色恋沙汰

空は高く、夕立を携えた雲が走る

コンクリを打つ音、雨宿りする人々

ぼくらなら、間もなく止むだろうこと解りながら濡れて走るさ

 

 

緑のモミジが鮮やかに落ちた

夕立はあがって、蒸し暑い今日という日の暮れ

このまま繁らないとしても、一向に構わないさ

 

 

湖の水面を撫でる指

翳った心乾かすような、涼しい風と遠くに目を細めるあなた

木々の葉が西日にどよめいている

頬の熱に溶けてみたり、言の葉は通わないばかり

 

 

誰も知らない、噂も届かない場所

あなたの知らないぼく

知らない人のようなあなた

一度っきりの今日、二人っきりの夜

 

 

これは嘘から出た実、身から出た錆

揺れては責める度、眼差しは出合い

答えは此処にしか無いものだと判る

 

 

指先に、湿った頬の温度を残したまま

しどけない、夏が逝く

心に恐竜を住ませる

絵を、見に行った。ひとりで。

ホリウチヒロミさんが壁一面に描いた、大きな絵。

 

原宿のデザインフェスタギャラリーにある、休憩室のような小さなスペースにその絵はある。

私がその絵を見に行くのは3度目だった。最初見に行ったときは、壁の7割くらいが埋まった状態で、その次に行ったときは、ライブドローイングというのか、ヒロミさん本人が絵を描いている様子を見ることができた。彼の後ろから、椅子に座って、作品をじっと見ていた。黒インクのペンで、さらさらと下絵を描くみたいなスピードで描いていくものだから、驚いた。「調子に乗って、描く予定じゃなかったものまで描き過ぎちゃったよ」と笑ったヒロミさんは、生きていることの充実を味わっているみたいで、とても眩しく、かわいらしく見えた。

 

絵は、ヒロミさんの作品が常にそうであるように、力強かった。

特に今回は、絵が完成していく過程を、たった3回(それも短いスパンで)ではあるけれど、追っていくことができたから、絵が力を増していく様子をこの目で見ることができた。とても幸運だったと思う。

 

 

 

以下に、完成した絵を見たとき、私の頭の中に浮かんで、その場で携帯に打ち込んだ言葉を並べる。

 

 

前に進もうとする、圧倒的な、意志

燃える

爆発

泣きながら、進む

バラバラになって、もがきながら、進む

進まざるを得ない

花が咲く

消える

好奇心

執念

大きな流れ

 

 

1回目、まだ絵が7割くらいしか進んでいなかったときには、「再構築」という言葉が頭から離れなかったのだけど、完成した絵からは、もっと勢いの強いものを感じた。

絵は、圧倒的だった。強かった。

「もっと大きい壁に描きたい」という旨のことを、ヒロミさんはTwitterでつぶやかれていたと思うけど、ぼくも、同じことを思った。もっと大きな絵が見られるものなら、見てみたい。

 

今回の会場は、デザインフェスタギャラリーの中の、カフェの区切られた一角、という感じのスペースで、絵を見るための場所ではなかった。だから、カフェで飲み物を飲むお客さんで絵が隠れてしまったり、話し声で騒がしかったりと、集中して絵を眺められる環境ではなかった。そして、絵全体を眺めるためには、あまりに会場が狭く、引きで絵を見ることができなかった。

それにも関わらず。ヒロミさんの絵の勢いや力強さに、ぼくは十分に圧倒された。

豪快なタッチでもなく、むしろ緻密に細い線で描かれたペン画なのに、視界に収まらないほどの距離で見るそれは、自分の中の何か、心みたいなものが持っていかれてしまうみたいだった。

描かれているものは、様々な大きさの動物たちの、骨。骨は左方向を向いているものが多く、それらの骨に絡まるように、引っ張られるように描かれる花や植物の蔦。泡。小さな妖精のような生き物たち。

前回のヒロミさんの個展『ALIVE』では、それらの動物の骨たちが、歓びに溢れているように見えた、とこのブログで書いたと思う。骨だから、表情なんてないのに。

不思議なことに、今回のヒロミさんの絵の動物たちは、皆、悲しそうに見えた。泡は涙のように見えたし、今回も当然、頭骨からは表情など読み取れるはずがないのに、彼らは苦しそうだったり悲しんでいたりするようだった。ぼくの目にはそう映った。自分でも驚くくらい明確に、「この動物たちは苦しんでいる。悲しんでいる」と分かった。悲しんでいるのに、彼らは進もうとしていた。身体の骨が、バラバラに崩れそうになりながらも。

 

 

 

 

 

