YUKIを聴くこと

YUKIがいつもいつでも明るい存在だということがファンの皆さんならお分かりかと思います。この現代においてそれがどれほど困難かつ挑戦的な試みかということは、普段からスマホを使用される皆様ならお分かりでしょうか。それは光と同じです。SNSに毎日のように触れる私たちは他人と比べるということを生前から決まっていたことかのように受け入れます。LINEで通知が鳴ったことを携帯を手に取ることの言い訳に使うでしょう。しかしそれがどれほど重要なことでしょうか。目の前のことに集中し、あなたが、私が、ここにいるということがどれほど尊いことかということが誰にわかりましょうか。未来に、過去に、心配することなど何一つなく、ここに今すぐ居られれば、対応できないことなど何一つないというのに。自分を信じることを何一つできないから、迷っているのです。本当のことを信じるのでなく、信じたことが本当になるこの街で。

アルバイト仲間が言います。「自分さえ良ければ順調じゃーん」言うねー。

私は未だ虹の麓、渡るのなら踊る方がはやい?

このフレーズはYUKIの中でも革命的だと思いますが(なぜならYUKIが理想を提示するのではなく現実の中に理想を見出し始めた歌詞として非常に興味深い歌詞だから)、現代に生きる私たちは自分の置かれた場所で咲くことを忘れました。なぜなら即席即効でドーパミンを供給されることに慣れきってしまったから。私たちは皆死ぬ必要ないくらいには魅力的です。それぞれが孤独です。助け合うことを必要としているのに自分のことしか考えられない存在を、自分のことしか考えられないままに肯定してくれます。賽は投げられた、一人には戻れない。私たちが全ての意味を見失ったときに道標になるのはなんでしょうか? 常識? 定例ルート? 馬鹿みたいにもがいたとしてもそれすら肯定してくれるのは長期的に肯定してくれる存在でしょう、

SNSでいいねをもらった、LINEの通知が来た、かこつけて見るTwitter、私たちがスマートフォン依存症になっているのは自明だ。それなのに、現実を見ることを健やかだとみなすのはまだ時代遅れでしょうか、死ぬなよこの世界に殺されるのか??

酔って衝動のままに書いた文章ですがこのまま勢いで乗り切ろうと思います。特に意味はない文章だ。ただ感じていたのは、なんでみんなこんな死にたくなってるんだ? スマートフォンばっかり見ていると死にたくなる気がします。それは脳のバグです。YUKIはいつも最高だな。ということです。続けます。

アルバム “Terminal” はこれまで理想の世界を提示することの多かったYUKIが、『「理想と現実の距離を埋めきることができないふがいない自分」すら肯定する理想の世界』を提示してくれた、という部分でとても新しいものだと思います。私はどうしても「言葉」にフォーカスしてしまうので、詩の部分ばかり話してしまいますがご了承ください。

この「ふがいない自分を肯定する」モードは、以前のYUKIから垣間見えていましたが(前作 “forme” に収録されている曲 “チャイム” においても、『出会い散々見逃して さよなら上手く出来なくて』という描写があります)、今作においてその傾向はより顕著になっています。”good girl” では『誰にでもナイスではいられないわ』『良い子でいられない』とモロに歌っていますし、”NEW!!!” では、『私はここで 虹の麓 渡りたくて 足が震えてる』と言っていた1番から、2番では『私は未だ 虹の麓 渡るのなら 踊る方が速い』と言っています。わかりやすい変化であれば、「向こう岸に渡りたいけど足が震えて渡れない」から、「勇気を持って向こう岸に渡れるようになった」という変化でしょう。この歌詞でいう「ここ」は現実、「向こう岸」は理想だと考えられます。しかしYUKIは「渡る」のではなく「ここで踊る」ことを選択しています。その方が「速い」から。「理想の自分になれないのなら、現実の自分で楽しくやろうぜ!」と私には聞こえました。しかもなんと「そこ」=「現実」は虹の麓なのです。踊るとしても絶好のロケーション。『スタートライン 突っ立って 泣いてる暇はない』=「現実を嘆いて、楽しもうという努力もしないでそのまま過ごすなんて時間はない」のです(これは2014年のアルバム “FLY” 収録曲 “It’s like heaven” でも、『うれしくって抱きあっちゃうようなアクシデント ただ待っているだけじゃダメよ 進んでいるから』という歌詞で言っていましたね)。まあ、それでも理想は理想、近づきたい自分もいる。だから踊りながら踏み出す『One step two steps』です。一歩二歩、ちょっとずつ。『hey DJ! 止めないで』踊ることを止めないまま踏み出し続けると、身を乗り出せば向こう岸が見えるほどに近付いてきています。『お祝いよセレブレイト』そうなったら祝福が待っています。なんて優しく勇気づけてくれる歌。

