎖を止めることに繋がるのか不明。結局優しくできるできないは好き嫌いに集約されるのだろうか。暴力をみたまま好き好き言い続けることができたらそれは真に優しい人なのかもしれないがイカレポンチであることはまず間違いない。イカレポンチとは誰だ。ぼくだよ。ぼくがなってやるよ。あれ、それは馬鹿であることとなにが違うのだろう。イカレポンチでどんなもの人間に対しても肯定/否定のスタンスや意見は持ちつつもその相手に対して配慮と尊重をし、自分に対して責任をもつ。馬鹿ではできないことだ。

怒りというのは相手や世界を変えたいと願う熱情だ。現実と理想が乖離していて現実を理想に無理やりねじこもうとすることで発生する爆発的エネルギー。現実を、他人を、無理矢理変えようとすることで変わったことがあっただろうか、ない。ない。いつだって他人は他人のままだったではないか。ぼくは怒りよりも先に悲しみが生まれやすいタイプで、それは相手を変えようとするのではなく、相手がどうやっても変わらないことを知っているからこそ自分もなにも変わろうとしない怠惰がもたらす優しい水たまりである。悲しみは怠惰だ。相手が変わらないからといって自分も変わらないのは怠惰だ。悲しんでいる暇はないのだ。怒りに身を焦がしている暇はないのだ。本当の怒りを、自分の身の内に携えたまま燃え滾らせたまま、自分が変わって、変わって、世界線を飛び越えて笑っていくことでしかその先の世界はみえないだろう。笑うことは世界線を飛び越えること。予測していたものからのずれ。微妙なずれ。完全なずれではもといた世界線を見失うから、微妙にずれて元いた位置とそのずれた位置との距離を笑うのだ。ああ、ぼくは日記すらまともに書けないね。

 

 

 

2月に読んだ本。

千葉雅也『現代思想入門』(ぼくが常日頃追い求めているものは否定神学的な真実Xなのかもしれないですね。)

木崎みつ子『コンジュジ』

高瀬隼子『うるさいこの音の全部』

西加奈子『くもをさがす』

江國香織『ホリー・ガーデン』

 

いま読んでいるのは桐野夏生『燕は戻ってこない』です。

『文学は、単純化された声に対抗するニュアンスと矛盾の住処だ。』とは、スーザン・ソンタグの言です。

Twitterは文学の敵だと、日に日におもいます。おやすみなさい。