大人になって思うことのひとつに、「感じる心の大切さ」がある。

子ども時代は、誰しもが無条件にとても「感じている」と思う。なぜならば全てが初めてだからだ。初めて見るもの、初めて聴く音、初めて嗅ぐ匂い、初めて触るもの、初めて味わうもの。

赤のあの「赤い」感じ、を「赤のクオリア」と呼ぶのだけど(しばしば「情熱的な感じ」とか「熱い感じ」「攻撃的な感じ」と表現される赤のあの「感じ」)、子ども時代はクオリアが爆発的に増える時期だと思う。

初めて知る感情や、初めて感じる感覚。子どもが生き生きとして見えるのは、何をせずとも毎日が新しく、瑞々しい発見に満ちているからだと思う。

大人になると、そうはいかない。

知った感情をなぞっているように感じたり、見たことのあるもの、聞いたことのあることが増えていく。「初めて」に出会うことは、決定的に少なくなる。

「感動」という言葉は、感じて動くと書くが、心が感じ入って動くことは、とても貴重になっていく。

心が動く瞬間に出会うことは、生きることの原動力になると思う。逆さに言ってしまえば、心が動く瞬間に出会えなければ、生きることはひどく虚しく、空虚なものになってしまう。ぼくは感じる心を失いたくないから、心を育てたいから、芸術に触れるし、言葉を綴っている。新しいものを探している。何も感じられなくなることは、とても怖い。

 

感じる心を持つことは、一方で、悲しみを持つということでもある。何も感じなければ、虚しく空虚ではあるけれど、悲しみもきっとない。

誰かの何気ない一言に、深く傷ついたとき、ぼくたちには2つの道がある。

悲しみに蓋をして、見なかったこと感じなかったことにしてしまう道。

もう一つは、傷を見つめて深く悲しみ、その傷ととことん向き合う道。

後者の道を選ぶと、人生はときにあまりにも険しい様相を見せる。剣山の山を登るように、進むことが困難で、傷つき果てることが必至なもののように。ぼくたちは進めなくなる。あまりに険し過ぎる道を前に、やはり傷など見なかったことにしよう、と道を切り替えたくなる。

 

 

 

ホリウチヒロミさんの絵は、「傷から目を背けない道」を進む者たちの絵だ、と思った。

彼らは苦しんでいる。もがいている。けれど、道を切り替えようなどという気配は、微塵も感じられない。「感じること」を決して放棄しようとしない、強い意志。

ぼくが特に強く心惹かれる、一匹の骨がいた。後で、『その骨は、猫だよ』とヒロミさんに教えていただいたのだけど、猫の骨はほかの誰と比べてもぼろぼろになっているように見えた。胴体部分の骨は、ほとんど元の形を留めていない。けれどギリギリのところで「自分」の形を維持し、進もうとしている。彼はどうして、そうまでして前に進むのだろう。決して大丈夫でないのに、前を向き続けているのだろう。

しばらく、じっと、絵を眺めていた。

彼が、彼らが進む理由。その勢い。それは、「生きること=感じることそのものへの希望」にほかならないのではないか。絵を見ていて、そう感じた。

描かれている彼ら(動物の骨たち)は傷ついている、悲しんでいる。傷つくことが「できて」いる。悲しむことが「できる」ことを決して放棄しないでいる。それは喜ぶことが「できる」ことと繋がっている、けれど、彼らは決して「喜び」に向かって進んでいるわけではない。傷つくことが「できる」自分の生命を祝っている。悲しむことが「できる」自分の生命を、いうなれば歓んでいる。

絵は言っている。

「私たちは苦しんでいる。傷ついている。もがいている。私たちは悲しむことができている。悲しむことができる生命を抱いている。喜ぶことができる生命を抱いている。私たちは進む。理由などはない。私たちは進みたい。進まざるを得ない。どうせ進むのなら、感じることができるこの生命を抱えながら、進みたい。もがきながら進みたい」

それは「生きる」ことにほかならなかった。

 

 

 

今回の絵のタイトルは、『Life Goes On.』なのだそうだ。

人生は続いていく。生命が命を抱えながら進んでいく。なんてぴったりのタイトルかと思う。

絵の中に、一際大きな骨がいて、それは恐竜の骨のようだった。そして彼の進む力は特に強く見えた。絵に勢いをつくっていた。

ぼくは心の中に、彼に住んでもらおう、と思った。悲しみに押し潰されて、前に進めなくなりそうなとき、感じることから逃げたくなったとき、彼の力を借りようと、そう思った。

 

 

 

絵は、少ししたら消えてしまうそうだ。絵の上からまた白いペンキか何かを塗り足して、消されてしまうそうだ。

「花火みたいですね」とヒロミさんに話したことを思い出す。

でも、絵は消えても、ぼくの心には既に恐竜に住んでもらっている。だから大丈夫なのだ。ぼくは今そう思っている。

夏の花が咲いていて

夏の花が咲いていて

あなたに教えてもらった名前を思い出す

「日本の夏だね」って言ってあなたと歩く

 

いくつもの火をつけては

面白がってすぐ逃げ出した

涙に暮れて笑い転げて

少しずつ気持ちは色を変えて

 

初恋を結んでは

ぞんざいに投げつけて「こんなもの」って言って嘆いた

迷子の幼さであなたを幸せにできるの?

