人生を食べる男

東京駅で新幹線を降りたとき、夕方に半分めくれた空の、ひいやりと湿った空気は茂みの奥に立ち入ったような気配、いつかの花火の記憶、少し汗ばんだ肌に触れる初夏そのものの匂いでした。

あなたと初めて逢った日の夜、道沿いに咲いていた、凛と立ったたくさんのあの花の、その名前を私はあなたから教えてもらった、その花の、花言葉が「恋の訪れ」だと知ったとき、私はいとも簡単に運命というものを信じました。七夕の前夜だった。

自分の足で立つということ、ひとりで大丈夫だということ、それは誰かに身を預けないことだと思っていたあの頃の私は、恋という、心を完全に明け渡すその勇敢な、無謀な、美しい営みに自らの輪郭を保ったまま飛び込む勇気を持てず、とろとろと崩れるこの初夏の夜気のようになって、あなたの傍にいられることを望んだのでした。

輪郭を持たぬ私は、ただその意思のみによって、誰かのせいにはしない、健気なまでに心を攫われた、一匹の、小さな獣のようでした。

あなたの家にご飯を食べに行ったとき、料理上手なあなたがいくつも作ってくれた料理に、私は幸せを感じる以上に、あなたに何かをあげたいと思ったのです。あなたの家に泊まった夜、眠り起きた朝、台所から聞こえるコトコトと鳴る音と寝ぼけた中の湯気、これが幸福かと思いました。すべて、あなたにあげる、と。

あなたを迎えに最寄りの駅に向かうとき、途中から走りだす足、人目も憚らず繋ぐ手と、寄り道するコンビニ。すべて、あげる、と思いました。すべてあげる。

そのとき、口から玉のような丸いものが零れました。それは存外に大きくて、つるつるとした真珠のようだった。私から、私の人生が、出ていきました。あなたはそれを拾って、どこかへと持っていきました。

いくつもの朝に、いくつもの夜に、あなたは私の胸に住んでいました。誰のせいにもしないから、あなたと一緒にいる私を選びたかった。決断に責任を持つからと、私はあなたと溶け合いたかった。選んだ瞬間に、それはどこかへと消えました。

私は私を失いました。私が通り過ぎてきたすべての出来事は、ばらばらになって秩序を失い、人生の意味の無さは当たり前でしたが、私はただの空洞で、そこをどれだけ煌めいた景色や鮮やかな光が通り過ぎたとしても、私はただの空洞、私に残るものは何もありませんでした。

私はどこから来て、どこに向かい、何者であるのだろう。

日々は完全に意味を失いました。孤独感と喪失感、不安は身体的に私を責め、肌は爛れ、髪は雨のように抜け落ち、目は泥水のように光を失いました。

かつてときめきに揺らした鼓動は、訳のない不安に揺れ、いたるところに散らばった人生の断片は、私の目に嫌でも映り込んできてあらゆる理由を問いました。わからないし、理由など無いと思いました。私は泣くことも泣かないこともできましたが、人生というものへの根本的な信頼感の欠如は、泣く泣かないに関わらず決定的でそれまでの私は死にました。大きくて黒くて怖いものを背負いながら、一生を怯えながら目的もわからず生きること、その荷物を地面に置いていくことができる日は想像できず、仮に置いて進んだとしてどこに向かうのだろう。悲しくて耐え難い、時間の残酷な流れ方よ。

夜は早く眠り、朝の光で目覚め、やまない咳、熱っぽく気怠い身体を引き摺って、栄養のありそうなものを食べるあいだにも目に入る、かつて意味のあった最早意味の無いものたち、宵の口に浮かび上がった月は無口で何も告げず、私は私が不幸かどうかの見分けもつきませんでした。

愛すべき人はどこにいるのでしょう、寄り添おうとした瞬間に樹木は腐敗し、まさぐるほどに穴は拡がるばかり、手にしたと認識したものは脆く崩れ去りました。私は完全に私の輪郭を放棄し、樹木とすら一体になろうとしましたが、依存し、添おうとするほどに樹木は膿み、やはり私には何も残らなかった。私は私の道しるべを見失いました。

確かなものは何ひとつ無く、人の心は変わりゆくもの。

私は不確かな外の世界を拒絶しました。人々がまことしやかに話す愛の意味から耳を塞ぎ、うるさいうるさい、阿って相手に添おうとする自分を殺し、ただ格好をつけて生きていきたいだけ、どんどんと加速度的に腐っていく自分が嫌で、私は固く身を閉ざした金属のようになり、元から意味の無い物事や人生など考えることを放棄し、うるさいうるさい、攻撃をしてでも見られることを拒み、私は私の欲望に、感情に、宿っていたかもしれない光に耳を澄ませました。あとはもう、どうでもよかった。

私が今ここにいる理由が、無いのなら、「なぜ」に答えが、無いのなら、確かなものは、どこにあるのでしょう。揺るがないものとは、何なのでしょう。

揺るがないもの、それは過去でしょうか。いいえ、それは結論により簡単に塗り替えられ、翻り、私の心を右往左往させる覚束ないものでした、うるさいうるさい。

揺るがないもの、それは事実でした。事実は私の目というフィルタを通して幾重にも色を変え、とりどりに違う景色を見せましたが、それは事実でした。色眼鏡を通して見た、私が通り過ぎてきたいくつもの事実、暗く淀んでいたり、馬鹿みたいに煌びやかだったり、くすんだり透き通ったり、色眼鏡を完全に取り去ることは不可能でも事実を事実そのままに捉えようとした場合、そこに立脚して私というものを創り上げることが最も確からしいことではないでしょうか。事実に意味など無い。けれど、私はいつ如何なる時でも、笑いたかった、幸せでいたかった、喜びたかった。それもまた、事実でした。

物事を真にニュートラルに捉えることができたのなら、そのとき私の人生の焦点は合い、自動的に意志的に喜びへと像を結び、私が通り過ぎてきたすべての出来事に意味が与えられ、私が私を、私の物語として、その最前線として認識することができるのではないでしょうか。

ベッドに放り出した腕に生えた産毛が、あの日繋いだ湿った手の平が、むっと香る酒と汗のにおいが、美しい装丁をして確からしい重みの本が、持ち重りのする陶器のような誠実な声色が、何を映しているのか届かない横顔と瞳が、あの夏の花の青く美しい佇まいが、何の意味もなく私を通り過ぎたのではなく、すべて今の私へと繋がる物語なら。

酸いも甘いも、呑み込む瞬間の熱さ、破裂する切実さ、平静ではいられるわけもなく、ただ、喉もと過ぎればすべて私となるものたち。

あなたは、私の人生を持っていくことなんてしていなかった。私の方こそ、人生を食べる男でした。

今夜も、初夏の涼やかな夜、匂い立つ花の香を運ぶ風、月は無口なままに私を照らすのでしょう。