十月の雨、いくつかの断片的かつ個人的な記憶

パンっ、と鋭い破裂音をさせて、目の前を横切るトラックが空のペットボトルを踏みつけていった。

僕は吉祥寺駅近くの商店街で、恋人と手を繋いだまま赤信号が変わるのを待っているところだった。

雨が降っていて、けれどアーケードの中だから誰も傘をさしてはいなかった。十月半ばにしては肌寒い日で、ペットボトルの破裂音は、冷たい空気を刺すように響いた。なんの音? あ、ペットボトルね。と斜め前に立っていた男女が言った。踏まれたペットボトルは、安っぽいオレンジ色のラベルをしていて、洗濯前の汚れたタオルのように情けなく潰れていた。

やがて信号が青に変わると、周囲の人々が僕たちを追い越し、横断歩道を渡っていく。僕は、ペットボトルから目を離せないまま立ち止まっていた。人々は、手を繋ぐ僕たちを怪訝そうに眺めながら、僕たちを追い越していく。

「そろそろ手、離さない」

僕に合わせて立ち止まってくれていた恋人は、そう言った。離さない、と言って、僕は彼の手を引いて横断歩道を渡る。恋人は、仕方がないという様子で、手を繋いだままついてきてくれた。雨は、ぱたぱたと、事務的な作業をこなすようにいつまでも降り続いていた。右手に掴んでいるビニール傘の柄が、生温かく手に馴染んでいた。

 

* * *

 

あれから何年かが経って、ときどき、当時の恋人のことを思い出す。

僕は三鷹に住んでいて、彼は阿佐ヶ谷に住んでいた。バレーボールが趣味だという彼は、週末にはよく、ゲイのバレーボールサークルなるものに行って、夜中に酔っ払ったまま僕の家に押しかけてきた。長い手足は、運動した名残か、舐めると塩っぽい汗の味がした。

思い出はいくつもある。けれど、そんなことよりも、彼について思い出そうとするとき、まっ先に思い出されるのはあのペットボトルのことだ。あの日なにをしに吉祥寺へ行っていたのかも、彼の匂いも、彼の血液型も今や思い出せないけれど、あのとき見たペットボトルのことは鮮明に記憶している。打ち捨てられ、トラックの容赦ない重さに押し潰された空のペットボトル。僕はあのとき、同情していたのだと思う。横風でアーケードに吹き込んできた雨に濡れ、くしゃりとなったその物体に、同情、あるいは同化していた。アスファルトの上に体を沈ませ、道ゆく人々にただ通り過ぎられるだけの存在に。踏み潰される瞬間、一度だけ大きな叫び声を響かせた、取るに足らない存在に。

「そろそろ手、離さない」

あのとき、たしか彼はそう言ったのだった。子供を諭すみたいに。

人前で、男同士で手なんか繋ぎたくなんてない、と言う人だった。それでも、隣に立って僕が手を握ると拒否することはなかった。優しい人だったと思う。

僕たちが別れた直接的なきっかけは、恋人の浮気だった。口に出して約束はしなかったけれど、僕は恋人が、外で好きにセックスしてくるというのは、耐えられなかった。「外ではセックスしないで」なんて言わなくても、そういうものだと思っていたけれど彼は違うようだった。恋人は僕が責め立てると、「体だけだよ」とよく話したけれど、心を閉ざしたまま、体だけを他者に明け渡すなんて、想像だにできなかった。僕は恋人の心も体も、独占していたかった。不安だったのかもしれない。

ともあれ、僕たちは別れた。「信じられない」とか、「なんて残酷な」とか、「そんな男誰も大切にできない」とか、思いつく限りの罵詈雑言を投げ捨てて、でも彼は反論をしなかった。黙って遠くを見て、聞くだけだった。僕が黙った瞬間に、部屋の中に落ちてくる沈黙が、僕たちの別れをより鮮烈に決定づけた。半紙に墨をたっぷり吸った筆を押し付けるみたいに。黙った彼がなにを考えていたのかはわからない。面倒くさいと思っていたのか、傷ついていたのか、なにも言わないことが僕への思いやりだったのか。思えば、いつもそうだった。手を繋ぐときも、喧嘩をするときも、昼ごはんになにを食べるかも、愛の告白も、すべて僕からの発信で、彼は受け止めるばかりだった。

「そろそろ手、離さない」

浮気を僕が知る前から、彼はずっと、手を離したかったのかもしれない。そう考えるのは、悲しいというより、「理にかなっている」感じがした。悲しいと感じるには、彼と別れてから時間があまりに経ち過ぎてしまっていた。

 

* * *

 

今日も東京は雨が降っている。ここ数日で気温は一気に下がり、着る洋服の種類も様変わりした。

一日働いて電車に乗り込み、家の最寄り駅から外に出て、十月の夜気を吸い込んだとき唐突に、彼のことを思い出した。正確には、くしゃりと潰れたペットボトルのことを。

あのあと、ペットボトルはどうなったのだろう。誰かに蹴られたろうか。誰かに拾われたろうか。あのとき、ペットボトルの潰れる音を聞いたアーケードにいた人々は、今はなにをしているのだろう。僕と別れた恋人は、今頃どうして過ごしているのだろう。彼とは、別れて以来、一切連絡をとっていない。

家路を歩きながら、ぼんやりと流れる景色を眺める。大通りを曲がって、営業時間を終えた飲食店やクリーニング店、不動産屋などが立ち並ぶ通りを歩く。目の端を、車のヘッドライトや、街灯の光がちらちらと横切る。

「幸せにしているといいな」と思う。心底憎んで、大嫌いだと僕が何度も詰った彼が、今は幸せに過ごしているといいなと思う。僕とは関係のないところで。僕の人生と二度とは交わらない場所で。

同じくらいの無責任さで、あの日、ペットボトルの破裂音を聞いた、吉祥寺のアーケードを歩いていた人々も、幸せにしているといいな、と思った。それぞれの場所で。それぞれの生活の中で。

あの日、道に転がっていたペットボトルのことを、こんなにも記憶し、気にしている人間は、きっとこの世に僕くらいしかいないと思う。でも、この世界のどこかに、打ち捨てられた存在であっても、心に留めてくれる誰かがいるかもしれないということは、悪くないことだと思った。きっと誰かが、本人の予想もつかない形で、その存在を知ってくれている。そして、僕の幸せを、あなたの幸せを、世界のどこからか無責任に願っている。強く、願っている。