 

それは

手にした途端に消えてなくなる雪のよう

 

それは

手を伸ばした最中に遠ざかる逃げ水のよう

 

それは

口にした瞬間に品のなくなる情熱のよう

 

真実は

ぼくの中にある

 

 

 

 

 

今日はこれから、あなたの家にごはんを食べに行くところ。

眩しい夏の街角で

ひとり暮らしにも慣れたと思っていたのに

あなたが去った後に、むせ返るような残り香

蚊取り線香を焚いて、子どものように泣きじゃくる夏

 

 

さようならが、いつまでも上手くできない

ぼくは大人になって

いつの間にか大人になって

 

 

忘れたような記憶が

雨に濡れた街に立ち上がる

すべてを振り切って駆け抜ける足が

追い越してきたひとつひとつに、目を凝らして

 

 

夏の光のひと粒を

ラムネの壜に詰めて喉を通った

汗ばんだ手と手を繋いだ

陽炎に揺らいだ道路の向こう側に、未来でも見えるみたいに

 

 

人生は喜ばしいもの、人生は哀しいもの

ぼくはいつも、切なくて泣きそうだ

あなたがいないと、泣いてしまいそうだ

あなたがいてくれると、泣いてしまいそうだ

 

 

紙に鉛筆で何か書きつけるときの乾いた音

線がどこかへと向かう

線がどこかへと向かうけれど、然したる意味はない

 

 

今がこれまでの最後だ

これまでのどこにもなかった今が

新しく生まれた最初の今だ



あなたに出逢えて最高に幸せだ

あなたに出逢えたこと、最高に幸せだ

最高に幸せな今が、過ぎていく

見えないくらい、遠くに行ってしまう

 

 

ぼくは大人になって

いつの間にか大人になって

眩しい夏の街角で、立ち竦んでしまう

眩しい夏の街角で、泣きそうになってしまう

悪魔と天使

僕の人生の一瞬一瞬は、本当は尊いはずで、あなたの人生の一瞬一瞬も、本当に尊いはずで、だけれどときどきそれを忘れてしまう。

 

あなたと会うということは、僕とあなたの時間を共有することで、ふたつの心の距離が変化し続ける感じがして、人生の一番大切なことのひとつで。

ふたつの心はふたつのままで、その清い孤独を、愛という名前をしているらしい、何かが、ふたつのままにやわらかく包んでくれる気がしている。

あなたの気持ちに応えられないとき、僕は、愛を伝えているのか、呪いをかけているのかわからなくなる。

 

わがままに、あなたの人生を軽んじることや、約束を果たすことのできない未熟さ。完璧じゃない方が、人間らしく色っぽいことだと、開き直ってしまうのは明るさなのか、ずるさなのか、僕にはまだわからない。誠実でないこと、甘えや弱さのように思う。

 

後ろめたさからなのか、虚栄心なのか、孤独からの逃避か、あなたを前にすると、不必要にひとつになりたがる。

それはやっぱり、甘えだったかもしれない。

 

ありがとうと言ってくれてありがとう。

ごめんなさいと言わせてしまってごめんなさい。

僕が人間的に優しいのか、それとも優しさに見せかけた自身の弱さを投げつけていたのか、あまり自信はない。

陰と陽のように、引き離せないものなのだろうか。本当の優しさと、誠実さと、人間的な可愛らしさを身に付けたい。

 

僕は多分に悪魔的で、多分に天使的だ。

あなたの成長と、健康と、幸せを願っています。願うことは、純粋な愛だとまだ思えるから。

あなたなら、きっと大丈夫ということも、かなり信じられるのです。

 

ひとまずさようなら。お元気で。

きれいな執着

仕事帰り、新宿駅の南口で待ち合わせをする。

君の髪が随分短くなっていることに気づいて、似合ってるよと言う。ありがとう、と言われる。

テニスのガットを張り替えるためだけにわざわざ新宿まで来たと言う君に、何それ、と笑ってみる。普通じゃない? と君が言う。

降りたことのない駅で降りたい、という、ただそれだけのわがままで、東京メトロ丸ノ内線に乗る。荻窪で降りようかと言っていたけれど、もっと近いから新高円寺で降りた。

新高円寺」って、なんか「高円寺」より強そう。「改高円寺」とか、「真高円寺」とかも、ありそう。

そう思ったけど、恥ずかしいから口にしなかった。

その駅に降りるのは、ふたりとも初めてのことだった。それが嬉しかった。

 

