ふびんになるんですよ、とあの人はいった。本を読んでいる人を見ると、ふびんになるんです。
夜の公園は思いのほか明るく、しずかで、そうしてひそやかだった。あの人は、ひそやかなことを好んだ。昼より夜を、カフェより公園を、はじまりよりも終わりを。だからぼくたちが終わるのは必然だった。
そうですか、といってコーヒーをすする。家からタンブラーを持ちだして、ローソンでホットコーヒーを入れた。このベンチに座ってからしばらく経つが、未だコーヒーは温かい。
本を読んでいる人のほかには、どんなことを、ふびんだと思うんですか。ぼくが問うと、あの人はベンチから立ち上がり、よろよろとブランコへ向かった。
つばき。
ぽつりいうと、ブランコの座面に両足をのせて、立ったままおもむろに漕ぎだす。つばき? つばきって、あの、花のつばきですか。ブランコは、きぃきぃと耳障りな音をだす。無論、あの人は顔をしかめてすぐに漕ぐのをやめる。所在なさげに、ブランコの上で小さく揺れる。
そうです。ほら、あの花は、突然ぽとりと落ちるじゃないですか。首からぽとりと。たくさん、たくさん木の足もとに花が落ちているのを見ると、ふびんになります。ああ、終わることに気づかなかったのかなあ、って。それから赤ん坊も、終わることを知らないように見えるから、ふびんです。
あの人はこちらを見ることもなく、ブランコの上に立ったまま、すこし顎を引いて、淡々と話す。その様子はどこか滑稽だった。ひとりで演劇をしているような、コントを見ているような。
ほかにも、ふびんなものは、ありますか。
もちろん。挙げればきりがないですけど、蜜柑、昼間のバス、ウォータースライダー、結婚、1月はじまりの手帳、とんかち、糸のように細い月、なんかはふびんです。パッと思いつくのだと、それくらい。
へぇ、といって、ぼくはタンブラーのなかのコーヒーを覗きこむ。すこしずつ熱をうしなっていくそれは黒く、暗く、つややかで、ぼくの顔を反射させたように思った。が、辺りは薄闇で、実際にはよく見えなかった。
「ふびん」って言葉の語源は、「不便」なんだって、聞いたことがあります。不都合なことを憐れむから、ふべん、ふべん、ふびん。
ぼくがいうと、あの人はブランコから降りた。とん、とん、と片足ずつ地面につけると、ブランコを囲む、低い低い柵に腰かけた。ぼくに、背を向けるような位置になる。ぼくは、あの人に問うてみる。
ねえ、ぼくたちの関係ってなんだと思いますか。憐れんだり、憐れまれたり、セックスしたり、半年も会わなかったり、趣味の話で盛り上がったり、まったく意見が合わなかったり、でも合わす気がさらさらなかったり、それが心地よいこともあれば、ただの無関心に思えて苛立たしかったり、そんなことはどうでもよかったり、握手はするのに抱擁はしたことがなかったり。
また、よろよろと、あの人がぼくの近くにやってくる。ベンチに座ることなく、ぼくの目の前にきて、じっと、ぼくの顔を眺める。新たな化石を発見した考古学者のように、興味深そうに。
抱擁、したいんですか。
まじめな顔でいうから、ぼくは笑ってしまう。変な人だ。「可笑しがったり、面白がられたり」を、心のなかでつけ足す。
いいえ、してもいいですが、別に抱擁する必要を感じません。
ぼくがそういうと、あの人はへたくそな愛想笑いのようなものを浮かべて、またよろよろと、ブランコ周りの低い柵に腰かけた。今度はぼくに、向きあうような形で。安心したのか、納得したのか、特になにも考えていないのかは、知らない。知りたいとも、思わない。
ふびん。
ぽつり、あの人が言葉をこぼす。つばきの花のように、その言葉は、湿った、夜の公園の土に、落ちる。
ふびん、でいいんじゃないですか。
あの人が言葉を継ぐ。なにがですか、と、ぼくが、またそこに言葉を継ぐ。言葉は、今度は落ちない。
わたしたちの関係の、なまえです。さっき、「ぼくたちの関係ってなんだと思いますか」って、いったじゃないですか。だから、「ふびん」でいいんじゃないですか。「友人」も、「恋人」も、「家族」も、「仲間」も当てはまらないと感じるなら、「ふびん」でいいんじゃないですか。別にわたしは、「友人」でも「恋人」でも、どうでもいいですけど。
あの人のうしろのブランコは、もう揺れていなかった。手もとのコーヒーは、蓋を閉めないでいるせいで、冷めはじめている。けれど、冷めても構わなかった。
ぼくたちの関係は、ふびんですか。
さあ。
「ふびん」は、抱擁をしますか。
さあ。でも、する必要を感じないのでは、ないんですか。
感じないです。
じゃあ、しなければいいんじゃないですか。
そうですね。
……寒いです。そろそろ、家に帰りませんか。
ぼくの家に? それぞれの家に?
一緒の家に帰る方が、ふびんな感じはしますね。
じゃあ、ぼくの家に帰りましょうよ。近いんだし。
そうですね。
あの人は、背中を丸めて歩いた。家までつづく街路灯の光が、まるい静けさを夜に投げていた。この夜が、ずっとつづけばよいと願ってしまった。願ったすぐあとで、これは「ふびん」な行為だったと反省して、くつくつと笑った。
そういえば、どうして本を読んでいる人は、ふびんなんですか。
いえ、読書している人がふびんなのではなく、読書している人を見ると、わたしがふびんになるんです。
……わからないです。
そうですか。
アパートの階段を上ると、当然のことながら、ふたり分の足音が響いた。ぼくたちは、このまま一緒に住むかもしれないし、あの人は朝早く、部屋をでるかもしれない。そのまま半年、会わなくなるかもしれないし、ともすれば一生会わないこともありうる。あの人はひそやかさを好むから、ぼくたちが終わるのは必然だったが、「これが最後の日です」なんてことは、神さまも誰も、教えてくれない。きっと今夜、セックスをするだろうが、それだって月が雲に隠れるように気まぐれなものだ。
ドアをあけて部屋に入るとき、糸のように細い月が目に留まった。ドアがまだ閉まりきらないうちに、性急な二本の腕がぼくの顔を振り返らせ、そのまま玄関で、深い、深い口づけをした。
ぼくたちは、ここで生きています。