夏の明け方、純粋な欲望

夢も見ないで目覚める夏の明け方、ゆっくりと白んでゆく外の景色を眺めながら、季節が動くのを肌で感じている。

早朝は季節をもっとも感じやすい時間のひとつだ。

私は秋が好きで、秋は突然にやってくるから好き。春と夏の境目や、秋と冬の境目はグラデーションなのに、秋ははっきりと「きょうから秋!」と肌でわかる。匂いでわかる。それは恋みたいで、だから私は夏、まだ夜が明けきらないころに起きるとそわそわしてしまう。

 

きっとまだ来ない、でもいつか絶対に来るなにかを待っている。

 

人なんて簡単に死んでしまうんだって、いつも忘れないで生きている人に憧れる。エアコンをつけないで、扇風機にあたりながら服の内側にじっとりと汗をかいている。冷たい烏龍茶を飲みながら明けてゆく空を見て、「きょうも暑くなりそうだなあ」とぼんやり思っていると、家の前の道路を猫が駆けていった。おじさんがサンダルを引きずりながら歩く音が、向こうの方から聞こえてくる。

 

 

 

幼稚園のとき、竹とんぼをつくろうという企画があった。

記憶はおぼろげで、あまりよくは覚えていないのだけれど、すでにできあがっている竹とんぼに好きに色を塗ってみんなで飛ばして遊ぼう、というような内容だったと思う。

同じ組のみんながそれぞれ自分の竹とんぼをつくり終え、外に飛ばしに行っているあいだ、どういうわけか私はまだ部屋の中にいた。理由は覚えていないが、作業が遅くてまだ自分の竹とんぼをつくっていたとか、作り終えていたけどなんとなく外に出そびれたとか、そんなことだろう。部屋の中には私以外に誰もおらず、しんとしていた。

そして同じく、どういうわけかわからないが、そのとき部屋の中にぽつんと、無造作にひとつの竹とんぼが置いてあった。それは私の竹とんぼではなかった。

私は自分でどんな色の竹とんぼをつくったのかを覚えていないけれど、その竹とんぼの色はよく覚えている。

それは羽の両側が綺麗に緑色に塗られていて、軸の部分は赤や黄色、青や紫を使ったカラフルなものだった。

私はその竹とんぼをじっと見た。

自分の分の竹とんぼもあるのに、そしてそれは自分の好きに色を塗れるのに、その竹とんぼはどうしようもなく綺麗に見えた。自分の竹とんぼよりもずっと素敵に、ずっと魅力的に。

私はその落ちていた竹とんぼを拾った。そしてこっそりと、自分の袋にしまいこんだ。

外に出て、自分の分の竹とんぼをみんなと一緒になって飛ばして、それから同じ組のみんなで部屋に戻ると、自分の竹とんぼが見つからないと先生に訴えている子の声が聞こえた。私は聞こえないふりをして、おそらくその子のものだろう竹とんぼをうちに持って帰った。

 

その竹とんぼをその後どうしたかは覚えていない。

家に持ち帰ったあと、その竹とんぼをたくさん飛ばして遊んだ記憶もなければ、じっくりと鑑賞して大切に保管していた記憶もないし、たぶんそれほど大事にはしなかったのだろう。

私にとってはあれが、はじめて人のものを盗んでしまった経験だったように思う。

別にそのできごと以来、よく人のものを盗むようになったわけではなく、またそのような記憶もないのだけれど、昔のことをほとんど覚えていない自分が、なぜだかいつまでもあの竹とんぼのことは忘れられない。こどもはときどき、とても残酷なことをするけれど、その純粋で恐ろしい欲望が私の中にも宿っているのだなあ、ということが、このできごとを思い出す度に感じられる。

 

 

 

冷蔵庫からこのあいだつくったラタトゥイユを取り出して、ベッドの上で食べる。

とても冷たくて、はちみつを入れてあるので少し甘い。

はちみつを入れてみたのは、調べたレシピにそう書いてあったからではない。なんとなく、はちみつを入れたら美味しそうだと思って、入れた。そうして実際、それは美味しかった。

 

「大人になる」ということが、そういうことであればいいのにと思う。

 

こんなことを言ったら「大人」に怒られそうだけれど、竹とんぼを盗まなかったら知らなかったことだって、私にはあったのだ。

私の中の、きわめて動物的な感情をなぞった上で、誠実に判断する。あらゆる規準が、自分の内部をまっすぐに見つめた上でできあがっていくのでなかったら、どんな人が大人なのか私にはわからない。

私は少しずつ大人になっているから、もう人のものを勝手に盗んだりはしないけれど、秋の訪れにはいつまで経ってもどきどきしている。

まだ誰のもとにも訪れていない今年の秋を心待ちにしながらラタトゥイユを食べ終えると、私はもう外が完全な朝になっていることに気づいた。