新高円寺は、大したことのない駅だった。スーパーや不動産屋はあるけど、肝心の飲み屋はほとんどなくて、結局、ぼくたちは高円寺駅の方に向かって歩いた。

まっすぐの道は、下り坂。ラーメン屋を横目に見ながら、君が地形に関してよくわからないことを言う。台地なんだ、とかなんとか。

もしかしたら、谷かもしれない。ここに川が流れていて。

そんなこと、考えもしなかったから、見えている世界がこうも違うのかとぼくは思った。やっぱりそれも、嬉しかった。

 

高円寺駅の周辺は、金曜の夜なのに大して混んでいなかった。

居酒屋はたくさんあって、ぼくたちは一軒一軒、店を吟味して歩いた。

ぼくは日本酒かワインを飲みたい気分だった。ホタルイカのサラダを出している店があって、とても惹かれた。でも歩いているうちに、一杯目はどうしてもビールを飲みたくなった。焼肉屋が何軒もあって、道沿いの看板に写された写真を見るうちに、ふたりとも、焼肉を食べたい気分になった。

飲み放題が2時間で880円の店があったから、安いね、と言い合って入った。

安い焼肉屋と思って、あまり期待していなかったが、その店は和牛を扱う店だったようで、思いの外、メニューは豪勢だった。

生ビールは、ハイネケンが置いてあって、ぼくはそのビールにあまり美味しいイメージがなかったのだけど、その店で飲むそれはとても美味しかった。一杯どころではなく、焼肉屋にいるあいだ中ぼくたちはハイネケンを飲み続けた。

「瓶だとあまり美味しくないけど、生は旨いんだよ」

君がそう教えてくれた。

「ホルモン食べられる?」

「うん」

「セロリ食べられる?」

ぼくがうん、と言うと、

「好き嫌いあんまりないんだね」

と言われた。なんだか、誇らしい気持ちになった。

大きなカクテキ、セロリのキムチ、ハヤシライスみたいな味のする牛筋の赤ワイン煮込み、ホルモン(焼き具合で油の量を調節できて良いんだよ、と君は言った)、和牛の盛り合わせ、上ミスジ、あとハイネケンとマッコリ。

たらふく飲んで、たらふく食べた。社会人ぶって、お代はぼくが出した。君がトイレに行っているあいだに会計しようと思ったのに、スマートにできなくて笑われた。

 

 

 

生きている証が執着そのものなのだとしたら、ぼくは、きれいに執着してたいな。

何かに執着するのは、格好悪いことだと思っていた。

何にも執着しないで、自由に、すべてを忘れて生きるのは格好いいけど、ぼくには忘れたくないことがたくさんある。山ほどある。それは増えていく。

そのときどきで、ちょっとずつ、どうせ忘れていくのだから、忘れたくないことを大切にすることだっていいのかもしれない。

きっと全部、極端なのは苦しいんだ。

ぼくは真ん中で生きていきたい、軽やかに、楽しく、喜んで、ご機嫌に生きてたい。

きれいに執着して、きれいに手放して、ぼくのすべてはぼくが決められることを、確かめながら、生きていきたい。

 

あの日、二軒目に行ったホタルイカのお店で、君が選んでくれた鳥取の赤ワインはすごく美味しかった。

KIMOCHI

現代。着地点は俺が決めるから、地に足はついてる

ずっと楽しいキブン。身体が変わっちまった、この世のすべては楽しい

あの日の身体、忘却の彼方、同じ身体

 

泥船なんかじゃない、色っぽいこの信念、生意気な身体

 

だんだん、日々を忘れて

だんだん、意味も、思想も、君も忘れて

自由なキモチ

 

身体が変わっちまった!

 

だんだん、すべて忘れて、自由な楽しいキモチ

つまらねえ憂鬱や、

くだらねえ孤独や、

くりかえされる諸行無常や、

やるせねえ性的衝動や、

何も知らず笑うガキへの郷愁や、

もうたぶん、ぜんぶ忘れっちまったんだあ

それが善いとか悪いとか、ぜんぜん分かんないけど

 

ヘンタイの思想は共感できん

共感できんけど、それは俺を脅かさない

俺は俺でゆくよ

 

悲しいキブンなんて、吹き飛ばしてやるんだ!

 

子供みたいなキモチ

大人みたいなキモチ

勇敢なキモチ

自由な楽しいキモチ

過去は愛おしいけど、置いてくよ

バイオリズムにのっとって、身体が変わっちまった

 

俺は俺でゆくよ

俺は、俺でゆくよ!