2022年4月24日(日)の日記

ツツジの咲く季節。どこでも咲く花。躑躅と書いてツツジと読む。髑髏みたい。ありふれている花。ピンク色、赤色、白色、綺麗なのにありふれている。雨に濡れて爽やかそうな若葉、ピンク、赤、白。なんか、めでため。

 

4月に入って人と会いまくっていたら、「人間無理―!」になって、先週あたりに限界を迎え、人に優しくできないスーパーわがまま一週間を過ごした。が、金曜にKくんと会っておいしいお酒を飲んだら復活した。水タコがうまい。カキフライがうまい。日本酒がうまい。歌舞伎町のあの居酒屋、また行きたい。Kくんはお疲れモードっぽかったが、疲れた体にふたりでぽけーとおいしいごはんを味わう時間って、ただの幸せじゃん。ぼくを優しい人間にしてくれてどうもありがとう。

土曜にDくんと会い、この人もぼくも日本語が下手だが、話がとても通じる。言語圏が近い。「どうして小説を書き始めたの」と訊かれ、「西加奈子の『サラバ!』を読んで感動したからだよ」と答えたら、「尊大だね」と言われた。その感覚はなかった! でもたしかに、と妙に納得。創る側と受け取る側、の区別って、ぼくの中にそもそもないかも。素晴らしい受け取り手って、同時に素晴らしい創り手だもんね。彼の作った短歌を読んで、しばし盛り上がる。美しい夜。美しい彼。

 

好きな人と会って、好きな本を読み、好きなことをして、好きな世界にいる。余裕で幸せだ。人間を人間扱いする体力がなくて、というのは他人の許せない部分を自分の「許したい」という欲望だけで無理やり変形させようとするも相手は人間なので全然変形できなくて、相手の人生は変形させられないのでそんなの当たり前だが、その変形させられなさに向き合う体力がなくて、あー幻想の中にいる初恋の人にときめいちゃったりとかしても、そのあいだにぼくの気分の大波小波に関係なく隣にいてくれる人がいてああ一生この人のこと理解できないな、と思うが、許せることも許せないことも普通の温度感で一緒に世界の中に共存している感じ余裕で幸せ。理解できなくても優しさだけはわかる。目をつむってもまぶたの裏の光は感じる。誰がなにを言っても思ってもこの幸せは壊せない。壊さない。同時に、明日なにが起こるかはわからない。

 

人生って藝術だよね、と思うから生きていることそのものを美しくすることが必要で、なにかものを創っていようといまいと美しい人は美しい、というのはちょっと雑すぎるけど、まあ人生は時間藝術なので美しい時間、美しい瞬間を積み重ねることを目指すのみだ。考えないことが解決策、もしくは幸せなんだとしたらそんなのおしまいだと思った。

 

 

肉のハナマサで買った豚バラ肉を200gずつ小分けにし、ラップで包んでジップロックに入れ冷凍する作業、慣れて少しずつ作業時間が短くなってきている。

今日はTRP 2日目が開催されたようだった。実行委員の対応について考える人や、撮った楽しげな写真を上げる人、私のための祭りではないと疎外感を覚える人、バイセクシュアルへの偏見について考える人、がTwitterで呟いていた。

知床半島沖で沈んだ観光船、発見された10人は死亡し、残る16人は捜索中とのことだった。ぼくが1年とちょっと前に乗ろうかと思った船だった。

ウクライナでは今日もミサイル攻撃があって人が死んだ。ロシア側が「ドンバス」と呼ぶウクライナ東部のルハンスク州への攻勢にあたって、ロシア側はアレクサンドル・ドボルニコフを作戦の司令官に据えたと見られるそうだ。ドボルニコフはシリアの第2の都市アレッポ空爆で破壊し尽くし、人道支援物資を運ぶ国連機関までをも爆撃し、北西部イドリブでは毎日のように学校や病院を攻撃したことで知られている。大量殺戮において、人間は「量」になる。大人数ではない。

シリア難民、ロヒンギャ難民、今日の命も危うい人々。パレスチナでは食糧危機が起こり、イスラエルパレスチナ間は武力衝突が相次いでいる。

新宿駅に行くと、ホームレスの人をたくさん見かける。コロナ禍で派遣切りにあって、ホームレスになった人もいるだろう。健康で文化的な最低限度の生活を、送れていない人々。そこにいないかのように、人々は通り過ぎる。汚いものとして。見るべきではないものとして。ぼくも彼らを尻目に、おいしくて楽しい居酒屋へ移動する。

そして今日、ぼくは明日以降のおいしいご飯のために、肉を冷凍する。温かな家で。幸せを感じながら。

 

 

目の前の人に優しくすること、そうして大前提、自分にも優しくすることでしか平和は生まれない。ニュースの知らない誰かよりも目の前のあなたに死んで欲しくない、ぼくが愛するぼくの好きな人に幸せでいて欲しい、それは当然だった。当然のようにぼくは最低最悪。そして当然、ニュースの知らない誰かの命は、ぼくの好きな人の命と同じ、誰かに愛されるべき命だ。当然だ。当然すぎる。目の前の人に優しくする、手を繋ぐ、その繋ぎ目が溢れたらいい。

生きていることは、祝福すべきことだ。でもそんな当たり前すら、疑わしい。生きているだけで、誰かを殺している。死にたい、死にたいと言っている人がいる。死にたくない、死にたくない、と願う人がいる。

ぼくは、ただ優しく在りたいと思った。どんな風に? どういう種類の? なにかを悪いと言うのは、ぼくにはとても難しい。

 

 

3年半前に書いた文章を見返したら、『道徳や倫理は合意と尊重の問題であって、合意が「私とあなた」以外の場所で結ばれることなんてない。』と書いてあった。今のぼくは、道徳と倫理の前提として必要なのは、人間としての尊厳だと感じている。尊厳がなければ、合意も尊重もへったくれもない。

 

 

強くなりたい。人間の尊厳をもっと信じてたい。読んだ人が自分の尊厳をもっと信じられるような作品を作りたい。ぼくは、「人間は弱い」じゃなく、「人間は強い」って言いたい。あなたは強い。あなたは強いですよ。

全然たくさん心無い言葉や、愛の無いことで溢れていて、めっちゃ世界中がインターネットやらなんやらで通じて、愛を見つけるより傷つけられる可能性が断然高くなってる世の中だと感じるけど、傷ついてしまうのはあなたが弱いからではない。あなたが人間だからだ。あなたは人間だから傷ついている。愛の無いことに傷つくのは当然ですよ、愛のあることでもすれ違いや誤解で傷つくことはありますよ、一瞬で気持ちの全部を伝えられる魔法はありませんよ、だから対話が必要なんだ、時間が必要なんだ、傷つくことが必要なんだ、傷つかなくなる方が怖いもん。ぼくは一生、ちゃんと傷ついて生きたい。そうしてぼくは、傷ついても決して損なわれない人間の中にある強さを信じているよ。魂は傷つかない。

 

愛は時間がかかるので、時間のかからないものには気を付ける。陶冶されたものしか信じない。小説も人生も愛も、時間かかるんす。