2022年5月23日(月)の日記

自分にとって愛すべき人に割く時間、大好きな読書の時間、言葉を綴る時間、会社から求められる自分の役割を果たす時間、大切な友人と顔を見て話す時間、離れている家族と電話で会話を交わす時間、よく知らないけれど関わってみたい相手へ割く時間。

時間は平等に流れているような気がする。体感時間はシチュエーションによって変わる。

すごくたくさんのことをやれているように見える人も、やるべきことの全体像を捉えて、ひとつひとつのことと集中して向き合っているに過ぎない。仕事と同じだ。全部を好きなだけだらだらとやることはできなくて、ひとつひとつに優先順位をつけて向き合っていく。一日は24時間で、ぼくは一日8時間くらい眠りたいので、あとの16時間でなにをするか。生活をもっとコントロールしたいと感じる。優先順位の上位に置いていることにたくさんの時間を割いているとき、とても充実感を覚えるけれど、全体が見えていないのは良くない癖だ。優先順位の下位にあって、でもこなしていかなければならないこと。それをうまく生活に組み込んでいくことが、大人になったいまもできていない。バランス感覚の優れた人になりたい。

ぼくには内省してひとりで考える時間がとても大事。流されやすいから。優先順位を見誤らないようにしたい。計画通りにいかなくって苛立ってしまうのも、自分を正当化しようとしてしまうのも、優先順位を見誤っているからだ。優先順位その一が、「より楽しい時間にする」なのか、「時間内により良い成果をあげる」なのか、それともまた別なのか。優先順位をはっきりさせずに、中途半端にいるのは良くない。明確に目的を据えれば、はっきりと断るなり、向き合って話を聞くなりができる。「ぼくはこれをしたいのに、この人が邪魔をする」というのは幼稚な考え方だ。本当に「これをしたい」のであれば、そのためにどうすべきかが自ずと見えてくる。明確な目的を設定するためには、自分の欲望に耳を澄ます必要があり、自分の欲望に耳を澄ますには、ひとりで考える時間がとても大事。

 

実際の敵も、実際の味方も、いつも自分自身で、仮想敵ってほとんど自分自身だ。自分にとって許せないことはなんなのか、その「許せない部分を持っている人間」ってもう「許せない部分」以外の要素はどうでもいいわけだからそれはもうほぼ自分自身の「許せない」という感情そのものと向き合っているようなもので、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い状態というか、そりゃその「許せない」部分にフォーカスしてしまえばどんな相手でも憎くなってしまう。自分VS自分自身の「許せない」という感情。不毛な闘い。

ぼくにとって「許せない部分がまったくない人間」は存在しないので、全員が仮想敵というか、それってもう仮想敵とは言わないような。「許せない」ことは悪いことじゃなくて、許さないことで守れるものがあったりもするし、本当に大切なのは「許せないもの」がいる世界でどうやって生きていくかであって、全力で逃げるのも、その人間が「許せない」の部分をなるべく出さないような環境で関われるよう工夫するのも、その人間がその「許せない」にどう至ったかの物語を詳細に知って「許せる」に変えるのも、全部ありじゃないか。その人間との関係性次第でとる手段は変わってくる。本当に怖いのは「人間」を「許せないもの」そのものとしてしか認識できなくなること。自分の「許せない」をのっぺらぼうの相手に転嫁して、自分自身で処理しきれないものを無理やり客体化して他者に処理させようとするのは、根本的な解決ではない。

ぼくには内省してひとりで考える時間がとても大切。すぐに正当化しようとしてしまうから。卑下するでも正当化するでもなく、謙遜をするさらに手前のぼくに会いたい。

 

仮想味方という言葉を聞いたことはないが、そっちの方がなんとなくよくわかる概念だ。イマジナリーフレンド、と言うべきなのかな。自分の機嫌を自分で取るって言葉を、よく聞くようになったけど、ぼくはずっとぼく自身で機嫌をうまく取れたことがないような気がしていて、自分以外のものの力を借りてばかりいる。

仮想味方の人たちとか、月もよく見守ってくれているし、未来に出会う人たちとか、未来に出会う自分とか、なんや大きくてよくわからない光とか、まあそういうの全部ひっくるめて仮想味方なのかもしれないけど、ってか仮想味方ってなんだよ。初耳です。坊主好きならつるつる頭も好き。初耳です。

現実の人間の力は、本当にそれはそれは大きくて、現実の人間にしか助けてもらえないときがあるのは勿論のことだけれど、それでもやっぱ現実の人間は欲望を持っているわけで、自分も欲望を持っているので、仮想味方に勇気づけられることの方がある意味安全で、助かるときも多い。

 

「孤独で気が狂いそうだ」と言っていた彼女の、仮想味方になりたい。

 

物語というもの、時間そのもの、もし足元を失ってしまっても、それが耐え難い時間の流れであっても、不幸な「いま」に繋がっていたとして、替えのきかないあなたの物語として続いているのであるから、苦しみを苦しみ抜いて、存在することの不安に圧し潰されても、攻撃的になって殻に閉じこもってでも、自分というものの誇りを胸に抱けるように凛と立って生きて、生きて、待って、時間が流れるのを待って、花のように悲しみや痛みを抱えたまま凛と立って、未来を待ち望んで、時間そのもの、物語というもの、その大きすぎるなにかを信じていたいとぼくは思うし、それがぼくの信念。