『往復書簡 初恋と不倫』、偶然と必然のあいだ

ガラス窓のこちら側から他人行儀に見ていたはずなのに、そして身に覚えもないのに、キリキリと胸の奥が痛い。

もうとっくに忘れてしまった記憶を、忘れたままに引っ掻かれたみたいにかゆくて痛い。

でも不思議と、その痛みは大切に抱いていたいと思えた。

 

 

坂元裕二さんが書かれた本、『往復書簡 初恋と不倫』を読んだ。

坂元裕二さんはテレビドラマとして、「東京ラブストーリー」、「最高の離婚」、「Mother」、「Woman」、そして「カルテット」などを手掛けた脚本家だそうだ(タイトル聞いたことあるのばかり!)。

私は普段ドラマをあまり見ないのだけど、「カルテット」はたまたま見ていた。登場人物たちの会話が一向に噛み合わず、平行線で進んでいるように見えて、妙なタイミングでパチリとはまる感じがとても面白く、突拍子もない会話の中にユーモアと核心に迫る言葉が、バランスよく織り交ぜられているのが印象的だった。

『往復書簡 初恋と不倫』は2人の人物の手紙のやりとり(もしくはメールのやりとり)で構成されていて、所謂「地の文」というものがない。

だからドラマでの会話のやり取りを眺めるように、テンポよく話を読み進めることができるし、坂元裕二さんの独特な、ドラマで感じた会話のズレとハマりがこの本でも魅力的に光っていた。

 

 

本には、「不帰の初恋、海老名SA」と、「カラシニコフ不倫海峡」という2つの物語が収められている。

恋というのはごくごく個人的なものであるから、「初恋と不倫」というタイトルを見たとき、この本はとても個人的な世界が描かれているのかな、と私は思った。けれど坂元裕二さんは、まったく良い意味で、「初恋」と「不倫」というテーマを掲げながら物語を社会的な位置にまで押し上げることに成功していた。

本の帯には、「ロマンティックの極北」と書いてあるが、この本で描かれるのはロマンチックな淡い初恋でもドラマチックでドキドキするような不倫でもない。繰り返し出てくるイメージは「ホロコースト」だったり「地雷」だったり、「いじめ」や「自動小銃」。大きく言うならば「死」を連想させるような負のイメージが過剰なほど物語中に何度も登場する。

そして物語中で手を変え品を変え、同じようなことが語られる箇所がある。

 

『君の問題は君ひとりの問題じゃありません。(中略)誰かの身の上に起こったことは誰の身の上にも起こるんですよ。川はどれもみんな繋がっていて、流れて、流れ込んでいくんです。君の身の上に起こったことはわたしの身の上にも起こったことです。』(単行本 p16)

『関係ないなんてことはない。川はどれもみんな繋がっていて、流れて行って、流れ込んでいく』(単行本 p44)

『ありえたかもしれない悲劇は形にならなくても、奥深くに残り続けるんだと思います。悲しみはいつか川になって、川はどれも繋がっていて、流れていって、流れ込んでいく。悲しみの川は、より深い悲しみの海に流れ込む。』(単行本 p59-60)

『世界のどこかで起こることはそのまま日本でも起こりえる。』(単行本 p94)

 

繰り返される死のイメージに加えて、この文章。

たとえば。

前を歩いている人の頭にカラスの糞が落ちたとする。

「うわーあぶねー、俺のとこじゃなくてよかったー」

大抵の人がこう思うと思う。

たとえば。

1週間連続で人に道を尋ねられたとする。

「なんで俺が? 周りにほかの人もいっぱいいるのに」

大抵の人がこう思うと思う。

たとえば。

テレビのニュースで、ある国で凄惨な戦争が起きて市民が大勢死んだ、と報道されていたとする。

「なんで俺じゃなくて、この国の人たちが死んだんだ?」

……と、果たしてそう思うか?

世界は繋がっていて、なのになぜか私は私で、あなたはあなたで、彼は彼として存在しているということ。私は朝ご飯にバナナとヨーグルトを食べて、その一方であの人は朝からトンカツを食べている。そのまた一方で、あの子は空腹を感じながら銃声の音に怯えている。

私が私であるということはただの偶然に過ぎず、投げたコインがたまたま表を示したみたいに、簡単に裏返りそうな現実なのかもしれない。

「不帰の初恋、海老名SA」の方に出てくる人物、三崎明希さんは、「なぜ私はあの人でないのか」という答えのない問いを、ずっと考え、心を痛めることのできる、とても優しい人物だと私は感じた。

「想像する」という行為は、痛みを伴うとしても、目を逸らさずに誰かを思いやる優しさに繋がっている。

私が出くわす全ての出来事は、私以外の人が出くわすかもしれない出来事で、その逆もまた然りだということ。そういう無数の偶然の積み重なりが世界にたくさんの文脈を作り、その中で私たちは生きている。その逆に、私たちは生きることでその文脈に影響を及ぼしてもいる。そのことに自覚的になること。想像をすること。

本の中で明確な主張として書かれているわけではないけど、その「想像力」がもたらす大切な痛みと、そして温かさが、この物語からは放出されている気がする。そしてそれは、まさしく今の社会に不足し、必要なものなんじゃないかと私には思えた。そういう意味で、『往復書簡 初恋と不倫』は社会的な物語だった。

 

 

でも!!

この本のタイトルは、『初恋と不倫』であって、「初恋」も「不倫」もぜんぜん社会的なテーマじゃない。だって初めにも書いたけど、恋は個人的なものだから。

さっき、「私が私であるということはただの偶然に過ぎず」と書いたけど、じゃあロボットみたいに「私」と「あなた」を簡単に取り換えっこできますか? と訊かれたら、当然だけど答えはノー。

あなたは偶然日本に生まれて、偶然大きな事件に巻き込まれず、偶然きょうまで生きてこられて、偶然に今そこに住んでいて、偶然に彼や彼女に出会い、偶然に恋に落ちる。

偶然がたーくさん積み重なって、ひとりの人間の歴史を形作ると、それは替えの効かないものになる。あなたはあなたしかいないし、私は私しかいない。過去がどんどん私になって、ひとつひとつの偶然が必然へと変わっていく。

恋に落ちたのは偶然かもしれない。でも、「あなたはあなたしかいない」ということが、積み重なった時間だけ確かになり、その恋は必然へと変わっていく。

恋だけでなく、すべての出来事がきっとそう。

『往復書簡 初恋と不倫』は、そんな偶然と必然のあいだで揺れ動く2人の物語だと思いました。

人間は、目の前で起こる出来事を選べない。神様か何か、よくわからない大きなものが、「ほうらこれあげる。ぽーい」って投げたものを前にして、右往左往しながらもがいていく。ときには目の前のことを受け入れられなくて、間違った判断を下してしまったと思って、

『許されないことでした。』(単行本 p43)

『後悔しています。』(単行本 p52)

『そんな明日があったかもしれない。』(単行本 p72)

『望んではいけなかったんだなと思いました。』(単行本 p166)

と悔やむこともある。

でもその「選べなかった偶然」が、最後にひっくり返って「必然だったのだ」と確信できるとき、生きていることの喜びがそこにあるのだと思う。

 

 

『往復書簡 初恋と不倫』は、この世界の痛みと喜びを、確かな手応えとともに描いている素晴らしい作品でした。

この本が私の文脈をまた少しずらして、それがうまい具合にパチっとはまるといいな。坂元裕二さんが紡ぐ会話みたいに。