2004年に発表されたシングル “ハローグッバイ” では、『私はどんどん変わってく はにかんだり 舌をだしてみたり さびないわ』と彼女は歌っていますが、2021年発表の “ご・く・ら・く terminal” では、『どこから錆びても惜しくはない』と言っていますね。このふたつを結びつけるのは強引過ぎ? でも今のYUKIの歌詞からはそういう匂いを感じ取ってしまうんです。錆びてゆくもの、枯れてゆくものに対する肯定。ダメでふがいない人間への肯定。でもそこに甘んじない。砥石で研いでるからよく切れそうなまま、錆びたとしても惜しくはない。それって最強過ぎる。しかも『マイソウル錆びない』そうですから、錆びていくのは人間としての肉体的な部分くらいでしょうか。もちろんYUKIの歌はフィクションなので歌詞はYUKIのことではないですけど、すべてのフィクションは作者の肉体を経由した時点である種ノンフィクションなので勿論YUKIのことです。

今は比較の時代だと思います。どんなことも情報の洪水によって、容易に相対化できてしまう時代。それによって自分が、あたかも客観的であるかのようにどんどん錯覚、嫉妬や諦念、絶望を孕んだまま主観的になっていく。そんな時代にありながら、YUKIが発するメッセージはいつも明確です。

『世界中でただひとり 君は誰にも似ていない 大きく見せなくてもいいんだ ありのままでいいさ』

『今日の月が綺麗なのは そう 君が笑っているからさ』

『それが善いとか悪いとかではなくて 自分の意見をちゃんと持って言うだけ』

圧倒的絶対的な主観性。そこに比較や相対化はありません。希望を孕んだ絶対的な主観。揺るがない。強い。こんな、綺麗事みたいな歌詞、普通だったら鼻白んでしまうかもしれないけど、YUKIだから説得力がある。だってYUKIは綺麗事をずっと続けている人だから。自分が好きになれる自分を、ずっと選び続けている人。綺麗事って、上辺だけを掬って、「ほら綺麗でしょ」って見せるから綺麗事なんだと思う。その途中にあるどうしようもなさや、汚さ、醜さ、迷い(『うな垂れ 下を向いて 冴えないの ステージの裏側』『人の目ばっか気にして 間違いばっか指摘して』『自分の感情も疑わしい 曖昧でいいじゃないか それが人間の運命なら』)、全部を経て獲得した綺麗事は、綺麗事じゃない、もう、ただただ美しいんだよ。

そういう本物の美しさを、はなから「綺麗事だよ」って吐き捨てるのは簡単ですけど、簡単だからこそそこに甘んじたくはないな、と私は感じます。私たちはもっと、希望を持っていても良いんじゃないかな。もっと、笑っていても良いんじゃないかな。

いよいよ(はなから?)何について書いているのか分からない文章となって参りましたが、そしてYUKIについてだったらあとこの50万倍くらいは延々と書けるんですけど、最後にアルバムのラストを飾る “はらはらと” についてちょびっとだけ言及して終わろうと思います。

