2023年2月6日(月)の日記

前の座席に座るこどもが、窓外のホテルが目に入るたび、「ほてるー、ほてるー」と言う。斜めに反射した光がこどものやけに白っぽい顔を窓に映し、私の座る席からもその男の子が窓外をみつめる顔がみえる。

新幹線の窓からは、様々なものが流れていくのがみえる。いくつものマンション、家々、国道沿いの吉野家LIXIL洋服の青山、なにかを形づくる前のあやとりのような何本もの電線、電線路状に立つ細い骨組みの支持物、畑、鏡のような水面をもつ川、また家々、その屋根のソーラーパネル、落葉樹と常緑樹の入り混じった木々。落葉樹のつくるシルエットは、人間の肺を逆さまにしたときに毛細血管だけを取りだしたようだといつもおもう。様々なものが流れていくけれど、視界のほとんどは空で、午後五時の空は地平線のあたりにだけやわらかな紫、曖昧な橙が滲み、そこから青色が広がる。すう、と刷毛で伸ばしたような雲が空全体に立ちこめているから、きょうの空は曖昧でやわらかな表情をしている。遠くにみえている山々が、その距離によって様々な濃度の稜線を描いているのも美しい。私が新幹線に乗るのが好きなのは、きっと空の広い場所が好きだからで、流れていく景色をぼんやりと眺めながらも、いつもそこに空の気配があるのが好きだからだとおもった。

 

新年になってから何冊かの本を読んだ。三島由紀夫仮面の告白』、金原ひとみ『AMEBIC』『オートフィクション』、村上龍限りなく透明に近いブルー』、井戸川射子『この世の喜びよ』。金原ひとみを読むときの文章を追う速さと、井戸川射子を読むときの文章を追う速さは、ぜんぜん違う。小説や作家がもつ速度、というのがある。それは単純に文章を追う速さというのもあるが、それだけではない。村上龍は速度が図抜けて速く、読み終えた後に置いていかれたような気持ちになった。なにもかもかっさらって、それで、私の体だけがここに残る。速いからこそ、その濁流の中で映る一瞬の絵画的な情景がいつまでも目に焼き付く。良いものを読んだとおもい、本屋に行ったとき最新作の『MISSING 失われているもの』を購入した。本屋では、男性作家と女性作家で棚を分けているところも多い。前時代的だとおもう一方で、男性が書くものと女性が書くもので、まとっている気配が異なると感じることはよくある。そのような分け方をする理由も、わかる気はする。世界は常に私のもつフィルターによって映しだされる。大事なのはフィルターを通さないことではない、フィルターを更新しないことだ。

 

いつのまにか「ほてるー、ほてるー」の声は聞こえなくなり、その子はどこかの駅で降りたようだった。窓外の空がこの世ならざる色で覆われている。青と緑のあわい、鮮やかでありながら深く暗い色で透き通っている。陽が落ちて、暗い。山がぐいとこちらに身を乗りだしたように近くみえた。不意にトンネルに入り、自分の顔が窓ガラスに映る。あのこどものように、窓外に見入っている顔。髪を切って、左右を刈り上げた。幼い顔をしている。髪を切ってくれた阿部さんという女性をおもいだす。互いに理由もなく笑いあってしまい、変なつぼに入り、バリカンをもつ彼女に「危ないからやめてください」と言った。「人がつられるような笑い方しますよね」と阿部さんは言った。「それはこっちの台詞です」と私は笑った。阿部さんはきょうも誰かの髪を刈ったのだろうか。

 

祖母の葬式は明日で、実家に帰るのは正月ぶりだけれどなぜか久しぶりに感じる。祖母の顔をおもいだすと、ふにゃふにゃとやわらかな話し声と表情が浮かぶ。いつも、私を背におぶって階段を上ると、「うんう、うんう」と掛け声をだして応援してくれる賢い子だったと私を褒めてくれた。実際は、祖母を励ますためなどではなく、階段を上る度にお腹が圧迫され声がでていただけだとおもうのだが、祖母はいつもそう言った。

 

駅に着き、窓外に映る景色が賑やかになる。TCB、千年の宴、わらわら、酒と和みの肉野菜、Regus、セブンイレブン、ウメ子の家、の看板が光る雑居ビル。二月、午後六時をすぎると途端に夜になる。光が目立つ。車のヘッドライト、テールライト、赤いブレーキランプ、建物の窓から漏れる明かり、駅のホームの白々とした蛍光灯。

すこしして、また景色が流れはじめる。駅を離れると建物は途端になくなり、景色は暗闇に包まれる。どんどん私は近づいていく。私の生まれ育った場所へ。そうして、私の死へと。流れる景色と同様に、時間はどんどん過ぎ去る。真っ暗で景色もほとんどみえないけれど、私は窓ガラスに顔を近づけた。暗闇のなか、なにから発されているかもわからない光が流れ、それをみつめる私の瞳孔へゆっくりと吸いこまれていった。