私はこのラストで、圧倒的で絶対的な主観性をもったYUKIの曲たちから、急にふわっと視点が浮いて、 “世界の目線” とでも言いたくなるような広い視野になる感じがとても好きです(実はこのアルバムのつくり自体、後半の曲になるにつれて、『私』という一人称の言葉が少なくなっているようにも思います。フィクション性が強くなって、でもラスト前の “灯” が、『あなた』と直接歌詞には出て来ないがそれに対応する恐らく『私』の歌だから、そこで一気に主観性が増して、ラストとの対比が生まれます)。

歌詞に出てくる『願い事』というのが、『声は深い森を突き抜ける 光は道無き道を照らす』という少しスケールの大きな歌詞に続いているので、「私の願い事」というよりは、「世界の願い事」のように響きます。そしてその願いとは、『-消えないで 笑い声-』というもの。あなたが笑っていてほしい、とかいう規模の話ではなくて、世界から笑い声が消えないでほしい、という願いに私には聞こえます。さらに続く歌詞も、海原だったり空だったり、世界そのものを歌っています。2番の歌詞で、『今じゃあ もう謝ることも 喧嘩さえできないよ できないね』という部分がありますが、この流れでのこれは、死者を想起しない方が難しいのではないでしょうか。遠く離れてしまった二人とも考えられますが、歌詞にもあるように、『目に見えない物』への祈りの歌だと、私はこの曲を位置づけています。

この歌の中で、陽は海原に沈みますし、今日という日へは「さらば」と告げています。物事が終わっていき、アルバムも終わりへと近づく。この曲を聴いているあいだも勿論、大げさにではなく、人は死へと近づいていきます。やがて、人は死にます。死んでも、世界は続いていきます。たくさんの、数えきれない人たちが死んでいった世界に、私たちは生きているのだということを、この曲を聴くと感じます。謝りたかったあの人に謝ることも、喧嘩することもやがてできなくなります。じゃあ、どうしよう。『じゃあ 未来を託された私達の宝物』、それはなんでしょう。未来を託してくれたのは、過去に生きた人々ですよね。そしていずれ、私たちもほかの人に未来を託すことになります。『-消えないで 笑い声-』そんな願い事を、私たちは託されてきたんじゃないでしょうか。そして託したいのではないでしょうか。いずれこの世界からは消えるなら、希望を残したいのだとこの歌は言っている気がします。そしてその想いは、『繋がる無限の環』のよう。

私たちは生きています。まだ、生きています。そしてそれは、かけがえのない日々です。私も、いつか死ぬから、死ぬなら、それまでのあいだは幸せに生きたいと思います。

『さあ 望んだ今を生きてみよう』

この歌を聴くと、勇気も出ますが、「本当に生きたい今を生きられている?」と、容赦なく問われているような気もして背筋が伸びます。YUKIだけじゃなく、これまで死んでいった人々に、これから生まれてくる人々に、世界全体に、問いかけられているような気がして。 “はらはらと” 、大好きです。

ちょびっとだけって書いたのに、思ったより長々書いてしまった。まあ、今書いたことを引っくり返してしまうようですが、望んだ今なんか生きなくても、希望を持ってなんか生きなくても、死にたい死にたいと思って生きても、本人の心と身体だから自由です。『あなたはあなた そのままで誇らしく胸を張れ』です。『それぞれの場所で胸張り 咲き誇れ』です。私たちは皆自由です。私たちは皆孤独です。でも、きっとぼくはYUKIの抱く希望と似た光を抱いているのだと思います。別に好きに生きれば良い。でも、ぼくはなりたい自分になりたいし、幸せに生きたいし、誇らしくいたいし、世界にも幸せで、優しく、美しい場所であって欲しいと思っているんです。それはぼくの自由です。ぼくは、ぼくが美しいと思うものが好きです。

だから、ぼくはYUKIを好きで聴き続けているだけなんですよね。